2009年10月29日木曜日

カタチと時空間の愉しみ

 子供の頃、良くキャッチ・ボールをした。天気がよければ、空は何時も青かった。その時は、大抵、ボールに触っていた。空が青いのが、ごく普通の事だったのだ。 ボールで遊ぶ事は,宇宙と関わって遊ぶ事の始まり、となってしまった。

ボールを投げると、青空に、白い放物線を描いて、相手に届く。

ボールを受けて、相手に投げ返す。この単純な遊びから、様々な事が見えて来た。

まずは、言葉に依らない、コミュニュケーションだ。

言葉以上に、以心伝心する、ということだ。

まずは、腹でゆっくり深呼吸。そして、センタリング。

何度か、息を吸い、息を吐ききると、次第に、体中に、腹に気合いが入ってくる。

センタリングとは、腹に力が集まる事だ。センタリンガが無ければ、自分の体を思う様に動かせないのだ。

腹を極める、腹が極まる、とはこの事だ。

さすれば、頭でっかちにならずに済む。

 

 上手く投げるには、体重移動させるから、当然、軸足が大事だし、それに伴って揺らぎ(傾き)、捻れ(螺旋の働き)が起き、宇宙に気が発して行く様な気持ちになり、体重移動を利用して、身体全部の力で、ボールを投げる。全身の力、遠心力、ねじり、揺らぎの力を使って、流れる様に、水が流れる如く投げると、無理が無く、エナジーが、体中を循環し始める。それは、実に気持ちがよい。

身体も、使わなければ、自ずと不自然になり、ぎくしゃくして、自然に沿った動きが出来なくなってしまう。エナジーが動かない、働かない様になってしまう。

肩に力が入りすぎたり、どうしても、意志や頭に、頼ってしまうのだ。

身体の越えさえも聴こえない。

だから、何の打算も無く、素直な気持ちで投げ、そして感じる事、フィーリングを使う様にすると、それだけで気持ちが良い。今でも忘れない。

頭も、整って来るし、身体も柔らかく、弾む様になるのだ。全て良い。普通でいられる。

普通とは、”普遍性に通づる、ユニヴァーサルになる”、という意味だ。

決して平均的という意味ではない。誤解の無い様に。


 力は、無心、そして呼吸から生じてくる。腕の力、肩の力だけで投げる訳ではない。それでは、ボールに力が乗ってこない。それに一部分だけ酷使したら、偏りの特徴として、長くは続かない。

先ずは、センタリング、身体の中に”軸”を意識する事、体重移動、螺旋の力、渦の力を使って投げる事が重要、あとは,ロックン・ロールだ。

 今年、ベルリンで陸上の100メートル、200ートルで、世界新記録をだした、ジャマイカのユセイン・ボルツの走りを見ていると、力みが無く、まるで流している様な、軽さで、壁を破った。ビデオで10回以上も見ていたので、心に焼き付いている。無理が無い。

野球でも、相撲でも、自転車でも、水泳にも同じ事が言える。気持ちよく、事をなすには、要はコツを掴む事だ。

 受ける時には、ボールの軌道を良く見て、軌道の先を予想しなければならない。放物線を描きながら、ボールが向かってくる。瞬きせずに、ボールの軌道を読む。

最初は勇気がいるかも知れない。最初のうちは、どうしても自分に自信が無いからだ。習うより慣れろ、慣れてくれば、ツボも、コツもが解ってくる。


 ボールを受ける瞬間、腕を引きながら、ボールの力を逃がす様にすると、ボールを受ける時、ショックが少ない。道理が判れば、そして、それに沿って行けば、簡単な事だ。ボールの力を吸収して、ショックを和らげるのだ。サスペンションだ。ボールの動きに、素直に対応しなければならない。ボールが、上手くスポッとグローブに収まると、実に気持ちがよい。何にもいらない。


 今朝、タイのテレビで、ジェット・リーのカンフー(クンフー)映画を見て、身体の動きの妙が、気になった。動きが素晴らしかったのだ。それに触発されて、身体に付いて、何か書きたくなったのだ。


 身体とは、体感しうる、唯一の”現実”なのである。身体が無ければ、私は居ない。頭は、どうしても、現実以外の事を考えたがるものだ。そう言うときは、エナジーを循環させて、エナジーを頭から、身体の方に回すのだ。

 身体があるから、感じたり、動いたり、反応したり、楽しんだり、喜んだり、苦しんだり、悲しんだりする。幸い、私は、自分の身体が、気に入っている。使い慣れてる、と言った方がいいかも知れない。

忘れているかも知れないが、身体にとっては、脊椎が肝心なんだよ。尾てい骨から天頂迄、貫いている一本の軸だ。人の体は、消化器系、生殖系と循環器系だけではない。神経系が全てを統御してるんだからね。禅もタントラも、脊椎を重要視するのだ。だから、医学にも則しているんだよ。そこに神秘が有るのも事実。そこが軸なんだから。

 

 スピリットが、身体に入れば、脊椎、そして、自律神経がきちんと働けば、行為,そして無為、両方のの可能性が、大きく広がってくる事にも気がつく。

身体が、思う通りに、素早く動く事は、それだけでも素晴らしい。

 マサイの人達は、狩りに行く時、祭りの時、男達は、集まって高くジャンプする。生半可では無く、かなり高く飛ぶ。元々、皆、背が高いのに、ハイジャンプするからその高さは凄い。

オリンピックのハイジャンプ競技(走り高跳び)にでも出たら、とは思うが、彼らに興味は無い。

最高に、いい生活してるんだから、当然だ。

狩りに出て獲物を見つける為に、遠くを見る為もあるのだろうが、同時に、足腰のバネを生かしている。そして、エナジーは螺旋状に身体を巡り(クンダリーニ)、そして、エナジーは昇華して、全員がハイになる。

タントラ・ヨーガのケニヤ版だ。意識も、自律神経も、ギンギンになってくる。

気合いも入って、最高に、気持ちよい。

そこで気持ちを一つにして波長を合わせ、役割分担し、狩りなり、祭りをを成功させるのだ。

レッツ・ゲッツ・トウギャザー・アンド・フィール・オールライト!

 お相撲さんだって、四股を踏み、腰を割って、身体をねじり、身体の体勢を柔軟になる様に整える。呼び出しさんや行司さんが、間合いを上手く整え、そして仕切りを重ね、少しずつ、気合いが入ってくる。

儀式、様式は様々な所で使われる。それは、本来、力を効果的に働かせる為だ。

単に勝ち負けだけではなく、宇宙全体が、恰も錦絵の様に、見るものには映るのだ。単に勝ち負けだけが目的のスポーツではない所が、厚みがあっていい。

 健康の定義は難しいが、健康とは、気持ちが良い事、そう言う事だ。

自分の体を”内観”出来れば、自分でわかるものだ。

脊椎が、柔らかく、シャンとしていたら、ほっておいても、自立神経が、後は上手くやってくれる。そのように出来ているのが。人の体の宇宙なのだ。有り難いね。

それが、自律神経の仕事だからだ。さすれば、怖いモノなしになる。

そして、身体を大事にすれば、死ぬ迄使えるし

 身体を通じて、考えたり、創造したり、直感したり、歌を歌ったり、子供を作ったり、食べたり、飲んだり、トイレに行ったり、車を運転したり、歩いたり、走ったり、泳いだりもする。何もしてない様でも、色々な事をする。

身体は、ありとあらゆる事象に関わっている。眠ってる間でさえ、働いている。

身体が無ければ、言語も、文化も、文明も、宗教も、経済も、遊びも、スポーツも有ったもんじゃない。

身体が無ければ、あなたはいない。


 タントラは、身体と精神の両者に関わる、科学、そして全肯定的なメソッドだから、否定するものは、何も無い。 シヴァム! 全て良い! 身体こそが、本来の寺院であると言う。

だから、多くのヒンドウー寺院の内部は、人の意識を目覚まし、力が効果的に出る様な、特別なカタチの内空間を持っている。

頭は兎も角、意識に耕造は、古代から全く変わっていない。そのまんまだ。

ヒンドウー寺院の表の姿は、ヒマラヤを象ったものと言われている。

身体こそがエネルギーを、行為、そして無為にも変えるジェネレーターなのだ。

使いこなせば、自由自在。

使わなければ、もったいない。

 もし、身体がなければ、私はない。

さすれば、無さえも無い。

無を認識出来れば、私は居る、という事だからだ。


 人間、詰まり、ホモ・サピエンスが、直立して、今の様に”人”になったのは、二本足歩行故にである。脊椎が真っすぐ垂直方向に伸び、脳が発達し、手の指が器用になり、視野が広がり、火を使い、今に至っているんだからね。

その背景には、”重力”という、生命、生活に多大な影響を及ぼす、不思議な力が働いている。

それは、誰のものでもあり、誰のものでもない。重力は、実に民主的だ。

 木の葉が木の枝から落ちるのも、木の葉が、重力に引っ張られている、と見ると、より現実感がある。

落ちる、と引っ張られる、というのでは、ニュアンスが、全く違うだろう? 

コンセプト次第で、私達も、全てのものも、地球の中心、コアに収束している事が認識出来るだろう? 


 一寸、イマージン、重力がもし絶たれたとしたら、あらゆるモノゴトが雲散霧消してしまう。まるで雲霧仁左江門だ。小説や映画なら、面白くていいけど、現実に、もしそうなったら、宇宙服が必要になるね。

まさに重力、グレイトである。

 重力の働きが、ボールの動きに作用して、”放物線”という軌道を生む結果を生み出す。どんなに速い球を投げる、プロのピッチャーでも、完全に直線状に球が走る事はない。どんな豪速球も、直球でも、放物線を描いて、ボールがキャッチャーに届く。そこから、自然界に直線はない、という事にも気づくだろう。重力が働いている事を、無視出来ない。水平線でさえ、ほんの僅かだが、カーブして見える。地球が丸い星だからだ。どんなモノでも、重力には逆らえない。重力は選り好みをしない。


 直線とは,人間の都合で造った理論,理想、そして”英知”でもある事なのにも、気づく。文明は直線のパワーに支えられて、何千年もの永きに渡って、自然を切り開いて来た

モノゴトを、整理整頓する為の智慧、理想と重なった面がある。人のマインドと言って良いかもしれない。反面、やりすぎると怖いよねー。

それは、諸刃の剣だ。


 海の中でも、山の中でも、ジャングルでも、自然の中に深く入り込んで行くと、人工的なモノが無い。直線がない、というのは、大いなる安らぎである。ホッとする。小学校で、キャッチボールを始めて、集中してくると、周囲のカタチに惑わされなくなる。それは新たな発見だった。それが無心だったのだ。


 ボールを投げる時、人差し指と中指でスナップを利かせ、ボールに回転を与えると、ボールの軌道を変化させたり、スピードを上げたり、放物線が奇麗に描く事が出来,球にも力が乗ってくる。

又、回転を与えないナックルボールの様な球種では,こっちの方は、どうも上手くは投げられなかったが、ボールがふわふわ、ゆらゆらとして相手に届く。

バッターも、キャッチャーも、ボールの軌道を見極めにくい。

ボールの回転力、そしてその妙と言っても良い、変化球という、影の力も知った。

須く、モノゴトには、カゲ(光と蔭、陰陽の両方をさす)がある。

だから面白い。


 普段、無意識で気がつかないが、地球が自転しながら、公転している事とも、重なってくる。今も、そうなんだよ。そう、宇宙船地球号だよ、ここは。

 丸いボール、そしてボールの放物線と遊ぶ事は、最初のマナビでもあったかも知れない。ある種の、充実感と愉しみであった。自転車のバランスをとる事や,カーブを上手く曲がる事、水泳を覚える事、とも何処か共通する事があった。理屈よりも要は実践だ。やってみなくては、智慧も工夫も浮かんで来ない。


 水泳でも、泳いでいるうちに、水に乗ってくる、という感覚がある。身体が軽くなり、スピードも乗り、身体の一部が浮き上がってしまう。

気持ちがいいなんてモノじゃない。面白い。

そのコツ、ツボと言うか、フィットネスが判ると、面白くて、夢中になってしまう。

ピッチャーのボールも、臨海速度を超えると、グーンと伸びてくる感じがする。力の有る球になる。そんな球を投げられる様になると、野球も面白い。マラソンだって,ランナーズ・ハイという、特別な意識レベルに入る事がある。これらは、タントラの原理、クンダリーニ・シャクティーの働きだ。


 無心であればある程、力はやって来易い。水は低きに流れる、というだろう。  そして、エナジーが循環し始める。

 地球に地軸が有る様に、ボールを投げる時、身体の”軸”が如何に極まるか、体重移動が如何に上手くいくかで、プロセス全体が、良く判る。

バランスをとる事自体が、愉しみとなった。流れる様に事が運ぶと気持ちがよい。

やがて,”軸”から”芯”と言うものを知り,そこから,”信”が、自ずと生じて来る。

軸そして芯から”信”が生まれた。少しずつ、自信が育って来るのだ。そう言った事は、すべて腹から伝わってくる。決して頭からの情報ではないのだ。

運動とは、遅かろうが、速かろうが、須く、宇宙的。コスミック・ダンスなのだ。

スローなのがいいね。

 これは大きな愉しみとなった。身体も柔軟に対応出来、とっさの判断力、運動神経も育ってくる。シナジーというう力、相乗効果だ。

センタリング、中心が意識出来る様になると、内なる自己を知る事が出来る様になり、自我の雑音に惑わされる事も無くなる。外の雑音も気にならなくなる。

そして、自分が自分に満足出来れば、意識の状態が、周囲に開放的な雰囲気をもたらす様になる。生きる事そのものが楽しくなってくる。

生きる意味が、はっきり分かってくる。

そんな視点で、世界や環境を見ているのが、最近の愉しみだ。


 生がポジティヴになってくれば、簡素に暮らす能力も付いてくる。余計なものがいらなくなるのだ。自由と豊かさを楽しみ、時間にも空間にもユトリが出来るというものだ。子供の頃、遊んでる最中に、そんな感じを持った事がある人も多い筈だ。そして、どんな行為の中でも、バランスを回復する能力、”復元力”が付いてくる。サーフィンやモーターサイクルの様だが、予期せぬ出来事にも、即、対応出来るようになってくる。


 ボールを受ける時と、投げる時とでは、使う精神作用や、筋肉の使い方も違う。例えば、凸レンズを使って,火をおこすとき、レンズの片側で,全面で日の光を受け、反対側で、その光を収束して、熱の力を生み出す。レンズの裏と表で、全く違う事を同時にやっている。陰陽の道理が重要な要素となる。慣れて来て、無心で、投げあっているうちに、身体も、精神も、何故かほぐれて来て、リラックスできる事に気がついた。道理に沿って、身体を動かして、揺らぎや捻りの要素を加えと、”自ずと”、そこにパラダイスが出現する。春が来れば、草は、ひとりでに生えてくる。


 身体と精神との、微妙な関係にも気がつき、新たな妙味と愉しみを知った。恰も、その”放物線ごっこ”と言う、単純な遊びが,なにか面白く、まるで虹の様にも見えてきたのだ。子供の成長が速いのは、よく遊ぶから、学ぶ事も多いからだ。どんな行為でも、或は無為でも、遊びでも、内観できるようになれば、須く、面白いものだ。”遊び”が、”学び”になっていった。


 学び(マナビ)とは、昔の日本では、以前にも述べた事があるが、『真奈霊(マナビ)という、スピリット』と、交流する事であったそうな。そこから、『学び、に問う事、即ち、”学問”』というものが生まれたそうな。本来、学問とは、スピリチュアルな事、そして遊びでもあったのだ。ここにも、マナビというカミは、いるようだ。今でも、よく遊んでいる。

 知識を、只、頭で学ぶというより、身体を通して実体験する事が,何よりの,マナビであった。それは今も続いている。知識だけでは,意味が無い。智慧にはならないのだ。生きるコツを知らなければ、意味が無い。実にならないし、納得しない。無用の長物になってしまう。もったいないよね。普段、それほど意識しなかった重力が、ボールを投げる事で,それが、あらゆるものに働きかける、という事が実感できた。同時に様々な動きの中で,重力を意識しつつ、重力にそって、しかも重力を越える事が出来、ある種の”軽やかさ”を覚えた。


 昔のタオイストの言葉がある。


”有為によって,無為に到れば,モノゴトは,了解される”


 普通の日本語にすると、納得する。腑に落ちる、という意味だ。自分の中の深い部分が、“共鳴し”そして納得する。実質(サブスタンス)が、なによりも大事なのだよ。あらゆる力と有効性、効果は、タオ、宇宙原理に従う事で、モノゴトが如何に起こるかを知る事になる。コツを知るのはこのときだ。自分の中で、何かがはじけたり、身体が軽くなったり、内側に、稲妻を見たりもする。運動は、須く、双極性、対極性、波動、捻れと反発、融合、傾き、そして円運動、螺旋運動から起こってくる。もし、万物が、固定的に安定していたら、何の変化も、発展も、多様性の可能性も無くなってしまう。少なくと生きていない。死んでいる。


 動きは、傾きや、ずれ、ギャップから起こってくるのだ。それが生のエッセンスだ。それが無いと、生は成り立たない。ボクサーや剣術使い、お相撲さんが、わざと隙を見せて、相手を誘発するのはこの為だ。格闘技には共通しているね。あらゆる力は、知ろうと知るまいと、この静と動の原理との協力関係から生まれる。静の中の動き、動の中の静、そこで、始めて、生の意味を知る事が出来る。モノゴトの究極の意味が、言葉で把握出来ない事、言葉を越えている事を知る。何れ判るよ。でも、これは、自分の自身の宝と言ってもいいが、モノではないし、かたちもない。人にとられる事も無い。説明出来なくても、実際に、起こす事が出来れば、判っていれば、それで良いのだ。実に簡単な事が、言葉やコンピューターで説明すると、やたらと入り組んで、複雑になってしまう。次元やモードが違うからだ。論理は、とてつもなく、遠回りしなければならない。


 だが、生は,頭を、論理を越えている。そして、身体は、頭より賢い。”目の前にあるものが、そのものだ”、といっても、判らない人もいる。おかしな話だ。只、単純に、素直にみれば良いのに、理論や観念、損得、損得で、世界を見ようとする人は、なんであれ、モノゴトを複雑にして歪めてしまう。正しくあろうとしてる、のかも知れないが、そういう努力や姿勢が、歪めてしまうのだ。

 前述した事だが、重力に関心を持つと、全てのもの,人、動物、植物、カタチのあるものは,全て,地球の中心、コアに収束している事が良く判る。例外が無いというのも凄い。何の差別も無い。地球の裏側でも、逆さになって,地上に立って、中心のコアに収束している。不思議だよね。

 子供の頃、宇宙空間の彼方から、地球を見ている,と言う”ヴィジョン”が観えた。恰も,それは、自分を眺めている様でもあった。丁度、トゲトゲのウニみたいな地球が、中空に浮かんでいる様に観えたのだ。月から撮った地球の写真を見たのは、その大分後だった。地球を観る為に、月にいったんだなと思った。


 ボールは、何故丸いのか? それとも、丸いから、ボールというのだろうか? アメリカン・フットボールやラグビーに使うライスボールは、丸くはないけどね。投げるのにコツが要るんだよ、あれは。実利面から言うと、野球のボールは、掌に馴染むカタチであること、しかも、投げ易く、受け易くする為でもあり、又、地面に落ちた時、バウンドがスムースに行くからだ。弾んだ先の予想が計算し易いという事がある。丸いカタチは、坂の上に置けば,下に向けて転がって行く。水は低きに流れる。と、同じ道理だ。状況に対して,柔軟性が高い。仏教では真如(シュンニャータ、無、ゼロ)を表す、と言われる。全ての始まりだが、充足、満ちるといった感覚的な深い意味が在る。無だけが、満ちる可能性がある。


 宇宙の力は,円形を通じて働くから、であろう。だから、四角い部屋のまん中に、別に、畳の部屋ではなくともいいが、竹ひごと和紙でできた、シンプルな丸い提灯の明かりがあると、部屋中が和むだろう? ある種の力が生じるだろう? 形の力だ。満月の様な? ムーン・リヴァーは、河幅が、一マイル以上もある大河、だそうだから,誰しも潤うよね。


 日本人だけがそう感じる訳ではない。今では、ヨーロッパでも、タイやラオスでも、ヴェトナムでも、提灯の明かりは、珍しくなくなって来ている。星の数はうんざりする程沢山あるけど,とりあえず,地球では,月は一つだからね。木星には月が沢山あるそうだけど、一寸、遠いやね。南の暑い国では、殊更、月に人気が集まるのは、当たり前だ。満月を国旗のデザインにしている、ラオスなんかは,フルムーンの日は、何時もお祭りになる。フルムーン・パーティだね。


 赤ん坊は、その姿全体が丸みを帯びている。子猫も子犬も、ひよこや、そして小熊もコアラもパンダも丸い。丸いものが、動き回ると、それだけで,周囲は和らげられる。地球も,月も,星も、太陽も丸い。モノには、丸くなろうとする性質があるようだ。卵だって、微妙にいいカタチをしている。素晴らしい、と思うよ。そして、星の軌道も丸い、或は、楕円形だ。季節の巡りも,大きな円を描くではないか?


