2008年4月21日

サイレント・ジョイ2 間合いの時空間

 ベランダ(veranda)とは、バンガロー、カーキ(土)、ピジャマ(パジャマ)、ジャンガル(ジャングル)と同様に、ヒンドウー語である(前記事「間の力」参照)。既に世界語化していて、それが、どういうものだかは,誰でもご存知と思う。

 本来は、ヤシの葉や麦わらで葺いた屋根、もしくは庇(ひさし)があって、バンガロー、或は母屋の軒を延ばして、しかも壁が無く、簡単な間仕切りとなる低い柵が巡らされて、何げなく、結界が出来ている。この”何げなく”というのが、間合いのツボであり、神秘への入口なのだ。



 太陽の日差しが強く、陰影のハッキリした、南の世界では、殊更、意義あるものとなっている。東洋のエスプリでもある。これが判らないと、東洋では、そして、今や、主だった世界では、視力がない、という事になってしまう。今や、欧米でも。東洋を研究する人が増えて来ているからだ。微妙なニュアンス、大事にしたい。

 北インドやネパールだったら、背の高いエレファントグラス、日本だったら、さしづめ,屋根に茅を葺く所であろう。最近,日本では、余り見られなくなってしまったようだが、風情があって懐かしい。屋根は軽い方が、柱にかかる負担が少ないし、造るのも、壊すのも簡単で合理的だ。家、或は部屋と庭、詰まり、建物の外に張り出した、部屋と外の自然との中間に在る空間。廊下ではなく、通路という訳ではないが、日本の”縁側”にあたる機能がある。

 ベランダには、簡単な屋根と床、柱と間仕切りがあって、壁がない。建物の一部であって、内でも外でもない、曖昧で、不思議な、だが密度の濃い、微妙な空間。趣も風情もそこから生じて来るというものだ。
 しかも,暑い日差しや雨もさけられ,高床式にすると、何よりも、風通しが良く、乾燥度が増し、しかも虫除けにもなっていて涼しい。須く,自然に沿っていて,実用的なのだ。自然を知って、コツさえ見つければ、エコロジーとなる。取り分け、暑い熱帯の国では,涼をとるにも、自然と共に寛ぐにも、無くてはならない重要なオアシス空間となり,文化となっている。

 ベランダは素晴らしい。家に居ながらにして、直に自然に触れられ、家に居る安心かもあるからだ。一挙両得とはこの事だ。程よく広いベランダなら、それなりに形はあるものの、その形は,無形のものをを際立たせる為の、古代から伝わる英知の仕掛けなのだ。家の中の部屋と違って,外の自然を完全に遮断するのではない、という所に意味が在る。部屋の壁につけられた窓よりも、大きな世界が、直に、リアルに広がってくる。 床や屋根、柱と言った形のあるものと、内容そのものでもある”無形のもの”、空間、との間合いが,要となっている。

 タイには,一時、”ベランディスタ”という言葉が流行ったくらい、凝ったベランダを作る事が、流行した事があった。リッチな人達が、高価な紫檀、黒檀、チーク材や竹を使って、お洒落な、粋でクールな,或は、ハイテクがらみの、使い勝手の良いベランダを持つ事を自慢しあう程であった。

 間を知る人にとっては、雰囲気の良い、そして居心地の良いベランダで、コーヒーやお茶を愉しんだり、朝ならフルーツシェイク、夕べにはシタールのラーガに耳を傾けながら、食事をするのは愉しい。周囲の環境の音に耳を傾けながら、本を読んだり、DVDを見たり、音楽を聴くのにも良い。充分に広ければ、ベランダの板の間で、手足を延ばしてのストレッチやヨーガをする場所にもなる。ハンモックを吊るして,午後の一時、昼寝するのにも良い。低いテーブルと座布団か御座があれば,又、用途も、夢も広がって来る。日差しが強ければ、或は間仕切りが欲しければ,簾(すだれ)を下げれば良い。
 気の合った友人達と、企画を練ったり、ゲームをしたり、麻雀をするのも愉しい。コンピュータも楽しめる。一寸した、カフェやクラブもどきのラウンジにもスタジオにもなってしまう。タイかラオス製、或いは,イサム•ノグチの、モダンでクラシックな洒落た提灯でもあれば,夜も充分楽しむ事が出来る。
 周辺の風情、何もせずに、鳥の声、風のそよぎ、ドサッとヤシの実が地上に落ちる音、遠くの方から、時たま、聞こえてくる車やバイクの音、近所の生活音。テレビやラジオの音。おばちゃん達のお喋り、何処からとも無く聞こえてくるタイのポップス。色々な音が,絶妙に合わさって、周辺の環境音楽となっている。

 ただ、何もせず、自分の奥深い中心で、あるゆる音を聴いていると、素晴らしい静寂、平安が、環境音と平行して降りて来る。無音の音が周囲の音と、同時進行しているのに気付く。真に寛げる時、音と、音無き音との両者を同時に聴いている、と言う不思議な瞑想状況にはいってしまう事も在る。これが堪らなくいい。この間合いが判ってくると、煩雑で煩い都会においても、周囲に振り回される事無く、結構楽しめる。周辺は円周になり、円の中心にあれば、そこに、スタンスも生じて来る。だが中心を知らなければ、円周は落ち着かなくなってしまう。先ずは、センタリングという技法(タントラ)が入口になる。中心を定め,フィットさせる事だ。
 内側の中心に無音があって、始めて、音が存在できる。そこで、音が生きて来るのだ。だが、内側に無音がなければ,周囲の音も,雑音となりかねない。相対性理論である。音の真髄を聴く。それは無音の音である。それを確認すると,意識が目覚めて.基盤が出来て来る。
 物思いに耽るのも,空想するのも,想像するのにも、この上ないステージとなる。基盤が極まって来ると,何気ない事も素晴らしくなって来る。無論、瞑想空間としても良い。良い夢が見られる。ユティリティー(多用途性)があって、しかもユニヴァーサル(融通性)の在る、しかも風雅な空間がいい。

 インド、タイ辺りでは、当然、日本とは気候も風土も違い、暑く、それ故、生活もシンプルで、当然、より開放的なのだが、ベランダは、日本で言う所の、”客間、茶の間、縁側”の三つの役割を果たしている様に見える。それに加えて、庭園をより楽しむ為の,東屋(庭園の中にしつらえた休憩用の簡単な建物。)という機能もあるだろう。
 タイ、ラオス辺りでは、東屋は東屋としてポピュラーで、大きなガーデンを持つ、タイの高級リゾ−ト等は、受付やガイド、インフォメーションにも、たわいのないお喋りするのにも、散歩の合間に休憩するにも。そして昼寝するにもグッド。庭園の中の、ユニヴァーサルな、間空間になっている。庭の美観にも貢献していて、ワンポイントのアクセントとなり、”馬子にも衣装”、原生林も,ジャングルも、庭らしくなって来る。

 縁側とは、無論、縁、すなわち”仏教用語で、”縁起”、詰まり、”人と人を結ぶ、超自然な不思議な力”、に側している、という深い意味がある。京都の龍安寺の縁側には印象深いものがある。茶の間は,禅から生まれた、家の中心となる所。茶や食事を楽しんだり,団らんや談笑を楽しむ,寛ぎの、和空間である。
タイ、ラオス,ミャンマー、カンボジアの仏教、ヒンドウーの寺院建築に於いても、本堂の回りに、廊下の如く、回廊を回し、正面には広くしつらえたベラン ダ、大きいのでテラスと言った方が良いかもしれないのだが、大きな広がりになっている。日本の能舞台も、寝殿造りの屋敷の周囲に廊下を巡らし、延長させ、 特別な空間を作ったもののようだ。そこにも、ベランダと言う宇宙、を見る事が出来る。
 薪能ともなれば、かがり火で舞台を照らし、野外に特設したベランダ様の舞台と廊下がある。有名な、京都の清水寺の舞台も,大きなベランダと言っても良いかもの知れない。太い柱を組んで、高台に設置されている。安岐の宮島もしかり。視覚的にも,風雅な宇宙的空間となっている。

 日本に限らず、仏教、ヒンドウー世界、中国も、そしてアジア全般に言える事だが、殊更、“間”に拘った、間の文化と言えるだろう。その”間”に、空間に力を見いだしたからなのだ。
 空という概念の発見は大きい。空は、インドでは、仏教以前から知られており、今では誰もが知る力の空間となっている(前記事「空の極み」参照)。それを、地上に実用化サイズにしたのが、ベランダなのだ。精神構造も,”間”を意識すると整って来る。寺院建築。には、そんな智慧の力も秘められているのだ。空間を埋める事に、躍起になってかまけて来た近代文明にとっても、思わぬ智慧と力となっていくだろう。

