「私」と言う言葉は、「私」を、象徴していることに間違いはないが、私そのものではない。
それは言葉にすぎない。
それは一種の仮説である。
仮説とは、極論すれば、理にかなっているかどうかは、別にして、嘘(方便)ともいえる。
そのことに反対するつもりはないが、仮説だけで、あらゆる物が成り立っているわけではない。
知的に、学問的、哲学的に、「私」を探求しても、意味が無い。
表面的には何とでもいえる。
生まれ、国籍、学歴、性別、そして名前、様々な化粧、沢山の仮説、感覚へのこだわり、そして無意識の偏見・・・・・。
私と言う言葉が、象徴する背後にある本性とはなんなんだろうか?
恐らくは、問い、そのものが消え去った時、答えだけがあるのかもしれない。
それは知性や、思考の及ぶ範囲をはるかに超えた領域。
そこでは、只、それであることしか出来ない。
それは、まるで、無垢で、無限の神秘そのものである。
知的作用の特徴は、観察を一般化することを通じて、仮説を立てる事にあるわけだから、
解明、分析は無意味になってしまう。
何よりも、観察者が消えてしまうわけだから・・・・・・。
言葉は何とかその入り口まではたどり着ける。
一旦、そこに入ってしまうと、言葉輪意味を成さなくなる。
それはものではないからだ。
だが、それを知る以上の喜びは無い様に思う。
それは、大きな呪縛から、自由になれるからだ。
芭蕉の句を一つ。
静けさや、
岩に染み入る、
蝉の声。
2006年8月14日月曜日
「私」と言う仮説。
時刻: 15:27