2011年1月8日土曜日

シズル(sizzle)

  シズルって何だろう?
それはね、肉や焼き鳥、海老や魚介類を炭火で焼くとき、或いは、厚い鉄板でベーコンやハンバーガー、ステーキを焼くときの音を、日本語だと”ジュージューと言う音を立てる”、と表現するだろう?
或いは、ジュージューと焼く・・・・・。
何ともいえなくいいトーンだ。おいしい料理屋さんの雰囲気に、現実感が生じてくる。
今日は、一寸、美味しい話にしよう。

 その時のトーンを、英語で”シズル”という。
誰もが好きなトーンなのだ。音感を言葉にすると、その言語によって文化や言葉のニュアンスに違いがあることが判る。
でもそこに面白さがある。

 この前、近くのミスター・ドーナッツに行ったところ、日本ではオールド・ファッションとかチョコ・ファッションと呼ばれている、粗引きの小麦粉を使った、一寸、甘みを抑えた、ぼそぼそした、硬めのドーナッツがある。
それが、タイでは”サクサク”という名称に変わって新発売になった。
オールド・ファッションがやっと食べられる。
以前は、甘いのばっかりで、甘味の少ない、ドライで硬いタイプは売ってなかったのだ。

 サクサクと言う言葉が、その食感にぴったりの名称とは思えないが、日本語の音や状況に対する音感や情景、そして様々な動きや行為を表現した言葉には、面白くバラエティーに富んでいる。
さらさら、そよそよ、しんしん、じんじん、ざくざく、ころころ、ふらふら、ちょろちょろ、むずむず、とんとん、ぶんぶん、さっさと、びんびん、そうっと、ぎんぎん、じゅーじゅー、そろそろ、うはうは、だらだら、ばたばた、ぶらぶら、がっちり、とろとろ、どんどん、ふわふわ、ゆるゆる、・・・・・・いろいろあるね。無限にあるようだ。日本語は感性が豊かなのだ。宇宙的なのだ。
”波動”と言う言葉は、割と耳新しいかもしれないが、それらは日本では古来から、波動、趣、風味といったものを表す言葉になっている。
昔、ある日本のヒット曲がアメリカでもヒットした。タイトルは意味とは無縁の、”すき焼き”である。
意味はともかく、言霊(ことだま)のスピリットが、ユニークに聴こえるのであろう。
日本にも、タイにも、いまや外国語がたくさん入ってきて、言霊の面白さを再認識している。
波動の時代だからね。

 ”シーーン”と言うと、日本語では、静けさ、”シーーーンと静まり返った状況”を表す言葉だ。
或いは、英語の”情景”といった意味にも使われる。オーバーラップする面もないとは言えない。
正月には、その”シーン”を聴くためにも、感じるためにも、初日の出、夜明けの朝日、富士の朝日を愛でに行く。
或いは、神社や寺院に、新たな華やぎを求める人もいるだろう。
風景を見るだけではなく、聴く、感じる、味わう、嗅ぐ、そして五感を解き放つためでもある。
目は五感の一つではあるが、目だけで感じるわけではない。
目は映すだけで、解釈するのは他の部分なのだ。
肌で感じ、心で感じ、においで感じ、耳で感じ、味わって解釈するのだ。

 静かな朝、と言うのは、正月に限ったことではなくいいものだ。
気持ちが新鮮になる。朝だけが楽しみではないが、朝はいい。
静まり返った音、無音の音、それは、”創られていない音”という。
インド、チベットでは、意識を目覚めさせ、ハートのチャクラを開く重要なトーンとなっている。
禅では、”隻手の音声”といって、禅の公案(意識を目覚めさせるための、問いかけ)にもなっている。

 無音の音は、何も聴こえないわけではなく、無音は無音として確かに聴こえる。
聴く耳、感応する心があれば、思い込みが何もなければ、無音と言う”トーン”として聴こえるのだ。
ヒマラヤは、エナジーも高く、人も少なく、人工物も殆どなく、まさにうってつけの場所なのだ。
瞑想者は、その音を聴きに、ヒマラヤにやってくる。
全宇宙の無音の音、始めなき、そして終わりなき、”究極のトーン”。
それが、全宇宙に響き渡っている。
”絶対音”と言うようである。

 その無音のトーンをベースに、辺りを感じると、何もないようでも、静かな様でも、音に溢れているものだ。
そこに、自分が呼吸する微かな音、扇風機のまわる音、熱帯魚の水槽の水が、ちょろちょろと循環する音、猫が二匹でふざけあっている音、冷蔵庫の音、遠くから聴こえる鶏の声、車の走り去る表の音、人が歩いて通る音、それらが無音の音の上に立体的に重なっている。
そんな風に、当たり周辺を感じたことはないだろうか? 
無音をベースにしているから、一つ一つの音をよく聴き分けることも出来るし、より三次元的に総合的な広がり、そして立体的な深みを感じることも出来る。何でもない空間が生き生きとしてくる。
それがサイレント・ジョイだ。私の楽しみの一つ。実用的な瞑想なのだ。
バスや汽車を待っているときでも、飛行機に乗っている時でも、町を散歩している時でも楽しめる。
何事もないようでも、気づけば、色々なことが起こっているのだ。

 ”静けさや、磐に染み入る、蝉の声”。
芭蕉の有名な一句だが、騒がしい蝉の声が、磐に染込んでいく様子と、静寂さ、とを美味く対比させ、静けさを強調している、
音と無音とが同居している。何とも素晴らしい!

 ”古池や、かわず飛び込む、水の音”
此れも、世界的にも、あまりにも有名な句であるが、水の音と言う”唯一の音”が、波紋を広げ、背景の、全体の静けさ、無音を、浮き立たせている。
タオを感じさせる。

 無音を意識できると、ステージが変わってくるものだ。深みと広がりが生じ、意識の高みに入ってくる。
新たな、そして豊かな価値観が生じてくる。
無音が音を生かすのだ。無があって、初めて、有を生かすことが出来るのだ。
一度聴いたら、忘れないのが”無音の音”だ。
タントラでは、”音の中の音”と言う。

 音は耳で聴くのではない。耳は伝えるだけなのだ。
情報なら頭に向ければいいし、心に向けたものなら、心に響くようにすればよい。
しかし耳は選択するのだ。どうでもよい音は無視してしまう。
雑音なんかはあまり聞きたくないものだ。
よく出来ているんだよ。

  ところが、無音の音を何処で聴くのか、と言うと、人の心の最深部、仏性(ブッディー)のあるところで、聴かれるのだという。
そこには雑音は一切届かない。
そして、それを体験すると、どんな雑音を聞いていてうるさくても、その背景に、その絶対音、無音の音を持ってくることが可能なのだ。
さすれば、少々の雑音も、少しの時間なら何てことない。周囲は、周辺でしかない。中心は、無音の静けさにある。

 この無音のトーンが、ハートのチャクラの奥の奥まで開くのだ。
観世音菩薩、即ち、アヴァロキテシヴァーラ(チェンレイジー)は、仏陀の直弟子の一人だが、その無音の音を知り、世間の音を知って、悟りを得たと言われる人だ。

 シーンといっても、,ジャズのシーンでは、ジャズとは、”有意義な喧しさ”、といってもいいのだが、
無論、喧しくないのも多い・・・・・・。
ブルー・ノートにシンコペーション、オフ・ビートにアフター・ビート、音と無音、それらが心に、絶妙な刺激を与えるのだ。
ジャズは小学校の頃から聴いている。
ビートがあって生き生きとして、心の琴線に触れ、しかもスリルがあるのだ。
シズルは、此処にも登場する。