 英知とは、感応する能力の事だ。それは、単に知識が多いという事ではない。誰でも修行すれば、自分のものにする事が出来る。無心になればなるほど、感応する能力は鋭敏になって来る。理解度も増して来る。
 例えば、素晴らしい鐘の音は,一瞬にして,邪気を払い、人を無心にする。そして、内側に、何もない空間をクリエイトする。ステージが整って来るのだ。寺院にある様な、大きな鐘は、頭を落とし、腹に響く。
小さな鐘は、デリケートで,柔らかい甘いトーンは,内的宇宙の奥深く迄、貫いてしまう。何とも、クリエイティヴだ。波動はやがて、龍がうねる様になって、領域を広げるように、聴こえて来るのだ。そして、そこに間が生じてくるのだ。そんな思いで、鐘の音を聴いた事はないだろうか?
 自分でも、時々、古代(とはいっても500年程前のもの、金、銀、銅、錫等、五種類の金属の合金で出来ているそうだ。)のチベタン•ベルの、柔らかく、澄んだ、甘いトーンをたのしみにしている。このところ,殆ど毎日、一回は聴いている。その”間”に、美味く同調、フィットできると、素晴らしく愉しく、力も湧いて来る。間は力となってくる。間に力がないと、詰まり空間がないと、イライラしたり、混乱したり、落ち着かなくなってしまう。間を力とするには,間を意味あるものにするには、コツが要る。
 人の心は、遊んでいる時の方が障害がない。邪気も無く、ゆとり、間合いがあるからなのだ。切羽詰まっている事や、忙しい事に、同化してしまったら、何事も旨く行かないからだ。飲み込まれてしまう。内側の空間にゆとり、遊び心を造る事が、瞑想の”質”そのものと言っても良い。間の創造なのだ。

 今が、質の時代に入ったと言われるのは、アジアは無論、欧米の人たちが、この30年程、量だけではなく、質にも拘り始めているからだ。それも、空間の質に拘りはじめたのだ。間合いの秘密を知り始めて来たのだ。禅仏教、ヒンドウー•タントラ、タオ、ゾクチェンにその秘密がある。なにか、誤解があるのかも知れないが、瞑想、ディアーナ、禅という言葉には、本来,技法という”方便”はあっても、本来は、深刻なものでも,形式的なものでもない。考える事でも、勿論ない。瞑想と言う伝統は、欧米にはない。信仰である以上、二元性に関わり、超越は有り得ない。ブッダが、ことさら信仰や崇拝を嫌ったのは、その点でもあろう。神秘や、生きる意味を体験するには、自分自身で、直に、知るしかないからだ。言語が、意味をなさない次元に入るからだ。生きた生に入るからだ。

 人の感応する能力が高まるのは、無防備な時である。何故なら、抵抗や邪魔がないからなのだ。無防備であれば、無為であれば、リラックスして、落ち着いてきて、あらゆるモノゴトが生き生きと,”闊達”になって来るのが観えて来る。真に無防備であったら,否定するものは、何もなくなってしまう。対立も,疎外感もなく、そこから,エネルギーも愉しみも高まって来る、というものだ。今が極楽になってまうのだ。極楽とは特別な場所ではない。天国でもない。それは純粋意識と新鮮な心が織りなす、新たな次元と言ったらいいだろう。
 だが、深刻な時には、誰でも閉じてしまう。エネルギーも閉ざされ、硬直してしまう。緊張すればする程、能力は落ちて来る。何も見えなくなってしまう。緊張 度が高まって来ると、感情が高まり、興奮し易くもなって来る。ものごとが複雑で、ややこしく、冷たくなって、悪循環が始まってくる。
 何故、人が深刻になるかと言うと、状況次第で、もし余りに敏感だったら傷つきやすくなって、社会に対応できなくなってしまうからだ。そこで防衛手段を講じる事になり、そして、習慣となり、その事に”同化”してしまうからだ。それに、おぞましい世界や、世間で生きる為には、防御も鎧も仕方がない。だが、その所為で、閉じたままになって、その事に同化して、真に生きる事が難しくなってしまう。敏感であればある程、苦労は絶えない。そして、防御すればする程,敵を生んでしまう。そして次第に鈍感になって,エネルギーを失ってしまうのだ。そうやってストレスは蓄積されて、エネルギーは閉ざされてしまう。世界全体が,閉塞感に覆われ、どーんと重たくなってしまう,という悪循環が続いてしまう事になる。

 本当に価値のあるもの、喜ばしいもの、信頼.愛、美しいもの、慈しみ、生きる歓び、それらは、閉じていないものにだけやって来る。問題があるとすれば、頭や観念、常識にとらわれている、という事。肝心なのは、そう言った素材や道具を上手く使う事であって、同化してしまったら、元も子もない。茶道も華道もそこの所が大事なのだそうだ。そこから先ずは出て来ない事には何も始まらない。
 エネルギーを、頭から、ハートに降ろして来れば、多くの問題は消える。熟達すれば、腹に中心を定めると容易にエネルギーを動かす事が出来る様になる。暫く、ハートに意識を移しておれば、頭もやがて整って来る。
 山や川、森、海の側には、自然が侵されず、タオが漂い、脈動して、いたるところにエッセンスが満ち満ちている。そういう素晴らしい環境のベランダはパラダイスとなる。無為であれば、クリエイティヴな空間になるからだ。 “間”という文字を見ると、門の中に”日”、詰まり太陽がある。明らか、明るい場所.という意味であろう。間,それは”時空のエッセンス”。そして、間そのものには、姿も形もない。時間にも,距離にも、特定の領域や空間にも当てはまる。色々な意味が在って,深い。
 真っ暗闇に明かりを灯せば,自ずと間が生じる。日中、木陰にはいれば,そこに”間”を感じる。何もせずとも,木陰が,間になってしまう。池に花が咲けば,そこに新たな間が所持て来る。何ともこの世は素晴らしい。日本流の“見立て”という文化にも近い。昔の人は,そうやって智慧を開発したのかも知れない。5000年前のシヴァの時代に、心を馳せてみたくなって来る。人の意識に,間が生じて来て、始めて,”人間”になれるのかもしれない。

 面白い事に、日本語では、時間にも、空間にも、”間”という文字が、共通して使われている。時間と空間に仕切りがない。時空間と言う。
 欧米の言語では,時間と空間とは,time と space、それぞれ別個の言葉である。だから別個に考える。二つに次元の繋がりが、何処にあるかは見当もつかない。我々にとっては当たり前の”即”が,彼らには神秘と映る。東洋の神秘という鍵はここに在るのかも知れない。
 だが、インドでは,5000年もの昔に,仏教、ヒンドウー以前に、既に、時間と空間の関係、タントラ、相対性理論を発展させて、時空が一つのものである事に気付いていたそうな。シヴァ神に依るものとされている。無論、大昔、ノーベル賞なんてものはない。インドには凄い潜在力が備わっている様だ。知識、それも表面的な知識や哲学ではなく、明知(ヴィディア)、智慧を発達させたのだ。ゼロや無の概念の発見も凄いが、元々は仏教用語で、”時空間”という言葉も凄い。相対性理論に始まり、間(はざま)、間合い、間に合う,間が悪い、桶狭間、 知らぬ間に。音楽では’間’のとり方、リズム、テンポが主役となって来る。間が命だ。昔の日本では、間仕切り、屏風やふすま,障子を使って、次元の異なる 空間を創りだした。粋な計らい、と言ってもいいだろう。

 ”間々ある”ことだが、間には、機会、チャンス、タイミングの意味も在る。魚釣りでは、重要なポイントだ。潮加減、流れや障害物と言った蔭の間合い、当たりのと合わせのタイミング、間合いをはかる事、一致させる事,それが間合い。魚釣り、ボクシング、ムエタイ流のノー•モーションのカウンター•パンチ、お相撲さんの仕切りや投げのタイミング等,間合いや駆け引きをよく観ていると面白い。意識の基盤をさだめること,そして集中力で、あらゆるものが面白くなってくる。

 サンスクリット語の”マナ”という言葉は、スピリットを表し,そこから、ケルト語の“マナ”、そして英語のマン、詰まり、人が生じた、と言う説がある。マナなくして、人にあらず、という事にもなって来る。インド•ヨーロッパ語という様に、欧州の言語の源は、サンスクリット語、古代インドの言語で、現存する最古の言語とされている。言霊の力のある言語とされている。つまり、日本語同様にトーンにも特別な意味が在るという事だ。
 ケルト族という人々の源流が、中央アジアにあるという点にも考慮したい。無論、それだけでもないだろうが…
 因みに、日本語のルーツは、ロシア語とも、南インドのドラヴィダ語ともいわれている。マというトーン(言霊)には,不思議な,根源的な魔力があるようである。マナ(心、愛)、ママ(母)、マ(真)、マハ(マカ、大きい)、マ(魔)、マー(感嘆詞)、マドロミ(睡)。古代ペルシャの僧侶、呪術師を”マギ”と言うが、マジック(魔法)はここから産まれて来た言葉だそうだ。
 陰陽、様々な意味が在る。日本文化も、アジア諸国とは気候風土、言語は違っても、”間”に拘った、アジア文化。例え、無意識の内にも、アジアの人は、無形の”間”を使い、”間”を生き、”間”を生かしている。だが、意識すると,より面白くなっていく。間が力となって来る。