 円は、やがて、心のカタチにもなってくる。気に入った、丸い石でも、巻貝でも、ポケットに入れて、たまに手で握ると、何故だか、心が落ち着く。無心に、ストーン出来るのだ。

エナジーが戻って来て、アット・ホームになれるのだ。 

 お金と言う、非常に物質的なものにも、円と言う単位,通貨にスピリチュアルな意味を持たせたている。ここの所が面白い。円とはよく考えたものだ。よく循環しそうな、名前なんだけどね… 隅々迄、廻る様になるといい。


 ”形”には、何らかの作用性、詰まり、それなりの力がある。その力を引き出すには、その”力の性質”を良く知らねばならない。カタチ、という言葉の、カタの語源は、偏り、片寄り、カタヨリ、と言う言葉から来た言葉らしいが、”方向性を持ったエナジー、力が、カタチに固定されている”、と言った意味合いであると言う。勾玉がいい例だ。日本、中国、イランでは、よく見かけるし、タイやインド、ラオス、マレーシアでは、カシューナッツを良く食べる。カシューナッツをから煎りして、チキン、空芯菜、竹の子、有り合わせの野菜でもいいが、スパイシーに炒めると、実に美味い。最高の”ぶっかけ飯”が出来る。


 一方、チというトーン(言霊、ワード・スピリット)は,イノチ、乳、血,地、智、地、そして、チッチーのチッ、と言った言葉、生命力、智力,地を意味する様だ。優れたカタチには、スピリットが宿る、というのはそう言う意味である。カタチがスピリットを生み出すのだ。詰まり、人の心や、もっと深い深層に迄届くとそこで、カタチと共鳴するんだよ。

無論、人それぞれ好みも感性も違うだろうが、力のあるカタチとはいいものだ。

トースターでも、やかんでも、急須でも、陶磁器も、茶碗でも、バイクでも、車でも、カタチが気に入ると、使う事、持っている事、そのものが楽しい。豊かな気持ちに成れるなおだ。1950年代の、アメリカ製のトースター、カタチが良かったね。

只、役に立てばいいじゃ,詰まらんだろう。シナジー、相乗効果が起きないからだ。エナジーの働きを無視してるんだよ。視力が無いのかな? 

生を知らないのかな、・・・・。

使い込んでいるうちに、馴染んでくると、カタチにフィット出来ると、モノにも魂が入って来るからだ。

 

スピリット(精神)&マター(物質)。


 カタチの作用性は,普段,以外と気づかないものかも知れないが,それ故、気づけば、作用性の効果は、思いの外、相対的に強くなって来るのかも知れない。イマジネーションやスピリットを喚起するカタチもある。昔から、人は自然の石に、神秘の力を見て来たのだ。

昔の、無垢で素朴な人にとって、石は、カタチの始まりだったのだろう。

今でも、聖なる石、は世界中に数多い。

今、住んでいる島にも沢山、いい石がある。

ここは、天然の石庭、ストーン・ガーデンだ。

石は宗教さえも生んだ。昔の神託(オラクル)は、石を通じて伝わった。

今でも、らんちき騒ぎを繰り返す騒々しい世界からは、見えない所で、世界中で、実質的に働いているのだ。それは、途轍もなく大きな世界なのだ。

 やがて、神秘的なアプローチと、科学、物理学とが出会う事も有りそうだ。

先日、マレーシアからの帰り、汽車の中であった、ロシア人で、タイの大学で教鞭をとっている、未だ若い物理学の教授が、その事を離していた。

何時か、タントラの事を教えろ、と頼まれてしまった。

アジアは、そう言う意味で、宝庫でもあるのだ。


 音楽にだって、そしてスポーツにも、様式や形式がある。言語は、カタチの代表選手かも知れない。日本語、英語、フランス語、チベット語、イタリア語、ヒンドウー語、ベンガル語、タミール語、マラティー、タイ語、ネパーリ、ブータン、中国、マレー語、インドネシア、アボリジニ、アラビア語、ヘブライ語… 沢山あるが、そこに、文字も、カタチも、様式も、そして文化も、文明も、全て言葉を通じて生まれた。

 イスやテーブルにも、使う為の有効なカタチ、気脳的なカタチがある。用途に応じた、使いやすさが、今では、目標となっている。

船のカタチも、飛行機の翼も、蒸気機関車のカタチも機能を生かす為のカタチだ。どれもそれなりの役割に合った、素晴らしいカタチをしている。

プロペラやスクリューは、風や波を機能的、有効に生み出す、捻れと傾きの力だす為のカタチになってる。

当たり前の話だが、自転車や自動車のタイヤの円周が丸いのは,スムースに、上手く転がり易いカタチになっている。蜘蛛の巣は素晴らしいデザインだ。ローマの街、ニューデリーの街、パリもそうだね、を、上から見れば、まるで蜘蛛の巣を繋ぎあわせたかの様だ。今、ニューデリーは、生まれ変わろうとしていて、大工事の真っ最中の筈だ。世界一の都になるという事だ。期待しよう。

動物、鳥、魚、虫達からも、人はカタチを真似して来た。

彼らは文明の師匠となってしまった。

 バイクや自転車のタイヤを輪切りにして、断面が丸いのは、車体を傾けて、上手くカーブを曲がる事が出来る様にする為だ。自動車ならその必要がない。傾けないからね。当たり前だが、四角かったり,六角形では,うまく廻らない。一歩渦って、八角形でも、十角形でもだめなんだ。丸くなくっちゃ駄目なんだ。

 以前、ホンダの造形室に居た人に聞いたんだけど、当時、ホンダ・ドリーム、確かC-70だったか、そんな名前だった、という”角形”のデザインを取り入れたバイクがヒットしていた時代の事だ。本田宗一郎ファウンダーが、”今度は,タイヤも四角いのにして見よう”、と言って,実際に、断面が四角いタイヤ、の試作品迄造らせたそうな。そして、実際に,社長自ら、試乗しようとしたらしい。現実には,走行不能なんだけどね。”こりゃいかん!”と言って、すぐに、あきらめたそうだ。まず実践。文明とは、トライ&エラーの積み重ねなんだね。


 皿のカタチは、窪んで、平らかである事が、力、即ち,機能になるわけだし、お茶やコーヒーを楽しむには、液体を入れる為に、充分な深みがあって、口は丸い方が、旨い茶がのめそうだ。まあ、口が四角い茶碗では、美味くなさそうだがね。私はお茶好きだが、やはり、お茶は丸く飲みたい。


 単純に、丸いカタチには、どんな意味が在るのだろうか? 円的直感と言ったらいいだろうか、空性、精神作用にも深く影響する。チベット仏教のマンダラ(円という意味)は、須く、円形を使ったものが多い。中でも、円と四角と十文字を組み合わせているモノが多い。ヒンドウー教のヤントラ(神秘図形)にも、蓮の花をカタチどった円形、それとエナジーを象徴する,上向き,下向きの三角形が使われる。無、そして存在をを象徴する、”ビンドウー”、点,ポイント、”•”、今流行の言葉だと、”ドット”、イタリア語の”プント”だね、がある。


 古代中国の、陰陽のデザインは,バランス、陰陽の和を象徴している。

それぞれ、無形のもの、精神、エナジー、智慧と、物質生、肉体との調和を図るものだ。そこから、新たな力、気付きの力、が生じてくるからだ。

 円形とは、古来から、完成されたカタチ、究極のカタチ、と捉えられている。

見た目にも、ポジティブで、安心できる、”英知”のカタチだ。魂に共鳴するのかも知れない。なにか、ホッとする。

中心から、周辺迄は,何処をとっても等距離である。

何処にも角がないから、平和な感じがして、安心する。

抵抗感がないのがいい。使い方にも依るが、環境が和らいで来る。

円周には、始めも終わりもない。何処も始まりであり,何処も終わりでありうる。

円形を通して,宇宙と,世界と交流できる、という感性も生じてくる。

円形は、カタヨリがない分、生命力,生きている感覚、宇宙の気、スピリットを、受け易くするからだろう。

円には、全宇宙と共鳴する、という感覚がある。

気持ちが、素直に、ポジティブになれば、気合いも入ってくる。

生のまっただ中に居るという、安心感がある。不安も不満もない。今がそうだ。


 立体的に丸いもの,球形を手にすると、意識が水を実感するのは、地球が水の惑星だからだろうか? それとも、カタチや、性質の柔らかさだろうか? 

柔よく剛を制す、ということかな。

円が,目的や対象を生む動き、になるには、円は”螺旋”となるだろう。

そして渦になる。台風、ハリケーン、竜巻,皆そうだろう。気圧のギャップから生じるのは、皆良く知っている。

一般的には、螺旋は、円に時間の要素が加わったもの、と理解されているようだ。

階段なんかにもよく使われる。蛇の蜷局(とぐろ)も、コイルスプリングも螺旋だし、巻貝も螺旋状に発展したカタチだね。


 一方、直線(二点間の最短距離を結んだもの)、垂直線、水平線、斜めの線。又、直線を組み合わせた、三角や四角いカタチには、又、違った力がある。五角形、六角形、八角形等は,ヴァリーエーションだ。五角形については、ヤントラ(ヒンドウー神秘図形)では、”☆”、つまり星型で表され、人の自然体を表す、のだと言う。瞑想の入口となっている。スターゲイトという言葉がぴったりだね。空、風、火、水。地の五つの要素を表している事は一目瞭然だ。まずそこから始めるからなのだろう。


 タントラと関係が深い文化のチベットでは、”私”という言葉と、数字の”五”とは、共に、”ンガー”と言って、同音なのである。日本語の、”悟り”、と言う文字の姿も、心という偏に、五と口とで出来ている文字だ。

 空の星のカタチは、星の光の、見え方で、様々な星のカタチのカタチに、見えるが、実際は、丸い。☆のカタチは、先に述べた様に、瞑想の第一歩となる図形とされている。何千年も前に、インドで発見されたカタチだそうな。五角形はそのヴァリエーションと考えても良いだろう。用途に応じて、人のマインドから生まれた。


 太陽、月のカタチから生まれた円、球、そして山と谷を表す三角形、これらは自然から生まれた。それ以外は、全て、直線を含めて、人のマインドから生まれた。

 上向きの三角形は、山を模している。感覚的には、宇宙に気が発していく形、動きを起こす働きがある。

下向きの三角形は、Vゾーン、谷、オープンで、受容性、静寂、安心を促すカタチだ。

エジプトや中米のピラミッドは、上向きの三角形を安定させる為に、底辺の四角を組み合わせている。上から見れば、ピラミッドも、ジャワのボロブドールも四角形だ。

円については、チベットの国旗にあるように、太陽を神格化する事で、暗に、補っていたのかも知れない。

チベットの国旗は、ヒマラヤと太陽を重ね、二匹の神獣(スノー・ライオン、文殊菩薩、即ち、マンジュシュリの乗り物)を配置している。英知と生命力、そして、仏教の智慧、を象徴している。太陽の○と放射状のライン、ヒマラヤの△、外形の長方形、二匹の神獣、これには守護の意味がある。

私の部屋の壁にも張ってある。

カタチも、五色の色も、見ていて、安定していて、気持ちがよいからだ。


 上向きの三角形は、円と違って,なにか、それだけでは、不完全さがあり、カタヨリと言うカタチの語源の様な意味が、そのままの姿であるかの様だ。

それが動きだ。変化、動き、エナジーを喚起する。

ヒンドウーのヤントラ(神秘図形)には,円と上向き、下向きの三角形とを、様々に組み合わせたものが多い。

必ず、ビンドウー(点)がうってあるが。


 三という数字は,スピリットを象徴している。シヴァ神のトリシュールがその象徴となっている。ヒンドウーでは、三は,宇宙の三界、そして三神を象徴している。インドで起こり、イスラムで発達したと言われる、数秘学に依ると、二は英知(直線)、四は資料、五は自然、を象徴していると言う。ゼロと一とは、最も重要だが、ここでは、もう説明の必要はないだろう。


 ヒンドウーの主だった神々は三味一体だ。ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌ。それらの神性が,この世を維持し、変化を起こし、隠された力を表面化させるのだ、と言われている。サッカーのシンボル、三本足のカラスもスピリットを象徴している。日本においては、三角形には、日、火の性質があるとされる。これは地域によって異なるかも知れない。円は天、即ち、空、それと水だろう。日本では、天はあめと呼び、雨とも重なった、二つの意味を持つらしい。おむすびのカタチは三角だ。元気が出る。集中力、動きを象徴する。


 富士山は、水平に見れば、見事な三角形だし、飛行機で上から見れば、円錐形でもある。山は、三次元だから、立体的に見ると、面白い。仏教のストウーパ(仏塔)も上から見ると、円錐形だが、横から見ると、曲線を使った三角形、放物線状のラインで出来ている。だが、稜線は、直線ではないのだ。微妙に、φ(ファイ、黄金分割比率、1,6:1)が使われている。北斎の描いた富士もそうだね。ミャンマー、タイ、ラオス,カンボジア、それぞれ特徴があって、微妙に違う。この辺が面白い。ネパール、チベット、ブータンとなると、大分、姿を異にする。


 ヒマラヤは、沢山の三角形の集合体、背景の藍色の深いトーンの空、カタチや海抜は兎も角、人の意識に変化を起こす不思議な力、があるのだ。ヒマラヤは、昔からシヴァ神の御神体となっている。近くにいるだけで、身体を貫く様な不思議な力を感じる。それは目を閉じていても感じられる。何度行っても、ヒマラヤには感動する。


 普通,健康な人の60兆も在ると言われる細胞が、およそ7年周期で、全て入れ替わるそうだ。病人は別だよ。細胞の働きがなくなると、死ぬ事になる。当たり前の話だ。ところが、ヒマラヤに行くと、1週間程で、全細胞が入れ替わってしまうと言われるのだ。


 今年の五月に、1ヶ月程、カンチェンジュンガの近くに、行ってきたばかりだが、身体も心も、入れ替わって新しくなった気がするのだ。眠りこけている意識、が、再び目覚めるからなのだろう。3−4年に一度位は行く様にしている。

ボン教、仏教、ヒンドウー教、共通の聖地となっているが、問題は何も無い。最近は、イスラムの人も、ヒマラヤやガンガーにもやってくるそうだ。


 四角の意味するものは,囲い,仕切り、結界、区別、三角形の”動き”に対し、”安定性、不動性’を表している。ボクシング、ムエタイのリング,野球のダイアモンド、テニスコート、都会のビルディング、平安京、平城京、畳、扉、窓、額、タンス、引き出し、本… 色々あるね、きりがない。

 四角は、”結界、区別といった、資料的な意味”に関わっている。特別な領域にもする。家がそうだろう? 其所にあるもの,あることを、整理したり、整えたり、使い易く、治める。きちっとさせる為だ。だから、資料という意味が在る。物質的で、地の性質がある。


 四角のカタチの、隠れた意味は、”慈しみ”、である、とは、知り合いの、あるタオイストの意見。”慈”、無くして文明なし。と言う事らしい。

慈も、四角いカタチも、どちらも、文明には無くてはならないようだ。


 大分以前、タミル・ナドウー州(南インド),マドライのホテルに泊まってた時、中級のホテルだが、昼下がりの午後、メイドさんが、ロビーを掃除していた。天井には、大きな扇風機が、ゆるゆるとまわっている。猫があくびしながら、自分のイスに、お腹をだして、仰向けにひっくり返っている。安心しきっている。シャンティー、シャンティー!(平穏、平和)

 受付のオッチャンは、ロビーのイスで、すやすや。たまに、泊まり客が、出て行ったり、戻って来たり… 昼下がりは、何処も長閑なのだ。


 バスの時間待ちで、新聞を読みながら、チャイを飲んでいた。メイドさん一人だけが働いていた。モップに水を浸して、掃除していた。そして、四角い部屋を、丸く拭いていた。目を合わすと、照れくさそうに笑っていた。人はやはり、丸いのが好きなんだ。いや、単に、横着なのかもしれない。四角い部屋の隅の部分だけ薄汚れがのこっていた。猫も行かないし、人も届かない所だ。部屋のカタチにもよるけど、丸い部屋のほうがいいのかな? アッチャー.ヘイ! まあ、いいか。そのインドが、今や、経済成長率、世界一の国だってんだから、おそれ、入谷の鬼子母神。


“メイドさん 四角い部屋を 丸く拭き”


 ラオスやタイ、ブータンには、伝統的な織物に、”菱形”、それに螺旋や稲妻を模したと思われる、ジグザグ模様の、手織りの織物が多い。昔から、好きで、いくつか、それぞれの国のものを持っている。些細なコレクションだがね。

この地域には、素晴らしいものが沢山有る。

織物に興味のある方なら、うなづかれる事だろう。宝庫なのだ。


 これらの織物には、ある種のスピリットを感じさせる。ネイティヴ・アメリカンとも繋がるスピリットのカタチだ。菱形は四角のヴァリエーションだが、山と谷という二種類の三角形の組み合わせともとれる。第三の目やシャクティーを感じさせるのだ。ヒンドウー・仏教国ならではの、伝統工芸だ。

いいものを見ると、つい欲しくなってしまう。

それだけ魅力が有るという事だ。日本でも、源氏の血筋には、菱形を家紋にしている家も多いのだ、と聞いた。私の部屋にも、20年前にヴィエンチャンで手に入れた、昔のラオスの織物が、今も壁にかかっている。


 家の屋根の三角形、切り妻型の屋根は,雨を避けて、水を上手く下に流す為だが,タイやラオスには、三角形を四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つも使った錐形状に組み合わせた屋根、時には、何重にも重ねた屋根もよく見かける。

間を上手く造ってあって、涼しい。

見た目にも美しい。村の友好、親睦の場となっているようだ。又、村の東屋にもなっていて、誰しもが出入り自由になっている所が多い。草で葺いた屋根がいいね。窓にガラスなんて入れないし、大きく開いているから、風通しが良い。

エアコンもいらないし。


 話を戻そう、上から見れば,基礎部分は、四角い壁で仕切られた結界、安定感のある四角形。角張ったものは、手の平で握りにくい。

手の平に、フィットしない。これも特徴だが、欠点ではない。只フィットしないだけだ。機能を生かせば、使い道は多いはずだ。

家具もシステムキッチンも、食卓のテーブルも、四角を前提にしているものが多い。安定感があって、転がりにくい、四角い部屋にフィットし易いからだ。


 カタチとは、漠然とした世界から、切り取ったもの。人の目を覚まし、意識に変化を起こすもの。穏やかにするもの。力が生じるもの。色々なカタチが有る。写真や絵もそうだね。カタチが無ければ、心も無い。古来から、スピリットや魂に感応するカタチが、聖なるカタチとなったのだ。いまでは、便利さを目的にしたカタチ、使い易いカタチ、周囲をを和ませる力を持ったカタチ、力のあるカタチは様々だ。我々はカタチに囲まれて生きている。カタチの作用が、ありとあらゆる所で働き、人もそれらを上手く組み合わせて、生を楽しんでいる。それが文化でもあり、文明でもあるのだ。


 カタチを通して、自分に気づくという、瞑想技法(タントラ)がある。私は、よく使うのだが、試してみると良い。実に簡単だ。茶碗でも、ツボでもティーカップでも、カタチがあるものなら何でも良い。出来れば、柄とか色の無いもの、気にならないもの、普段使っているものがいい。

 何かを見てみる。只、何時もとは違う視点で見てみよう。ここが肝心だ。ゲシュタルトを変えるのだ。カタチの全体を観る様にする。何処の国で造られたかとか、縁や部分、材質、色、柄、ブランド等は、意に介さずに、全体のカタチ、シルエットだけを見る様にする。丁度デッサンするときの様に。断片的に、カタチの部分や色、柄を見ない様にする。それだけだ。実に簡単だ。

その物の物質的な部分は、素材であって、カタチとは、精神的、スピリチュアルな部分なのに気づく事だろう。只、カタチの全体だけを見続ければ良い。

 モノのカタチを知覚すると、背後の空間、詰まり、ネガのスペース、対象のモノの無い部分にも気づくだろう。やがて、ネガのスペースが残って、対象のモノを意識しなくなる事がある。そのうち、対象物の方が、ネガスペースになる。知覚の変換が起きる。見え方だけでなく、周囲の感覚が違って感じられるかも知れない。あとは、言わぬが花、なんだけれど・・・・。


 詰まり、自分自身に気づく様になるのだ。モノを見ると言う、外に向かっていたエナジーが、背後の空間、ネガのスペースに意識が触れると、エナジーは反転して、戻ってくる。家に帰ってくる。エナジーの、帰る家は、自分しか無いだろう。そして、その時、無心になっている事に気づく、

詰まり、自己に気づくのだ。その上、今迄気づかなかった、エナジーの働きを知る事が出来る。微細に丁寧に感じてみる、ここが、又、肝心だ。

エナジーを循環させると言う、一人キャッチボールの様な、タントラの技法だ。

デッサンのテクニックでもある。そして、これも、サイレント・ジョイの一つなんだよ。ハイテックだろう? もし始めての体験だったら、アメイジング、素晴らしい体験になる筈だ。リフレッシュするだろう?