 ドラマーが使うシンバル。
多く、トルコの”ジルジャン”と言うメイカーが有名だが、ドラマー達の注文で、独自のトーンを求めて、金や銀を融合したり、シンバルに小さな穴をいくつも開け、そこに、鋲を打ち込んで、しかもその鋲を浮かせて、シンバルの余韻が、長く尾を引くように工夫したものがある。
一寸、スティックでたたいても、ジーーーーーーーン、シーーーーーーンと余韻が長く、それが刺激的な効果を出す。
日本語の、言葉の上でも、”ジーーーンと、胸が熱くなる。”という言い方をするだろう?
それだけで次元が変わってしまう。
初めて聴いたときは、その効果に驚いたものだった。
昔の、録音の良いレコードで聞くと何ともすばらしい。無論、今でも使っている人も、少なからずいるだろう。
此れが一時、流行って、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・コッブ、エド・シグペン、アート・ブレイキーといったドラマーたちが一世を風靡した。
それがシズル・シンバルである。
それが、スタン・ゲッツや、マイルス・デヴィス、オスカー・ピーターソンを盛り立てていたのだ。
実際に、演奏に入り、トップ・シンバルで、ビートを生み出すようになると、余韻がシーーーン、シーーーン、シーーーンと、心の深遠、頭のてっぺんから、足のつま先にまで波動効果が伝わって届いてしまう。何とも気持ちがよク、身体がスイングしてしまう。
心が空っぽになると、キャパシティー、受容能力、感受性が増してくる。スペースが生じるのだ。
それにベースが絡み、ピアノやギターと言ったリズム・セクションが、そこにスピリットを注入する。
そして様々な楽器が入り込んで、重なり合って、インプロヴィゼイション(即興演奏)が始まる。
ファンタジーが始まる。

 肉や魚をジュージュー焼く音も、食欲を刺激して堪らない。それは肉体レベルで、身体を、そして食欲を刺激する。
一方、シズル・シンバルの波動は、心の雑念をきれいにする精神的効果がありそうだ。意識の奥のほうまで染み渡っていくからだ。
何か人の心に何かが残る効果があるようである。
昔から、太鼓と鐘、そしてシンバル、或いは銅鑼(どら)は、様々な儀式や宗教儀式、信号や合図に使われてきて効果を挙げてきた。
意味と言うより、ニュアンスだが、電子音の絶え間ない今になってみれば、何か堪らない魅力があるものだ。
船の出港のときにも銅鑼を鳴らしたり、汽笛を鳴らしたりする。汽車が発車するとき鐘を鳴らす、或いはベルを鳴らす。お寺でも、鐘と太鼓、それに銅鑼を使い分けている。
意味というものは、微妙なニュアンスがあって、初めて深まって生きてくるものだ。
ニュアンスというものがないと、ぶっきら棒で詰まらないのだ。微妙なことが、色合いや風味を増しているのだ。

 うなぎを焼く音、そしてその匂い、思わずそそられてしまう。
それは、江戸時代から続いている。当時は、屋台で焼いて売っていたようである。
南アジアでは、炭火で魚介類、肉や野菜を焼いて食べさせる屋台が、夜になると町に中心付近に登場し、いい音、いい匂いをあたりに撒き散らしている。昔からの伝統だが、風情があっていいものだ、しかも辺りが華やいでくる。
バンコックには、シズラーという、”シズル”を意識して、看板にしている有名なステーキ・レストランがある。
以前、サイアム・スクエアの店に行ったことがある。
いい音が聞ける。ジュージュー、シャー・シャーといっている。
無論、匂いもいい、そして味もいい。

 最近では、英語の雑誌などを捲っていると、シズル、シズラー、シズリングといった言葉が眼に入ってくる。
”刺激する”、と言う意味に使われているようだ。文化の波動といっても良い。
今は、ナノの時代、微細の時代、 どうしても敏感になってしまう。

2011年1月7日金曜日

”安心”と言う魔法

 人が生きている以上、何かしらの問題や、超えなければならない状況が生じてくることがある。
人生、中々、思い通りにいくことばかりではない。
そして、そこでは弱さは役に立たない。
短気になったり,慌てたり、悲観したり、逃げ出そうとしたり、避けていようとしたりしても、状況がどうにかなる訳ではない。
状況次第では、無理はむしろ障害になってしまう。

 そこでは、あるがままの状況、その問題に”直面する勇気”と言うものが必要となってくる。
それは戦うことではない。
人がこの世に生き、そしてそれを存続させようとするならば、それは本能と言っても良いが、まず自己をポジティヴに感じること。
自己肯定が必要となってくる。自分が自分であること、リアルになる事だ。
人が真に存在しないうちは、何をしても上手くはいかなのだ。
此れは”仏陀の教え”といわれている。大事なことなんだよ。

 人は、本来、強いわけでも、弱いわけでもない。
だが、そこで強さと弱さが枝分かれしてしまう。
それは、力の問題と言うより、”姿勢”の問題なのだ。
状況に同化して悩むのでは無く、一歩引いて、先ず状況を良く見る。
そのとき、自分は、すでにその状況や物事に同化していないだろう?
自分の心の問題ならいざ知らず、外の問題だったら対応のしようと言うものがあるものなのだ

人の行為には二種類ある。
一つは”すること”、そしてもう一つは”在る事”。
”在る”ということは、一つの大きな全体性と繋がっている、存在と繋がっている、ということだ。
”すること”ばかりにかまけていると、つい”在る”と言うことの大切さを忘れてしまう。片手落ちになってしまうのだ。
何が何でも自分ひとりで頑張っていると、在る、と言うことを忘れてしまう。
”在る”ということが判って、初めて、することにも意味が出てくる。

 何事も、まず、”在る”ということから始まる。
在る、と言うことが出来たら、純粋に、事の全体を眺めることが出来るだろう?
さもないと、何かしないではいられなくなってしまう。何かに追い立てられてしまうのだ。
それは、その物事に取り込まれて、対象に同化してしまっているからだ。
”すること”に中毒してしまうのだ。

 それは、同化が原因なのだ。
一度、”安心とは何なんなのか?”と言うことに注目してみよう。
のどが渇いたら水を飲む。森羅万象、全てのものが水を飲む。生きているものは水を飲む。
砂漠のようなところで、水を切らしていたらなおさらだ。それは身体に潤いを与え、生命を与え、意識のセンターを、頭から、内なるどこか安心できるところに移動させる。
そこに間合いが生じ、潤いが生じてくる。
潤いが生まれれば、人は、安心して素直に成れるものだ。それは、ゆとりが出来るからだ。
ゆとりは、”間”といっても良い。

 ”間”という文字には、門の向こうに日が射しているだろう?
”間”を感じると、心にも光が射してくる。
”間”とは、時間にも空間にもかかわる、古来からの、時空にかかわる宇宙的な知恵なのだ。
”間”を生かすこと、それがゆとりなのだ。それは時間的にも、空間的にも言えることなのだ。
適切に”間合い”と言う知恵を使えば、リズムが出て、よりものごと、することが生き生きとしてくる。

 生と言うものは、人のマインドからすれば矛盾している。
生は人のマインドに合わせているわけではないからだ。森羅万象は、素直にその生に従っている。
だが、個別意識の強い”人間は、生に合わせなければ生きていけない。
人生の目的は、究極的には”、生きることである。
つまり、人のマインドからすると、矛盾しているものに如何に上手く対応し、そして協調して生きていくにはどうしたら良いか?
矛盾しているようだが、矛盾を認めると、そういうものだと思えば、矛盾はなくなっていくようだ。
例え10分でも頭を落とすと、そこで、もう生と一体になっている。