 では、門の中に月があったらどうだろう? それに火偏がつくと、”燗酒”の燗(かん)になる。寒い時には何よりだ。乙だね。門の中に、”木”があると、”閑”(ひま)という文字になる。静かでいいね。口があれば”問う”という文字になる。耳ならば、”聞く”という文字になる。門の中に”音”があると、”闇”という文字になる。口を閉じたまま、声を出す、転じて、”入口を閉ざして中を暗くする”ということが、”闇”という文字の原意となったそうだ。闇の創造が,闇となったのだ。
 門の中に,鳥居、詰まり神秘的な力、スピリット、カミ、の象徴があると,“開”、開くという意味になる。開花する,開門すると言う風に使える。だが、スピリットがなければ、ドアは開かないという事になる。門の中に王が居て、三水の偏がつくと,”潤す”という文字になって来る。水の原理を表している様だ。いいね。タイ国みたいだ。

 閃き(ひらめき、せん)という文字も面白い。門の中に人が居る。例えば、誰かが、一瞬、観えて、直ぐ門の蔭に隠れる事が、原意なのだそうだ。一寸、忍者みたいだけどね…
 何か観えた? それが一瞬の閃き、一閃だ。直感かも知れない。門の中に、活という文字がはいると、闊(かつ)、広々としている。度量が大きい、という意味になる。意識が広がることを言う。好きな文字だ。

 インドの首都、デリーという言葉の意味は、ペルシャ語で、”門”という意味なのだそうだ。何故、インドでペルシャ語の地名なのかは、嘗て、ムガール帝国の首都だったからである。門、というステージに、現れてくるもの次第で,位相も、次元も,意味も変わる。ロンドンのマーブルアーチも,パリの凱旋門も,デリ−やムンバイのインド門にも深い意味が隠れている。日本にも,無数の門がある。馬場先門、半蔵門、桜田門、門前仲町… 門構えに拘る人も多い。門、一つとっても、遊びだすと際限がない。
 趣(おもむき)や風情、情緒,エネルギーと言ったエッセンス、エスプリは、そして、あらゆるアジアの文化は、この“間”から生じて来るようだ。「和」もその一つなのである。その「間」に、密度の濃い、生の、時空のエッセンス、コンフィデンス(秘密、力、信頼,自信)が生じて来るからなのであろう。

 間の力を知れば、間はやがて創造的空間になって来る。力とは,気付きの力でもある。気付きがなければ,力は生じないからだ。枠組みが取っ払われ、本物が見え始めてくる。良いアイディアも浮かんで来る。智慧も閃きが、起こって来る可能性も起こる。静かで、緑に囲まれ、風通しが良く、出来れば、水の流れや、海が観えれば最高。ひんやりとした床板を、裸足で歩く、という快感を楽しむ事が出来る。水辺だったら、ざぶざぶと水にはいって、水と遊びたい。

 風のそよぎ、水の流れる音は最高の音楽だ。そして、漣(さざなみ)は,宇宙のリズムを司る。朝の光、夕焼け、そよ風を楽しむのも良い。砂浜を裸足で歩くのも気持ち良い。板の間や大理石の床を裸足で歩くのも素晴らしい。私は裸足が好きだ。健康にもいいし、気分がいい。裸足で歩く歓び。
 欧米人は特に裸足で歩く事が好きな様だ。タオ島のレストランやカフェは、靴を脱いで、タイ伝統の、靴を脱ぎ、裸足で入る店が多い。日本と違って,スリッパ等というものはない。それがいい。

 他愛ない事が、何でもない事が、素晴らしくなって来る。その事にも気付きを深めたい。それは、意識が広がり、感応する能力が高まって、意識も、身体も敏感になっているからなのだ。“素”という次元である。宇宙意識の原点である。
 無心は,マインドや心に対立する訳ではない。唯、マインドを脇に置いて、間を広げるコツなのだ。やがて内的宇宙が広がって来る。あとは”サイレンス・ドウー・グッド!(S.D.G)”だよね。
 満天の夜空を楽しむにも良い。全宇宙を手にする事が出来る。シンプルになるにつれ、心にユトリが生じ来る。頭も整ってくる。何かが、首筋の内側から、胸や背中、鳩尾辺りに迄、ひたひたと降りて来る。
気持ち良い。甘露、甘露!

May everything gonna be alright!

2008年4月20日

肉骨茶

 マレーシアの様なイスラム教を中心とした国にも,様々な料理がある。マレーシアの料理、南インド風のヒンドウー料理、インドのイスラム料理、この辺りがメインとなっていて美味い。実用食と言ってもいい。 他 には、ヴェトナム、イタリアン,フレンチ、スパニッシュ、メキシカンに、普通の欧米料理、ファースト・フード、ペナンやクアラルンプールの様な大きな街で は日本料理もある。それに隣国のタイ料理は、人気があって当然だが,中華料理、それも海南中華(はいなんちゅうか)と呼ばれる、南アジア風の中華料理が美味しい。
 イスラム国なのでアルコールや豚肉は一寸、と思いがちだが,中華の店に入れば、そこはノー・ウオリーズ。無論、イスラムの人たちはやって来ない。

 ここは,コタ・バル、マレーシアの北、クランタン州の州都。マレー語で“新しい街”という意味だそうだ。マレー半島の東海岸、タイの国境に近い。タイとの国境を徒歩で越え、そこからバスで,小一時間程でこられる地方 都市である。街は、クアラルンプールの様に近代的ではないが、ローカルな街としては奇麗。マレー風の伝統的な家もちらほら見える。
 博物館も多く、地域の伝統文化を保護するカルチュアーセンターもある文化都市だが、ビーチ・リゾート,ダイヴィング・スポット、ナイトマーケットやセントラル・マーケット等,エキゾティックな見所も近くに多いのだ。

 この辺りは、イスラム教徒が95%を占める、と言われる所だ。マレー系、インド系の人が多い。
 イスラムの女性達は、イスラム世界のトップモードとされる、イスタンブールやデリー、ムンバイのファッションに夢中のようで、街中に花が咲いてように華やかになる。まるで、ヒンドウー世界のように華やかだ。 ドーム状の市場に入れば,イスラムの詠唱、アザーンが流れている。アジアっぽいイントネーション、小節の効いたアクセントがいい。
 インド、インドネシア、タイと並んで、マレーシアは“バティック(ろうけつ染め)”で有名な地域である。日本では“更紗”といい、又、再認識されようとしているそうだ。綿も絹も当然ある。西陣織の様な布地も良く見かける。藍色、或は茶色を中心とした渋めの、一寸、上等な“バティック”で、自分のシャツを創ってみたくなってくる。結構、高価なんだ。いい布地使うと、一万円、裕に越してしまう。

 たまたま、マクドナルドで出会ったマレーシアの女性に聞いてみると、無論、イスラム教徒のマレー人女性だが、今のマレーシアの豊かさ故か、華やかなものが出回り、インドやトルコ(イスタンブール)のスタイリングに、マレーシアの布地を使ったものが、“ナウい”のだと言う。いにしえの昔から今に至たる迄、デリーやイスタンブールは、イスラムの女性にとって、永遠の“都”なんだろう。街の活気もそこから生じてくるかの様だ。

 街のあちこちの屋台やレストランで、南インド風にバナナの葉っぱを皿にした、伝統的なイスラムやヒンドウー料理が美味しい。そして、ここの海岸は,今では,“恋人達のビーチ”と呼ばれる,ロマンティックな呼び名になっている海岸があり、かつては、旧日本帝国陸軍が、初めて上陸した地点でもある。ここから、マレー半島に於ける旧日本軍の連戦連勝が始まった、と言われる。歴史をひもとけば、ビルマ戦線では、それこそ“こてんぱん”にやられてしまったが、又、真珠湾攻撃は、“闇討ち”だから別として、旧日本軍が華々しく活躍し、勝利を味わった唯一の場所なのだそうだ。日本の人は、知らないものもいるようだが,地元の人は,若者から年寄り迄、誰でも、その事を知っている。
 ここでは、ビールも飲めるが,値段が高い。ビールはタイの三倍もするそうだ。良くは判らないが、日本と同じか、其れ以上ともいわれる。アルコール好きには一寸つらいが,ものは考え様で、イスラム国でビールが飲めるだけましだ、と思えば良い。中国系の人が多いペナンやクアラ・ルンプールには比べるべくもないが,この街には、小規模ながら中華街もない訳ではない。
 いつもは、大抵、マレーかインド風のイスラム料理なのだが、その日の夕食は、何となく海南中華。一寸、町外れにあって、中華街はやはりFunk’n Nasty。
 中国語で、“肉骨茶”と書いて,“バッコッテェー”と読むのだそうだ。茶という文字が見えるが、所謂、お茶ではない。ご飯と一緒に食べる。一言でいうと,“鍋焼きの、豚の固まり肉のシチュー”である。中国のスパイス、八角が効いていて,香り高い。料理が運ばれて来る時には,陶磁器の鍋の中は、ぐらぐらと煮え立っていて、見るからに美味そう。鶏肉や牛肉の“バッコッテェー”というのもあるそうだがマレーシアの中国人には,豚に合う料理なので豚が美味いのだ、と言う。RM6と言うから約60Bt.、約200円位。少々高価であるが,肉の量次第では安い店も在る。
 バンコクにも、チャオプラヤ川沿いに、ビーフンのラーメンにビーフのバッコッテェーをのせた美味しい料理、“センミー・ナム・ヌア”があり,何か中国のイスラム料理風で美味しいので、バンコクに居るときは、始終、食べに行く。
 よく働く人やサラリーマンは、朝から熱いバッコッテェーを召し上がっている。ニンニクも生姜も効いていて、スタミナは充分附く事だろう。

