2006年10月28日土曜日

能と世阿弥とドゥンドゥーミ

 世阿弥という名を聞いた事があるだろうか? 室町時代前期(1363〜1443年頃)の能役者、能作家である。芸名がいい。「世阿弥陀仏」という。一人のブッダだったかもしれない。

 三代将軍、足利義満の支援を受け、父,観阿弥とともに「能」を大成した。特に物まね中心の能から、歌舞中心の「夢幻能」という新しいジャンルを完成させ、能の芸術性を高めた。現代の能は、その「夢幻能」であるという。


 世阿弥の能は、タントラに、そのルーツを見る事が出来る。世阿弥の言葉に依ると、曰く

「心を糸にして、人に知られずして、万能をつなぐべし。身は体となり、心は用になりて、面白き感あるべし。七分に動かす身が、演技の本体と成り、十分に働く心が、余剰的風情となる」

 一寸、解説すると

「心に一本、筋を通せば、集中力は持続し、様々な能力が開発出来る。心を太くすれば、大雑把な輪郭が見えて来る。心を細くすれば、細部にまで入っていく事が出来る。
 人に知られずして、というのは、「内的な瞑想」を意味している。心を十分に動かして、身を七分に動かす。身体は、リラックス、意識は緩めない。この辺りは、まるで、タントラ・ヨーガ。身体を100%動かそうと、無理をすると、集中も途切れてしまう。七分に動かす身が、演技の本体と成り、十分に働く心が、余剰的風情となる」

 心、体、意識(脊柱)の三本の柱が見えて来る。シヴァ神の持つ、トリシュール(三つ又の矛)の意味がある。どれがかけても、成り立たない。そして、面白くなくては、意味が無い。つまらなかったら、誰も見ない。ジャズにおいて、「スイングしなけりゃ意味が無い」のと同じである。そこで、一番大切なのは、「脊柱」なのは、言うまでもない。ここに、細い糸は存在している。

 タントラの方はというと、これは紀元前の話だが、ヴィギャン・バイラブ・タントラの14番目に、シヴァ曰く

「自分の脊柱の中心にある、蓮の糸程に、繊細な神経に、自分の全神経を集中する。そのようにして、変容を遂げよ」とある。

 先ず、手始めに、自分の脊柱に集中してみる。それは、自分の身体の中心を貫いている。センタリングである。頭でさえも、脊柱という一本の樹木の「根」である。言ってみれば、人の身体というものは、さかさまの樹だ。根を上にして、歩く樹のようだ。生命の樹である。そこに、『花も咲き、実も実る、』かも知れない。
 脊柱は、それだけではない。尾てい骨から、天頂まで、そしてその木の幹から、枝葉は体中に結びついている。それ故、脊柱は「スパイン(基礎)」と呼ばれるのだ。それが意識されて初めて、宇宙という言葉が意味を持つ。眠りこけていたら、混沌の寄せ集めにすぎない。それは、普通、無意識といわれる。
 脊柱の中には、スシュムナー(シルヴァー・コード)と呼ばれる、銀色の紐のような、蓮の糸程に繊細な、細い糸のようなものがある。解剖しても見える訳ではない。深い瞑想状態に入ると、見える事がある。それは、単なる「もの」ではない。非物質、エネルギーであって、物質ではない。それが、我々の命、というものの鍵となっている。つまり、一番大事なもの。

 身体の中には、無駄なシステムが一つもない。本当に良く出来ていて、感心してしまう。心臓も、頭も、内蔵も大切かもしれないのが、基盤は、脊柱なのだ。それを通して、不可視なるものと、可視なるものとを結びつけている。そして、自分の魂とも結びついている。意識そのものなのだ。ここが肝心な所。脊柱が正常でなければ、人は魂を知る事も無いと言われる。

 私の意見では、タオ(道)でいう所の『道』とは、この『蓮の糸程に、繊細な「意識」に気づく事、』と言っても過言ではない。他に「道」等無い。その糸を見てから、もう何十年と経つが、お陰で、病気一つしていない。脊柱が目覚めると、光りが現れるようになる。オーラも光明を、得る事に成る。ただ、内側に入り、自分の脊柱を視覚化する。深く、本当に、リラックスしていないと、見えてはこない。それは、一つの成長、進化なのだ。それはエネルギー現象だ。

 寛いで、野心も、比較も無く、自分以上のものに成ろう等と、思わなければ、エネルギーは蓄積される。葛藤や競争が無ければ、エネルギーの消耗も無い。この道理は誰にでも判る筈だ。ここが肝心。そこから、脊柱は目覚め始める。
 クンダリーニ、エネルギーが脊柱に沿って上昇を始める。やがて、サワスラーラ(頂点のチャクラ,王冠のチャクラ)をも貫く事に成る。何といっても、サワスラーラは気分が良い。天国に来たような気分に成れる。身体も意識も、素晴らしく元気になる。そこに自己からの自由が感じられるからだ。

 ドウンドウーミとは、天下無双の歌舞伎ものにして、自在無碍の覚者(ブッダ)、瞑想の神、シヴァ神が右手に持っている太鼓のことだ(ダンシング・シヴァ、ナタラージには四本の手があるが、そのうちの一本)。
 太鼓は、楽器の中でも、創造性を生む最も大切な楽器。世界中の創造神話には、必ずと言ってよい程、太鼓の響きが付いて来る。
 リズム(ターラ)は音楽の父といわれる。リズム、それは間合いやタイミングの妙、アクセントでもあり、音楽、舞そのものに「スピリット」、「命」、を注ぎ込む。

 そして、能で最も大事な楽器が、鼓(つづみ)。その言葉は、ドゥンドゥーミが、源である。形は、一寸,無限(インフィニティー)のシンボルにも似ている。夢幻は無限なのかな? 間合いを大切にする芸術だから、リズムが重要になるのだ。インド式に言えば、瞑想芸術と言えるかもしれない。能とインド舞踊とには、間合い、無音の間合いに関して、共通点があるのだ。カタカリ(インド歌舞伎)や歌舞伎にも、そのスピリットは浸透している。

 ドウンドウ—ミ、それが、日本の鼓となった。形も名称も、そっくりだ。室町時代のことは、今となっては知るすべは無いが、能にタントラ的なものが、何らかの形で、浸透していた事は確かなようだ。面白いねー。