 安心、それがどういうものかというと、”安心とはエナジーの一形態”なのだ。
エナジーを消耗してしまえば、安心もなくなって、不安が増してくる。それが道理と言うものだ。
本当に安心しているとき、今、内側でどういう状況にあるのか、どういうことが起こっているのか、ということに注目してみよう。
普通、何か原因があって、或いは因果関係があって”安心”は起こってくる。物質的なレベルで起こってくる。

 だが、何の因果関係もなしに”安心”をクリエイトできるのだ。
それは、無心から起こってくる。
真に無心にあるとき、周辺、世界は意識されないからだ。
そこでは、すでに、世界を超越している。
そして、その空間に”安心”という特別な”力”をクリエイトできる。その力は柔らかで、爽やかで、暖かい、しかもオールマイティーだ。
自分が安心したときのことを、因果関係を忘れて、安心そのもの思い出せばよいのだ。
人は何度も、何らかの原因のある安心をした経験を持っているはずだ。
形のあるものではないが、誰でも安心の力を知っているはずだ。
そして、安心ほど、心強い味方はない。少しはエナジーを安心のためにリザーブすると良いと思う。

 ”安心からの発想”と言うものはいいものだ。
対象や部分だけではなく、無理なく全体が見えるからである。楽観性が生じてくる。
安心は宇宙的なのだ。
全体が見えなければ、五里夢中、不安は当然だ。
そこで不安からの発想とに大きな違いがでてくるのである。
そんなときは、安心に帰って繰ればよいのだ。

 安心は天下無敵なのだ。
ものではないし、形もないが、感応する心があれば、これ以上のものはない。
至福といっても良い。

 安心は只者ではない。
それが心を生かし、身体を生かし、他のもの、家族、友人、犬猫は言うに及ばず、森羅万象にいたるまで、そして自分のみならず、あらゆるものを生かすからだ。
”上善は水の如し”と言うだろう。エナジーは、全てのものを生かし、生き生きとさせる。
それは、ヴィシュヌ神の力、シヴァ神の力、仏陀の力、そして、タオの力なのだ。
そして、安心は”創造神(ブラフマ)”でもあるのだ。

 一度、安心を背景にして、そのスタンスから、目の前にある出来事や問題の全体を良く見てみる。
安心のある時と、安心のない時とでは、見え方が違ってくるはずだ。月とスッポンほどの違いがある。
暫くすると、やがて、その中に光が見えてくる。それがエナジーだ。光源なき光、サンディア、シヴァのシャクティーだ。
安心と言う視点から物事を見ると、事の全体性が良く見えてくる。
心にも、ゆとりが自ずと生じるから、対象に同化することなく、静かに全体を見ることが出来る。

 それに気づいたら、その光の波動に注目し、その波動を広げていけばよい。静かに見守っていると、それは自ずと広がっていく。
ゆっくりと呼吸しながら、何もせず、ただポジティヴに事の成り行きを見ていれば良い。
そして、全宇宙を”安心という波動”で満たすといい。
波動原理、それがタントラの知恵と言うものだ。
複雑だったものごとが、ごく単純な形で見えてくるものだ。クリエイティヴだろう?
最小の被害で済むこともあるし、無事に切り抜けることもあるだろう。逆転して成功することもあるかもしれない。

 安泰、安全、安堵、安住、安眠、全ては、安心から生じてくる。
安心は、所謂、快楽ではない。快楽は、エナジーを消耗するのだよ。
だが、安心は、もっと実用的、実質的なのだ。
取り立ててどうこう言うものではないが、安心ほど心地よいものはない。
安心は、無心から生じ、心地よさを生む。今がそうなのだ。
楽しみや喜びも生じてくるベースともなる。生の基盤となるのだ。
安心なくして、幸福も、愛も、豊かさも糸瓜(へちま)もない。
糸瓜は、風呂場にあればよいのだよ。

 安心があれば、全てが良い。
シヴァ曰く”この世はパラダイス”なのだ。
安心のために生きる、となると、一寸、本末転倒だが、安心あって初めて生活も成り立ってくる。
安心があれば、様々なことにも耐えられる。
安心が力となるのだ。安心とは強さのことだ。
安心は、私の中にすんでいる。

 そして、安心が成長してくると、私や周囲のものを、安心という世界に包み込んでしまう。
だから、ダイヴィングしていても、バイクに乗っていても、車を運転していても、静かにしているときも、安心とともにある。自然と無理はしなくなるものだ。
だから、安心のうちに生きている。安心が自分の家となるのだよ。

 そして、安心は、無心から生じてくる。
安心は、仏教から生まれた言葉である。
真の英知と言っても良い。
安心とは、”心ある道に在る”と言うことだ。
例え、一寸、道を外れても、今は”正しい道に在る”という事なのだ。

 そして、禅、タントラ、ヨーガ、タオ、瞑想と言う技法は、人が”本来持っている力”を引き出す”コツ”なのだ。
それは、復元力をもたらす。真の意味での、健康法と言ってもいい。
ただ、物事の筋道を、一度、根に帰って、新たな視点で見直せばいい。
初心に帰る、と言うことだ。
慌てることはない。人生は長い。
何たって、死ぬまであるんだから・・・・・。

 上っ面だけから見ると、魔法のように見えるかもしれない。
だが、魔法でも何でもない。
無理をしなければ、安心は何処にも行かない。
知らないことは、知らないでいい。できないことは出来なくてよい。知りたいことがあれば学べばよい。
出来ることをすればよいのだ。難しいことは何もない。
難しいのは、頭が難しいからだ。
だが、身体は頭より賢い。ずっとスマートなのだ。

 荘子(老子の弟子)曰く、”易しいことは、正しい”。
その通りである。
”正しい”、”正”と言う漢字を良く見てみると、二本の直線の間に”止まる”、”止”と書く。
それは、中庸に在る、という意味なのだ。

 言葉って面白いだろう?
安心は、何時でも、又、何処にいても、”今、ここ”にある。
静かであっても、活動していても、スポーツしていても、安心があれば問題は少ない。無理をしないからだ。
人は、常に、何処か特別なところばかりを探したがるが、安心はどこか特別なところにだけあるわけではない。

 それは、今、ここにある。
あなたの心の中に・・・・・。

             ” オーン・ナマー・バガバティー・ヴァースデヴァーヤー ”
               (ヴィシュヌ神、宇宙を維持する神)のマントラ。
                

 安心しているとき、何故か、お茶やチャイが美味いんだよ。一服しようか・・・・・。

2011年1月3日月曜日

インスピレイション

 ”インスピレイション”、善いトーンの言葉である。気づき、閃き、直感、それは、ビヨンド、超越からのメッセージ。語源を辿れば、”イン・スピリット”、精神、心を生きる、と言う意味になる。心は、理性や知性では理解し難い、超越的で大きな世界にも繋がっている。人は、さまざまな”もの”を使い、頭を使い、知識を使い、体を使い、ペンやコンピューターを使い、道具を使い、お洒落をし、車や電話を使って、”物”を利用して生きているが、人、そのものの精神、スピリット、心、それは”もの”ではない。それは、根源的には、”無と言う領域(名のない領域)”からやって来るのだ。

 一寸、イマージン、”空の向こう側”、ってのはないだろう? 空は、どこまで行っても空だ。空に外側はない。これで一寸次元が変わる。その空のなかに、太陽も、月も、地球も、無数の星たちも浮かんでいて、永遠の舞を舞い続けている。

 予知とか、直観力、共時性(シンクロニシティー)という現象は、主観的な現象で、傍からは見えないのだが、あくまで”思いのほか”の出来事だ。それは、今、ここと、未知、或いは、未来との間に、何らかの接点があって起こってくるようである。内なる世界と、外の世界との間に微妙な繋がりがあるのだ。この点が、東洋思想の要と言ってもいい。それが起こった当人にしても、どうやってそうなったかを説明することは不可能なのだ。因果性も、距離の多少も、関係がない。無因で起こることもあるようなのだ。起こるときには、起こってしまう。リアルな世界ってのは、不思議が一杯なんだよ。虚偽の世界は、一貫しているんだけどね。