 マレーシアでは、大体90円〜100円くらいから一品料理は食べられる。それ故、肉骨茶(バッコッテェー)は、割と高価な食事である。だが、内容、実質を考えれば、決して高価ではない。店にも依るが、大きな豚肉の固まりが、三つくらいは入っている。スタミナ食だ。だが、タイ同様に、時には40度を越す暑いマレーシアでの,熱い肉料理は殊更美味しい。フーフーいいながら、熱い料理を食べ終わる頃には,汗は出きってしまい、後味は,さっぱりと爽快である。熱いジャスミン茶で締める。そう言う習慣がついて、南国では、余り冷たいものを食べないようにしている。尤も、ざる蕎麦と冷や奴、それにココナッツやマンゴーのフルーツジュースは別であるが…
 熱くて辛いココナッツ風味のチキン・カレー,或は熱いバッコッテエー、それに、熱いチャイやコーヒー、中華風ならジャスミンティー。さすれば、暑さ等とは同化してしまい、気にならなくなってくるのが不思議。サウナに入ると思えば良いのだ。要は、暑さから“逃げたらあかん!”それが一番の避暑となる。

 次の日に,別の中華の店にいってみた。何人かの日本の旅行者と一緒だったからだ。この店が知られているのは“茶碗蒸し”の所為だと聞いていた。中華の茶碗蒸しといっても,蒲鉾や銀杏が入ってないだけで、日本でよく食べる茶碗蒸しと特に変わらない。出汁の味も、鶏肉と貝柱の出汁で、味も風味も丁度良い。丁度良いのは,美味いのだ。
 その茶碗蒸しと、ポテトと野菜と鶏肉のカレー風の煮込み,それにご飯と言う、さっぱりと美味しいディナー。それ以後、茶碗蒸しの味が癖になって,家に帰ってきても,“茶碗蒸し”を良くつくるようになってしまった。アジアに居れば,一汁一采でも立派なディナーとして食べられる.鶏も卵も入っているしね。鰹節と昆布、それに一寸高価だが、貝柱の出汁が美味い。タイ料理にも良く使う。牡蠣を入れても、海老を入れても美味い。後はご飯だけでいい。うどんやそばに載せてもいい。蒸し器があって、卵と出汁と有り合わせの食材、野菜、シーフード、鶏肉等があれば簡単にできる。例え、何も具材が無くても,青い菜っ葉と出汁と卵さえあれば、結構美味しい。

 タイでは、魚介料理を“蒸して”食べるのが割とポピュラーなので、自然とタイやバラクーダ、ダツ、鱸、烏賊、蛸、蟹、海老や温野菜のサラダ等を良く食べ る。後はソースを工夫すればおいしい料理となる。ライム、バジル、レモングラス、ミント、梅酢やショウガ、胡椒、山椒、トマトソース、和芥子がキーポイント。シンプルに、ライム、出汁醤油に、唐辛子か山椒でもいいんだけどね。
 三つ葉のかわりにパクチ(香采、コリアンダー)やバジル(バイカプラオ)を使い,煎ったすりゴマ、炒ったカシューナッツや、ピーナッツ、鰹節、貝柱、こんぶ等の出汁が入れば,最高だ。今は、殆どタイの素材を応用している。しかも、一寸、和風なタイ料理だ。今度,烏賊のするめの出汁,牡蠣オイル、ココナッツミルク、それにナンプラーも和食に試してみよう。秋田のショッツルは日本のナンプラーなのだ。ご存知だったかな?

 今回は中華に焦点を絞ったが、食べ物がおいしくて,しかも値段が安い国はそれだけでも魅力がある。インド、タイ、中国、インドネシアという伝統文化に囲まれた、しかも融合的な文化が豊かなんだね。料理に国境がないのは、音楽や芸術と一緒、政治性がないのがいい。
 日本の料理法も、ここでは、応用が利く。日本料理のルーツをたどってみれば,例えば、鰹節はモルディブがルーツとされる。又、日本のファーストフード、“寿司”は南アジアの“保存食”や“ちまき”の様なものから発展したといわれる。今や、寿司はアジアのどこへ行っても食べられる様になってきたようだ。インドマグロのとろも、南インドや日本に行かなくとも、バンコクやペナン迄行けば食べられる。
 アジアの食文化は、北のモンゴル、チベット、中国、ロシア、西の地中海文化圏から、東の外れの日本迄、又、南のインド、タイ、ラオス、タイ、インドネシア、ボルネオ、ポリネシアの諸国とも、どこかで繋がっているのだ。まるで“華厳経”のようではないか。
 南アジアは,何処の国も,自然、農産物、漁業も盛んで豊か、そして大都市以外は公害も究めて少ない。海に囲まれ、熱帯雨林が潤しているからだ。一見して、混沌として、矛盾していながら、不思議に、妙に調和している如く、静かでありながら、しかも活気があって、住み易く,金もかからず、税金も安くな れば,程々に文明もあり、又、文明が、ありすぎると、人間は退化するし、面倒も心配事も多くなる。皆、良くその事を知っている。面倒がなければ、健康で楽に生きられれば、庶民に取っては、いう事がない。ヒンドウー、イスラム、仏教、タオイズムが見事に調和している。欧米人から見れば、まるで奇跡の様だ。思考の外の世界だからだ。でも、そこが私の好きな世界。
 聞いた話だが、“アジア”という言霊そのものには、“神性”という“意味”が在るのだそうな。気付けば、私達は、既にその“神性”の中に居る。

 マレーシアにはもう何回も来ているが,その度ごとに,新たな魅力が観えて来る。物価は一般にタイやラオスよりも少々高め。だが、ものに依ってはタイよりも安いものもあり、大量ではないが、牛肉、飲茶、“蓮の餡入りの中華饅頭”、インドのスパイス、インドかマレーシアの紅茶、ビスケット(英国製)を、マレーシアに来る度に、買って帰る事にしている。

 マレーシア全般に言える事だが、街が奇麗だし,きちんとしている。バンコクの様に、Funk’n Nastyではない。そこで、風情の点や情緒,深みの味では文化も違い、どうしても魅力の点ではタイには一歩譲る。又、姿形は違うものの、そう言う観点では、日本に良く似ている。嘗てのインド系の名首相、日本びいきだったムハンマド・マハティールのセンスが今だに反映されているかの様である。おまけに、イスラム国だけに,路上に酔っぱらいは、皆無である。当然、夜の街もいかがわしくない。女性が一人で旅しても,安心できる。最近は良く判らないが、嘗ての日本みたいだ。少なくとも,女性の不安感が少ない事が,環境の全てに反映している。
 最近は、豪州、中国、ロシア、欧米、日本からの旅行者も投資も増え、当然、経済交流、文化交流も華やかになってきている。これからの将来も楽しみになる。平和で、美味しい国は、素晴らしい!