 様々な形を組み合わせて、その形の力を生かしながら、人は生活する。そう言う意味で、形あるものが、身の回りに沢山ある。様々な形がある。それだけ世界が広がってくる。


 カタチの力を、意識的に用いるのが、儀式であろう。相撲の仕切り、土俵入り、四角に囲まれた丸い土俵、天井から吊るした三角形の切り妻の屋根。タイやラオスの民家みたいだ。田舎に行くと、今でも、伊勢神宮みたいな家を良く見る。なくなって欲しくない。昔は、釣り屋根ではなく、柱があったのだ。屋根のカタチには、文化的、宗教的な意味合いがある。様々な要素が組み合わさって、それが、味わいを深めるエキゾティックな付加価値、雰囲気、魅力になっている。様々な形が合わさって、一体、一如となって相互依存しながら、働いている。伝統のチエだね。ファンタスティック!

 儀式とは言えないが、日本の旅館も、特別な様式だ。同じ、泊まる、という目的でも、善し悪しではなく、ホテルとは全く違う。それぞれ特徴がある。両方とも良い。時には、日本の旅館もいいね。華道、茶道、香道、書道、柔道、ムエタイ、空手、クンフー、剣道、道と付くものは、芸術もそうだが、その辺りが、ディープで面白い。


○、△、□。

ハヴァ・ナイス・デイ! 

2009年10月28日水曜日

知のオデッセイ Part4

 形の無いものへの信頼は、もう一方の、形ある物、名の在るものの領域、ものの世界を否定している訳ではない。何も否定していない。無形のものへの信頼は、かえって、形あるもの、ものや名の在るものを、より深く、理解できる様になる。見え方が変われば、理解度も深くなる。ものごとが面白くなってくる。ものを通した、深みも判ってくる。
 一つは世界、モノ、形、量、もう一つは、隠れているもの、精神、無、カミ。無論、その両者を繋ぐ事も出来る。実際は、もう繋がってるけどね。そう言う意味では、今、とは面白い時代なのだ。

 繋ぐ(つなぐ)、という言葉は、サンスクリット語で「ヨーガ」と言う。5000年来の古語が、今では、国際語になってしまっている。ヨーガや指圧を、色々試しているうちに、何時のまにか、繋がってしまう。
 タントラは全てを受け入れる。その受容性から、本物の、寛ぎが生じて来る。リラックスできれば、自分と言う機能も、生き生きとして来る。特に心と身体がね、それに意欲というプラス・アルファがわいて来る…
 生がポジティヴになってくる。
 タオのエナジーは、有から無へ、無から有へと、千変万化して変化し続ける。自分の全宇宙が、暫くするうちに、ハーモニックに循環し始める事がある。前にも述べたが、そのエナジーを、タオの人達は、”テー(徳)”と言う。タオのエナジーの働きのことを言う。働かせようではないか。それを引き出すには、慈しみ、そして、無為、余計な事をしない、という事かな。

 テーは、インドやチベットでは、クンダリーニ・ヨーガに於ける、”シャクティー”だ。大きな意味で『愛』と言ってもいいかも知れない。自律神経もシャンとしてくる。『慈』と言った方が、現実的には、判りいいかな。それは行為ではない。それは存在の状態であって、愛憎でも、執着でも、感情でも、所有でも、努力でもない。行為ではないのだ。静かな心の状態、慈しみある、愛ある状況にある、という事を言う。情という事ではないから、クールと言ってもいい。それは、非常に微細なエネルギー現象、波動なのだ。そして、それは、常に、今、に起こる。明日も、昨日もない。今、だけに起こる。それは、”魂の呼吸”。それを通じて、魂は生き生きとし、活動する様になる。物質世界では、最も重要なエッセンスなのかも知れない。

 さて、宇宙次元に入ると,様々な繋がりが、観えて来る。それを『経略、ナディー』と言う。ナディーには、ツボと呼ばれるジャンクションがある。ハリや指圧、タイやインドのマッサージは、そのツボの科学だ。タントラの科学から起こって、発展して来た。元気がなくなったら、テー(徳)、シャクティーの力を、ツボの知識と合わせて、使えば良い。それに、軽い運動がいいんだよ。手軽なのがいい。

 ダイビング(タンクなんか背負わなくたって、シュノーケリングで充分楽しめる)とか、ジョギングとか、ヨーガ、振動、屈伸、体操、木登り、自転車、歩くだけでもいい。何事もそうだけど、コツが解ると,何でも面白くなって来るものだ。身体は、自分の乗り物だから、大事にしたい。健康とは,しなやかで、バネがあって、柔らかくある事だ。大事にすれば、死ぬ迄使える。これは、冗談ではないよ、死ぬ前に、身体が駄目になっちゃう人も少なくないんだから。

 過去を振り返ってみれば、アっという間の、出来事なんだけど、過去は記憶でしかない。赤ん坊の頃の記憶迄、以外と残っているものなんだ。未来は、これからも延々と続いて行く、果てしなく… 過去を背負っている人は別にして、過去はノスタルジーはあるだろうが、現実には存在しない。今は今でしかない。だが、伝統と言う質は在る。忘れてはならないものがある、というのは、伝統文化の美点であろう。

 未来は、未だだが、延々と永く続いていく。少なくとも、前向きに生きていたいのなら、未来は重要だ。そして、その未来の為には、『今』と言う次元が,最も大切だ。私は、今、に生きているのが好きなタイプだが、人それぞれだからね。伝統には,それなりの意味と智慧の深みがある。今、に生かしたらいいではないか。新しいものなら,何でも良いとは限らない。様式や形式、流行やファッション、それらは、どうでも良いが、実質的に良いものなら、もっと生かしていったらいい。
ものごとの、深い意味が解らないうちは,心はいたずらに惑わされるばかりだ。表層ばかりが、反応して、暴れちゃうんだ。それは、根が欠けているからなんだ。バンヤンの樹は、根に特徴があるだろう。南の国の人なら誰でも知ってる。今は,情報過多の時代だ。だから、無とか空なんて無視されてしまう。モノゴトを、鵜呑みにしてて、ただかっ込んで食っている、見たいだ。知識ばかり、安直に集めたって、不安をあおり、競争を激化するばかりだ。

 海に潜ってみると、表層が多少荒れていても、深みに入ると、静かでゆったりとしてるんだ。珊瑚の森にでも入ったら、何事もない。魚が、恐れも無く口で突っつきにくる。箱ふぐとかハゼの仲間はとくにかわいい。海の中は、見た目だけではない。別世界だ。波動も違うし、感性も爽やかになってくる。一度、潜ってご覧な。いい瞑想になるんだから。生まれ変わった様な気分になる。健康にもいいしね。新たな認識や、ヴィジョンが生まれるんだ。

同様に、一度、原点に立ち戻れば、深い所が納得する。
腹が据わって、納得する事、安心して、寛ぐ事が大切だ。ゆるりと行けばいいんだよ。もし、自分の中に、散乱、混沌が起こったら,避けようとしたり,押さえつけたり、逃げるのではなく、ただ、意識をそこに向ける。気が散っている時は、呼吸も乱れているものだ。暫く呼吸を見守るといい。それから散乱を、無心に見つめてみる。それだけでいい。暫くすると散乱は,自ずと去っていく。浅場で遊ぶ小魚も、大人になれば、深みに入って行くだろう?

 呼吸というものは、単に酸素呼吸だけに留まらず、呼吸によって、生命に内在する全てのものが入っている。プラーナと言う。呼吸法をプラーナヤーマと言う。それは、”生命の拡張”を意味している。プラーナとは生命を意味する。取り分け、ヨーガ、タオ、タントラでは、呼吸に関する様々な技法が有る。

 頭は使うもの、心は生きるもの、そして感じるもの、そして腹は坐るもの。さすれば、身体もついて来る。

"Sound mind, Sound body"(弾む心、響く身体)

 サウンド・グッド!

 ”道楽”というと、最近では、何となく、旗色の悪い言葉、になってしまったが、もともとは、仏教用語で『悟りの、楽しさ』を表現する言葉、なのだそうな。言葉も、一度本来のものに戻してみたいね。本来の面目に…
 
一度、語源に戻ると、言葉の深い意味が分かって来るんだ。そのギャップが面白い。見かけを追えば、源を見失う。根源に帰れば、意味を見いだす、ってところかな。

 夜明けとともに始まり,太陽が真っ赤になって水平線に沈み、辺りが暗くなる迄、青は様々な輝きや変化を見せる。サンセットを挟み,夜空にバトンを渡す。夜空は大きな寛ぎだ。夜無くして、昼間はない。涼しくなるし、月も星も素晴らしい。その背後の漆黒の闇。凄いね。月や星を輝かせている。昼間、星が見えないのは,その、背景の漆黒の闇がないからだ。明るすぎて、見えなくなっているのだ。闇なくして光なし。闇の御蔭で、月や星を見る事が出来る。そして夜空の全てが、現れてくる。

 そうそう,月と言えば、月に,水があるんだってね。
NASAが見つけたそうだよ。月の湖の様な所で、何かを落として実験したら,水しぶきが上がったそうだ。重力が少ないので、その水しぶきが、高くあがって、スローモーションの、白い打ち上げ花火のようだったね。その水、飲めるのかな?

 海の偉大さには、まず、海は一つであること。あちこちで、それぞれ、色々な名前がつているが、太平洋、日本海、インド洋、大西洋・・・・・、全て繋がっている。海は、最も低いところにある。その低さがいい。だから、全ての川を受け入れる事が出来る。謙虚さと受容性が、可能にしているのだ。老子曰く、“上善は、水のごとし”、そして、”水は低きに流れる”、と。真に優れたものは、低さを受け入れる”ゆとり”がある、と言う意味だ。そのユトリこそが、貴重な宝なのだ。だから、全ての川を受け入れられる。何千と言う、川も、大河も受け入れる。海は偉大なキングなのだ。

 もう一つは、海は、生命力の宝庫である。生き物は、海から生まれて来た。生命を、育て、生かす要素に満ちているのだ。だから海の近くにやってくると、兎に角、ホッとする。生き返る様な気がする。本来の我が家だからね。

 又、日本料理でも、中華、インド、タイ、ヴェトナム、イタリア、マレー、スペイン料理でも、様々なエキゾティックなスパイス、そして独特の料理法がある。そして、どの料理もおいしい。だが、料理の要となるのは、塩、そして塩加減なのだ。塩は、海のエッセンスなのだ。岩塩だって、昔、海だった所からしか出て来ない。人だけではなく、あらゆる動物も、水と塩なしでは生きて行けない。
 ビーチの内側は兎も角、近くに寺院はおろか、祠のようなものすらない。日本やインドなら、普通、人が何かしらの印、注連縄(しめなわ)や祠や寺院をつくる筈なのだが… タートー・ロックという、自然に出来た10mもある、巨大な”リンガ(男根)”が、一つあるだけで,どんな飾りも必要としていない。このロックは、見る角度に依って、ブッダの立像に見えたり、巨大なシヴァ・リンガに見えたりする。二通りに見えるのが、ミソだ。知る人ぞ知る、だが、通人は皆知っている。無論、地元の人は、承知の介。だが、岬の突端迄、行くには道が無く、泳いでいくか、船を出すかして、岬の突端迄行かないと、全体は見えないのだ。そこ迄泳いで行くと、さすがに潮流は速い。だが、この境目付近で、ダイヴすると面白い。釣り師や、ダイバーなら判るよね。

 海側から見ると、浜辺には、椰子の木陰、環境の自然にフィットした小粋なコテージや洒落たバンガロー達。海を見下ろす、山の上には高級ホテル、洒落たカフェも、ちらほら・・・・・。人々は、風を感じながら,本を読んだり,音楽を聴いていたりしている。只,居るだけでも,素晴らしい。椰子の樹ってのは、風情があるねー。
 時々,泳いだり、ダイヴしたり、フリスビー投げあったり、バレーボールやサッカーしたり・・・・・家族ずれの人も多い。特に何かをしてはいない。水辺で遊び、楽にしている。時は流れているにせよ、何時しか、時間を感じなくなる。

センシ・パラディーゾ!


 パラダイスというのは、本来特別なものではない。天国でも、あの世でも、無論、地獄でもない。この地上でのことをいう。豊かな自然と、美しい景観があって、余り人工的なものがなく、自然そのままの在り方や姿を、阻害しなければいい。一番、重要なのは、心地よい事。日差しが見事で、寒くない事、寧ろ暑い方がいい。それにプラーナが濃い事かな。力はそこから生まれて来るんだよ。自然のエナジーと歓びとは、同義語だ。理屈も、能書きも要らない。ある意味で、ごく普通の事なんだ。そう言う所は、何処にあったっていいものだ。

 潮が引くと、真っ白な砂浜と海のトーンとが、美味くハーモナイズして、縞模ようとなってくる。そろそろサンセットが近い…、西の空が赤くなり始める。何処からとも無く聞こえてくる、パコ・デ・ルシア…、いいね… 水にはいろうか…、火照った身体に海の水が、甘く、冷たい…、やがて、水と一つになる。水に浮かんで、仰向けに浮いていると、空が赤くなって、上空に広がっている… タオ(道)が私を歩いて行く。

 赤から青の間には,色んな色があるんだね。身体も明るくに染まって来た、インディゴ、アズール、パープル,ピンク,オレンジ…、イエロー、ロッソ… ヴェラメンテ・ベッロだね。生き生きとして,雲一つない無辺の空間に広がっていく。心は澄み渡り、知覚力が冴え渡って来る。空即是色やね。
 やがて、内側にある一点、全ての色が出会う地点、腹が一番いいのだが、に収束すると、意識には、色だけが存在する。世界は消え去っていくかの様だ。やがて,いつしか色も消え去っていく。全ては、源泉に帰る。名のない領域に…

今日は,ビューティフルな一日だった。
ハヴァ ブレイク!
何か冷たいものがいいね、冷たいライム・ソーダかなんか…、
サムシング・クールな,何か…

2009年10月27日火曜日

知のオデッセイ Part3


 人間は、未知へ向かうと、何か、知らないもの知る、新たなものを知る、と言う現象が起こるので、その期待感で、ワクワクして来る。旅も、トレッキングも、ダイヴィングも、探求も、未知は常に新鮮だ。愉しみにしていた映画が公開されれば、ワクワクしてくる。これを発展させたり、工夫すれば、日々、常に新しくなる。何であれ、知りたい、と思う事は、人が生きようとする本能の現れ、の様である。考える、ということは、知らないから、閉ざして居る事、から起こって来る。知る事、が出来れば、考える必要はなくなってくるだろう?
 想像は、又、違う。想像力は、思考力同様に、誰でも持っている能力だ。それは、”ある姿勢、状況の中に入り込んで、その姿勢、状況が、あらかも現実のものになる程に深く入り込む”、という事だ。イマジネーション。想い描く事だ。善くも悪くも使えるが,私は、楽しく、面白く使う事にしている。

 自分を知るのは、難しい。自分とは、何か? 何故なら、知ろうとするもの自体を、知ろうってんだからね。矛盾してしまう。言語的にも、意味を失ってしまう。

 真実とは情報じゃない。知識じゃない。全く無関係だ。

いくら、情報を集めたって、ますます混乱するばかりだ。

真実、それは、譲渡が不能なのだ。

モノではないし、概念でもないから、盗めないし、たとえ、盗んでも意味が無い。

自分で実体験するしかない。真実とは、実体験した、”認識”なのだ。そして、真実は解放をもたらす。

そこからエナジーが湧いて来る。こういう特徴がある。だから自分自身で見いださなければ、意味が無い。他人のじゃ役に絶たないのだ。

あとは、言わぬが花(能の開祖、世阿弥の言葉)かな。

 一旦、空に深く見入る時,あらゆるものが消え失せてしまう。

理屈も、言語も何も成り立たない。

空の明晰さと一体になってしまう。空として、存在している。空っぽの部屋の様に。

出来れば、瞬きせずに、澄み切った蒼い空に見入ってみる。

爽快になる。

 空の中ではあらゆるものが消え失せる。マインドも消え失せる。

という概念も消える。限界がなくなってくる。無限になったのだ。

という、嘗ての古い枠組みが、自ずと、旧体制を維持できなくなってしまう。

空と同様に、広がりが生じてくる。

様式の無い現実、に遭遇する、それが、唯一の、本来の現実だ。

 禅師、曰く、

自分と言う山を越えない限り、タオ(道)は見えて来ない。

全ての宗教は、その点で一致する。

 雑念も恐怖も不安もない時、もし自分の内側に、無限の虚空、何も無い、無限の空間を感じられたら,人は、自然に静かに、安心し、そして自由になれる。そして、あらゆる活動は、その周辺に在る。

まあ、ドーナッツみたいなものだ。一寸、オールドファッションだがね。

 空は、時に、充満すると、途轍もないエネルギーを発揮する。

がらんどうから、エネルギーが発生する。

ヒンドウー寺院内部が,がらんどうなのは,その為だそうな。空の魔法だ。

無から有が生じる。面白いねー

 海の水は,どうして塩っぱいの?