 宇宙の万物の間に潜在している”見えない繋がり”、それが生じることを、直感として感じたり、共時性と感じたり、物理学者にとっては、素粒子が波動に転じたり、時間が逆行したり、人は様々に感じたり体験したりするのだが、少なくとも、”考えられた事”ではなく、”知ることが出来る何か”なのである。
考えられたことって,たかが知れてるんだよ。

 少なくとも、自分が、自分以上の、何かとてつもない大きな力のあるものと繋がっていて、言葉にすると難しいのだが、巨大な連続性のある統合体と一つになっている、という気づきが起こってくる。心に力が宿ってくるのだ。波動が生じてくる。
 今までかつて、人生で、最高に素晴らしい瞬間、と言うものを体験したことがあるだろうか? それは、今、此処にある。それは、頭ではなく、知性ではなく、全身全霊で”判る”ものなのだ。そこに、初めて”存在する”と言う喜びがあるのだ。生きると言う”意味”を感じてしまう。

 そのことは、普段の身の回りにあるありふれた日常性、或いは、ややこしく複雑で面倒な世界よりも、ずっと深く、判りやすく、しかも意味のあるもので、それが身体にも、生活にも、物事にも浸透してくるのだ。普段の何気ない生が、生き生きとしてくる。全てが一つになるのだ。サムシング・クールな、何か… マーヴェラスな何か… ”楽しみ”とは、このことよ。

 それは恐ろしくも、怖くもなく、苦もなく悲しみもない。辛い事などさらさらない。暑くもなく、寒くもない。エナジーを感じ、充実感がある。軽やかで、心地よく、さわやかで、静かに、さまざまな物事を、それこそ”クール”に、リアルに楽しむことが出来る。慈しみ、愛を感じられるようになってくる。喜びもあふれてくる。何の原因も、因果性(原因と結果)もなく訪れる”喜び”と言うものがある。
 サムシング・クールなもの… それは、創造性というエナジーだ。アムリット(甘露、サンスクリット語)という。サウンデリア・ラヒリ。美しき波動なのだ。ニュアンス的には、少し意味が違って変わってしまったが、フランス語のアムール、イタリア語のアモーレの語源となっている。瞑想する人、芸術家、探求者、発明家、と言った人たち、そして恋人たちの間には、よく体験されることなのだ。何か超越的で、何らかの新しさ、新鮮な力、魂の蘇り、のようなものを感じてしまう。Something cool.

 中国の古い諺に次のようなのがある。

”弟子に心の用意が整ったとき、丁度、そこに師匠が現れる”

 インドには、次のような神話がある。奥方のパルバティーが、そっと夫のシヴァの後ろから忍び寄り、両手でシヴァの両目を目隠しをした。その瞬間、シヴァの額の第三の目が開いた、と言う。

 久しぶりに島に帰ってきて、今朝、近くを散歩していると、新しく出来た木工の家具屋さんが出来ていて、その店の前に大きな瓶が置いてあった。そして、そこに黄色い蓮の花が一輪、見事な姿で咲いていた。すぐ側に、高さ50cm程の、これも見事な、木彫のヴィシュヌ神(宇宙神)の像が、涼しげに,立膝をしてまどろんでいる。インドでは黄色い蓮の花は良く見られるのだが、タイでは珍しい。しばらく眺めていると、そこに波動空間が生じてしまう。何処からともなく赤とんぼがやってきて、その花の周りを、ホヴァリングしていたのだが、その内、意を決したのか、フワッと蓮の花の花弁にとまった。一つになった。花弁も、水面も微動だにしない。見事なものだ。その瞬間から、時が止まってしまった。

”長閑さや、蓮華にフワッと、赤とんぼ”

 所謂、快楽と呼ばれるものは、すべからく、肉体、そして欲望に負ってエナジー(霊力)を、そして体力を消耗する、と言う特徴がある。一方、至福というものは、本来、人が持っている精神のあり方に依っていて、霊体(スピリット・ボディー)に於いてエナジーが生じてくるクリエイティヴな状況なのだ。至福は、実に単純で、無垢、であることから起こってくる。
特別な聖地や、特定の場所だけで、至福が感じられるわけではない。それは、本来、人が持っているもので、開発したり、造り上げたり、修行してどうのこうの、というものではない。ただ、再発見すればよいだけだ。すでにあるものを、見つければよいのだ。

 そこに, 間合いが生じ、微妙な、そして微細な波動感知能力もついてきて、微妙なエナジーが流れてくることを感じる事が出来るようになるのだ。いい循環に入ると、いい事ずくめなのだ。相乗効果なのだ。”間”というのは、時間にも、空間にも、距離の上でも、タイミングと言う面でも、色々なことに使える有益な知恵。それが身についてくると、”人間”と言う存在になってくるのだ。学んでおいて損はない。間という文字を見ると、門の中に日がさしている。意味は深いんだよ。

 真の強さというのは、あるがままの状況に直面する勇気、と言ってもいいだろう。生きると言うことには、勇気が不可欠なんだよ。弱さと言うのは、例えば、何らかの危険や問題に直面したとき、ただ闇雲に前に進む、と言うのではな、待つ、状況を見極める、という忍耐が出来ない人なのだよ。頭でしか反応しなくなっていて、感応する心と言うか、心にゆとりがないんだよ。道に縄が落ちていても、蛇と間違えてしまう人だっているのだからね。幽霊だって出てきてしまう。

 最近のアメリカの本などを捲っていると”インタービーイング”と言う言葉が良く使われている。”縁”とも訳してもいいかもしれないが、基本的には、目には見えない”絆”、或いは”間”としたい。色々な意味に使える。ある特別な、時空の、そして心にとっての英知なのだ。タオに、真如に繋がる、と言う通路と言う意味にもなる。アメリカも変わってきているだろう。

 瞑想する人やスポーツする人は、適切なタイミングと言うものがあるだろう? 状況に合わせて、調子を合わせるのだ。早すぎても、遅すぎても駄目なんだよ。蕎麦やパスタをゆでるにも、適切なタイミングと言うものがあるだろう? 同じことなんだよ。

 ”インスピレイション”、ジプシー・キングスの名曲だ。いい曲だね。テレビ時代劇、鬼平犯科帖のテーマ音楽になっている。映画は池波正太郎の原作で、シナリオも演出も素晴らしく、主役の中村吉衛門や脇を固める役者も揃っている。何時も、楽しみにしている映画である。そして、日本の時代劇にスパニッシュ・ギター、うまく調和するものだね。心が弾み、生き生きとしてくる。

2011年1月2日日曜日

ハミング

 真によき場所、よき状況にあるとき、独りでにハミングしてしまうことがある。何かが原因で嬉しくなる時、仕事が上手くいったり、試験にパスしたり、人の 病気が回復したりとか、いいニュースが,情報として入って来る。嬉しいことである。又、そうではなく、何の原因もなく、何の因果性もなく、何の理由もなく 喜びがこみ上げてくることがある。喜びとは、エナジーだ。気づき、直感(インスピレーション)が起こっている時だ。これまた素晴らしい。それは、ビヨンド からのメッセージ。時空を超えた宇宙通信だ。それは、音もなく、目には見えず、インターネットでもない。だが感能する心さえあれば、感じることができる。 その繋がりを、”インタービーイング”と言う。