2008年4月19日

マインド・エコロジー

  最近、エコ、エコロジーという言葉を良く聞く様になってきた。地球的な規模で浸透し始めている。当然と言えば当然だ。今が文明の転回点、或は節目なのかも知れない。同じエコでも、エコノミーなら経済の事だが、エコロジーの意味は、生態もしくは生態学のことだ。
今,話題の地球温暖化の問題や資源の無駄使いに注意しよう、もっと自然に帰って生き生きとしたい、と言う意味だ。焦点を変えようと言う事だ。

 エコを中心に色々な言葉も生まれてくる。少しずつ、嘗てのモノゴトの価値観が変わっていく。不自然な無駄な行為や、公害や地球の温暖化、資源の無駄使いに留意しよう、と言う事でもある。それは、只、何もせず、家でゴロゴロしているのではない。それでは「ネコロジー」だ。
 今は、エコロジーの時代、未来に希望が持てる様になってきた時代、という事だ。



 例えば、タイやヴェトナムの農家の発明によると言われる「アイガモ農法」、水田に合鴨をはなしての無農薬農法。鴨が害虫を食べ、水田を泳ぎ回る事で、稲を刺激して発育を促す、と言う一挙両得の農法だ。タイやヴェトナムでは、とうの昔から始まっている。
 全体を観る視力と少しの工夫、あとは、成りゆきに任せる、自然に任せる。レティット ビー、まるで老子の説く「タオイズム」のような新鮮でスマートなアイディアだ。ポール・マッカートニーもその助けの一翼を担っている。自然に沿った人の行為や行動を基盤にした自然な生、その在り方や姿勢(アティチュード)の事をも強調している。世界中に広まっていくだろう。新しいものが,次々と産まれてくるだろう。

 人は、日常性を生きている。それは、千差万別、複雑怪奇だ。人は、一人一人、皆それぞれ違うし、定義不能だし、一言では言えない。例え一人の人間であっても、一つの物差しでは、はかれないものが沢山ある。しかも、人生とは、中々、思う通りにはならないものだ。ストレスや疲労はそのギャップから生じてくる。その日常性からの疲労やマンネリズム、ストレスを、非日常性の中に解き放つ事、普通、それを、リクレーション(再生)、ホリデイという。  例えば、ストレスが堪ったり、怒りや不満、憎しみが現れてきたらどうするだろう? 多くの人は、理性で押さえつつも、その事に巻き込まれて、理性的になればなる程、その事自体が抑圧となって、かえって事態を悪化させてしまう事もある。それが習慣的になると、物事を否定的に見る様になってしまう。悪循環が始まってしまう。ニュートラルな部分、間合い、ゆとりがなくなってしまう。

その事が世界全体を重苦しくしている。閉塞感は、ここから生じてくる。

 ストレスが溜まるという事は、言葉を変えると

変換する力がない、という事だ。コンヴァースの運動靴でも履いて、一寸走って来るといいかもしれない。

何処かに、無理があるのだ。何事も進まなくなってしまう。

生は、大きな一つの有機体と考えると良い

全体をカミといっても良い。我々は既にその中に居る。

そこに繋がっている限り、気分も健康もそして心も維持できる。

私性が消える時,カミは生じ,私性がある時,カミは消えてしまう。

まるで、かくれんぼの様だ。

 生と言う有機体そのものは、実際、直に触れては居ても、形も無く、眼には見えないから、誰も意識していないが、それは自分等よりもずっと大きな存在である。

焦点を変えると,ゲシュタルト、一つ一つの要素の総和以上の全体が、観えて来る。

本来、そこには何の分割もない。分割,分析は人の勝手な認識法だが、実際には、あらゆるものが一体となっている。

マインドの特徴として,分割、分類、分析が押し付けられて、それが習慣性,思考に伴っている。本来の生の自然な姿が見えないのは、言葉やマインド,部分的、表面的な形に囚われているからなのかも知れない。生とは、額の上に眼鏡をかけていながら、その眼鏡を一生懸命探している様なものかもしれない。

 ローカルな汽車の旅というのも悪くはない。今日は,汽車の旅を楽しんでみよう。

 緩やかに揺れる鈍行列車,それにゆったりと心身を委ねると,風の音、窓の外の流れる風景がメロディーとハーモニーとなり、レールの継ぎ目の音が、ガッタン、ゴットンとリズムとなって,心地よくなってしまう。
面倒な事はどうでも良くなってしまう。

 何か,何でもかんでも速いのが流行のようで、東京と新大阪を、何と二時間台で繋ぐと言う、超高速の日本の新幹線は、やはり凄い中国で,今、評判の上海リネアも、時速400km以上で走ると言う。なんか物凄そうだし、海抜5000m以上のチベット高地を走る西蔵鉄道も凄い。

インドにも新幹線を国中に開通させる、と言う計画があるそうだ。

 最近の日本では,列車に依っては,スイートというデラックスなホテルの様なもの迄出現してきた、と聞いている。又、マレーシア経由、バンコックとシンガポールを3日か4日かけて、ゆったりと時間をかけて繋ぐ、高価でゴージャスな、名前はエクスプレスだが、決して速くはないオリエンタル・エックスプレス素晴らしい

オリエンタル.スロー.トレインだ。

 又、昔の話になってしまうのだが,良くロンドンからフランスを通って、イタリアまで列車を使ったのを思い出す。それをオリエンタル・エクスプレス、と呼んだ。ロンドンから、パリを通って、イタリアを抜け、トルコのイスタンブール迄行くからだ。時には,車を列車の後部に一緒にのせて、何度も往復したが,長距離故に、いつも二等の寝台車であった。

最近ご無沙汰なので判らないが、恐らく今ではユーゴスラヴィアが通れないので,もう走ってはいないだろう。

 又、インドのニュー・デリーから、タジマハールで有名なアグラ経由で、ラジャスターンのピンクシティー、ジャイプールを結ぶ,特別誂えのマハラジャ列車も、速くはないが豪華で素晴らしい。

又、最近では、デカンオデッセイという、ムンバイから、南に向かい、ゴアを通って、オーランガバード、エローラ、アジャンタを通り、ぐるっと、デカン高原を一周して再びムンバイに戻って来るという、ロマン溢れる旅も出来たらしい。地域的にも,文化的にも,民族的にも、色彩的にも鮮やかで、最も興味深い夢のある地域、を走り続けている。

 いつの事やら未だ不明だが、何れ、このマレー半島を走る、豪華な列車,オリエンタル.エクスプレスは,タイのバンコックから北に、古都アユタヤ経由、古都スコタイ迄延ばそう、という計画があるそうな。

 忙しく飛び回っている人や、好きでそうしていたい人には、飛行機や急行や特急がいいだろうし、インドやアメリカ、ロシア、オーストラリアや中国の様に、国土の大きな国では、汽車で東西南北と大陸を横切るには、3日も4日も5日もかかる所があり、寝台車が必然となって来る。

バンコックを中心に、マレー半島を南下したり、北上してチェンマイに向かうのもいい。シンガポールから、ラオス、カンボジアの方面にいくのも、長くても2日半か3日くらいで着いてしまう。

 普段は、一等車、二等エアコンと迄は言わなくとも、最も暑い時期は別にして、エアコンなしでもぐっすり眠れる夜行のノンエアコンの二等寝台というのがグッドだが、昼間、旅を楽しむと言う本来の楽しみには、鈍行の三等車というのもいい。

値段が安いのがエコノミー。

これより値段の安い乗り物というものは、徒歩か自転車以外にはない。

 と言う訳ではないだろうが、インド人に聞いた事がある。

それは、一等、二等には金が乗る、三等には人が乗る と言う。

何れはになっていくかも知れない。

 鈍行の3等列車と言うのは、時間はかかるが、時間がたっぷりあれば、何れ、何時かには、目的地に着けば良いのだ。座れさえすれば、値段も安いし、気分もイージーになれる。しかも車両は木造だ。あちこち,歪んでいる所も在る。昔のままだ。まるでタイムマシーンに乗ってやって来たみたいだ。その事自体が寛ぎとなって来るからだ。嬉しくなってしまう。

 様々な人が乗って来る。タイ、マレーシア、ラオス、ミャンマー、欧米人、中国人、インド人。どうも、日本人は、余り三等車には乗らないみたいだ。余り出会った事がない。安い上に、面白いのに、もったいない! 

 皆、思い思いの旅のスタイルで,旅を楽しみにやって来る。幸い列車は空いていた。二等にのる必要もなかった。目的地に行くのは無論だが、人はそのプロセスを楽しむのだ。

ここを先途とばかりに、美味そうなお菓子やフルーツ、食べ物を沢山持ち込んで、周りの人に配って、おしゃべりを始める、何処にでも居そうな、人の良い田舎の叔母ちゃん。

 時には、何頭かのヤギや何羽かの鶏を縄で繋ぎ、わさわさと汽車に乗り込んでくるおっさんもいる。

一昔前迄は、インド等では、無論三等だが、通路に携帯コンロを出して、炭火をおこし、通路で料理をつくり出す人もいたくらいだ。

しかも、ノープロブレム、マイ・ペン・ラーイ。無問題(モーマンタイ)だった。欧米や日本の列車なら,たたき出されるかも知れないが、ここはアジアなのだ。

 席が一杯の時には、網棚にさえ横になって寝てしまう。

深夜になれば、通路に寝るのは当然のこと。

最近は、車内が禁煙になってしまったので、これもエコロジーの一環だと思うのだが、どの客車も禁煙になってしまった。そこで、客車と客車を繋ぐ、トイレや洗面所があるジョイント部分の踊り場が、喫煙室になる。多い時には,狭い所に,十人くらい集まってしまう。