シャケが住んでるからだよ。

立川談志の話だが,思いの外で,面白い。

 我々は、モノは役に立つと考えて暮らしている。

実際、その通りだ。大したものは持っていないが、それでも、色々なものの御蔭で、便利さをもらっている。

文明は素晴らしい。面白いものが、日々造られている。

 

 例えば、カップが空っぽでなかったら、何かで一杯になっていたら、コーヒーは注げない。カップは役には立たない。

役に立つには、カップの内側が、空っぽである事に、誰でも気づく筈だ。

カップの、受け入れる能力、が働いて、始めて、コーヒーを注ぐ事が出来る。

器とは窪んだ形だってことは,縄文時代から判っている。

さもないと役に立たないからね。

 生全体を受け入れる、という事は、中道を意味する。否定するという事は、極端に向かう、全体から分離する、という事なんだ。
何かでカップは一杯になっていて、コーヒーは注げないし,コ−ヒーも飲めない。生全体と信頼関係が出来れば、コーヒーも飲めるし、ユダネと言う次元に入って来る。生と”信頼関係”が生じてくる。ここの所が大事な旨味と言ったらいいのかな。ドルチェかな、それとも、アムリタ、甘露かな。中道にあれば、両翼を広げる事も出来る。極にあれば、一部分でしかない。一方だけ、片方だけじゃ,機能しないんだ。バランスの上からもね。鷲だって、両翼を広げて飛ぶんだから。右翼や左翼だけじゃ飛べないだろう? オール&エヴリシング、がいいね、私は。

 須く、能力とは、キャパシティ、許容、ゆとりから始まる。ゆとりが無いと、能力は働かない。玄徳は働かない。”空即是能”なのである。受け入れを可能にしているのは、ただ、空虚で、静かにしていること、にほかならない。他に何もしなくていい。無為と言ってもいい。今迄、映らなかったイメージが、心に湧いて来る事が在る。

 これは、仕事にだって、遊びにも、様々な事にも役立つ事だ。人の話を聞くにも、自分が空っぽの器になっていなければ、相手の話や注文は完璧に、聴く事は出来ないだろう? 

容量が無ければ、いくら勉強したって、知識は入って来れないだろう? そして,入って来たものを,消化しなければ、実にならない。賢い人は,何でもかんでも詰め込もうとはせず、まず,空っぽになる事を優先させるだろう。それをしっかり消化させる為だ。配慮はするが、限界も、可能な事も不可能な事も知っている。出来ない事は出来ないのだ。自己を知る人は、目立たないが、特に何も目指さず、無理がないのだ。それがスマートってものだ。

 真に空虚になれた時,人は満たされる

 これは、逆作用の法則だ。
物事が起こるにまかせ、無理に強制しない。無論、余計な事はしない。

例えば、物忘れして、名前を忘れたり、何かを無くしたりする事がある。のど元迄来ているのに・・・・、と言う事が良くある。

思い出そうとして,努力しようとすればする程、より不可能になってくる。

 あきらめて,その事を忘れてしまい,何か他の事に気を向ける。散歩でもいいし,音楽でもいい。テレビを見るのもいい。全てを忘れてしまった頃,暫くして、或は、数日して、突然,思い出す事がある。

無為、無努力が効を奏したのだ。

 人の在り方には二つある。まず、するという事。
そして、在ると言う事。この二つが人の在り方のほとんどを占めている。誰しもが、する事は得意な様だ。だが、しない事、あることの関しては、無能な人が多い。する事、行為、努力、そのように育てられて来たからだが、最も簡単で、易しい筈の、無為、無努力と言う事が、究めて、難しい事になってしまう。反面が無視されてしまうのだ。片方の面だけでしか生きていないのだ。これでは、鷲の様に飛ぶのは、絶対に無理なのだ。

 何故、のど元で止まるのかと言うと、エナジーは、丁度,首の辺りで,左右の位置を交代させるようになっているジャンクションがある。それ故,そこで止まってしまう事も、よくあるのだ。その状況、仕組みを現しているのが,シヴァ神の持つ,トリシュール(三叉の矛)なのだ。身体の右半身は左脳に、左半身は右脳に、反転する。ここの所がミソだね。

 春が来れば、草が自然に生えて来る様に、空性の理解から、自ずと”信頼”が起こって来る。無為の内に、世界が、一新した様に感じられる。信頼とは,信用、trust,ではない,信仰、faith,でもない。信念でもない。信じ込みでも、信じる事でもない。靴が足にフィットすれば,足の事は忘れるだろう? それが信頼だ。仏教徒が、神に付いて語らないのは,その為だ。

 無形への信頼が起こると、やがて、成長し、充実して来る。理性というものは、状況次第で、非常に役に立つし、なくては無いらないが、一方では馬鹿なもので、何故、如何に、と尋ねる。理性とは、疑いだ。決して、信頼しない。そう言う特徴がある。

 一方、信頼とは、疑いが無い、という状態だ。それは、無条件に、未知へと飛び込む事だ。理性的な人にとっては、難しい。だが、本当は、ここに本来の生がある。”問い”と言うものが、無いこと、それと疑念とでは、全く次元が違う。人は、その相反する矛盾を抱えて,生きている。だが、疑いが消えれば、理論も、論議も、頭もヘチマも、何も、必要無くなってしまう。簡単だ。本物の答え、というものは,問いがない時にやってくるものだ。

 信頼は、理知的(あたま)の働きとは違って、直感的洞察、感覚的(ハート、フィーリング)だが、信を知れば、力は発揮される。自信が付いて来るのだ。スポーツマンや、気合いや、心で生きてる人なら、判るかも知れない。隠さず、飾らず、素直に、無心で、ただ、自分が自分であれば良い。その在り方が、力を生む。自分の短所、弱さも認める事で、逆作用的に、長所も、力も現れてくる。

 在る瞑想家の言葉が有る。“頭に、耳をかすでない”と。頭は、必要な時に使えば良い。

2009年10月26日月曜日

知のオデッセイ Part2

 タオイズムに依ると、名前というものは、モノゴトが、となって現れると、名前が生じて来るのだ、と言う。そして、心が心であるのも、モノ故にである。モノやカタチがあって、始めて、心にも、カタチが出来てくる。原初というものは、面白い。

 タオという発想、そして、コンセプト、そのものが面白い。まず始めに,名前の無い領域があった。天地はそこから生まれたのだそうな。その天地から,数知れぬ名前が生まれた。だから、名前の無い領域、無の領域は、天地の産みの親、という事になる。
 
名前とは、物の上っ面にくっ付いている、只それだけの、服や飾り、自我や鎧の様なものなのだ。だが、名のあるものには,欲がくっ付く。欲とは、エナジーが何らかの対象に出会って物質化した、”モノ”なのだ。もとは無から生じたエナジーだ。欲がカタチを持つと、視界が閉ざされ、もの事の表面しか見えなくなってくる。善し悪しではなく、それが特徴なのだ。

 欲と言うものは、無ければ、生きて行けないから、程よく、欲に同化しないで、上手く使うのがコツだ。永年、使って,心や魂に迄、張り付いてしまっているかも知れないが、脱ぎ捨てれば、身軽になって、自由になれる。そこで初めて,リアリティーが観えてくる。まずは、一度、自分自身から、自由になること。自由とは、まず、健康である事だ。自由だから、健康で居られるのかも知れない。

 この世には、名のある領域と、名の無い領域とが、同じ源から出て、共存していると言う。そして、陽と陰、明と暗とが入り混ざって、混沌として、無限に広がっている。名の無い世界、無の世界は源であって、しかも広大なのだ。須く、創造と言うものは、混沌から生まれる。揺らぎ、カタヨリも重要だ。新たな自分が創造されるのは、自分の全てが混沌となって、始めて可能となる。”無”と言ったって、”何も無い”、という意味ではない。モノはいくらでもあるだろう。石器時代なら兎も角、この世はモノで一杯だ。まさに、ものものしい。寧ろ、”モノでないこと”,思いの外、と考えると、判りやすいかも知れない。

 現代人や、欧米人には,”無”と言う概念は判りにくいようだ。無と言う”モノ”にしかねない。だが、無はモノではない。無は、自己と宇宙との橋渡しをする技法、方便と捉えてもいいが、私には、”無”程、現実的なモノはない。 思考が無い時、意識が純粋になる。感性、知覚が冴えてくる。シャンブー! 思考や想いをいくら探っても、堂々巡り。じつに詰まらない。哲学とはそう言うモノだ。

思考や想い、信念、欲望に、自我に、縋って生きてる人にとっては、難題だ。

何か観念的なものに支配されてる人、錯乱している人は其れ以上に大変だ。

 だが、”無心”、に気づけば、それだけで、用意が整って来る。

最初の内は、壁を越えるのは、大変だ。習慣は中々落ちるものではない。

だが、何年も体験を繰り返しているうちに、たまたま、思いの外で、そこに居たりする。人は、思いに囚われて生きている習慣からか、思いの外には、以外と気が廻らない。無心とは、思いの外、思いが何も無い事だ。

 ”心は,無心から生ず”。柳生宗矩の言葉だそうだ。

その扉は、何時も直ぐ側にある。気づけば、簡単な事だ。

用意の出来てる人には,何時も開いている。

思考に囚われていた時には、見えなかったものが、観えてくる。曾ての自分は消え、新たな、大きなスペースとなっている自分が見つかる筈だ。

 

 自分の思い、思考、それが起こったら、それを止めたり、押さえつけたり、変えようとするのではなく、又、判断もせづ、その思考をそのまま働かせ、そして、只、眺めて見る。

眺めて、しかも、その思考、思いの対象に、同化しなければ、眺めている当事者は、無心になっている筈だ。

無心にならなければ、自分の思考の様子を観る事、”観照”というが、そんな事はできないからだ。自分の思考を、ただ、無心に眺められるだけでよい。

だが、一旦、名前の無い領域、無の領域に入った時、

気づけば、人は始めて、本物の生命力に繋がる事が、無為のうちに出来るようになる。最初のうちは、どぎまぎするかも知れないが、毎日、少しずつ試す様にすれば、やがて自在になれる。

このコツを知っておくと、実に有効だ。

エナジーの無駄使いが少なくなるし、イライラする事も少なくなる。

面倒な事には、無理なく無関心でいられるし、それに、明晰になれるし、力もついてくる。

 しっかりと、そのエナジーが身に付くと、本来、自然のエネルギーだから、そのパワー、生命力は、他人や社会に、引きずり回されなくなるのだ。

混沌とした世の中に居ても、何ものにも囚われず、心は自由になれる。

様々な、束縛から自由になれる。

 禅では、”本来の面目”という。

それは、生まれる前にもっていた、本来の顔、無垢と言う意味だ。

それは、”未知の記憶”といってもいいかもしれない。

マインドやエゴに、世間や欲望に乗っ取られる以前の自分、本当の自分の事だ。

老子は、その力を『玄徳』と言ったそうだ。

人の奥に在る、”全てを見通せる、深い力が働く事”、を言うのだそうだ。

シヴァの第三の目のようだ。

 この『玄』という言葉には、中国語では、”ゼン”と呼ぶらしいのだが、神秘も魅力も感じさせられる。

瞑想すれば、そこまで、ひとっ飛びだが、言語で説明すると、本を三冊位書かなければならなくなる。

玄は、普通には、黒、闇、奥、深淵と言う意味だが、タオイストでもある中国人の友人に聞くと、”明らか”、“明るい”、”光明”、それに”賢い”という、リアルな意味もあるそうな。

相反するものを統合しているような、宇宙的な文字だ。

その姿を見ると、細い糸が,天を突き抜けている様に見える。

何か、螺旋状に、上昇したり、下降する、自在なクンダリー二、そして生命の要、シルヴァーコードを思わせる。

ギリシャ神話のヘルメスが持っている、”カドケウス”と言う魔法の杖もその事を表している。それは、今では医療のシンボルにもなっている。

玄は、シンプルな言葉だが、深みと智慧、力を感じさせる。

  名の在る領域、つまり世間全般の見方のことだが,様式や形式があり,その上、いいとか,悪いとか,奇麗とか,汚いとかと、人の勝手な解釈や,判断、哲学、 都合や、損得、そして欲がくっ付き、物事の表面しか見えなくなり、真の視力(理解力)も無くなり、暗中模索となって、ストレスも疲労もたまってしまう、と 言う特徴がある。

いいも悪いも無い。それが、普段、我々が生きている領域だ。

 真のリアリティーは、どうしても無視されてしまう。

真実とは、ただ、在るに過ぎたい何か、遠い遥かの、モノになってしまう。

モノの世界に同化してしまう。

 真実とは,実に単純なものだ。寧ろ、普通といっていい。

普通とは、普遍性に通づる、と言う意味だ。平均的という意味ではない。

平均的なのは、むしろ普通じゃない。

真実を、言葉にするのは難しい。だが、”不二”がわかれば、理解する事は出来る。

何故なら、本来、私達の一部なんだから。

 丁寧に理解すれば、善は、悪があって、始めて、善と呼ばれる。

悪がなければ、善も成り立たない。

この世から、悪を一掃しようとおもったら、善をなくせば良い、という理屈にもなる。

光が在れば、闇も在る。どっちかだけでは成り立たない。

ものが、在る、と言うのも、無い、という事が在るから,生じてくるのだ。

片方だけでは成り立たない。

科学とか学問とかは、ものを分類、分析して扱い、分類や区別だけが進んで、人やもの同士の、有機的な繋がりをも喪失しようとしていた。過去の人間のj歴史は、この事につきる。なにか強力なものが現れると、人々は、用意に同化してしまうのだ。

それぞれ、適材適所ならいいのだが、全てをごっちゃにしたがる横着者が多いのだ。

 今はアクエリアス、水瓶座の時代、シヴァ神の時代といわれている。波動、情報と人権の時代だ。少しずつ、自然に戻って行く事だろう。未だ始まったばかりだ。
 物質があれば、当然、反物質も無い訳には行かないだろう。

科学に依れば、物質とは、”密度”の事だそうだ。で、反物質とは、空間に置ける穴、の様なものだそうだ。未だ理論上の話だろうが、言わば、無の穴だ。形は無いんだろうね、当然。
 科学、詰まり、物理学は,物質を探求すればする程、物質は消え、最終的には、エネルギーが残る事を発見した。それが、波動力学、そして量子力学だ。物質とは,現れに過ぎない,という結論を得た。

科学は、論理と実験に支えられている。

一方、インドの神秘家,瞑想家達、ウパニシャッドは、とうの昔に、エネルギーをより深く観照すれば、エネルギーは消え,意識だけが残る事を発見した。そして、それが最も深い核心だ。

宗教、芸術は、直感と洞察力を使い、そこをターゲットとしている。

詰まり、この宇宙は、三つの層で出来ている。物質、エナジー、意識。

人の体で言えば,まず,肉体、エナジー、そして意識。

人は、昔から三位一体なのだ。

 話を戻そう。対極に位置する反対物は、敵と言う訳ではない。

夜は、昼間の敵ではない。その逆も然り。

汝の敵を愛せよ,と言うではないか。

昼と夜、両者を包括すれば、一日になるだろう。

分割したり、分析したりしない。

区別があれば,天地は無限に離れて行く。

商売とか、区役所とか、図書館とか、細かい事の整理は分類したり、整理したりでいいと思うよ。

只、何でもかんでもと言うのは不味いよね。

 自分という存在の中に、全てを包括する。私という旧感覚は消え,”在る”と言う事だけが残る。それから全てを包括する。意識とは,丁度,鏡の様なものだ。鏡は,善し悪し、美醜を問わず,前にあるものを映し出す。太陽でも、月でも、ヒマラヤの満天の星でも・・・・・、見事な蓮の花も,牛の糞も,何の差別もない。鏡は文句を言わない。判断しない。裁判官ではない。あるがまま、そのままを映し出す。ヴィジョンのハイファイだ。相反する,或は、矛盾する立場同士が、一つになる。生という川は、その反対物同士の両岸の間をながれて両岸を潤すのだ。

     ”音が存在する。音が存在できるのは、無音があるからなのだ。”

 音楽には、必ず、無音の部分、間合い、休息の部分が在るだろう。

無音無くして、音楽は成り立たない。

そこからリズムも、メロディーも、ハーモニーも生まれ、生き生きとして来る。

無音が無かったら、音楽は成り立たない。

無音の部分が、音を生かしているのだ。音と無音とは,相互依存している。

華やかで騒々しい商店街も、深夜には、静かになる。

とっかかりは,滝の音なんかもいいし、波の音、鐘の音、ティベタンベル、弦楽器、シタール、タンブーラ、音叉・・・・・何でも良い。

 音とは、エナジーだ、波動だ。そして、音の余韻のあとに、無音の音(アナハッタ・ナーダ)が、聴こえるようになると、とても、気持ちが落ち着いてくる。

音がムヲンを引き立てるからだ。

アナハッタとは、”創られていない”、という意味だ。

詰まり、元々からあるという意味だ。それが、無音だ。それが宇宙の基盤なのだ。

そして、無音の存在故に、音にも厚みや深み、生命力が出て来るのだ。

 芭蕉の句がある。

“静けさや、岩にしみいる、蝉の声”

 静けさと、蝉の鳴き声、無音と蝉の声と言う、相反する状況の調和から、宇宙の広がりが観えてくる。蝉の声と言う、音を意識する事で、同時に、静けさが、際立ってくるではないか?

無音を基盤に、様々な音が、重なりあっている、と考えると、より自然な感じがする。

無音が基盤になると、街の騒音さえも、調和して来る様になってくる事すらある。

 疲労やストレスを感じたら,ここ、静けさに来ればいい。サイレンスには、底知れぬ力がある。

そして,エナジーが生じ、力が戻って来たら、蘇れば良いのだ。

興奮は、過ぎ去る欲望、ある種の緊張に名指しているが、命のエナジーは、永遠から湧きいずる泉のような性質がある。

タイには、独特の、泉の様な姿を見せる噴水のキットがある。適当な大きさの水瓶にセットする。電源を繋げれば、さらさらと泉がわき出すのだ。

何時かは欲しいなと思っていた。ベランダにでも置きたい。

 若い頃、バイクで海辺や、日本中の山の中の渓谷を、良く走り回った。

気に入った所に来て、バイクを止めると、その新たな世界の出現に、気がついた。

そしてそこは、海辺であったり、渓谷であったりした。水辺が殆どだった。水辺が雨期だったのだ。

自分の、サイレント・ジョイが見つかったのだ。

 今は、静かな時、オーディオから、静かに聴こえる、ジョン・マクラフリンのインド音楽、”シャクティー”、12弦ギターが、インクレディブル!

曲は”ジョイ”、ザキール・フセインのタブラが躍動し、ラクシミ・ナラヤン・シャンカールのヴァイオリンが凄い。

窓の外の庭からは、野鳥の声。日の光が緑に冴え渡り、マリーゴールド(金盞花)が笑っていて、木陰は静かに寛いでいる。

子猫のクック(空々)が、イスの上で眠っていて、屋根の上をリスがシャカシャカと、忙しく走り回っている。庭に居る、鶏やヤギの声、そしてそよ風が、部屋も身体も通り抜けて行く。

地元のおばちゃん達、おネーチャン達のお喋り。通りを走り去って行く、小型のバイク・・・、ポロポロポロポロ・・・・・。何事もない、たわいもない、普通の暮らし。

ところが、全然退屈等しない。素晴らしい!