 宇宙の万物の間には、目には見えない、隠れた結びつき、絆のようなものが存在するのだ。霊性、スピリチュアリティに触れると、心にも自ずとセンターがで き、整って生き生きとしてくる。風景の焦点が変わってくる。そして、内にも、外にも、さまざまな、新たな繋がり、新たな価値観が生じてくるのだ。 どんな自己欺瞞も、思考もなく、ただあるがままの現実に直面する時、物事や出来事の中に”光”が見えてくることがある。それが自分の中の深いところと、何 らかの具合でシンクロすると、内なる世界、心の世界と、外の世界との間にある通路、インタービーイング(絆、一体性)が開通するのだ。それは神通力と言っ てもいいが、意識と無意識とをつなぐ通路なのだ。

  ”開”という漢字を見てみると、門の向こうに鳥居が見えるだろう? そこに、タオ、神、スピリットがあるってことなんだ。それが”開”なのだ。でも人の意 識が眠りこけ、無意識で心が閉じていたら、開も糸瓜(へちま)もなくなってしまう。全てが閉じてしまうのだ。悪循環はここから始まってしまう。何事も、そ の人次第なんだよ。この世は…

 いろいろ探求していくと、自分の周囲、世界という”外部にあるもの事”は、実は自分の”内面的な状況の反映”なのだ、ということがわかってくる。自分のあり方次第で、その世界のあり方、見え方にも変化がおきるのだ。
宇宙とは、自分に対する応答、反映なのだということが感じられる。
つまり、極論すれば、あなたが笑えば、世界も笑う。静かであれば、宇宙もそのように共鳴する。
根本原理がわかれば、対応の仕方も自ずと判って来るではないか。
私とは、一体全体、何なのかと言うことも判って来る。

 普段は、表層意識、個別意識、自我意識という、いわば”鎧”のようなものを、自己の代用品として、仏陀の言葉によると、玉葱のごとく幾重にも着て、心も閉ざしているので、通路も開きようがなくなってしまうのである。
当然、閉ざされて、心にも慈養も届かず、無神経になってしまうのだ。

 それが普通と思い込んで、習慣になってしまうと、自我意識という偽者を、真の自分と勘違いし、自分がどういうものなのかも知らぬままに、霊的、情緒的にも、心も感情も安心して育てたり、成長する状況とは大きくかけ離れているようになる。
生きる意味も知らずに、心も魂も、煮え沈んでいくかの様になってしまうのだ。
苦は必然的に起こってくる。
その反動として、無闇に、刺激的なことを求めたり、闇雲に突っ走ったり、殊更、興奮や、快楽、権力を求め、空しいながらも、精神性の貧しさや寂しさを何とか補おうとする。
そして、苦しいこと、憂鬱、悲観、怒り、憎らしいこと、嫉妬、恨み、辛みは、理性によって、潜在意識、無意識へと仕舞いこまれてしまうのだ。
とりあえずは、一応、表面的な体裁は平静に保てるからだ。
だからって、それで解決したわけではない。何も解決していない。

 真底、安心しているわけもなく、常に、何かに追い立てられ、夢にうなされ、理由のわからない不安に慄いているのだ。
しかし、それにも限度というものがある。
許容量というものがある。
限度を超えれば、爆発したり、病気になったり、狂気が起こったりする。
少なくとも、健康とはいえない。
普通ではないのだ。
生は、人のマインドから見ると、矛盾しているように見える。むしろ、虚偽や、何らかの観念、哲学のほうが一貫しているように見えるものなのだ。生は人のマインドや都合など眼中にないのだよ。

 殆どの病気、苦の原因は、こういった過去の残存物、心のしこり、心のわだかまりが、潜在意識、無意識の中に集積されていることにあるからだ、と言われている。
病気というものは、本来、気の病、心の病から起こってくる。
それが、インサイド・アウト、内なる何かが、身体に現れた、ということなのだ。

 ヒンドウー、仏教の人たちは無論だが、最近ではイスラム教徒やキリスト教徒もいるらしく、ガンガー(ガンジス)に詣でる人が、後を立たない。世界中からやってくる。ヴァラナシは、今や世界的な聖なる空間となっているのだ。
心の奥深くこびりついた垢を洗い流す為だ。手遅れになる前にやってくるのだ。
そこで何が起こるかというと、シヴァ(言葉を変えると、純粋意識)と繋がる事ができ、その結果、意識に目覚めることで、意識にべっとりとついた過去の残存物を、綺麗に洗い流してくれる。
ヒンドゥーの人達は、心を込めて、この場所を、”カーシー(光の都)”と呼ぶのだ。
古代から伝わっている呼び名なのだ。

 だが、上っ面を見ていてもカーシーは見えてこない。
見ると言うことだけではなしに、まず、感じること、真底、深く感じることができるようになると、見え方にも変化が訪れる。
風景の焦点が変わるのだ。
意識が、目覚め、整うと、二次的に心も安心し、くつろぎ、安定して来る。
浄化、つまり”禊”ということなのだ。

 慌てることなく、何日もかけ、暫く時間をかけ、道の真ん中にどっかりと座っている牛に、りんごでもあげて、バングラッシー(聖なる飲み物)やチャイを楽しみ、そこの空気と一つになっていると、やがて馴染んでくる。
寛いで、自然体になり、明晰になり、波長も合ってくるに従って、魂も身体も若返ってくる。心も生き生きとしてくる。
基本的には、意識が目覚めると、全てが良くなってくる。
世間、世界と言う、泥にまみれた世界から蓮の花が咲くとき、茎は泥の中の根と繋がっているが、花弁には塵ほどの泥もついていない。
逆に、泥がなければ、そして水がなければ、蓮の花はない事になる。
フロウ(flow)、流れていること、エナジー、命の流れているものを、或いは、流れていることを、”フラワー(flower)"、”花”、という。
”エナジーが流れていること”、が語源なのだ。
それが生命の、そして美の象徴となっている。
花とは”真に生きている”と言う意味なのだ。

 光明、無背面というだろう。花はそれを体現しているのだ。

  意識がクリアになれば、ものごとがリアルになってくる。
身体には、重力が働く。思考にも重力の影響が現れる。
だが、純粋意識には重力はかかわらない。
意識は無重力だし、色も形もない。
現代物理学では、まだ推測のうちなのだが、”反重力”と言うものが判ってくる。
普段の何気ない生活の中にも、何か不思議な力が、そこに浸透していることが見えてくる。
外と内とが交流している。
重力と反重力とが交差して綾となっている。
三途の川と極楽とが一つになっている。

 ヴァラナシはただの町ではない。聖なるものと、混沌とが、調和して一体になっている不思議な空間なのだ。暫く暮らしてみると、よく判る。素晴らしい学びとなるところだ。こつがわかると、今度は、何処ででも応用できる。

 気づけば、世界は、もうすでに新しくなっている。インタービーイングも開通している。新鮮さが始まっている。楽しくも、嬉しい事、素晴らしい事、幸福感を堪能することができる。
あらゆるものが美しい。あらゆる物が素晴らしい。全てのものが、全てのもの以上のものを包括し、内と外とが、意味のある一致をしてしまう。生き生きとしているときは、些細なことでも、具合良くなってしまう。何をやっても美味くいってしまう。

 シング・サムシング・シンプル・・・・・・、♪ ♪ ♪ ♪ 
  ”シング・サムシング・シンプル”という曲は、ジューン・クリスティー歌うところの、ジャズの小唄だが、リズミックで、春の小川のように、明るく、爽やかな曲で、ハミングするには丁度よい。メロディーラインもシンプルだ。もうCD化されてるかもしれない。
まるで煙管(きせる)のようだが、出だしのところと、最後のところしか、歌詞を覚えていないので、途中はハミングするしかないのだ。
学生時代によく聴いていた曲で、彼女が、ご主人のボブ・クーパー(テナーサックス奏者)とともに日本に来たとき、たまたま会うことができ、たので、殊更、印象も深かったのだ。
素敵な人達だった。

