一般に,ヒンドゥー教と仏教とは別のものという観念があるように見える。だが,ヒンドウー教なくして,仏教もない。その逆も又真なり。両者は相互依存しているのだ。
普通の人が知っている仏教は,大きく分けて三つある。
顕教と呼ばれる,信仰を中心とした,宗教がある。所謂,仏教。大乗、小乗、上座部といろいろな名前や種類がある。本来、仏陀が避けようとしていた事だ。信頼は自然のものだが,信仰は不自然だからでもあるし,仏陀自身、崇拝や、盲目の信仰をとても嫌った。誰でもご存知の通り、むしろそこからの救済、“目覚め“を目的ともしていたのだ。でも世間は,放っておかなかったということだ。それほどの力を持っていたのだ。瞑想者ならわかるだろう。
そして、密教という,日本ならば、真言宗、天台宗と言った蜜教。進化を遂げた、チベットのタントラ仏教,金剛乗仏教もここに入るだろう。探求するものとしての仏教として面白い。
特に、チベットに金剛乗仏教(ヴァジラヤーナ)を伝えた、インドのマハーシッダ(大成就者)、パドマ・サンバーヴァは、チベット古来のシャーマニズム、ボン教を破壊しなかった。それを理解した上で、仏教タントラの中に組み込んで行ったのである。そこから、今話題の,“ゾクチェン”が生じて来たのである。ゾクチェンの特徴は、“悟りから始める”のが際立っている、ユニークなものだ。ここでは、宗教的な外的な様式とその内容の本質をごっちゃにしないことこそ重要なのだ。そして、ボン教はボン教として.未だに生き続けている。実は、30年ほど前に、ボン教の人のテントに2週間ほど、居候させてもらった事があった。チベットのネイティブと言ってもいい。
又,インドに伝わった老子の教え,タオイズムも仏教の中に織り込まれて行ったと言われる。
乗るなら大船と言っても、タイタニックには乗りたくないが、“金剛乗(ヴァジラヤーナ)”なら乗ってもいいだろう。密教は大きな意味でタントラ仏教と言ってもいい(それだけではないが,シヴァと仏陀が融合したものと言ってよい)。タントラはエネルギーに関する知識と、その実践に関するシヴァの教えである。源泉は,いうまでもなく,シヴァ神である。ヨーガとタントラの開発者、シヴァは、仏陀よりも数千年も古く,しかも、今、最も“新しい”。今世紀はタントラの時代と言われているからだ。
顕教の人にとっては,エネルギーの働きや実践について、殆ど、無知といえるかもしれない。エネルギーの科学は、根本が、シヴァ神のタントラにあるのだ。エネルギーを自在に使いこなす事を目的としている。それゆえ,あらゆる非難、否定に反対する,全肯定的メソッド(技法)なのだ。
本来、シヴァのタントラは,ヒンドゥー教のものでも、仏教のものでもない。それは独自のものだった。だが,タントラなくして,ヒンドウーも仏教もない。両者の基盤になっているのだ。
一般にシヴァは、破壊と創造の神と言う固定概念がある。確かに人の観念やおぞましいもの、を破壊して,創造性を生み出す。又、アーリア人主体のバラモン教を壊したのは,仏陀,マハヴィーラ(ジャイナ教の開祖)もそうなのだが、シヴァの力は無視出来ない。シヴァ派の人は良くこう言う。
“シヴァ無くして,仏陀もインドも無い“
そして,最も深い。底は無いのだ。
一方で,シヴァは,シヴァ派の人にとっては,偉大なる保護者でもある。そして,タントラを通じて,人々に創造性を教え、それが永遠に続いている事を人々に知らしめた。鼓(ドゥンドウーミ)と水瓶(クンブー)を持っているのはその為だ(鼓については,前記事「能と世阿弥とドゥンドゥーミ」を、また水瓶については、これも前記事「アクエリアス」を参照)。
又、仏教では,シヴァは大自在天とされ、仏教の守護神でもあり、又,タイのバンコック、クルーンテープ(天使の都)の守護神でもある。そして、仏陀もシヴァも、本来の目的とは別に、信仰の対象にもなってしまっている。これに関しては,人々が放っておかなかったからであろう。そこで、密教と禅に関しては,仏陀,シヴァ、老子の教えの融合した大きな宇宙観、と言う事が出来る。