あらゆるものが、無音の静けさに重なって、共鳴し、共振し、調和して、ナイスン・イージーに世界が出来上がっている。

最近、何とか、フィット出来る様になった様だ。

 光と闇は、決して闘わない。光と闇とは、外でも、内でも『相互依存』しているのだ。それが現実だ。例えば、デッサンする時、鉛筆で影をつける事、そして明暗のトーンを知覚する事、明度の多少で、光の部分が浮き上がってくる。カゲが光を浮き立たせている。ものが立体的、三次元の形であるのを知覚できる様になるのも、カゲの御蔭だ。

御陰さまで、楽しませてもらってます。

 明暗を通して、ものを解釈、認識する事は、素晴らしい。

 カゲ(蔭)という日本の言葉には、光とカゲの両方の意味がある、のだと言う。真理を、一語で表す言葉になっている。長い、という事は、短い、と言う比較対象が在って、始めて、その価値観が意味をなす。一本の棒があって、この棒は、長いか、短いかと言っても、比較対象が無ければ、答え様が無い、だろう?
 前は、後ろ、が在って始めて成り立つ言葉。後ろの無い前、ってのは有り得ないだろう? 何れも、単独では成り立たないのだ。高い,低い、上、下、暑い,寒い、無論どちらがいいと言う事は無い。両方とも良い。或は、善くも悪くもない。優劣は無い。程度の問題、そして状況だけだ。存在の世界とは、そう言うモノだ。相互依存で成り立ってるのだ。だから、行き過ぎた行為は、反対の結果を生み出す事にもなる。世界はそれであたふたしているみたいだね。
 この事を理解したら、生を受け入れたら、生の動きが、よく判る様になる。

闇には闇の美しさがあり,昼には昼の美しさがある。そして常に入れ替わっている。

もともと、比較のしようがない。両方あるんだから,両方とも楽しめば良い。

コインの裏表の様に、両方で一つなんだから。

そこで、『無選択の美』、と言うヴィジョンが観えてくる。

世界が、再発見できる筈だ。

 ニュートラルの無い、車やバイクは無いだろう? 人生にも,ニュートラルやオアシスは、生きる為には、必要なんだよ。さもないと続かない。身が持たない。人間は、生身で生きてるんだから、直ぐへたばってしまう。心で生きてるんだから。その為に、自然の中に、より深く入り込む事、それが私にとっての、自由になっている。時間の中にでも、休息やタイミングとして、空間にも,広がり、スペース、つまり、と言う事なんだよ。形のあるものでも、形の無いものでも可能なんだ。
 人のマインドというものは、言葉の集積だ。何をするにしろ,言葉、思考、思い込みがリードする。ところが、自己が存在するのは、実は言葉の向こう側なのだ。自己は、マインドや言葉の中にはいない。普通、人はマインドに焦点を合わせて、マインドと同化して、生きている。

この”同化こそが、『苦』”なのだ、と言われている。シヴァや仏陀が、とうの昔に、発見した事だ。

で,苦を苦にしない様にするには,自己は、マインドや言葉を使うものであって、同化してしまわない事が大切なのだ。

時折,マインドや言葉から、自己を分離するのがいい。

マインドや頭を働かせても、それを眺めていられれば良い。自分のマインドの特徴を知る事が出来る。

角が取れて、修正した方が良い所も観えてくるだろう? それがウイットネスだ。

自己は,マインドや言葉を、道具として使うものだが、自己が道具になってしまうのは問題だ。それでは、主客転倒だ。

 その認識は,認識そのものが技法(タントラ)になってしまうが、結果的に、マインドを、よりクリアにする効果がある様だ。根本的な治療にもなるね。

マインドは必要物だ、頭も知識も、生きる為には無くてはならない。

生きる為の”道具”としてなら、これ以上のものは無い、と言う意味だ。

包丁だって、人を傷つける事も出来るし、美味しい料理を作る事も出来る。

どう使うかは、使う人次第。

評価は、包丁にではなく、包丁の背後に居るもの、詰まり、包丁を使うもの、に向けられる。

 横道に一寸それたが、瞑想とは、マインドでないモノ、間合いを、一瞥する為にあるコツだ。無心になる為の方便と言ってもいい。

普段見えないモノを見る為の、技法(タントラ)、或は、無技法(禅)のことだ。

尤も、無技法も技法の一つなんだけどね。両方使えばいい。

様式や形式にこだわる必要は無いんだ。本来、個人的な、贅沢な、愉しみだからね。

例え、一瞬でも体験すれば、人は生まれ変わる。

意識は、無意識から目覚め、マインドは、よりクリアになる。

結果的に,頭も整ってくる。身体にも、生気がみなぎってくる。

ノー・ワリーズ!

 右足を前にだして、次に左足を・・・・・と、考えて歩く人はいないだろうが、

歩くにしても、自転車でも、作業をしていても、間を意識すると、行動や生活にリズムが出来てくる。 

リズムが生じてくると、何かいい。

楽しくなってくる。モノゴトが面白くなる。次元が、生き生きして来るだろう? 

思考が消えれば、世界は、もう変わっている筈だ。

愉しみとは、こんな具合に生まれてくるんだ。

『間』と言う,”無為”の時空間が,モノゴトの動きや働きを制御してるんだから。

 三遊亭円生と言う噺家の話芸を、今でも良く,i-potで聞くのだが、”絶妙な間合い”のセンスを、感じさせてくれる名人だ。

のり、調子、間合い、さげ、どれをとっても素晴らしい!

 間と言う、様々なモノゴトに応用の効く、時空間の智慧、それは、タントラ、タオ、そして禅のエッセンスなんだ。

文章にだって、段落、行間、間というものがある。

時間と空間、面白いね。そこに生きてるんだし、自分の世界、環境の事をもっと知ってもいいと思うよ。時間にも、空間にも、間が共通してる。大脳の左半球は、時間的に分析スロのの対し、右半球は、空間的に統合する、と言う特徴がある。

 浄化、禊、なら,ヒマラヤやガンガーがいいだろうし、安直に、近くの神社でもいいかもしれない。でも、暮らすのなら、話は別だ。

私には、穏やかな、この島の波動が、普通っぽくて、”心地よい”。

それは、心が地に着く事、アースする事なんだよ。

全てのモノ(物、霊)は、もとをたどれば、無から生じ、生まれて、変化しながら動いて、成長し、やがて無に帰っていく。

       

          食って寝て、自由気ままに、日々好日

 冬が無い所為か、南国故か、花は一年中,何かが咲いている。

ここは、全ての色に溢れている。どの色がどうのこうのとは言えないし、えこひいきも意味が無い。どれが一番とは言えない。どれもが一番なのだ。

だから、比較には意味が無い。

とは言っても、やはり好みというものはあるもので、それはしようがない。

それは頭の問題ではなく、心で感じるからだ。

人には個性も、そして心があるからだ。犬や猫、ヤギやクジャクだって判るよ。

 ここは、石にも花にも木にも、自然の鳥や爬虫類、白い瘤牛、犬や猫にも、一寸の虫にも、スピリットを認める所なのだ。その点に関しては、神道とヒンドウー教は、様式も異なり、地域が違い、温度差は多少あるものの、共通性があるね。共に自然崇拝の宗教であり、文化なのだ。南国だけに、虫達も元気がよい。ここには落葉樹も、針葉樹もない。枯れ葉を全く落とさないという事はないものの、ここの樹木は全て常緑樹なのだ。緑が島中を埋め尽くしている。島中がジャングルだ。

 インドネシアでの話だが、イスラム教のロンボク島と,直ぐ隣のヒンドウー教のバリ島との間には、宗教、すなわち、文化の違いとは別に、一見、眼には見えない、天然の境界線があるのをご存知だろうか? それは植物の種類が違うのだ。土壌の質が違う。だから、丁寧に、調べて見れば、違いはあるのだそうだ。ロンボク島は、ボルネオ、ニューギニアやオーストラリアに似た植物体系であるのに反して,バリ島は,インドネシアの本島、ジャワ、スマトラ,そしてマレー半島、タイ、インドとも共通の植物分布がある。
 丁度、糸魚川を境にして、東と西に分ける事になった、フォッサマグナの様でもある。尤も,ガジュマル(バンヤン、生命の樹、シヴァ神の聖樹)だけは、どちらの世界にも,股がって、繁っているのが不思議である。生命力、繁殖力が強いんだろうね。何処の国でも、聖樹となっている。行った事は無いが、日本でも、沖縄周辺の南の島には、ガジュマルが育っているそうだ。根に特徴の在る、生命力の強い、素晴らしい樹だ。

人生の 極意なるかも 常緑樹

 家々の庭のマンゴー、パパイヤ、バナナ、ココナッツが実を付けている。南国ならではの、生命力に溢れた豊かな環境に囲まれている。花弁や葉に溜まった朝露を、飲みにやって来る昆虫達。朝ともなるとは活気づく。様々な生を営む声が聞こえてくる。

 ワッタ・ビューティフル・デイ! 朝ならではの美しさがある。生命が輝いている。花も樹も笑っている。

 海は家からゆっくり歩いても10分くらい。距離にして800メートルくらいだ。島中が庭の様なものだが、人も動物も暮らす、自然の庭園だ。ここの波動にイン・チューンできれば、素晴らしい。数ヶ月もいれば、充分、フィットできる。特に用も無く、閑な時は、10分で行ける所を、道端で手巻きのタバコをゆっくり巻いて一服したり、デーツ(ナツメヤシの実)を買ったり、カフェが開いてたら、モーニング・ティーを一杯。道草を食いながら、30〜40分、時間をかけて、ゆるりと楽しむ。

 いつもと同じ道を歩いても,新鮮な気持ちで眺めれば、それは常に新しい道になる。その日が、新しい一日になる。クリエイティヴだろう? 新鮮な目である為には,ただ、意識が目覚めていれば良い。言葉の上では簡単だが,実際は簡単ではないかもしれない。良く知っているもの、当たり前のものが、新しい。まるで、幻でもあるかの様に、素晴らしく見える事がある。そんな時は、とても充実した時なのだ。

 実際,目覚めていれば、何一つ、生き生きとしていないものはない。空が蒼く晴渡っている時、空に見入っていると、音もさせずに、スーッと一羽の鷲が滑空して、青い視界に入って来る事が、何度かあった。それは素敵な歓びだ。思わず、我を忘れ、全てを忘れ、見とれてしまう。世界は,静けさと、蒼い空と,滑空する鷲だけになる。他には何もない。暑い日差しが,裸の腕や首筋に心地よい。凱風快晴、そのステージに、一羽の鷲が滑空する。只、それだけで、アメイジング!

 島に何羽か居る、大きな鷲が、南国の日の光を浴びて、真っ青な空を背景に、黄金色に輝く翼を大きく広げ、海辺の方に向かって、ゆったりと滑空する。

見ているだけで、気持ちよい。

次第に大きな円を描き出す。その飛翔の優雅さに引き込まれてしまう。殆ど翼を動かさずに滑空する。ほんの僅か、微調整をするだけだ。気流を感じて、それを捕まえて、只、それに乗って滑空するんだね。スカイ・サーフィンだ。

 殆ど無為で、無努力の内に、事が起こっている。飛ぶ、というよりも、浮かんでいる、というのがいい。名人技だね。ネイティヴ・アメリカンならずとも,スピリットに反応する。

アリゾナ、イエロー・ストーン、メキシコ、ヒマラヤ、イタリア、モロッコ、インド、オーストラリアでも、よく鷲の滑空を見るのが好きだった。

暫くは、その余韻すらも永く続いた。

鷲が居る所には、心地よい力、波動がある。鷲は良い場所を知っている様だ。

この国のシンボルは、ガルーダ(鷲)、だから、誰もが鷲が好きなのだ。

 この島には、犬、猫は無論の事、鷲や水鳥、山奥には鹿も居るらしい。

様々な野鳥、鹿、リス、ヤモリ。

人が飼っているものには、クジャク、瘤牛、ヤギ、鶏、それに水牛はいるが、雀とカラス、というヒマラヤにさえ居る、いわば何処にでもいる鳥達ががいない。

30センチ近くの、ムカデの大きいのや、蜂、地蜂、鼠、小さな蛇、小型のトカゲ、4〜50センチもあるヤモリは居るが、大きな蛇(アナコンダ)、毒蛇は見ない。

蜂にもさされた事はない。この環境ににフィットしているからかもね。

 以前,バンコックのマンホールの隙間から、首を出しているアナコンダを見たけどね。我が家には、40cm近い、大ヤモリ(昼間は冷蔵庫の裏にじっとしている)を筆頭に、10cm程の小僧達が10匹程住んでいる。夜中になると,そそくさと外に餌探しに出かける。生き餌しか食ベない様だ。虫とか、蝿とか、大きいのでは鼠とかだ。

島には、毒蛇もサソリも毒虫もいないし、海にクラゲもいない。

ウニやなまこは居るけどね。浅瀬の水の中を歩く時、踏まない様にしないと・・・・。

つまり、特に危険な動物がいない。


 肉食の動物は、鷲と水鳥、白鷺だが、魚が主食である。人や家畜に危険はない。そして、皆、仲が良い。即ち、互いの領域を侵さない。不思議な感じさえする程、ここでは当たり前なのだ。動物達も、皆,ブッディスト(仏教徒)なのかね。鶏もクジャクも、犬や猫に襲われる事も無く、庭を歩き回っている。犬や猫は遠巻きにして眺めている。クジャクが側に来ると,すーっと道を開ける。もう貫禄だね。近所にいる、うちの筋向かいに住んでいるクジャクは,道路を渡って、うちの庭にも遊びにやって来る。道路は無論、動物優先だ。塀なんて野暮なものは無いから、無論、出入り自由。

 寒い所では、可哀想だけど、庭にクジャクがいるってのはいいね。彼らは、ミミズか好きな様だ。ときどき、部屋のなかをのぞきにやってくる。興味あるのかな? 声をかけると、集中して、何かを感じ取ろうとする。気品があって、立ち振る舞いもクールでスマート。まるで、王族の様だ。

 空はものではないが、また空程、不思議なものもない。余り短なりすぎて、見過ごしてしまうかも知れないが、空に見入る頃には,もう既に空に入っている。

空は,モノでないし、対象ではないから、思考を越えて、意識に直結してくるのだと思う。やがて、頭の天辺の天頂から、尾てい骨迄、脊髄の中が、ツーツーになってしまう。これを”真髄”って言うんだろうな。

 最近は、海の中に良く入るが、子供の頃から,空には魅せられ続けて来た。

だから、空と、宇宙と、どう遊ぶかを良く知っているつもりだ。

一人で楽しんでいても、それは、決して孤独なのではない。

寧ろ、充実している、楽しんでいる。

只、単独なだけなのだ。時々、友人とも泳ぐけどね。

だが、孤独と単独、これには大きな違いがある。

水に潜るのは同じでも、ダイヴィングするのと、沈没するのとは、全然違うだろう?

 孤独なのは、存在していないからであり、単独なのは、存在しているからなのだ。

考えるのではなく、心で、骨の髄で感じ、身体で感じる、自分の存在全体で感じる。

そうすると、新たな、ダイナミックな、色々な事に気づく事が出来る。

あらゆるものに、閉じていないからだ。

座っていたら、座っているイス、座布団の感触、素足の感触、風、水、太陽が身体に触れる感触、循環するエナジー、呼吸、心臓の音、血行 そこには様々な波動が、しかもあらゆるものが、共鳴して、自分の内外に、波打っている。

まさに、サウンデリア、波動の世界だ。

先入観を持たずに、気付きを深めれば、扉は開いている筈だ。そして、存在に繋がるという事は、生気のジェネレーターにもなるのだ。

シヴァ派に限らずブッダ派もタオの人も、当然気づいている。

区別等消えてしまう。

 これは何処でも出来る。

バスや汽車に乗っているときも、車やバイクを運転しているときも、無論、ダイヴィングも、自転車でも、散歩でも、寝ていても、座っていても、”存在”、と言う事を、あるがままに感じようとすると、絶えず起こっている事が判る。

今迄、全く気づかなかった事、思いの外が、如何に多いかが良く判る。

”存在”を意識するようになると、世界は、この上なく”生き生き”としたものに観えてくる。クリエイティヴとは、そう言う事だ。

 空とは空間、頭の上にも、足の下にも、尻の下、身体の中にも”空”はある。

対象は全てその空の中に在る。

空は一つしかない。

空は全てを包み込む。地球だって、太陽や月だって、全ての星をも包こんでしまう。

空に外側はない。凄いねー。

空はものではないが、空より大きなものはない。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)曰く、一なるものを知って、人は全てを知る。そして一を知る為には、無、は欠かせない。それが扉となるからだ。”無なくして一は無い。闇なくして光なし、である。無はやがて、一つ、になって来る。光と蔭が入れ替わる。
 全てと、一つ、そして無とは、言語上、全く別物だし、正反対の意味もあるのだが、生に於いては、同じもの、共存している事を意味する。ここの所が、不思議で面白い。頭では、理屈が通らないが、意識では良く判る。

 タントラに依ると、様々な,姿形は、それぞれ分離している。無は無であり,一は一だ。それが,二元性の世界だ。外見上、問題ない。数学だって役に立つ。ところが、シヴァ曰く、”真理に於いては,姿形は、他の姿形と共存する”。自分の意識と、自分の周囲、全ての意識が、この意識に依って出来ている。

無も,一も,全ても同じ一つの意識、生命の意識に共存している。

他人や動物も共鳴する事がある。

一つの意識。

だから、言語化したり、定義付けしたら、錯覚が生まれてしまう事になる。

そこが生の凄い所だ。生は理論を、頭を越えている。

 『知るという現象』は、”何かに就いて考える”という事ではない。全く違う。

何かを知る時、知る、と言う機能を使って知るのだが、知識はこの機能に負っている。

タントラでは、『存在の中に、深く入り込んで、直に知る』、実体験という意味で、知る事は全く、考える事でも、哲学でもない。

 気づいた事があるだろうか? 知る、という事は、自分の内側にある、疑問、不安、不満、何かこわばったもの、固いものが溶け出す為の、治療力なのだ。

 メディテイションとメディシン、メディカルとは、語源が共通している、という事をご存知か? シヴァは、アーユルヴェーダ医学、瞑想、ヨーガ、タントラ、音楽、舞踊を生み出して、人々に伝えたと言われている。 考える、という事は,現にあるものを見ていない、という状況だ。又、何にせよ、頭で知る事が出来ると思っている人は,病気と言ってもいい。タオを知れば,そして、意識の目覚めをしれば、この病から抜け出る事が出来る。普通の意味で,知識とは借り物だ。時には重荷にもなってしまう。だが、認識は、理解は、自分である事の開花だ。認識のみが、その人自身を自由にする。認識の体験は宝となる。だが、他の人の認識では、そうはいかない。真実は解放をもたらす。だが他の人の認識では駄目なんだ。意味が無い。

2009年10月25日日曜日

知のオデッセイ Part1

 ここは、日本の遥か西南の方角にあたる、タイ王国のタイ湾に浮かぶ、タオ島の最南端、しかもタートー・ベイと呼ばれる湾である。“タ”と言うトーンが、四つも重なって、まるで“タづくし”みたいだが、ディープなタイの中でも、殊更、”ディーパーなゾーン”と言われている所だ。ダイヴィング・スポットだから、ディープなのは当たり前だ。

 タオ島は、タイ語で、コー・タオ、”亀の島”。タオは、亀、という意味だが,中国語のタオ(道)と思ってやってくる欧米の旅行者もいる様だ。別に問題ない。タオイズムは,中国本土では,既に200年前に終わったそうだが,禅やタントラと共に、ニューエイジを生きる知恵として,欧米では,早くは20世紀初頭、特に1970年代頃から、知られた存在になっていて、知的な原理、道理として、今に繋がっている。

 “タ”という“トーン(言霊)については、日本の言霊学に依ると,日月星の力、即ち”宇宙の力”を融合したものとされ、宇宙的な力、そして、暗に、治める、という意味があるのだそうな。宇宙的な、凄い力があるんだね。

 ”というトーンは、力の在る聖音という事になる。サンスクリット語だが、タターガタは,“風の如く着たり,風の如く去る”、と言う意味だが、これは、ゴータマ・ブッダの事を表現しているそうだ。タタータと言うと,仏教では,”如”と訳されている様だ。あるがまま、と言った意味だ。ターラとは、リズムの事だ。太鼓のタ、タブラのタ、ともにリズムを司る。創造性、スピリット、エナジーを鼓舞するのだ。

 タン、タン、タタン、タン,タタン、タン,タン… ほらっ、ウェイカップ、ゲタップ…、ライド・オン!…

 文字に注目すれば、平仮名の
は、の草書体が源だそうな。又、カタカナのは、という文字から来ているのだという。そうか、草加、越谷、千住の先か…、なるほどね。漢字の田の字は、フィールド、地域、領域を表すのだと言う。○に十文字だと,占星術では,地球のマークだ。九州の島津家の紋所でもあるし,アメリカ・インディアンのメディスン・ホイールでもある。上に旗を重ねてあるが、イタリアのランチアという自動車の、ブランドマークにもなっている。それに、チベットのマンダラにも似ている。タイ語だと、”ターニ”という言葉がそうだ、地域、領域を表す。ウドン・ターニ,スラ・ターニ、デュシ・ターニ…

 言葉というものは、複雑で色々難しいけど、それぞれの文化が反映していて、いや、言葉、文字は、文化そのものだから、面白い。文化も、文明も、文字から起こって来たからだ。”文”と言う言葉は、重さこそ感じないが、深いのだ。言葉の果ての、その先迄、届いてしまう。

太多田たーン!