 誰しも、心に何かしらの歌を持っているものだ。昔の人だったら、小唄や都々逸、詩吟や浪花節の一節が出てくるところかもしれない。ジャズのスタンダード ナンバーかもしれない。若い人なら、はやり歌、ポップスやロックかもしれない。1970年代、80年代のロックには、良い曲が沢山あったね。

 自分が、思い込みではなく、”真の自分である事”、を自覚する以上に素晴らしいことはない。これこそが、生きる意味でもあり、又、目的でもあるのだと思 う。そこから様々な価値観が生じてくる。新たな多様性も生じてくる。そこは、"真によき場所”ザ・プレイス・アイ・ラヴなのだ。

 今、此処が”真の我が家”となる。 今、ここにあるものは、何処にでもある。ここにないものは、何処にもない。今、ここに、全てがある。これは、生における究極の次元であって、これ以上のものは、何もない。

 そんな時、ハミングが、独りでに起こってくる。シング・サムシング・シンプル・・・・♪ ♪ ♪ ♪・・・・・・。あまり速いテンポでもなく、といって スローでもなく、”メディアム・バウンス”辺りが、今の私には丁度よい。”中庸”がいいのだ。それは、様式でもないし、観念でも、道徳と言うものでもな い。無論、頭でもないし、理論でもない。”心の在りよう”を言っているからだ。

 究極とは、そして楽しみとは、この事よ。極端というものは、何であれ、片手落ちになってしまうのだ。極端を進めれば、自ずと、その反対のものが現れてく る、のが道理である。バランスが悪いから、アウト・オブ・ファンクション、何も機能しなくなくなってしまうのだ。秩序が狂って、バラバラになってしまうん だ。

  中庸にあるとき、自ずとバランスが取れ、両極端の枝葉や、過去の記憶、未来への期待も、トータルに、自在に、そしてより有意義に使うことが出来るではない か?  ”両翼を広げる”って事は、そう言う意味なのだ。中庸から起こってくるのだよ。中庸にちじこまっている、と言うのではないのだ。全てを、包括できるのだ。 未来が生じてくるだろう? 心身ともに、よい状況にあるってことだ。

 春が来れば、草は独りでに生えてくる。当たり前の話だが、でも、よくよく考えてみれば不思議な事なのだ。            
      
              ”ア サウンド・マインド インナ サウンド・ボディー(弾む心、響く身体)。”
                        何よりも、此れだよね。

2011年1月1日土曜日

禅問答

《その一》
 弟子が師匠に尋ねる。

”暑さ、寒さを避けるには、どうしたらよいでしょう?”

 師が答える。

”暑くもなく、寒くもないところに行ったらどうだ?”

 ”そこに行くには、どうやって行ったらいいのでしょうか?”

 ”熱くなれ、寒くなれ”

 暑さ、寒さというものを真に体験すれば、暑くもなく、寒くもないところが何処にあるか、が判るのだ。

《その二》
 中国の皇帝が、禅師に訪ねる。

 ”人が死ぬと、何処に行くのでしょうか?”

 師が答える。

 ”何故そんなことを尋ねなさる?”

 ”貴方は、禅のマスターではありませんか?”

 ”そのとおり、如何にもそうだが、まだ死んではおらぬ”

《その三》
 弟子が師匠に尋ねる。

”仏性というものは、どういうものなんでしょうか?”

 師が答える。

”朝飯が、冷めてしまうぞ”

《その四》
 弟子が師匠に尋ねる。

”自由とは、何でしょう?”

 師が答える。

”足を上げてみろ”

 弟子が、片足をあげて見せた。

”それが自由だ。もう一方のほうも上げてみろ”

 弟子が答える。

”それは、無理というものです。ひっくり返ってしまいます”
 
”それが、責任、というものだ。自由があれば、責任もついてくるのだ。どっちかだけでは、何も成り立たないのだ”

《その五》
 弟子が師に問う。

”瞑想中に、タバコを吸っても良いでしょうか?”

 師が答える。

 ”何を馬鹿なことを言っておる、とんでもない”
 
 ”それでは、タバコを吸っているときに、瞑想してもよろしいのでしょうか?”

 ”それは、結構、大いによろしい、どんどんやりなさい”

 禅という、世にも稀なる宗教は、人の願望や望みをかなえる宗教ではない。人が、すでに持っているもの、”宝”に気づかせる宗教なのだ。

初めに、悟りありき

 禅は、ないものを欲しがらせるのではなく、もうすでに持っているものに気づかせる宗教。
それが禅であり、もっともユニークな宗教の一つである。
初めから、人を罪人扱いするのではなく、根本的に、人は生まれながらにして仏性(ブッディー、英知)を持っていると言う、仏陀のヴィジョンから起こっていることなのだ。

 始めに、悟りありき”。

禅は開悟から始まる。
人が幸福でありたい場合、まず’ここにやってこなければならない。
ここがスタートラインとなる。ここと言うのは、特定の場所ではない、ある次元のことである。
ゾクチェンと言う、チベットの宗教も、悟りからはじめる。

 禅は、言語によらず、悟りと言うヴィジョン、啓示、それは人それぞれによって異なるのだが、それを重要視し、
全てのもの、人だけでなく、動物、森羅万象、草や樹、石や水の流れにまでもつ仏性について、直に気づきを得ることであって、知識も何も必要ない。
気づきは、意識に直結した出来事なので、頭とは無関係なのだ。

 こんな逸話が残っている。
夜、遅くなって、あたりはもう真っ暗だ。
師が、弟子に声をかける。
”明かりを持ってきておくれ”
”はーい、只今”と弟子が答える。
弟子がろうそくに火をともして、師のもとに明かりを持ってくる。
ろうそくを差し出すと、師は”フーッ”と、その火を吹き消したのだ。

 その瞬間、その弟子は開悟したという。

 悟りとは、意識の目覚め、内なる光明、無意識状態からの解脱である。
魂の蘇りと言ってもよい。
言葉の表現はそれこそ沢山ある。

 この師の、教え方は、無意識のうちにも、弟子の意識がろうそくの光を捉え、その残像効果を利用して、意識を目覚めさせた、と言うことなのだ。心理的効果、残像効果が決め手となっている。

 タントラにおいては、その意識の目覚めそのものを”シヴァ”と呼び、禅においては、”これ”と呼んでいるようである。

2010年12月12日日曜日

転(まろばし)

 柳生新陰流の、蘊奥(うんおう)に、”転(まろばし)”という極意がある。それは、刀法でもあり、又、心の技法、タントラでもある。

 剣禅一如と言うとおり、それは、剣法であり、技法であり、膳の心にも繋がり、したがってさまざまな物事に応用が利く。
何であれ、技を学ぶと言うことは、自分を学ぶこと、心を学ぶことであり、それは、内在する仏陀を学ぶことである。

 転(まろばし)は、剣法として、敵と対峙したり、その折、”陽だまりの猫”の如く、安らかな心を保ち、敵の動きや状況に応じ、自在に変化、転化、対応することを大事とした。したがって、形や外見にとらわれず、昔風に言うと、常形を持たず、構えもない。

 「転(まろばし)」とは、”己を、平らな盤の上に置いた丸い玉と見立て、自在に転がり、自在に転がす事”と言う技法のことである。盤が大きすぎても、修行にならないし、さりとて、小さすぎても、現実離れしてしまう。自分の存在を見極めて、それに応じたサイズにするのがよい。しかも、盤から玉が落ちないようにするには、それなりの技もコツもいる。集中力もバランス感覚も、育ってくる。昔の、剣術、忍術といった、戦いの技法の多くは、猫から学ぶところ、少なからずのようである。