車内販売の珈琲屋や弁当屋も、何処かのお嬢様,奥様、臍だしネーチャン、入れ墨の兄ちゃんや,麻のスーツ姿のスマートな紳士、モヒカン,弁髪の欧米人迄、ありとあらゆる人達が、ここにきて一服しながら、一杯30円程の美味いコーヒーを楽しむ。所謂,タイコーヒーと言われるものの特徴は,黒いコーヒーの下に、白く層となって淀んでいるアメリカブランドの甘いコンデンスミルクをいれる事にある。濃く、甘く,苦くて,そして美味い! 日本でなら,ひどいコーヒーと言われそうだが,状況次第では美味い。

 たまに煙草を吸いに出たり、コーヒーを飲んだり、ヘッドホーンで音楽を聴いたり、本を読んだり、外の景色を静かに楽しんでるストーンなタイ人のおじさん。前のシートに座っている。私が好きで、いつも摘んでいるショウガ入りのイギリスのビスケットを勧めると、五枚も持っていってしまった。ショウガない美味いものは、皆良く知っているね。
 素晴らしいストーン
()を首に下げていた。珍しい模様と色をした瑪瑙だった。白とグレイの縞模様のトウートーン。見事なものだった。只の瑪瑙でも,モノに依っては、宝石以上に高価なものにもなってくる。価値感が少し変わりつつあるのだ。の話で、つい時の流れを忘れてしまう。石というものは,何か不思議な力を持っている。

 当然な事かもしれないが、私を含めて、チベット、インドやタイ、ラオス、中国、ネイティブ.アメリカンや、白人なら、アメリカ人、イギリス人、フランス人の中には石好きな人が多い。

石とは触媒だ。石を知る人達は、石を通じて、次元の転換、異次元のコミュニュケーションが取れるからなのだ。

そこに来ると、宝石だからといって、力がある、とは言い切れない。

要は、時分の深い意識レベルにフィットするか? 姿、形、色合いに囚われずに、波動の声を聴く事が出来るか? そして自分の生活に有効利用できるかどうか? がポイントになって来る。

最近一つ、いい石に出会っている。力は斬新で、マイルドでもあるのだが、これからが一寸愉しみが増えて来る。何か新鮮さを感じてしまう。

 夢中になって、小さな聲で囁きあう、若い、お熱いイスラムのカップル。

泣きわめく赤ん坊をあやす,若いお母さん。

車内と言わず、ホームの上にも、駅弁やお茶やコーヒー、タバコを売りに来る。

 日本の駅弁の様に1,000円とか、1,500円とか言う立派なものはないし、インドの様に美味しいチャイ木の葉に包んだ美味いカレー料理もないが、それでもローカル色豊かなもの、粽(ちまき)、餅米、バナナ、リンゴ、パパイアにマンゴー、それに、串に刺したシャモ(闘鶏の肉)の炙り焼き(シャモという言葉のルーツはタイ国の古い呼び名シャムサイアムにあるそうな。)、本場故にさすがに旨い。皮が特に旨い。ハジャイ駅で売っていのタンドリ・チキンはうまい。

炙った焼き魚、ナマズに雷魚、するめ、コーヒーや緑茶に、ビールやコーラや水もある。

目玉焼きと、ひき肉のキーマカレーをご飯の上に載せた弁当もある。

これが安くて、意外と美味い。100円位だ。 

売りものは、地域によってそれぞれ異なるのだが、ヒンドウー、仏教、イスラムを問わず、東洋ならではの文化なのだと思う。

 日本の鯛飯、アサリや穴子の深川飯、浜松のうなぎ弁当、下関のフグ飯の駅弁が懐かしい。横浜の焼売もいいねえ。

欧米の列車には、駅弁等を売りにはこない。

売店か、自分でパニーノか、サンドイッチ、パン、生ハム、飲み物を用意するか、急行だったら、食堂車にいく他はない。地域の名産も関係ない。

 時間やお金にゆとりがあれば、出来うる限り、バイクがあればバイクで、車があれば車で、或は汽車やバスや船で、或は、家に居ても、大地や海に触れつつ、未知を旅していたいものだ。

 さすがに、始発や終着駅の駅は立派な建造物だし風格もある。

バンコックの中央駅、ホァランポーンという始発、終着駅は、何か鉄道旅行の元祖の象徴としての、ロンドンや嘗てのボンベイのヴィクトリア・ステーション、ミラノの中央駅(スタツイオーネ・チェントラーレ)”、ローマのテルミニの姿にも似て、ガラスを張った蒲鉾屋根のクラシックな雰囲気も似ている。

だが、ローカルな駅にも魅力は在る。

その駅のある地域のとなっているのがだからだ。

地方に行けば,行く程、時間の流れがゆっくりなので、何から何迄、じっくり見る事が出来る。

幸い、せき立てられるている様な,忙しさという様な事はない。

伝統的なアジアのスローフードにスローライフが楽しめる。

スロートレインなら尚更だ。

 最近は、少し様子が変わってしまったし、バスもそうなのだが、予め一寸、声をかけておけば、最悪、少々遅れても,車掌さんは待っていてくれた。

だから、少し長く止まる時には,一寸、駅の外に出て、名物のそばでもおかゆでも食ってくる事も可能だ。

ローカルな、普段着の姿に溶け込むだけでも、その新鮮さに楽しくなってくる。

人の歩く様、働く様子、寛ぐ様子、おしゃべりに熱中する女性達、スナックやフルーツを食べる様子。犬や猫達の、何事もない素直で平和な様子。

田舎風のマーケットの華やぎ、街角に香るエスニックでうまそうな料理の匂い。

 タイとマレーシアの国境近くになると、仏教,ヒンドウー界とイスラム界とがオーヴァーラップして来る。タイにもイスラム教徒は少なくない。

やがて世界の三分の一は、イスラムになっていくだろう。

人々の姿形も変わって来るし、国籍は兎も角、人種的、民族的に、インド系、マレー系、インドネシア、西欧、ポリネシア系、中国系、モンゴロイド系と入り交じって来る。

いつもじっとしている人ならば、時には、手足を延ばして、羽を広げたいであろう。見なれた風景を変えてみたいだろうし、行きたい所も体験したい事もあるだろう。思い切り、心に残ったわだかまりを、解き放ちたいのである。

いつも忙しい人ならば、窓を開け放ち(三等車にはエアコンはない)、自然のそよ風に吹かれて、のんびりとしたいだろう。

汽車は街を離れると、ゴムの林、椰子の林、ジャングル、田や畑と眼に見えるものは、全て緑色になって来る。麻雀でいえば、緑一色(リューイーソー)。

汽車に乗ったままの、森林浴が楽しめる。風の薫りが素晴らしい!

 或は、遠くに行くばかりではなく、近くに、美味しいものを食べにいくのもいい。空いた道を見つけて、ワインディングロードをドライヴするのもいい。レンタカーでもバイクでもいい。

誰しも、その人なりの非日常性が必要なのだ。間合いが日t賞なのだ。その事が生活にリズムを与える。

床屋や美容院に行ったり、温泉やサウナに行くのもいい。

タイだったら,クラビやチェンマイにも温泉がある。

それに、温泉ではないが、ラオスには薬草サウナも在る。これが中々いい(前記事「薬草スチーム・サウナ」参照)。ヒンドウーや仏教のエッセンスに溢れたタイやインドのマッサージも素晴らしい。又、そんな気分に浸るだけでも、ほんの一寸した気晴らしでも、ホリデイ効果は生じて来る。要は気分の問題だ。
 生という無形の有機体と一つになる。

禅では、その事を無になると言う。だから、無程、現実的な事はない.

その合間に、もや事が、起こって来ると考えた方が普通に思えて来る。

そこには,本来、何の分割もない。何の形もない。意識のありようがあるだけなのだ。

全ての生命が一つに結ばれている事が,森羅万象の繋がりが実感できたら,敵も味方もない。鎧は必要ない。それが普通だと思う。

 勝ち負けに関わらず,今、起こっている事をより容易に起こリ易くするようにすれば善いだけだ。素直になれば、生とは,本来、実に簡単な事なのだ。

生を、難しく、厄介で、面倒なものに、あらぬ方向に変えてしまっているのは、根本的には、人間のエゴなのだ。人は難しい事、困難な事に挑戦したがる。

若いうちは、それも学びとして、体験として大切な事なのだし、苦労も挑戦もなかったら、生の深みや旨味に到達する事はない。

矛盾している様だが、深みを知れば、本来は、素直に、易しい事は正しいのだ、と思えてくる。

 視力がついてくれば、この世を動かしている原理のようなもの、タオが、いかなる所にも見いだせる様になるものだ。それを所有する事はないが、善も悪も、正も反も、生も死も、全てはそれに従っている。その偉大さは,ごく自然な当たり前の理解、普遍性(ユニヴァーサル)に在り、いのちの海の如く、全てを包み込む。その普遍性に通じている事を,本来、普通と言うのだそうだ。
 この世は、まるで「普通という名の魔法」(オーディナリー・マジック)のようである。あの世の事は判らないが、本物の「普通」であれば、この世は素晴らしい!