仏陀本人が好きだったのは,禅だと言われるが、その禅、原意はディヤン、瞑想のことだ。だが禅には,これと言った本尊も,教えすらない。開祖は,仏陀とマハカーシャパとの間におこった,無言の,花の説法(フラワー・サーモン)とされている。言語にとらわれない,という精神が横溢している。形のないこと、ものでないことをテーマにしている。いわば、無が本尊となる。そして、超意識、直感、知覚の輝き…

人の自我意識(エゴ)は,何とかして,全てをコントロールしようとする。マインドがそれを助ける。その努力の中で,人はマインドと同化してしまう。そして感情、欲望に振り回される。それが『苦』である。発見した仏陀は、本当に偉いと思う。最初にやる人は何でも偉い。勇気があるからだ。自我(エゴ)は満足を知らない。なぜならば、自我は自己の代用品にすぎないからだ。彼は、まだ自己を知らないのだ。或は、自己に出会わないようにしている.それは恐怖のせいだ。だが自己は満足する事が出来る。もし自己が見つかれば、それは言う事が無い。
自己、アートマン、分割がいっさい無いとき、内側にいっさいの葛藤が、戦いが無い時だけ現れる。アートマンとは、全体を意味し、自己とは、非分割のエネルギーと観る事が出来る。エネルギーが非分割になれば、戦いや葛藤に浪費しなければ、エネルギーは蓄積する。そして、いつか、覚醒、目覚めに至る事になる。そこに、無選択の美がある(前記事「私と言う仮説」参照)。
マインドと同化したら,マインドを使う事は出来なくなってしまう。当たり前の話だ。逆にマインドに使われてしまう。マインドの奴隷になってしまう。だが、自我にとらわれている人には、それがわからない。視力が無いからだ。
瞑想、ディヤンとは,マインドでないものを一瞥する技法。そこで初めて,マインドを使う事が出来るのだ。主客は逆転し、マインドを操る皇帝になれるのだ。マインドは良い道具である。使い方がわかれば、磨きもかけられる。生きるには,必要不可欠な,最高の道具である。
方便については、例えて言えば、月を指差す指にあたる。だが指は月ではない。又,月は千の水にその姿を映す。だが本物は中空の只一つの月。それ故に、宗派などの狭い枠に閉じこもることなく、表面的な事にこだわる事なく、根本原理(シャクティー、シヴァの女性的原理、パワー)を理解することが必要なのだ。理解すれば,それは自ずと身に付いてくる。理解しなければ,枝葉の知識しか残らないだろう。存在に触れる事も無いだろう。
ヒンドウーの人やイスラムの人,神道の人、無宗教の人が禅定を行っても、何の不都合も不自然もない。それは只、観念を破壊して、無心になる技法だからだ。ディアン、禅の語源は,ダルマと言う言葉と同様に、既に,はるか仏陀以前、シヴァの時代に既にあった、現存する地上最古の言語、サンスクリットの言葉だ。それは,仏教というジャンルからも超越している。技法という言葉から言えば、タントラと言っても良い。インドの禅仏教はタントラを学んでいたのである。
そろそろ、ヒンドウーに入ろうか。
ヒンドウー教という言葉については,以前何度か説明した通り、インドの人々が作った言葉ではない。恐らくは,イスラムのムガール帝国,或は,その後インドに侵入してきたイギリス人によって作られた言葉が,そのまま使われているといわれる。そこの土着の様々な宗教をヒンドウー教、ヒンドウーイズムとしたようである。両者がいたインドの一地域、ヒンドスターン地方に因を持つ。だが,インドは,ヒンドスターンだけではない.それは,インドのほんの一部にすぎない。では,インドの人々は、自分たちの宗教を,本来、何と呼んでいたのだろう?