 だが、剣術、剣法は知らずとも、刀など持たなくとも、敵などいなくとも、状況にあわせて自在に変化し、対応する心の技法でもあるわけで、女性でも出来る。幸いにも、今や刀も必要ないし敵もいない現代であっても、言葉を超えた、知的な対応能力は、何時の世も必要となるのである。

 徳川家康が、天下を取り、本人にとって、剣術は無用のものとなってからは、もっぱら、この技法を修行していたと言われる。この技法一つで、徳川幕府を安定せしめたとも言われている。丁度、ゴータマ・シッダルタという人が、アナパナ・サティーと言う、呼吸を見守る技法、唯一つで、悟りを得て、仏陀となった話と似ていないこともない。今も、時々、バスや飛行機を待っているときなど、思い出すようにいて、まろばしを楽しんでいる。

 柳生新陰流の極意、伝えたよ。

2010年12月9日木曜日

禅とタオと共時性(シンクロニシティ)

 ”花の説法”というのがある。
これは、仏陀に纏わる有名な話なので、多くの人が知っているはずだ。
タイやラオス、インドの人も知っている。

 ある日、仏陀が一厘の蓮の花を持って、弟子たちの前に現れた。
だが一言もしゃべらない。
長い時間が過ぎたころ、弟子の一人、マハカーシャパが、外の樹によじ登って、この様子を見ていたのだが、
突然、大笑いを始めた。
他の弟子たちは、狐につままれたごとく、何がなんだかさっぱり判らない。

 すると、全てを了解している仏陀は、弟子達に、”言葉によるもの葉、お前たちに与えよう、だが、言葉によらないものは、この花とともに、マハカーシャパに与える。”
といった。
これが禅の起こりである。今から2500年ほど昔の話である
禅の開祖は、仏陀でも、マハカーシャパでもなく、二人の間に起こった共時性(シンクロニシティー)、以心伝心、深い気づき、を開祖としているのが、まことにユニークだ。
言葉によらない教え、無の教え、と言うのが、仏陀の本位であっただろう、と推測される。
だから、本尊も、経文さえも必要がなかったのだ。
言葉による教えと言うものは、二元性、その性質上、遠回りなってしまうのだ。

 老子も言っている、”語られうる道(タオ)は、本物のタオ(道)ではない”、と。
直感的にしか経験できない啓示、物事の本質は、言葉では適切な説明が出来ないのである。
それに知識で禅を知っても、何の意味も力にもならないのである。屁のツッパリにもならない
頭は問題にされていないからだ。頭はリアリティーとは繋がっていないからなの
もっと深い、根源的な心、魂、意識のだんかいまでおりていかねばならない。根本が変われば、頭はどうとでもなるのである。
それは、全ての生き物が持つという仏性(ブッディー)についての、意識の目覚めと言ってもよいが、神秘的な気付きを得ること、
そして、それを通して一つの大きな全体性、連続性に繋がっていることを、自分がその一部であることを、体験を通して知ること、なのである。

 タオが今や、欧米の学校、社会や人たちに浸透しつつあるのは、タントラや禅の研究の他に、C.G.ユングと言う、スイスの精神学者による、” 共時性(シンクロニシティー)についての理論”を発表したことに始まる。共時性については、スティングも歌っているが、因果関係に依らず、意味のある二つの出来事が、一致する原理とされている。
”意味のある一致”といわれる。

 東洋の心と言うのは、人と他の人達、森羅万象、宇宙との繋がり、”絆”を理解することと言っていい。
そこに安心感が生じてくる。
孤立して孤独な人と言うのは殆んどいない。そこに欧米の文化と東洋の文化との大きな違いが生じてくる。
人々は、無論、日常生活にも浸透し、それを知ろうと知るまいと、我々の多くは、知識や常識にのっとられる前、幼児期に、遊びを通して、体験しているはずなのである。
共時性が起こると、相反するものが一致したり、直感的に、あらゆるものに繋がりを感じられるものなのである。
まるで、自分の心に、新たな、出入り自由な扉が出来たかのようである。
その扉を開けると、エナジーを感じ、恩恵を感じ、共有させようとすると、拡張作用も起き、共鳴、共感が起こってくる。
具体的な事実に沿った考え方、論理的な考え方(アメリカではストレート思考と言うが)では、絶対に交差することのないゾーンである。

 未だに、直感がどうして起こるのかを、言葉で説明できる人はいないようだが、でも、直感と言うものを誰でも知っている。
それは事実以上に価値のあるリアリティーなのだ。
私たちの内なる心、魂と言ってもよいが、それと外的な出来事が、何らかの具で結びついていると言う感触がまず不思議なのである。
共時性は、隠れたタオの表れと感じる人もいる。タントラでは、導きの魂という。

 それは自然発生的に生じ、何の因果関係とも無縁に、インタービーイング(縁を生じ)宇宙的な広がりを持って展開する。
無論考えても始まらない。すべては、思いのほかの出来事なのだ。
無論、面白み、喜び、楽しみを感じる。
特に喜びと言うのは、気づいていないかもしれないが。エナジー現象なので、超越性をも感じてしまう。
言葉を変えると、新しい新世界、新しいことが目の前に現れたと言うことなのである。
可能性の実現と言ったらいいかもしれない。

 カルロス・カスタネダ描くところの、ドン・フアンと言う、ヤキ・インディアンの呪術師に弟子入りする話であるが、’70年代には、山手線の中で、ボンベイのリキシャに乗って、カトマンドウーのチャイやの片隅で、夢中で読みふけったものだ。
その本の中で、ドン・フアンが、問題を提示する。
”この道は、心(ハート)を持っているか?”と問う場面がある。
感動的なシーンである。

心ある道とは、一つの大きな全体性に繋がると言うことである。
当時は、みなが全体性を回復しなくてはと躍起になっていた。
無論、誰とは言わないが、我々はそれを達成した。
今は、その事を思い出しているときでもある。
心と言うものは、ある意味で厄介ではあるのかもしれないが、理性知性では、把握できない。
かも、人はその心に従って生きようとする、

2010年11月29日月曜日

知のオデッセイ Part5

 人には知性というものがある。だれか特別な人だけが持っているわけではない。誰しも知性を持っている。木にも、草にも、動物にも、微生物だって持っている。それぞれが、それぞれの生に合った知性を持っている。一つのものさしでは計れない。

 数学の得意な人、論理の組み立てが見事な人、商売やビジネスに、知性を発揮する人もいる。音楽や、芸術に優れた人もいる。それぞれの分野、分野の外にも、ここの知性は働いている。頭の切れる人、センスのよい人、専門知識の多い人、どうりを知っている人、自分を知っている人、心やさしい人、スマートな人、粋な人・・・・。色々な人がいる。そこにさまざまな知性のあり方や使い方がある。人それぞれが、自分の得意分野を中心にして、知性を育てている。 知性は、美と同様に、価値のあるものだが、一言で定義できるようなものではない。知性の特徴は、ある事の一部を、部分として鮮明にする。役に立つのはいうまでもない。だが全体性を捉えることはない。知性は、分析し、分割し、論理立てるにはよい。だが余計なもの、物指しにあわないもの、枠に入らないものを排除してしまうという特性がある。ここに知性や文明の悩み、苦というものが自ずと生じてくる。論理的や科学的な姿勢や方法だけで、物事のありよう、全体性を理解することはないがしろにされてしまう。一つの世界の、半分しか見ていないことになる。視力がないのである。

 ”知る”ということは、単にその対象の上っ面を眺めていることではない。状況として、まず、”知る者、知ろうとするもの”、”自己性”というものが必要だ。それなくして、何も成り立たない。”知る”ということは、考える、ということではない。知らないから、仕方なく考えるのである。真に知っていれば、判っていれば、考える必要はない。