Or in love with life.

 眼に見えないものを、生の基盤においている人は、それを知っている。物事が如何に起こるのかを知り、二元性の相互作用、相互依存を知り、一方に偏せず、事態に調和し、故に、創造性を知っている。生きるとはどういう事か、を知っている。心のエコロジーの基盤も、その辺りにあるようだ。
May everything gonna be alright !



2008年3月29日

“知る”という愉しみ

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体。シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)、ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。それらを、自由に使えるのだ。
 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。


 タントラの一節に次の様なのがある。シヴァ曰く、

“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する”

 “知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              

                  







“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              

                  














                 
           “知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              
“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              
“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



 “知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



       “知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。それは、根源的な“知る能力”の源だ。
 そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。私にとっては、普通でいられる。
 頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。
 たとえ、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。
 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。だが、今はずっといい時代になりつつある。ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。「これ」こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。動と静の要なのだ。
 旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。そして、今、ここに”これ”がある。

百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか? ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
 お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
 あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。基本を押さえておけば、色々応用が利く。要はスープパスタという事だ(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,つまりパスタの一種なのだ)。

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。たとえ寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

2008年3月28日

ダイヴィング・ディープ

 シュノーケリングやダイビングを愉しむ人ならご存知かも知れないが、普通,潜水をしていると、如何に水の透明度が高くとも、深く潜れば潜る程、水温も次第にヒンヤリし始め、明るさは減って、少しずつ暗くなってくる。単純に考えて、4〜5メートルの浅場ならば何と言う事もないが,深みに入ると、太陽の光が、水のヴェールが厚みを増す程に明るさを奪われるからだ。
 だが、タオ島やピピ島等、珊瑚礁の海に潜って見ると、妙な事に気付く事がある。深く潜っているにもかかわらず,明るさが増して来る様に観えて来る事がある。

 珊瑚の林や,様々な魚の群れ、石や珊瑚、魚の群れが光を反射して、周囲が、鏡面状態の様になって来ると,光が反射しあって、やたらと明るく見えてくる事がある。丁度、雪山やヒマラヤで,思った以上に、日焼けをする様なものだ。意外な程,日の光が強力になって来る。
上を見上げれば,水の厚みを通して、太陽はそこにあり,段々と冷たくなって来る水温、その判断で潜っている深さが大凡(おおよそ)判る。
深ければそのような事はないのだが、光が海底の姿に反射しあって,思った以上に周囲が明るく見えることがある。本来なら,深みを増すごとに、少しずつでも暗くなっていく筈だが、これは“思いのほか”の、珊瑚礁ならではの出来事だ。

 似た様な事は、たまに街にでても、そんな気にさせられる事がある。街の雑踏や交通の煩雑さもものともせずに,ストーン・クールに元気な街をダイヴしてみると,新たな価値観,新たな華やぎ、新たな美観やコントラストが生じて来る。
 ここは,南国にして、スワンナプーン(黄金の大地)、アジアを代表する都、タイのバンコク。
そして地元の人が “クルンテープ•マハナコン(天使の都)”と呼ぶ、タイ王国の首都である。世界的にも,最も都らしい都なのだ。


 この都、クルンテープの守護神はシヴァ神。”軸”、”宇宙軸”、ダルマ、瞑想、タントラ、ヨーガとインド音楽を教えてくれた神様だ。ドーティーと言う褌一丁で、”勝利”を意味する“マタンガ”という象に乗って、雲上を、悠然と歩いている。タイ国の始まりよりもズーッと古くからここに居るそうだ。スワンナプーンが、お気に入りの様だ。
 ヒンドウーの最高神にして、仏教では自在天。世界で最も古い、しかも地上に降りた最初の神様だが,今、最も新しい。それは、水瓶(クンブー)の持ち主だからでもある。今の時代を現している。

 特に用事が無くても,たまには、地下鉄やスカイ・トレイン,バス、或はチャオプラヤ川や運河を上り下りする船のバスに乗って、川風に涼みながら、街にでてみたくなる。船だと、交通渋滞が全くないからだ。
 ココナッツでシャンプーし、爽やかな気分になって、熱いエスプレッソのタイ・コーヒーと焼きバナナ(炭火で、モンキーバナナをやいたもの,生よりも甘みが増して来るのが不思議。)軽く腹ごなし。
気合いを入れてから動き始めると、ビルの谷間や横町にも,何かキラッと光るものが見える事がある。何とも刺激的。今日も元気だ。ストーン•クールに行こう。

 何気なく素通りしてしまえばそれ迄だが、ゆっくり丁寧に見ていくと,なかなか素晴らしいものが観えて来る。何ともエキゾティックに、光り輝く、活気ある、黄金の都である。タイでは,黄金はブッダやシヴァ、ヴィシュヌ、神仏を表している。寺院は,黄金に埋め尽くされているかの様だ。
 “都”には,活気と華やぎ,何よりも“魅力”が無くてはならない。さもなければ、何の魅力もない、只の都市、只の街だ。都と呼ばれる街にも色々あるが、バンコクの他に、イスタンブール、デリー、ジャイプール、ヴァラナシ、ジョグジャカルタ、ロンドン、パリ、ローマ、ヴェネチア、フィレンツェ、クアラウルンプール、マラケシュ、カトマンドウー、嘗ての、戦争前のバグダッド、昔のシェムリアップ、日本だったら、東京は無論、そして、鎌倉、金沢、仙台、京都と言った所が、古都ではあるものの“都”と呼ばれているようだ。新しさや華やぎ、活気は無論だが、何か伝統的なものや民族的なもの、文化が無くては、深みというものがないし、何よりも都の風情や趣が無くては、らしくない。近代合理主義一辺倒では,風情や趣がなくなってしまうし第一成り立たない。重要な大地の部分が欠けてしまうからだ。面白いのはそのコントラストなのだ。そこに、相乗効果(シナジー)も起こって来る。

 何か新しい発見や,新鮮さを見つけると,人は誰でも、嬉しいものである。なんであれ,“未知”に触れる事は楽しい。“未知”とは、新鮮な喜びだ。新旧に関係なく、冒険心、好奇心を刺激する。どちらかと言うと、寒い日本流の“暖かさの文化”とは違い、一年中暑いタイでは、クールで涼しげな方が、ここでは”価値がある”。
 それでも、たまさかに、革のジャンパーやセーターを着る事に”あこがれ”を抱いている様なタイの人達を、エアコンの効いたデパートやショッピングモール等で見る事が出来る。

 時代はエコロジー、無理をするよりは、自然に沿っている方が、フィットネス、スマートで格好よいと思うのだが… 街中のあちこちに、流水や噴水が,飛沫をあげ、水を吹き上げていて、爽やかで涼しげだ。水辺で一服したくなってしまう。それは、南国の水の都ならではの、豊かさの象徴だ。

 クールという言葉は、今では、決して”涼しげ”という言う意味だけではない。無論,冷たい事や、冷酷さ、寒々しい事ではない。今風の英語ならば、静かで、粋で、謙虚で、慈しみがあるということだ。決して、無理して突っ張っているのでも、格好だけで中身がない、というのでもない。環境にフィットして、力みが無く、生き生きとしているのがいいようだ。

 今の時代、“波動の質”がテーマになっている。あくまで、クールとは、新時代を愉しく生き抜く在り方なのだ。街には様々なものが溢れ、只、単に新しい形、新しい製品という意味ではなく、伝統の中にも新鮮なものがある。新鮮な眼で見直してみよう。

 ”眼が新鮮であれば、モノゴトは須く(すべからく)新しい”

 詰まらなくて、退屈してるのなら、自分そのものが退屈なのだ。硬直していて、エネルギーがちゃんとフロウ(flow)していない、流れていないからなのだ。先ずは深呼吸からだ。

 エネルギーのある若い人は、眼が若く新鮮なんで、“未知との遭遇、出会いの為、なにか体験するために生きている”、と言っても過言ではない。その未知が、状況であろうが,ロックコンサートであろうが、ファッションであろうが、個人であろうが,モノであろうが,アメリカの新作映画、車やモーターサイクル、ムエタイ、サッカー、猫であろうが、象であろうが関係はない。何でも知りたい、体験したいのが、若さという美点である。年をとっても大事にしたい。

 未知である事、喜びである事、楽しみこそが重要になってくる。そこからヴァイタリティーがうまれてくる。
だが、そこにやはり何らかの筋金、軸、そしてハートがあると、若者はより注目して来る様だ。それに何よりも、若者はスピリットに敏感に反応する。誰しも、本物が好きなのだ。それに、スピリットがなければ,意味はないからだ。熱帯は、一目瞭然に光と生命力に溢れている所だから、余計そうなのかも知れない。