 ここは、小さな島、無論、モノが有り余っていると言う事はないし、寧ろ、何も無い島だが、自然、長閑という言葉がぴったりの、特別、何事もない島だ。ネオンも無いし,3階以上の建物も無い。台風も来ないし、珊瑚礁に囲まれているので、波も無ければ、津波もないし、地震も無い。自然のリズムに合わせて、スローに、生きていかれる。生気と調和していかれる。多大な無駄も無い。それが何よりの、ナイ・ナイ島だ。あるのは、長閑さ、自由と静けさ、それにそよ風が、何よりも素晴らしい。
 ここには、所謂、寒く、暗い冬というものがない。南国だから、当然だ。ここの季節は、“ホット、ホッター、ホッテスト”の三つで成り立っている。詰まり、常夏の島だ。最も涼しい、ホットシーズンは、10月頃から、2月頃迄。11月、12月には、よく雨が降るようになって来る。海も荒れがちになる。その代わり、一日の最高気温が30度を越すのは、少なくなって来る。涼しい。ホットがクールなんだね。
 今は10月の終わりだけど、いいね。空は真っ青だし、気温も穏やか、昼過ぎに、30度位になるのかな? 晴れた日はいい。独特の薫りがあって、チャイで酔ってしまいそう。それに海辺はいいね。ジャングルの緑が濃いのと、海からのそよ風が凄くいいから、40度を越す事は、まず無い。長く暮らしていると、ここはいい。

 三月、四月になれば、もっと暑くなり、蝉時雨が始まる。日本の、”ひぐらし”という蝉の、何か物悲しさを感じさせる、風情の在る歌声や、やたらとうるさいアブラゼミのジージーと言う合唱とは異質のコーラスだ。姿形も違う、何と言う蝉かは判らないが、シャーシャーシャーという、蝉の合唱が島中にうねり始める。様々な廳、様々なトンボ達も飛び始める。赤とんぼが沢山いる。
 古代の日本では、トンボを、”秋津”と呼び、秋の実りの収穫を象徴する、”聖なる虫”で、ヤマト以前の古(いにしえ)には、日本の国名であったそうな。害虫を食べ、五穀豊穣の守り神であった由。聖なる虫には、他にもエジプトのスカラベ(黄金虫)がいた。虫だってカミに成れるのだ。一寸の虫にも、五分の魂。

 以前、タイ本土のジャングルで、見た事も無い、オニヤンマとも銀ヤンマとも違う、割と大きな、”黄金色のトンボ”を見た事があった。ムカシトンボの生き残りなのかな? ほんの一瞬だった所為か、もっと近くで、じっくり見たかった。15cm以上もあったようだった。今度、又、タイやマレーシア、ボルネオのジャングルにでも行ったら、又、会えるかも知れない。

長閑さや、肩に寛ぐ、赤とんぼ

 道に沿って、家々の軒下に吊るされた、色とりどりの蘭。カカラの花。ブーゲンビリアに、蓮の花。バナナの花にハイビスカス、スパイダー・リリー、名も知れない、生命力豊かな、艶やかに咲き競う南国の花達。実際、名前等どうでも良い。花だって自分に名前があるなんて知る由もない。びっくり,下谷の高徳寺…、名前って何!
 枕(イントロ、前書き)は、この辺にして、今回はタオ(道)の話から、知のオデッセイに出かけてみよう。

 タオの面白いのは,”無い事”をテーマにして、人と宇宙の相互作用を説く、宇宙哲学になっている所だ。私が知ったのは、10代半ばの頃だった。”無の思想”として、仏教が空を基盤にしている事とも、オーヴァーラップする。禅は、インドから来た仏教と、中国のタオ(道)とが融合して出来たのをご存知だろうか?

 無が無ければ、有もない。先ずは、”無い事の豊かさ”を楽しんで見よう。さすれば,モノの世界、有る事の世界、所謂、世間も面白くなってくる。
ゼロが無ければ、あらゆる数字が意味を失ってしまう。ゼロの存在があって、始めて、他の数字が生きて来るのだ。

 古代中国のタオのマスター、呂祖師曰く

”それ自ら存在するものを、タオ(道)と言う”

 タオ、或はダオ(ともいう)を一言で説明するのは難しい、森羅万象に当てはまるからだ。だが、この説明は当を得ていて、素晴らしい!

”タオは一つ。タオには,本来、名前も無ければ,形も無い”

と付け加えている。宇宙原理の様なものだ。

 心を空っぽにして、今、起こっている事に、深く気づく事だ。要は、ストーン出来ればいいのだ。先入観を持たない事、観念を持たない事、静寂、無為(余計な事をしない事)、そして”気づき”である。新しい世界に参入するには、他に道はない。無論、その事を知らなくても人は成長し、面白みや愉しみは限られてしまうが、無意識のまま生きて行ける。が、貴重な能力に欠けているという事だ。

 タオは、天地を産み、天地は万物を生み出す。だが、意のままに、掘り進んでも、タオに出会う事はない。この生み出された、万物を動かす力を、テー(徳)と言う。テーは、あらゆるものを養い、育て、形を作る。創造性だ。無論、無理矢理ではなく、自然の力だ。タオ(道)とテー(徳)は、所謂、日本語で言う所の、道徳ではない。社会道徳、法律、倫理でもない。
 無論、エナジーは、ものではない。そして、テーとは、深く根源的なものだ。それは、あらゆるものや宇宙に内在する力の事なんだ。無論、人の中にも内在する。タオが身に付けば,テーは、いずれ育ってくる。望混ざれ、されば、与えられん。
 それは大変な力なんだけど、興奮や高ぶりとは無縁である。目立たず、柔らかで、途切れのないエナジーの流れ。そして、威張ったり、支配したりはしない。だから無理がない。そのエナジーを知る事が、智慧だし、愉しみでもあるし、その力を増やす事が、幸せの源なのだろう。

2008年4月21日月曜日

サイレント・ジョイ2 間合いの時空間

 ベランダ(veranda)とは、バンガロー、カーキ(土)、ピジャマ(パジャマ)、ジャンガル(ジャングル)と同様に、ヒンドウー語である(前記事「間の力」参照)。既に世界語化していて、それが、どういうものだかは,誰でもご存知と思う。

 本来は、ヤシの葉や麦わらで葺いた屋根、もしくは庇(ひさし)があって、バンガロー、或は母屋の軒を延ばして、しかも壁が無く、簡単な間仕切りとなる低い柵が巡らされて、何げなく、結界が出来ている。この”何げなく”というのが、間合いのツボであり、神秘への入口なのだ。



 太陽の日差しが強く、陰影のハッキリした、南の世界では、殊更、意義あるものとなっている。東洋のエスプリでもある。これが判らないと、東洋では、そして、今や、主だった世界では、視力がない、という事になってしまう。今や、欧米でも。東洋を研究する人が増えて来ているからだ。微妙なニュアンス、大事にしたい。

 北インドやネパールだったら、背の高いエレファントグラス、日本だったら、さしづめ,屋根に茅を葺く所であろう。最近,日本では、余り見られなくなってしまったようだが、風情があって懐かしい。屋根は軽い方が、柱にかかる負担が少ないし、造るのも、壊すのも簡単で合理的だ。家、或は部屋と庭、詰まり、建物の外に張り出した、部屋と外の自然との中間に在る空間。廊下ではなく、通路という訳ではないが、日本の”縁側”にあたる機能がある。

 ベランダには、簡単な屋根と床、柱と間仕切りがあって、壁がない。建物の一部であって、内でも外でもない、曖昧で、不思議な、だが密度の濃い、微妙な空間。趣も風情もそこから生じて来るというものだ。
 しかも,暑い日差しや雨もさけられ,高床式にすると、何よりも、風通しが良く、乾燥度が増し、しかも虫除けにもなっていて涼しい。須く,自然に沿っていて,実用的なのだ。自然を知って、コツさえ見つければ、エコロジーとなる。取り分け、暑い熱帯の国では,涼をとるにも、自然と共に寛ぐにも、無くてはならない重要なオアシス空間となり,文化となっている。

 ベランダは素晴らしい。家に居ながらにして、直に自然に触れられ、家に居る安心かもあるからだ。一挙両得とはこの事だ。程よく広いベランダなら、それなりに形はあるものの、その形は,無形のものをを際立たせる為の、古代から伝わる英知の仕掛けなのだ。家の中の部屋と違って,外の自然を完全に遮断するのではない、という所に意味が在る。部屋の壁につけられた窓よりも、大きな世界が、直に、リアルに広がってくる。 床や屋根、柱と言った形のあるものと、内容そのものでもある”無形のもの”、空間、との間合いが,要となっている。

 タイには,一時、”ベランディスタ”という言葉が流行ったくらい、凝ったベランダを作る事が、流行した事があった。リッチな人達が、高価な紫檀、黒檀、チーク材や竹を使って、お洒落な、粋でクールな,或は、ハイテクがらみの、使い勝手の良いベランダを持つ事を自慢しあう程であった。

 間を知る人にとっては、雰囲気の良い、そして居心地の良いベランダで、コーヒーやお茶を愉しんだり、朝ならフルーツシェイク、夕べにはシタールのラーガに耳を傾けながら、食事をするのは愉しい。周囲の環境の音に耳を傾けながら、本を読んだり、DVDを見たり、音楽を聴くのにも良い。充分に広ければ、ベランダの板の間で、手足を延ばしてのストレッチやヨーガをする場所にもなる。ハンモックを吊るして,午後の一時、昼寝するのにも良い。低いテーブルと座布団か御座があれば,又、用途も、夢も広がって来る。日差しが強ければ、或は間仕切りが欲しければ,簾(すだれ)を下げれば良い。
 気の合った友人達と、企画を練ったり、ゲームをしたり、麻雀をするのも愉しい。コンピュータも楽しめる。一寸した、カフェやクラブもどきのラウンジにもスタジオにもなってしまう。タイかラオス製、或いは,イサム•ノグチの、モダンでクラシックな洒落た提灯でもあれば,夜も充分楽しむ事が出来る。
 周辺の風情、何もせずに、鳥の声、風のそよぎ、ドサッとヤシの実が地上に落ちる音、遠くの方から、時たま、聞こえてくる車やバイクの音、近所の生活音。テレビやラジオの音。おばちゃん達のお喋り、何処からとも無く聞こえてくるタイのポップス。色々な音が,絶妙に合わさって、周辺の環境音楽となっている。

 ただ、何もせず、自分の奥深い中心で、あるゆる音を聴いていると、素晴らしい静寂、平安が、環境音と平行して降りて来る。無音の音が周囲の音と、同時進行しているのに気付く。真に寛げる時、音と、音無き音との両者を同時に聴いている、と言う不思議な瞑想状況にはいってしまう事も在る。これが堪らなくいい。この間合いが判ってくると、煩雑で煩い都会においても、周囲に振り回される事無く、結構楽しめる。周辺は円周になり、円の中心にあれば、そこに、スタンスも生じて来る。だが中心を知らなければ、円周は落ち着かなくなってしまう。先ずは、センタリングという技法(タントラ)が入口になる。中心を定め,フィットさせる事だ。
 内側の中心に無音があって、始めて、音が存在できる。そこで、音が生きて来るのだ。だが、内側に無音がなければ,周囲の音も,雑音となりかねない。相対性理論である。音の真髄を聴く。それは無音の音である。それを確認すると,意識が目覚めて.基盤が出来て来る。
 物思いに耽るのも,空想するのも,想像するのにも、この上ないステージとなる。基盤が極まって来ると,何気ない事も素晴らしくなって来る。無論、瞑想空間としても良い。良い夢が見られる。ユティリティー(多用途性)があって、しかもユニヴァーサル(融通性)の在る、しかも風雅な空間がいい。

 インド、タイ辺りでは、当然、日本とは気候も風土も違い、暑く、それ故、生活もシンプルで、当然、より開放的なのだが、ベランダは、日本で言う所の、”客間、茶の間、縁側”の三つの役割を果たしている様に見える。それに加えて、庭園をより楽しむ為の,東屋(庭園の中にしつらえた休憩用の簡単な建物。)という機能もあるだろう。
 タイ、ラオス辺りでは、東屋は東屋としてポピュラーで、大きなガーデンを持つ、タイの高級リゾ−ト等は、受付やガイド、インフォメーションにも、たわいのないお喋りするのにも、散歩の合間に休憩するにも。そして昼寝するにもグッド。庭園の中の、ユニヴァーサルな、間空間になっている。庭の美観にも貢献していて、ワンポイントのアクセントとなり、”馬子にも衣装”、原生林も,ジャングルも、庭らしくなって来る。

 縁側とは、無論、縁、すなわち”仏教用語で、”縁起”、詰まり、”人と人を結ぶ、超自然な不思議な力”、に側している、という深い意味がある。京都の龍安寺の縁側には印象深いものがある。茶の間は,禅から生まれた、家の中心となる所。茶や食事を楽しんだり,団らんや談笑を楽しむ,寛ぎの、和空間である。
タイ、ラオス,ミャンマー、カンボジアの仏教、ヒンドウーの寺院建築に於いても、本堂の回りに、廊下の如く、回廊を回し、正面には広くしつらえたベラン ダ、大きいのでテラスと言った方が良いかもしれないのだが、大きな広がりになっている。日本の能舞台も、寝殿造りの屋敷の周囲に廊下を巡らし、延長させ、 特別な空間を作ったもののようだ。そこにも、ベランダと言う宇宙、を見る事が出来る。
 薪能ともなれば、かがり火で舞台を照らし、野外に特設したベランダ様の舞台と廊下がある。有名な、京都の清水寺の舞台も,大きなベランダと言っても良いかもの知れない。太い柱を組んで、高台に設置されている。安岐の宮島もしかり。視覚的にも,風雅な宇宙的空間となっている。

 日本に限らず、仏教、ヒンドウー世界、中国も、そしてアジア全般に言える事だが、殊更、“間”に拘った、間の文化と言えるだろう。その”間”に、空間に力を見いだしたからなのだ。
 空という概念の発見は大きい。空は、インドでは、仏教以前から知られており、今では誰もが知る力の空間となっている(前記事「空の極み」参照)。それを、地上に実用化サイズにしたのが、ベランダなのだ。精神構造も,”間”を意識すると整って来る。寺院建築。には、そんな智慧の力も秘められているのだ。空間を埋める事に、躍起になってかまけて来た近代文明にとっても、思わぬ智慧と力となっていくだろう。

 英知とは、感応する能力の事だ。それは、単に知識が多いという事ではない。誰でも修行すれば、自分のものにする事が出来る。無心になればなるほど、感応する能力は鋭敏になって来る。理解度も増して来る。
 例えば、素晴らしい鐘の音は,一瞬にして,邪気を払い、人を無心にする。そして、内側に、何もない空間をクリエイトする。ステージが整って来るのだ。寺院にある様な、大きな鐘は、頭を落とし、腹に響く。
小さな鐘は、デリケートで,柔らかい甘いトーンは,内的宇宙の奥深く迄、貫いてしまう。何とも、クリエイティヴだ。波動はやがて、龍がうねる様になって、領域を広げるように、聴こえて来るのだ。そして、そこに間が生じてくるのだ。そんな思いで、鐘の音を聴いた事はないだろうか?
 自分でも、時々、古代(とはいっても500年程前のもの、金、銀、銅、錫等、五種類の金属の合金で出来ているそうだ。)のチベタン•ベルの、柔らかく、澄んだ、甘いトーンをたのしみにしている。このところ,殆ど毎日、一回は聴いている。その”間”に、美味く同調、フィットできると、素晴らしく愉しく、力も湧いて来る。間は力となってくる。間に力がないと、詰まり空間がないと、イライラしたり、混乱したり、落ち着かなくなってしまう。間を力とするには,間を意味あるものにするには、コツが要る。
 人の心は、遊んでいる時の方が障害がない。邪気も無く、ゆとり、間合いがあるからなのだ。切羽詰まっている事や、忙しい事に、同化してしまったら、何事も旨く行かないからだ。飲み込まれてしまう。内側の空間にゆとり、遊び心を造る事が、瞑想の”質”そのものと言っても良い。間の創造なのだ。

 今が、質の時代に入ったと言われるのは、アジアは無論、欧米の人たちが、この30年程、量だけではなく、質にも拘り始めているからだ。それも、空間の質に拘りはじめたのだ。間合いの秘密を知り始めて来たのだ。禅仏教、ヒンドウー•タントラ、タオ、ゾクチェンにその秘密がある。なにか、誤解があるのかも知れないが、瞑想、ディアーナ、禅という言葉には、本来,技法という”方便”はあっても、本来は、深刻なものでも,形式的なものでもない。考える事でも、勿論ない。瞑想と言う伝統は、欧米にはない。信仰である以上、二元性に関わり、超越は有り得ない。ブッダが、ことさら信仰や崇拝を嫌ったのは、その点でもあろう。神秘や、生きる意味を体験するには、自分自身で、直に、知るしかないからだ。言語が、意味をなさない次元に入るからだ。生きた生に入るからだ。

 人の感応する能力が高まるのは、無防備な時である。何故なら、抵抗や邪魔がないからなのだ。無防備であれば、無為であれば、リラックスして、落ち着いてきて、あらゆるモノゴトが生き生きと,”闊達”になって来るのが観えて来る。真に無防備であったら,否定するものは、何もなくなってしまう。対立も,疎外感もなく、そこから,エネルギーも愉しみも高まって来る、というものだ。今が極楽になってまうのだ。極楽とは特別な場所ではない。天国でもない。それは純粋意識と新鮮な心が織りなす、新たな次元と言ったらいいだろう。
 だが、深刻な時には、誰でも閉じてしまう。エネルギーも閉ざされ、硬直してしまう。緊張すればする程、能力は落ちて来る。何も見えなくなってしまう。緊張 度が高まって来ると、感情が高まり、興奮し易くもなって来る。ものごとが複雑で、ややこしく、冷たくなって、悪循環が始まってくる。
 何故、人が深刻になるかと言うと、状況次第で、もし余りに敏感だったら傷つきやすくなって、社会に対応できなくなってしまうからだ。そこで防衛手段を講じる事になり、そして、習慣となり、その事に”同化”してしまうからだ。それに、おぞましい世界や、世間で生きる為には、防御も鎧も仕方がない。だが、その所為で、閉じたままになって、その事に同化して、真に生きる事が難しくなってしまう。敏感であればある程、苦労は絶えない。そして、防御すればする程,敵を生んでしまう。そして次第に鈍感になって,エネルギーを失ってしまうのだ。そうやってストレスは蓄積されて、エネルギーは閉ざされてしまう。世界全体が,閉塞感に覆われ、どーんと重たくなってしまう,という悪循環が続いてしまう事になる。