それは,“サナタナ・ダルマ”、永遠の法。これが本来の名称だ。聞いた事があるだろうか? この中には,仏教もサナタナ・ダルマ、ジャイナ教も、その数、八百万(やおろず)どころではない、三億ともいわれるヒンドウーの神々や信仰もサナタナ・ダルマなのだ。
インドの宗教は,民主的だ。言語が未だに200以上も使われている事がそれを物語っている。100年前には500以上もあったと言われる。公用語だけでも、13とか14とか言われている。尤も、コロンブス以前のアメリカには、2,000もの言語があったそうだ。今、それらが,全てではないが、再び復活しようとしているのが,今世紀なのだ。それらが、大きな大海(ダライ)のなかで共存共栄しているのだ。そこからそれぞれの独自性を認め合い、日本で言う,“和”というものが生じてくる。
ダライ(大海)という言葉は,とてつもない深みと無限の広がりがある宇宙の事である。果ては無いのだ。ダライ・ラマという名称もそこから来ている。それは、調和という意味でもある。
そうなると,仏教とヒンドゥー教とは別物ということが成り立たなくなってくる。仏陀の時代以後に,形らしくなってきたらしく仏陀の影響も強い。"Common thread”なのだ。
ヒンドウー教に於いては,仏陀はヴィシュヌ神の化身、又、インドには、仏教とは違う「ヒンドゥー教の仏陀派」と言うものも在る。共通の因から,異なる姿形が現れてくる。まるでモザイクのようだ。現実には、あらゆるものが繋がって、相互依存している。それが宇宙というものだ。タイやラオス、カンボジアは、所謂,ヒンドウー・仏教一如の国だ。“Common thread、”共通のものが多いのだ。
宗教には,大きく分けて二種類在る。一つは“信仰”を中心とした大衆向けの宗教。イスラエルで起こった三つの宗教もこれにあたる。多くのヒンドウー教や顕教の仏教、そして新興の宗教はたくさんある。
もう一つは“瞑想”の宗教。これは,インドのオリジナルだ。他の国では瞑想の宗教は起こることはなかった。だが、全ての瞑想法は,インドから伝わった。仏教は、仏陀の瞑想に於ける“悟り”から起こっている。本来、信仰の宗教ではなく、瞑想の宗教だ。
インドには有名なカーストというものがある.これは,バラモン時代からの名残だ。バラモンの怨念とも言われている。
カーストはどこの国にも在る。派閥、学閥、職種、それぞれがグループを作ってしまう。それは自然な事だが、本来、仏教やタントラによれば、又、日本の常識に照らし合わせても,職に貴賤なしである。勿論、法律上では,そのようになっているが、不可触選民という、アウトカーストがいる。最近は,だいぶその辺が自由になりつつあって、国会議員も出るようになった。その上、コンピュータの時代になって、古いカーストという事自体が,より無意味になりつつあるようである。
シヴァのタントラやヨーガは、信仰の宗教というより,瞑想の科学、内的な科学、サイエンスといってもいい。現代物理学を始めとして、欧米の人々がシヴァや仏陀に近づいて行こうとするのはその為だ。インドでは,第三の文明が始まろうとしている事もその理由の一つだ。面白い時代に生きていてよかった。
その特徴は,多様性,多様な文化、多次元、無数の宗教、知恵や知識にあるからだとおもう。インドを統一した人は,未だかつていない。統合されざる,自由の、無数の神々の国だからかもしれない。そこに新たな可能性があるのだ。
タントラについて、補足すると、二元性はない。一が二として現れるのは、観るものが限定されているからだ。分割は、私たちの判断だ。
もし全体が見える視力がついてきたら、一は一として現れる。そういった分割は、リアリティー(実在)にあるのではなく、私たちの限定された、状況に在る。リアリティーは分割され得ない。それは、超越、究極、絶対と言ってもいいだろう。全ては、あなた次第だ。
仏陀の教えも,非常に内的な科学,道理にも基づいている点は共通している。出来れば,両方とも学びたい。シヴァや仏陀を知れば,老子のタオ(深遠な道理)も、ダルマ大師の覚醒も、ゾクチェンも見えてくる(前記事「シヴァ・リンガ」参照)。どれも珠玉の美しさとリアリティーをはらんでいる。それを知るだけでも、生きていてよかった。一つでもマスター出来れば,他のものはついてくるのだ。豊かな事には際限がない。
“真実は、是非に及ばず”