 最近のバンコクに於ける新しい事とは,日本やインドの“禅ブーム”に伴って、日本料理の店が増えた事である。美味い本格的なインド料理店も増えて来た。日本でタイやインド、ベトナム、地中海の料理がブームになっているのと平行して、タイでも、日本の味に“新鮮さ”(新しい旨味)を見つけた、という事だ。何処の世界も、無い物ねだりなのだ。しかも,バンコクには、日本人街等という特別な地域がある訳ではない。そこが中華やアラブ、他の文化とは,ひと味違う。ZENと言う名のデパートやカフェまでも出来て来た。伊勢丹も人気が高い。ロックやファーストフード、ジーンズ•ファッション、コンビニと言った欧米の文化と同様に、タイの文化に、“直に”浸透していて、それらがヒンドウー、仏教と共存共栄しているのがいい。両方あるのが何よりもいい。

 自動車も電化製品も、衣料品も,キッチン用品も、食料品も、デザインの良い欧米製も伸び続けているが、実用的な日本製の躍進も目立つ。日本のテレビドラマやアニメも人気がある様だ。日本への信頼感、親密感の現れ、と言ってもいいかも知れない。日本製品には、故障が少ない事が良いみたいだ。
日本人にとっても,日本のものが、殊更品質も良く、人気があり、上質に見えて来て嬉しい。タイでは,既に物質面に於いても日本が重要になって来ている。
インドや中国程ではないものの,タイの景気も上昇中だ。銀行金利もまともな様だ。未だに暫定政権だが,無関係の様だ。
タイの宇宙が体現して、発展しているからなのだろう。そして、まだまだ,伸び盛りだ。

 一方,日本人にとっても、タイは癒しの王国。観光客は年々増えてきている。ムエタイの修行にやって来る若者も少なくない様だ。また、最近は、女性の一人旅も少なくない。10年以上もの昔とは大違い、安心感が増しているのだ。それもシナジー効果の現れだ。欧米からの観光客はうなぎ上りだ。バンコクに居れば、それこそ、世界中の人に会える。先日も,タオ島で,夫婦で遊びに来た、ナバホのおばさんに出会った.素晴らしいトルコ石を首に下げていたので、チベットの人かと思っってしまった。

 尤も、もし何事も伝統だけにしがみついて、慎重にしすぎていたら、又、何の冒険もなかったら、固定化して、人生も社会も、退屈そのものになってしまう。陽気なタイ人にしたらとんでもない事だ。
伝統はそのままに,そして、それを発展させれば良い。伸びる可能性のあるものを延ばせば良い。
さもないと、マイ•ペン•ラーイの国ではなくなってしまう。
無論,人々は決して失ってはならないものも良く知っている。それが基盤となっているのがいい。

 熱帯雨林という、ブラジル、マレーシア、インドネシアとともに、公害で悩む現代にとっての、最も重要な“オアシス”を持っているタイ国だが、それでもこれからは、低公害車には税制に,大幅な免除が考慮されるそうだ。しかも,ガソリンの値上がりで,実質的にも様子は変わって来た。もっとも,世界中の車の方針は既に低公害車、低燃費車に転換していて,エコロジー、しかもエコノミーという新たなステージに移行している筈だ。新時代は、もう始まっている。

 タイ料理にしても,全てが単に“辛い”という訳ではない。その点は、美味いインド料理と同じだ。トムカーガイと言う,鶏肉をココナッツミルクや各種スパイスで煮込んだシチューや壷焼のタンドリチキンは,私の好物だ。始終、行ける訳ではないが、“ブッサラカム”のような、高級なタイ・レストランに行けば,品の良い爽やかな辛み、香り高く、こくと旨味のある、美味いタイ料理が存在する。タイの宮廷料理だ。特にビーフのカレーがうまかった。
 タイ料理には、さっぱりと魚や海老、蟹、貝類を梅やショウガとともに、蒸した料理を,ライムとスパイシーな、香り高い、ピリ辛ソースで食べるのもうまい。暑い国では,殊更美味しい。暑さが歓びとなってしまう。素材も料理法も素晴らしい。元気が出る事この上ない。風土に合っているのだろう。それはやはり、辛さと、スパイスの旨味に依るものなのであろう。それが、伝統の力だ。

 タイ料理は、高級レストランでも、安直な飯屋でも、屋台でも、何処で食べても、本当に美味い。センスが良いのである。
摩訶不思議なスパイスの使い方は勉強になる。インド料理と同様に、様々なスパイスを使いこなし、インド料理、薬膳料理、もうドラッグと言ってもいいくらいだ。無論、意識にも健康にも良い配慮がされている。
長い事つきあっているが、まるで無限宇宙に住んでいるかの様だ。
いや,もしかして、その無限宇宙の方が,既に私の中に住みついている,と言った方が正しいのかも知れない。魔法の様だ。
それでは、私って何なんだろう?

 タイの料理は、インド、マレー、インドネシア、ラオス、ヴェトナム、中国の影響もあって,様々なスパイス、その知識、伝統に基づいた、そして豊富な農産物、魚介類もあって,そのヴァラエティーが、無限の宇宙を創っている。
タイ料理とイタリア料理の融合したものを、私は“タイタリアン”、と呼んでいるが、和食風のタイ料理も、その逆も可能である。
本格的なモッツァレラチーズ(ヤギのチーズ)を使ったピッツァも、とてもポピュラーになって来た。どういう訳だか,ピッツァを食べると,ダイヴィングしたくなってしまう。何故なんだろう?
在るイタリア人に聞いた話だが,イタリア料理は,タイの方が美味いかも知れないという。いくつかの食材やソーセージ,チーズは,イタリアから輸入するしかないが、大方の材料はタイの方が,より多様で,野菜にも力があるからだと言う。タイタリアンという新語も,そこから生まれて来た。

 ざるそばの麺つゆに、紫蘇の代わりにバジルを使ったり、煎ったカシューナッツやピーナッツ、ライムもよく使う。
タイで食べる“ざる蕎麦”は、何故か殊更旨い。
ここの気候風土にもフィットする。冷えた、そうめんなんかも美味い。
カレーに鰹節、パスタに明太子はもう常識だが、昆布だしや貝柱もいける。
紅茶や緑茶にミントを添える。タイ式に,コーヒーに練乳を入れる。
しかもタイ国民は、日本人、インド人、中国人、イタリア人、フランス人の様に、皆、食い道楽。
最近は,アメリカ人やイギリス人も仲間入りしてきそうだ。美味いものを知ったのだ。


 タイは永い伝統文化の国、味の何たるかを、知っている。伝統も、新しいものも、両方が好きなのだ。センスに合えば良い。
いい加減と言ってしまえばそれ迄だが、偏っていないという意味にもなって来る。南国ならではの大らかさだ。ツボを押さえておけば良いのだ。
そのタイ料理、そのタイの文化に、直に“日本料理”が入ってきたのだ。
それにしても,“素材の美味さを引き出す事”を要とする、日本料理のブームは本物のようだ。椎茸、海苔、わかめ,昆布も売れている様だ。
何処の日本料理店も、大体、美味しいし、繁盛している。
ほっけ等の焼き魚に人気がある様だ.

 自然と、タイ料理にも影響は表れて来る。
その基盤に、タイと日本の食文化に“共通”のものがあるようだ。
無論、若者達だけでなく,和食は味その物がマイルドなので、年配の人にも受け入れられ始めている。それは仏教で言う所の“共有意識”に繋がっていく。
それはコモン•センスという、ごく表面的なものではなく、より深い意識に繋がる“コモン•コンシャス”、と言えるのかも知れない。

 何と言っても、ここは文化のオリエントにして、その上、文化の交差点。
元々,寿司にしても,茶や米にしても、東南アジア、インドシナ半島、雲南から東北インドのアッサム辺りが源流だそうだし,豆腐、納豆、醤油、塩から、味噌も東南アジアが源と言われている。
鰹節に至っては,インドの西南沖の島、モルディブと言われている。鰹の本場らしい。モルディヴは無論、南インドやスリランカでは、カレー料理に鰹節を使う事もある。私も、時には、昆布や貝柱、ココナッツと共にカレーにもタイ料理にも、ラーメンにも鰹節を使う様にしている。
又、最近は、スーパーで寿司も買う事が出来るようになってきた。一時、おでんを売っているスーパーもあったくらいだ。最近,見ないねー。
文化的な潮流が、古来から何千年にも渡ってこの地域を潤し、繋げていたのだ。もう何料理だなんて言えないね。

 余談になるが、南米のインカ帝国の成り立ちは,周辺を征服して,侵略したり、搾取したり、略奪して豊かになったのではない、と言われている。
世界の歴史の中では,実にユニークで、しかも実にクールな出来事だった。
インカの独自性は,“与える事で,豊かになった”事と言われている。
まるで、仏教やタントラ、タオのようではないか? 
何処かに同じ東洋人のスピリ