 本当に価値のあるもの、喜ばしいもの、信頼.愛、美しいもの、慈しみ、生きる歓び、それらは、閉じていないものにだけやって来る。問題があるとすれば、頭や観念、常識にとらわれている、という事。肝心なのは、そう言った素材や道具を上手く使う事であって、同化してしまったら、元も子もない。茶道も華道もそこの所が大事なのだそうだ。そこから先ずは出て来ない事には何も始まらない。
 エネルギーを、頭から、ハートに降ろして来れば、多くの問題は消える。熟達すれば、腹に中心を定めると容易にエネルギーを動かす事が出来る様になる。暫く、ハートに意識を移しておれば、頭もやがて整って来る。
 山や川、森、海の側には、自然が侵されず、タオが漂い、脈動して、いたるところにエッセンスが満ち満ちている。そういう素晴らしい環境のベランダはパラダイスとなる。無為であれば、クリエイティヴな空間になるからだ。 “間”という文字を見ると、門の中に”日”、詰まり太陽がある。明らか、明るい場所.という意味であろう。間,それは”時空のエッセンス”。そして、間そのものには、姿も形もない。時間にも,距離にも、特定の領域や空間にも当てはまる。色々な意味が在って,深い。
 真っ暗闇に明かりを灯せば,自ずと間が生じる。日中、木陰にはいれば,そこに”間”を感じる。何もせずとも,木陰が,間になってしまう。池に花が咲けば,そこに新たな間が所持て来る。何ともこの世は素晴らしい。日本流の“見立て”という文化にも近い。昔の人は,そうやって智慧を開発したのかも知れない。5000年前のシヴァの時代に、心を馳せてみたくなって来る。人の意識に,間が生じて来て、始めて,”人間”になれるのかもしれない。

 面白い事に、日本語では、時間にも、空間にも、”間”という文字が、共通して使われている。時間と空間に仕切りがない。時空間と言う。
 欧米の言語では,時間と空間とは,time と space、それぞれ別個の言葉である。だから別個に考える。二つに次元の繋がりが、何処にあるかは見当もつかない。我々にとっては当たり前の”即”が,彼らには神秘と映る。東洋の神秘という鍵はここに在るのかも知れない。
 だが、インドでは,5000年もの昔に,仏教、ヒンドウー以前に、既に、時間と空間の関係、タントラ、相対性理論を発展させて、時空が一つのものである事に気付いていたそうな。シヴァ神に依るものとされている。無論、大昔、ノーベル賞なんてものはない。インドには凄い潜在力が備わっている様だ。知識、それも表面的な知識や哲学ではなく、明知(ヴィディア)、智慧を発達させたのだ。ゼロや無の概念の発見も凄いが、元々は仏教用語で、”時空間”という言葉も凄い。相対性理論に始まり、間(はざま)、間合い、間に合う,間が悪い、桶狭間、 知らぬ間に。音楽では’間’のとり方、リズム、テンポが主役となって来る。間が命だ。昔の日本では、間仕切り、屏風やふすま,障子を使って、次元の異なる 空間を創りだした。粋な計らい、と言ってもいいだろう。

 ”間々ある”ことだが、間には、機会、チャンス、タイミングの意味も在る。魚釣りでは、重要なポイントだ。潮加減、流れや障害物と言った蔭の間合い、当たりのと合わせのタイミング、間合いをはかる事、一致させる事,それが間合い。魚釣り、ボクシング、ムエタイ流のノー•モーションのカウンター•パンチ、お相撲さんの仕切りや投げのタイミング等,間合いや駆け引きをよく観ていると面白い。意識の基盤をさだめること,そして集中力で、あらゆるものが面白くなってくる。

 サンスクリット語の”マナ”という言葉は、スピリットを表し,そこから、ケルト語の“マナ”、そして英語のマン、詰まり、人が生じた、と言う説がある。マナなくして、人にあらず、という事にもなって来る。インド•ヨーロッパ語という様に、欧州の言語の源は、サンスクリット語、古代インドの言語で、現存する最古の言語とされている。言霊の力のある言語とされている。つまり、日本語同様にトーンにも特別な意味が在るという事だ。
 ケルト族という人々の源流が、中央アジアにあるという点にも考慮したい。無論、それだけでもないだろうが…
 因みに、日本語のルーツは、ロシア語とも、南インドのドラヴィダ語ともいわれている。マというトーン(言霊)には,不思議な,根源的な魔力があるようである。マナ(心、愛)、ママ(母)、マ(真)、マハ(マカ、大きい)、マ(魔)、マー(感嘆詞)、マドロミ(睡)。古代ペルシャの僧侶、呪術師を”マギ”と言うが、マジック(魔法)はここから産まれて来た言葉だそうだ。
 陰陽、様々な意味が在る。日本文化も、アジア諸国とは気候風土、言語は違っても、”間”に拘った、アジア文化。例え、無意識の内にも、アジアの人は、無形の”間”を使い、”間”を生き、”間”を生かしている。だが、意識すると,より面白くなっていく。間が力となって来る。

 では、門の中に月があったらどうだろう? それに火偏がつくと、”燗酒”の燗(かん)になる。寒い時には何よりだ。乙だね。門の中に、”木”があると、”閑”(ひま)という文字になる。静かでいいね。口があれば”問う”という文字になる。耳ならば、”聞く”という文字になる。門の中に”音”があると、”闇”という文字になる。口を閉じたまま、声を出す、転じて、”入口を閉ざして中を暗くする”ということが、”闇”という文字の原意となったそうだ。闇の創造が,闇となったのだ。
 門の中に,鳥居、詰まり神秘的な力、スピリット、カミ、の象徴があると,“開”、開くという意味になる。開花する,開門すると言う風に使える。だが、スピリットがなければ、ドアは開かないという事になる。門の中に王が居て、三水の偏がつくと,”潤す”という文字になって来る。水の原理を表している様だ。いいね。タイ国みたいだ。

 閃き(ひらめき、せん)という文字も面白い。門の中に人が居る。例えば、誰かが、一瞬、観えて、直ぐ門の蔭に隠れる事が、原意なのだそうだ。一寸、忍者みたいだけどね…
 何か観えた? それが一瞬の閃き、一閃だ。直感かも知れない。門の中に、活という文字がはいると、闊(かつ)、広々としている。度量が大きい、という意味になる。意識が広がることを言う。好きな文字だ。

 インドの首都、デリーという言葉の意味は、ペルシャ語で、”門”という意味なのだそうだ。何故、インドでペルシャ語の地名なのかは、嘗て、ムガール帝国の首都だったからである。門、というステージに、現れてくるもの次第で,位相も、次元も,意味も変わる。ロンドンのマーブルアーチも,パリの凱旋門も,デリ−やムンバイのインド門にも深い意味が隠れている。日本にも,無数の門がある。馬場先門、半蔵門、桜田門、門前仲町… 門構えに拘る人も多い。門、一つとっても、遊びだすと際限がない。
 趣(おもむき)や風情、情緒,エネルギーと言ったエッセンス、エスプリは、そして、あらゆるアジアの文化は、この“間”から生じて来るようだ。「和」もその一つなのである。その「間」に、密度の濃い、生の、時空のエッセンス、コンフィデンス(秘密、力、信頼,自信)が生じて来るからなのであろう。

 間の力を知れば、間はやがて創造的空間になって来る。力とは,気付きの力でもある。気付きがなければ,力は生じないからだ。枠組みが取っ払われ、本物が見え始めてくる。良いアイディアも浮かんで来る。智慧も閃きが、起こって来る可能性も起こる。静かで、緑に囲まれ、風通しが良く、出来れば、水の流れや、海が観えれば最高。ひんやりとした床板を、裸足で歩く、という快感を楽しむ事が出来る。水辺だったら、ざぶざぶと水にはいって、水と遊びたい。

 風のそよぎ、水の流れる音は最高の音楽だ。そして、漣(さざなみ)は,宇宙のリズムを司る。朝の光、夕焼け、そよ風を楽しむのも良い。砂浜を裸足で歩くのも気持ち良い。板の間や大理石の床を裸足で歩くのも素晴らしい。私は裸足が好きだ。健康にもいいし、気分がいい。裸足で歩く歓び。
 欧米人は特に裸足で歩く事が好きな様だ。タオ島のレストランやカフェは、靴を脱いで、タイ伝統の、靴を脱ぎ、裸足で入る店が多い。日本と違って,スリッパ等というものはない。それがいい。

 他愛ない事が、何でもない事が、素晴らしくなって来る。その事にも気付きを深めたい。それは、意識が広がり、感応する能力が高まって、意識も、身体も敏感になっているからなのだ。“素”という次元である。宇宙意識の原点である。
 無心は,マインドや心に対立する訳ではない。唯、マインドを脇に置いて、間を広げるコツなのだ。やがて内的宇宙が広がって来る。あとは”サイレンス・ドウー・グッド!(S.D.G)”だよね。
 満天の夜空を楽しむにも良い。全宇宙を手にする事が出来る。シンプルになるにつれ、心にユトリが生じ来る。頭も整ってくる。何かが、首筋の内側から、胸や背中、鳩尾辺りに迄、ひたひたと降りて来る。
気持ち良い。甘露、甘露!

May everything gonna be alright!

2008年4月20日日曜日

肉骨茶

 マレーシアの様なイスラム教を中心とした国にも,様々な料理がある。マレーシアの料理、南インド風のヒンドウー料理、インドのイスラム料理、この辺りがメインとなっていて美味い。実用食と言ってもいい。 他 には、ヴェトナム、イタリアン,フレンチ、スパニッシュ、メキシカンに、普通の欧米料理、ファースト・フード、ペナンやクアラルンプールの様な大きな街で は日本料理もある。それに隣国のタイ料理は、人気があって当然だが,中華料理、それも海南中華(はいなんちゅうか)と呼ばれる、南アジア風の中華料理が美味しい。
 イスラム国なのでアルコールや豚肉は一寸、と思いがちだが,中華の店に入れば、そこはノー・ウオリーズ。無論、イスラムの人たちはやって来ない。

 ここは,コタ・バル、マレーシアの北、クランタン州の州都。マレー語で“新しい街”という意味だそうだ。マレー半島の東海岸、タイの国境に近い。タイとの国境を徒歩で越え、そこからバスで,小一時間程でこられる地方 都市である。街は、クアラルンプールの様に近代的ではないが、ローカルな街としては奇麗。マレー風の伝統的な家もちらほら見える。
 博物館も多く、地域の伝統文化を保護するカルチュアーセンターもある文化都市だが、ビーチ・リゾート,ダイヴィング・スポット、ナイトマーケットやセントラル・マーケット等,エキゾティックな見所も近くに多いのだ。

 この辺りは、イスラム教徒が95%を占める、と言われる所だ。マレー系、インド系の人が多い。
 イスラムの女性達は、イスラム世界のトップモードとされる、イスタンブールやデリー、ムンバイのファッションに夢中のようで、街中に花が咲いてように華やかになる。まるで、ヒンドウー世界のように華やかだ。 ドーム状の市場に入れば,イスラムの詠唱、アザーンが流れている。アジアっぽいイントネーション、小節の効いたアクセントがいい。
 インド、インドネシア、タイと並んで、マレーシアは“バティック(ろうけつ染め)”で有名な地域である。日本では“更紗”といい、又、再認識されようとしているそうだ。綿も絹も当然ある。西陣織の様な布地も良く見かける。藍色、或は茶色を中心とした渋めの、一寸、上等な“バティック”で、自分のシャツを創ってみたくなってくる。結構、高価なんだ。いい布地使うと、一万円、裕に越してしまう。

 たまたま、マクドナルドで出会ったマレーシアの女性に聞いてみると、無論、イスラム教徒のマレー人女性だが、今のマレーシアの豊かさ故か、華やかなものが出回り、インドやトルコ(イスタンブール)のスタイリングに、マレーシアの布地を使ったものが、“ナウい”のだと言う。いにしえの昔から今に至たる迄、デリーやイスタンブールは、イスラムの女性にとって、永遠の“都”なんだろう。街の活気もそこから生じてくるかの様だ。

 街のあちこちの屋台やレストランで、南インド風にバナナの葉っぱを皿にした、伝統的なイスラムやヒンドウー料理が美味しい。そして、ここの海岸は,今では,“恋人達のビーチ”と呼ばれる,ロマンティックな呼び名になっている海岸があり、かつては、旧日本帝国陸軍が、初めて上陸した地点でもある。ここから、マレー半島に於ける旧日本軍の連戦連勝が始まった、と言われる。歴史をひもとけば、ビルマ戦線では、それこそ“こてんぱん”にやられてしまったが、又、真珠湾攻撃は、“闇討ち”だから別として、旧日本軍が華々しく活躍し、勝利を味わった唯一の場所なのだそうだ。日本の人は、知らないものもいるようだが,地元の人は,若者から年寄り迄、誰でも、その事を知っている。
 ここでは、ビールも飲めるが,値段が高い。ビールはタイの三倍もするそうだ。良くは判らないが、日本と同じか、其れ以上ともいわれる。アルコール好きには一寸つらいが,ものは考え様で、イスラム国でビールが飲めるだけましだ、と思えば良い。中国系の人が多いペナンやクアラ・ルンプールには比べるべくもないが,この街には、小規模ながら中華街もない訳ではない。
 いつもは、大抵、マレーかインド風のイスラム料理なのだが、その日の夕食は、何となく海南中華。一寸、町外れにあって、中華街はやはりFunk’n Nasty。
 中国語で、“肉骨茶”と書いて,“バッコッテェー”と読むのだそうだ。茶という文字が見えるが、所謂、お茶ではない。ご飯と一緒に食べる。一言でいうと,“鍋焼きの、豚の固まり肉のシチュー”である。中国のスパイス、八角が効いていて,香り高い。料理が運ばれて来る時には,陶磁器の鍋の中は、ぐらぐらと煮え立っていて、見るからに美味そう。鶏肉や牛肉の“バッコッテェー”というのもあるそうだがマレーシアの中国人には,豚に合う料理なので豚が美味いのだ、と言う。RM6と言うから約60Bt.、約200円位。少々高価であるが,肉の量次第では安い店も在る。
 バンコクにも、チャオプラヤ川沿いに、ビーフンのラーメンにビーフのバッコッテェーをのせた美味しい料理、“センミー・ナム・ヌア”があり,何か中国のイスラム料理風で美味しいので、バンコクに居るときは、始終、食べに行く。
 よく働く人やサラリーマンは、朝から熱いバッコッテェーを召し上がっている。ニンニクも生姜も効いていて、スタミナは充分附く事だろう。

 マレーシアでは、大体90円〜100円くらいから一品料理は食べられる。それ故、肉骨茶(バッコッテェー)は、割と高価な食事である。だが、内容、実質を考えれば、決して高価ではない。店にも依るが、大きな豚肉の固まりが、三つくらいは入っている。スタミナ食だ。だが、タイ同様に、時には40度を越す暑いマレーシアでの,熱い肉料理は殊更美味しい。フーフーいいながら、熱い料理を食べ終わる頃には,汗は出きってしまい、後味は,さっぱりと爽快である。熱いジャスミン茶で締める。そう言う習慣がついて、南国では、余り冷たいものを食べないようにしている。尤も、ざる蕎麦と冷や奴、それにココナッツやマンゴーのフルーツジュースは別であるが…
 熱くて辛いココナッツ風味のチキン・カレー,或は熱いバッコッテエー、それに、熱いチャイやコーヒー、中華風ならジャスミンティー。さすれば、暑さ等とは同化してしまい、気にならなくなってくるのが不思議。サウナに入ると思えば良いのだ。要は、暑さから“逃げたらあかん!”それが一番の避暑となる。

 次の日に,別の中華の店にいってみた。何人かの日本の旅行者と一緒だったからだ。この店が知られているのは“茶碗蒸し”の所為だと聞いていた。中華の茶碗蒸しといっても,蒲鉾や銀杏が入ってないだけで、日本でよく食べる茶碗蒸しと特に変わらない。出汁の味も、鶏肉と貝柱の出汁で、味も風味も丁度良い。丁度良いのは,美味いのだ。
 その茶碗蒸しと、ポテトと野菜と鶏肉のカレー風の煮込み,それにご飯と言う、さっぱりと美味しいディナー。それ以後、茶碗蒸しの味が癖になって,家に帰ってきても,“茶碗蒸し”を良くつくるようになってしまった。アジアに居れば,一汁一采でも立派なディナーとして食べられる.鶏も卵も入っているしね。鰹節と昆布、それに一寸高価だが、貝柱の出汁が美味い。タイ料理にも良く使う。牡蠣を入れても、海老を入れても美味い。後はご飯だけでいい。うどんやそばに載せてもいい。蒸し器があって、卵と出汁と有り合わせの食材、野菜、シーフード、鶏肉等があれば簡単にできる。例え、何も具材が無くても,青い菜っ葉と出汁と卵さえあれば、結構美味しい。

 タイでは、魚介料理を“蒸して”食べるのが割とポピュラーなので、自然とタイやバラクーダ、ダツ、鱸、烏賊、蛸、蟹、海老や温野菜のサラダ等を良く食べ る。後はソースを工夫すればおいしい料理となる。ライム、バジル、レモングラス、ミント、梅酢やショウガ、胡椒、山椒、トマトソース、和芥子がキーポイント。シンプルに、ライム、出汁醤油に、唐辛子か山椒でもいいんだけどね。
 三つ葉のかわりにパクチ(香采、コリアンダー)やバジル(バイカプラオ)を使い,煎ったすりゴマ、炒ったカシューナッツや、ピーナッツ、鰹節、貝柱、こんぶ等の出汁が入れば,最高だ。今は、殆どタイの素材を応用している。しかも、一寸、和風なタイ料理だ。今度,烏賊のするめの出汁,牡蠣オイル、ココナッツミルク、それにナンプラーも和食に試してみよう。秋田のショッツルは日本のナンプラーなのだ。ご存知だったかな?

 今回は中華に焦点を絞ったが、食べ物がおいしくて,しかも値段が安い国はそれだけでも魅力がある。インド、タイ、中国、インドネシアという伝統文化に囲まれた、しかも融合的な文化が豊かなんだね。料理に国境がないのは、音楽や芸術と一緒、政治性がないのがいい。
 日本の料理法も、ここでは、応用が利く。日本料理のルーツをたどってみれば,例えば、鰹節はモルディブがルーツとされる。又、日本のファーストフード、“寿司”は南アジアの“保存食”や“ちまき”の様なものから発展したといわれる。今や、寿司はアジアのどこへ行っても食べられる様になってきたようだ。インドマグロのとろも、南インドや日本に行かなくとも、バンコクやペナン迄行けば食べられる。
 アジアの食文化は、北のモンゴル、チベット、中国、ロシア、西の地中海文化圏から、東の外れの日本迄、又、南のインド、タイ、ラオス、タイ、インドネシア、ボルネオ、ポリネシアの諸国とも、どこかで繋がっているのだ。まるで“華厳経”のようではないか。
 南アジアは,何処の国も,自然、農産物、漁業も盛んで豊か、そして大都市以外は公害も究めて少ない。海に囲まれ、熱帯雨林が潤しているからだ。一見して、混沌として、矛盾していながら、不思議に、妙に調和している如く、静かでありながら、しかも活気があって、住み易く,金もかからず、税金も安くな れば,程々に文明もあり、又、文明が、ありすぎると、人間は退化するし、面倒も心配事も多くなる。皆、良くその事を知っている。面倒がなければ、健康で楽に生きられれば、庶民に取っては、いう事がない。ヒンドウー、イスラム、仏教、タオイズムが見事に調和している。欧米人から見れば、まるで奇跡の様だ。思考の外の世界だからだ。でも、そこが私の好きな世界。
 聞いた話だが、“アジア”という言霊そのものには、“神性”という“意味”が在るのだそうな。気付けば、私達は、既にその“神性”の中に居る。

 マレーシアにはもう何回も来ているが,その度ごとに,新たな魅力が観えて来る。物価は一般にタイやラオスよりも少々高め。だが、ものに依ってはタイよりも安いものもあり、大量ではないが、牛肉、飲茶、“蓮の餡入りの中華饅頭”、インドのスパイス、インドかマレーシアの紅茶、ビスケット(英国製)を、マレーシアに来る度に、買って帰る事にしている。

 マレーシア全般に言える事だが、街が奇麗だし,きちんとしている。バンコクの様に、Funk’n Nastyではない。そこで、風情の点や情緒,深みの味では文化も違い、どうしても魅力の点ではタイには一歩譲る。又、姿形は違うものの、そう言う観点では、日本に良く似ている。嘗てのインド系の名首相、日本びいきだったムハンマド・マハティールのセンスが今だに反映されているかの様である。おまけに、イスラム国だけに,路上に酔っぱらいは、皆無である。当然、夜の街もいかがわしくない。女性が一人で旅しても,安心できる。最近は良く判らないが、嘗ての日本みたいだ。少なくとも,女性の不安感が少ない事が,環境の全てに反映している。
 最近は、豪州、中国、ロシア、欧米、日本からの旅行者も投資も増え、当然、経済交流、文化交流も華やかになってきている。これからの将来も楽しみになる。平和で、美味しい国は、素晴らしい!