 そして、”知られるもの”、対象、それは、人でも、物でも何でもよい。知るものと、知られるもの、とが生じれば、自ずと、関係性、縁、英語だとインタービーイング、最近よく聴かれる言葉である。つまり”知ること”を理解することである。

 仏陀はこの知ること、にあることを、正念と呼び、大事にしたそうである。すべからく、知るとは、そして、リアリティーとは、三位一体なのである。どれがかけても、実在性はなくなってしまう。知るという行為は、そう単純でも、いい加減なものでもない。それは”存在に深く入り込んで、理解する”ということだ。

 自我という代用品が落ち、”私”、即ち、自分という宇宙的な出来事の機能、そして総体が、一つの”まとまりとして”、理解でき、より大きな”存在の全体性(タオ、ブラフマン)と繋がったとき、理解できたとき、意識の目覚めというものが起こってくる。悟りといってもよいし、光明と言ってもよい。それは、”判る”ものなのだ。そして幸福感が生じてくる。

 世間にあって、世間に対応していても、世間に惑わさなければ、人は明晰でいられる。それは人を鋭敏にし、寛ぐゆとりを与え、微妙で、微細な、波動感知能力を高め、エナジーをもたらす。
物事が生き生きとしてくる。幸福も生命力もそこから生じてくる。”これ”こそが生きる意味でもあり、目的でもあるように思う。究極的には、人は、例え無意識ではあっても、幸福を目指しているのだ。

 それは形のあるものではない。なぜなら、生きているからである。

2010年10月8日金曜日

円を楽しむ(エン・ジョイ)

 上善は水の如し、というだろう? 命のエナジーの流れというものは、水とは違うが、水に似た働きをする。それがタオのエナジー、宇宙のエナジーというものだ。

 水はすべての生き物を生かし、川底や岸辺の形、石や岩、あらゆる状況に逆らわず、右に左に曲がりつつ、重力にも逆らわず、行く手に抵抗がない方向に進み、滝があれば落ち、柔らかに流れていく。とがった岩も、いつしか角が取れて丸くなってしまう。本当の力というものは争わないものなんだ。

 水の流れを、流れるままに眺めていると、そのリズムやタイミング、調子によって、思いもかけないものやイメージが見えてくることがある。勢いよく、よどみなく、水が流れている様子は、なかなか見ごたえのあるものである。春から秋にかけて、渓谷の森は瑞々しく、また、秋には紅葉が美しい。その渓谷の森に中を一筋の渓流が流れている。水が岩にはじけ、木漏れ日を浴びて、水しぶきが眩しい。時には、虹も現れる。水はすべての生き物を生かし、しかも、おごらず、誇らず、恩も着せない。川は名詞ではない。流れていること、動いていることが実態だ。川は、川しているのだ。それは動詞なのだ。川は歌っているのだ。

 物心ついてから、よくバイクで、奥多摩の渓流に行き、毛ばりを振りながら、水の流れを眺めていて、”水ってすごいなー”と感心したものだ。高校生から大学生の頃で、丁度、老子を読み始めていた頃のことであった。水の流れる音を聴いているだけで、心が和んだものだった。今でも、それは最高の音楽と心得ている。

 一見なんでもない、平凡な遊びだが、裸で自然と向き合い。自然をじかに呼吸して、自然の中に溶け込んでいくことができる。それはエクスタシーのようなものでさえあった。自然や宇宙を学ぶには、これ以上のものはないと思う。そこに生きとし生けるものへの共感も生じてくるのだ。奥は底なしに深く、広く、生を学び、知恵を学び、風情を楽しむ。風流を楽しむ趣も大きいのだ。無論、体は丈夫になり、スピリットというものも知り、直観力もついてくる。したがって精神の成長も、可能となってくる。

 幸福なときというものは、時間の質(クオリティ)が違ってくる。空気も違ってくる。この質、クオリティということに気づくと、物事や物質の品質ということではなしに、ものでないことの質というものがなんとなくわかってくるものだ。この知恵が非常に生きていくうえで大切となってくる。なんであれ、深い木月は、能力の源なのである。

 今、この瞬間、というのは、現存する唯一の時間である。私たちの多くは、過去の記憶と、未来への期待という時間の中でしか、ほとんど生きておらず、つい、今という、この瞬間を見過ごしてしまう。でも、まれに、何らかのきっかけで、今、現在という時間のない次元に触れることもあるのである。この今という、時間のない次元にこそ、生の秘密が豊富に隠されえている、ということにも気がつくのだ。そこは生のエナジーにあふれている。世界的に見ても、いまや気づいた人は少なくはない。特に欧米の瞑想ブームは盛んになりつつある。無心であって、時には充満している、生の不思議な躍動感に、新たな一面に驚きを禁じえなかったのであろう。

悟りというエナジーの流れを、自分の内側に感じる事と、興奮や高揚感と次元が違う。
混同しないようにしたい。
興奮は、欲望や何らかの刺激を受けたときに起きる緊張といったらいいかもしれない。
一方、悟りのエナジーは、今もそうなのだが、うなじから、肩、脊髄を通して、流れてくる流れである。
健康なら、抵抗もストレスもなく流れ続毛、体中を循環し、隅から隅まで、全宇宙を潤していく。
タオのエナジー(タントラのエナジーといってもよい)葉、あたかも、永遠から、沸き出る泉のようである。

 そこに思いのほかの美しさ、静けさ、驚き、生命感、安心、楽しみが満ちている。よく空の下には新しいものは何もない、といわれている。さにあらず、対象に責任はない。ものに責任はない。目だけが古くなってしまっている。感じるハートがなくなってしまっている。思考というものは、記憶の中だけしか働けない。記憶の外や、道の中では、まったく役に立たない。つまり思考というものは最小限のものしかもたらされないが、感覚というものは、ハートがあれば、今、現在、最大限のものをもたらしてくれる。
 思考を通じて、”存在”に至る道はないといわれる。考えてどうなるものでもない。ハート、感じる能力、受け入れる能力(空性)、感覚を通じて、深めていくのが唯一の道なのだ。

 今、海辺にあって、渓流を思うのは”初心に帰る”ということかもしれない。それは多少なりとも、力がついてきたということかもしれない。また、十分に生きたということかもしれない。そして、理性を超えた、知の道、自我を超えた、本来の自己が生じてくるのだ。円がひとつ完成する。

 海の釣りも面白いのだが、渓流のフライ・フィッシングは、また、格別なのだ。バックストロークにゆとりを測り、大きなループを造って、丁度、鞭のように、糸の重さを利用して、フライをキャストする。こつがわかると難しくはないのだ。毛ばりが、フワット、目的のポイントに着水し、流れに乗せてしばらく眺めていると、突然水しぶきが上がり、美しい魚体が跳ね上がる。息が止まるほどスリリングである。

 最近、魚を釣ること事態はどうでもよくなってしまったのだが、時に、ヒマラヤ、タイ、マレーシアあたりの源流を訪れ、魚の姿や、様子、渓流の流れという、原始の世界の魅力は尽きないものである。
流れはやがて自分の中で、円となり、宇宙となり、そして、円が完成したとなれば、その円を楽しみたいものである。新たな楽しみの次元が生じてくるやもしれない。

 今、目を閉じると、何か自分の内側の深いところから、闇の中に、乳白色の環が、泉がわくように、いくつも現れては、消えていく。何十もの環が現れては消えていく。オリンピックみたいだ。吉祥だ。私の中の無意識が、OKといっているようである。宇宙に祝福されているようだ。

 赤とんぼが、飛び始めた。何十匹もいる。二匹つるんでいるのもいる。かわいいね。ライムソーダの冷えたのがほしいね。シュウェップスがいい。