2008年4月19日土曜日

マインド・エコロジー

  最近、エコ、エコロジーという言葉を良く聞く様になってきた。地球的な規模で浸透し始めている。当然と言えば当然だ。今が文明の転回点、或は節目なのかも知れない。同じエコでも、エコノミーなら経済の事だが、エコロジーの意味は、生態もしくは生態学のことだ。
今,話題の地球温暖化の問題や資源の無駄使いに注意しよう、もっと自然に帰って生き生きとしたい、と言う意味だ。焦点を変えようと言う事だ。

 エコを中心に色々な言葉も生まれてくる。少しずつ、嘗てのモノゴトの価値観が変わっていく。不自然な無駄な行為や、公害や地球の温暖化、資源の無駄使いに留意しよう、と言う事でもある。それは、只、何もせず、家でゴロゴロしているのではない。それでは「ネコロジー」だ。
 今は、エコロジーの時代、未来に希望が持てる様になってきた時代、という事だ。



 例えば、タイやヴェトナムの農家の発明によると言われる「アイガモ農法」、水田に合鴨をはなしての無農薬農法。鴨が害虫を食べ、水田を泳ぎ回る事で、稲を刺激して発育を促す、と言う一挙両得の農法だ。タイやヴェトナムでは、とうの昔から始まっている。
 全体を観る視力と少しの工夫、あとは、成りゆきに任せる、自然に任せる。レティット ビー、まるで老子の説く「タオイズム」のような新鮮でスマートなアイディアだ。ポール・マッカートニーもその助けの一翼を担っている。自然に沿った人の行為や行動を基盤にした自然な生、その在り方や姿勢(アティチュード)の事をも強調している。世界中に広まっていくだろう。新しいものが,次々と産まれてくるだろう。

 人は、日常性を生きている。それは、千差万別、複雑怪奇だ。人は、一人一人、皆それぞれ違うし、定義不能だし、一言では言えない。例え一人の人間であっても、一つの物差しでは、はかれないものが沢山ある。しかも、人生とは、中々、思う通りにはならないものだ。ストレスや疲労はそのギャップから生じてくる。その日常性からの疲労やマンネリズム、ストレスを、非日常性の中に解き放つ事、普通、それを、リクレーション(再生)、ホリデイという。  例えば、ストレスが堪ったり、怒りや不満、憎しみが現れてきたらどうするだろう? 多くの人は、理性で押さえつつも、その事に巻き込まれて、理性的になればなる程、その事自体が抑圧となって、かえって事態を悪化させてしまう事もある。それが習慣的になると、物事を否定的に見る様になってしまう。悪循環が始まってしまう。ニュートラルな部分、間合い、ゆとりがなくなってしまう。

その事が世界全体を重苦しくしている。閉塞感は、ここから生じてくる。

 ストレスが溜まるという事は、言葉を変えると

変換する力がない、という事だ。コンヴァースの運動靴でも履いて、一寸走って来るといいかもしれない。

何処かに、無理があるのだ。何事も進まなくなってしまう。

生は、大きな一つの有機体と考えると良い

全体をカミといっても良い。我々は既にその中に居る。

そこに繋がっている限り、気分も健康もそして心も維持できる。

私性が消える時,カミは生じ,私性がある時,カミは消えてしまう。

まるで、かくれんぼの様だ。

 生と言う有機体そのものは、実際、直に触れては居ても、形も無く、眼には見えないから、誰も意識していないが、それは自分等よりもずっと大きな存在である。

焦点を変えると,ゲシュタルト、一つ一つの要素の総和以上の全体が、観えて来る。

本来、そこには何の分割もない。分割,分析は人の勝手な認識法だが、実際には、あらゆるものが一体となっている。

マインドの特徴として,分割、分類、分析が押し付けられて、それが習慣性,思考に伴っている。本来の生の自然な姿が見えないのは、言葉やマインド,部分的、表面的な形に囚われているからなのかも知れない。生とは、額の上に眼鏡をかけていながら、その眼鏡を一生懸命探している様なものかもしれない。

 ローカルな汽車の旅というのも悪くはない。今日は,汽車の旅を楽しんでみよう。

 緩やかに揺れる鈍行列車,それにゆったりと心身を委ねると,風の音、窓の外の流れる風景がメロディーとハーモニーとなり、レールの継ぎ目の音が、ガッタン、ゴットンとリズムとなって,心地よくなってしまう。
面倒な事はどうでも良くなってしまう。

 何か,何でもかんでも速いのが流行のようで、東京と新大阪を、何と二時間台で繋ぐと言う、超高速の日本の新幹線は、やはり凄い中国で,今、評判の上海リネアも、時速400km以上で走ると言う。なんか物凄そうだし、海抜5000m以上のチベット高地を走る西蔵鉄道も凄い。

インドにも新幹線を国中に開通させる、と言う計画があるそうだ。

 最近の日本では,列車に依っては,スイートというデラックスなホテルの様なもの迄出現してきた、と聞いている。又、マレーシア経由、バンコックとシンガポールを3日か4日かけて、ゆったりと時間をかけて繋ぐ、高価でゴージャスな、名前はエクスプレスだが、決して速くはないオリエンタル・エックスプレス素晴らしい

オリエンタル.スロー.トレインだ。

 又、昔の話になってしまうのだが,良くロンドンからフランスを通って、イタリアまで列車を使ったのを思い出す。それをオリエンタル・エクスプレス、と呼んだ。ロンドンから、パリを通って、イタリアを抜け、トルコのイスタンブール迄行くからだ。時には,車を列車の後部に一緒にのせて、何度も往復したが,長距離故に、いつも二等の寝台車であった。

最近ご無沙汰なので判らないが、恐らく今ではユーゴスラヴィアが通れないので,もう走ってはいないだろう。

 又、インドのニュー・デリーから、タジマハールで有名なアグラ経由で、ラジャスターンのピンクシティー、ジャイプールを結ぶ,特別誂えのマハラジャ列車も、速くはないが豪華で素晴らしい。

又、最近では、デカンオデッセイという、ムンバイから、南に向かい、ゴアを通って、オーランガバード、エローラ、アジャンタを通り、ぐるっと、デカン高原を一周して再びムンバイに戻って来るという、ロマン溢れる旅も出来たらしい。地域的にも,文化的にも,民族的にも、色彩的にも鮮やかで、最も興味深い夢のある地域、を走り続けている。

 いつの事やら未だ不明だが、何れ、このマレー半島を走る、豪華な列車,オリエンタル.エクスプレスは,タイのバンコックから北に、古都アユタヤ経由、古都スコタイ迄延ばそう、という計画があるそうな。

 忙しく飛び回っている人や、好きでそうしていたい人には、飛行機や急行や特急がいいだろうし、インドやアメリカ、ロシア、オーストラリアや中国の様に、国土の大きな国では、汽車で東西南北と大陸を横切るには、3日も4日も5日もかかる所があり、寝台車が必然となって来る。

バンコックを中心に、マレー半島を南下したり、北上してチェンマイに向かうのもいい。シンガポールから、ラオス、カンボジアの方面にいくのも、長くても2日半か3日くらいで着いてしまう。

 普段は、一等車、二等エアコンと迄は言わなくとも、最も暑い時期は別にして、エアコンなしでもぐっすり眠れる夜行のノンエアコンの二等寝台というのがグッドだが、昼間、旅を楽しむと言う本来の楽しみには、鈍行の三等車というのもいい。

値段が安いのがエコノミー。

これより値段の安い乗り物というものは、徒歩か自転車以外にはない。

 と言う訳ではないだろうが、インド人に聞いた事がある。

それは、一等、二等には金が乗る、三等には人が乗る と言う。

何れはになっていくかも知れない。

 鈍行の3等列車と言うのは、時間はかかるが、時間がたっぷりあれば、何れ、何時かには、目的地に着けば良いのだ。座れさえすれば、値段も安いし、気分もイージーになれる。しかも車両は木造だ。あちこち,歪んでいる所も在る。昔のままだ。まるでタイムマシーンに乗ってやって来たみたいだ。その事自体が寛ぎとなって来るからだ。嬉しくなってしまう。

 様々な人が乗って来る。タイ、マレーシア、ラオス、ミャンマー、欧米人、中国人、インド人。どうも、日本人は、余り三等車には乗らないみたいだ。余り出会った事がない。安い上に、面白いのに、もったいない! 

 皆、思い思いの旅のスタイルで,旅を楽しみにやって来る。幸い列車は空いていた。二等にのる必要もなかった。目的地に行くのは無論だが、人はそのプロセスを楽しむのだ。

ここを先途とばかりに、美味そうなお菓子やフルーツ、食べ物を沢山持ち込んで、周りの人に配って、おしゃべりを始める、何処にでも居そうな、人の良い田舎の叔母ちゃん。

 時には、何頭かのヤギや何羽かの鶏を縄で繋ぎ、わさわさと汽車に乗り込んでくるおっさんもいる。

一昔前迄は、インド等では、無論三等だが、通路に携帯コンロを出して、炭火をおこし、通路で料理をつくり出す人もいたくらいだ。

しかも、ノープロブレム、マイ・ペン・ラーイ。無問題(モーマンタイ)だった。欧米や日本の列車なら,たたき出されるかも知れないが、ここはアジアなのだ。

 席が一杯の時には、網棚にさえ横になって寝てしまう。

深夜になれば、通路に寝るのは当然のこと。

最近は、車内が禁煙になってしまったので、これもエコロジーの一環だと思うのだが、どの客車も禁煙になってしまった。そこで、客車と客車を繋ぐ、トイレや洗面所があるジョイント部分の踊り場が、喫煙室になる。多い時には,狭い所に,十人くらい集まってしまう。

車内販売の珈琲屋や弁当屋も、何処かのお嬢様,奥様、臍だしネーチャン、入れ墨の兄ちゃんや,麻のスーツ姿のスマートな紳士、モヒカン,弁髪の欧米人迄、ありとあらゆる人達が、ここにきて一服しながら、一杯30円程の美味いコーヒーを楽しむ。所謂,タイコーヒーと言われるものの特徴は,黒いコーヒーの下に、白く層となって淀んでいるアメリカブランドの甘いコンデンスミルクをいれる事にある。濃く、甘く,苦くて,そして美味い! 日本でなら,ひどいコーヒーと言われそうだが,状況次第では美味い。

 たまに煙草を吸いに出たり、コーヒーを飲んだり、ヘッドホーンで音楽を聴いたり、本を読んだり、外の景色を静かに楽しんでるストーンなタイ人のおじさん。前のシートに座っている。私が好きで、いつも摘んでいるショウガ入りのイギリスのビスケットを勧めると、五枚も持っていってしまった。ショウガない美味いものは、皆良く知っているね。
 素晴らしいストーン
()を首に下げていた。珍しい模様と色をした瑪瑙だった。白とグレイの縞模様のトウートーン。見事なものだった。只の瑪瑙でも,モノに依っては、宝石以上に高価なものにもなってくる。価値感が少し変わりつつあるのだ。の話で、つい時の流れを忘れてしまう。石というものは,何か不思議な力を持っている。

 当然な事かもしれないが、私を含めて、チベット、インドやタイ、ラオス、中国、ネイティブ.アメリカンや、白人なら、アメリカ人、イギリス人、フランス人の中には石好きな人が多い。

石とは触媒だ。石を知る人達は、石を通じて、次元の転換、異次元のコミュニュケーションが取れるからなのだ。

そこに来ると、宝石だからといって、力がある、とは言い切れない。

要は、時分の深い意識レベルにフィットするか? 姿、形、色合いに囚われずに、波動の声を聴く事が出来るか? そして自分の生活に有効利用できるかどうか? がポイントになって来る。

最近一つ、いい石に出会っている。力は斬新で、マイルドでもあるのだが、これからが一寸愉しみが増えて来る。何か新鮮さを感じてしまう。

 夢中になって、小さな聲で囁きあう、若い、お熱いイスラムのカップル。

泣きわめく赤ん坊をあやす,若いお母さん。

車内と言わず、ホームの上にも、駅弁やお茶やコーヒー、タバコを売りに来る。

 日本の駅弁の様に1,000円とか、1,500円とか言う立派なものはないし、インドの様に美味しいチャイ木の葉に包んだ美味いカレー料理もないが、それでもローカル色豊かなもの、粽(ちまき)、餅米、バナナ、リンゴ、パパイアにマンゴー、それに、串に刺したシャモ(闘鶏の肉)の炙り焼き(シャモという言葉のルーツはタイ国の古い呼び名シャムサイアムにあるそうな。)、本場故にさすがに旨い。皮が特に旨い。ハジャイ駅で売っていのタンドリ・チキンはうまい。

炙った焼き魚、ナマズに雷魚、するめ、コーヒーや緑茶に、ビールやコーラや水もある。

目玉焼きと、ひき肉のキーマカレーをご飯の上に載せた弁当もある。

これが安くて、意外と美味い。100円位だ。 

売りものは、地域によってそれぞれ異なるのだが、ヒンドウー、仏教、イスラムを問わず、東洋ならではの文化なのだと思う。

 日本の鯛飯、アサリや穴子の深川飯、浜松のうなぎ弁当、下関のフグ飯の駅弁が懐かしい。横浜の焼売もいいねえ。

欧米の列車には、駅弁等を売りにはこない。

売店か、自分でパニーノか、サンドイッチ、パン、生ハム、飲み物を用意するか、急行だったら、食堂車にいく他はない。地域の名産も関係ない。

 時間やお金にゆとりがあれば、出来うる限り、バイクがあればバイクで、車があれば車で、或は汽車やバスや船で、或は、家に居ても、大地や海に触れつつ、未知を旅していたいものだ。

 さすがに、始発や終着駅の駅は立派な建造物だし風格もある。

バンコックの中央駅、ホァランポーンという始発、終着駅は、何か鉄道旅行の元祖の象徴としての、ロンドンや嘗てのボンベイのヴィクトリア・ステーション、ミラノの中央駅(スタツイオーネ・チェントラーレ)”、ローマのテルミニの姿にも似て、ガラスを張った蒲鉾屋根のクラシックな雰囲気も似ている。

だが、ローカルな駅にも魅力は在る。

その駅のある地域のとなっているのがだからだ。

地方に行けば,行く程、時間の流れがゆっくりなので、何から何迄、じっくり見る事が出来る。

幸い、せき立てられるている様な,忙しさという様な事はない。

伝統的なアジアのスローフードにスローライフが楽しめる。

スロートレインなら尚更だ。

 最近は、少し様子が変わってしまったし、バスもそうなのだが、予め一寸、声をかけておけば、最悪、少々遅れても,車掌さんは待っていてくれた。

だから、少し長く止まる時には,一寸、駅の外に出て、名物のそばでもおかゆでも食ってくる事も可能だ。

ローカルな、普段着の姿に溶け込むだけでも、その新鮮さに楽しくなってくる。

人の歩く様、働く様子、寛ぐ様子、おしゃべりに熱中する女性達、スナックやフルーツを食べる様子。犬や猫達の、何事もない素直で平和な様子。

田舎風のマーケットの華やぎ、街角に香るエスニックでうまそうな料理の匂い。

 タイとマレーシアの国境近くになると、仏教,ヒンドウー界とイスラム界とがオーヴァーラップして来る。タイにもイスラム教徒は少なくない。

やがて世界の三分の一は、イスラムになっていくだろう。

人々の姿形も変わって来るし、国籍は兎も角、人種的、民族的に、インド系、マレー系、インドネシア、西欧、ポリネシア系、中国系、モンゴロイド系と入り交じって来る。

いつもじっとしている人ならば、時には、手足を延ばして、羽を広げたいであろう。見なれた風景を変えてみたいだろうし、行きたい所も体験したい事もあるだろう。思い切り、心に残ったわだかまりを、解き放ちたいのである。

いつも忙しい人ならば、窓を開け放ち(三等車にはエアコンはない)、自然のそよ風に吹かれて、のんびりとしたいだろう。

汽車は街を離れると、ゴムの林、椰子の林、ジャングル、田や畑と眼に見えるものは、全て緑色になって来る。麻雀でいえば、緑一色(リューイーソー)。

汽車に乗ったままの、森林浴が楽しめる。風の薫りが素晴らしい!

 或は、遠くに行くばかりではなく、近くに、美味しいものを食べにいくのもいい。空いた道を見つけて、ワインディングロードをドライヴするのもいい。レンタカーでもバイクでもいい。

誰しも、その人なりの非日常性が必要なのだ。間合いが日t賞なのだ。その事が生活にリズムを与える。

床屋や美容院に行ったり、温泉やサウナに行くのもいい。

タイだったら,クラビやチェンマイにも温泉がある。

それに、温泉ではないが、ラオスには薬草サウナも在る。これが中々いい(前記事「薬草スチーム・サウナ」参照)。ヒンドウーや仏教のエッセンスに溢れたタイやインドのマッサージも素晴らしい。又、そんな気分に浸るだけでも、ほんの一寸した気晴らしでも、ホリデイ効果は生じて来る。要は気分の問題だ。
 生という無形の有機体と一つになる。

禅では、その事を無になると言う。だから、無程、現実的な事はない.

その合間に、もや事が、起こって来ると考えた方が普通に思えて来る。

そこには,本来、何の分割もない。何の形もない。意識のありようがあるだけなのだ。

全ての生命が一つに結ばれている事が,森羅万象の繋がりが実感できたら,敵も味方もない。鎧は必要ない。それが普通だと思う。

 勝ち負けに関わらず,今、起こっている事をより容易に起こリ易くするようにすれば善いだけだ。素直になれば、生とは,本来、実に簡単な事なのだ。

生を、難しく、厄介で、面倒なものに、あらぬ方向に変えてしまっているのは、根本的には、人間のエゴなのだ。人は難しい事、困難な事に挑戦したがる。

若いうちは、それも学びとして、体験として大切な事なのだし、苦労も挑戦もなかったら、生の深みや旨味に到達する事はない。

矛盾している様だが、深みを知れば、本来は、素直に、易しい事は正しいのだ、と思えてくる。

 視力がついてくれば、この世を動かしている原理のようなもの、タオが、いかなる所にも見いだせる様になるものだ。それを所有する事はないが、善も悪も、正も反も、生も死も、全てはそれに従っている。その偉大さは,ごく自然な当たり前の理解、普遍性(ユニヴァーサル)に在り、いのちの海の如く、全てを包み込む。その普遍性に通じている事を,本来、普通と言うのだそうだ。
 この世は、まるで「普通という名の魔法」(オーディナリー・マジック)のようである。あの世の事は判らないが、本物の「普通」であれば、この世は素晴らしい!

Or in love with life.

 眼に見えないものを、生の基盤においている人は、それを知っている。物事が如何に起こるのかを知り、二元性の相互作用、相互依存を知り、一方に偏せず、事態に調和し、故に、創造性を知っている。生きるとはどういう事か、を知っている。心のエコロジーの基盤も、その辺りにあるようだ。
May everything gonna be alright !



2008年3月29日土曜日

“知る”という愉しみ

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体。シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)、ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。それらを、自由に使えるのだ。
 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。


 タントラの一節に次の様なのがある。シヴァ曰く、

“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する”

 “知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              

                  







“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては