2006年11月28日火曜日

ドリーム・ヨーガ 2

 自己を高める能力。それは夢見の質を変え、自分の世界に、ある効果をもたらす。シャーマニックな言い方をすれば、全ての世界とは夢である。人々は変わる事無く、夢見の質の変化を求め続ける。それは、不満、不安、恐れ、怒り、憎しみがあるからである。
 だが、根本を変えないと、何も起こらない。それが上手くコントロールする事が出来たら、肉体的にも、意識の世界に於いても「安心」が生じ、夢見の質は変わってくる。


 マンダラとはサンスクリット語では「円」の事である。「中心」という意味もある。視点のモードを変えると、「宇宙の全体性と調和」を表している図形でもある。それは、英知の次元でクリエイトされ、その英知をも内包している。
 よく見ればわかるが、マンダラは「○と△と□」とで構成されている。それで、宇宙全体を表してしまうのだから、実に良く出来た縮図だと思う。
 誰しもが、幸福を求め、自分の夢に満足したいと思っている。夢を楽しみたいと思っている。その為にはある種の力がいる。それは筋力、権力と言った質の力ではない。日常的に使う力は、夢に於いては役に立たない。マンダラとは、その為に使うパワフルな道具、或いは、「マインド・マップ」と言ったらいいだろうか。と同時に、「内なる平和と強さと言うセンス」をレストア(回復させる)してくれる。瞑想のベテランでさえ,たまに見るだけでも,心や意識に新鮮さが蘇って来るのだ。

 マンダラとは、見る者を、その人の心の核心まで連れて行ってくれる宇宙ガイドでもある。自分の内なる宇宙に行くにも、始めはマンダラと言うガイドがあった方が良いかも知れない。人の心、意識の深奥には、全体を見通せる視力も、又、たとえ嵐が吹きすさぼうと、何事もない静かなる庭園がある。それは誰にも備わっている。その人に取って、その庭園より美しい庭園は他にはない。そこにいる事は,幸福である。健康で自由、まるで、夢のような人生となる。勿論,誰しもがそれぞれ異なった夢を持つ。静かな庭園で寛ぐもよし,又,遊ぶもよし,力にするもよし。仏教の最も大切な部分である。マンダラは、そこに至る為の伝統的な道具、メソッド(方式)といっても良い。そこに至らないと、何事も始まらない。堂々巡りを繰り返すに留まってしまう。悪循環を断ち切る事が、まず肝要。

 仏教の伝統的なマンダラは、探求者が宇宙的な理解と、自分自身、自分の意識や心の構造を知る為のヴィジュアルな瞑想道具であり、マンダラ瞑想は暫く続ける事に依って、やがて世界を一つの巨大なマンダラと見える地点まで連れて行ってくれる。マンダラに瞑想する事、マンダラを見る事は自分の深遠な部分を見る事である。自分を知り、整える事でもある。視覚的なヨーガと言っていい。マンダラの中心は平和で美しさに溢れている。原初の境地、悟りの境地を表している。

 試しに、マンダラに集中し、集中出来たら、その集中している自分に気付いてみる。自分を見ているものは誰なのだろうか? 中心なるもの、そこから、目を転じて、周りを、世界を見てみる。見え方の質が、変わってくる筈だ。
 仏教徒とは、悟りを求める人々の事だが、生きた現世に於いてそれを得たいと思う人々である。仏教やタントラは、並の信仰中心の宗教ではない。むしろ、非常に知的で深遠な探求の道と言ってもいい。サイエンスに近い。だが、こつが判れば,そう難しいものではない。
 人生の目的は幸福になる事である。そして幸福は、自分で見つけなければならない。人それぞれ、共通する部分も沢山あるが、幸福の意味合いに多少なりとも違いがあるのは当然。青い鳥は、自らの中にいる。だが、いい夢を見る為には、先ずフォーマットが整っていなければ、どうしようもない。青い鳥は、見つからずに閉じ込めれたままだ。

 マンダラ・ワークを始めたら、最初のうち、ランダムな現象が起こり始めるかもしれない。日々の日常、同じ場所で、物事が何か違う起こり方が始まるかもしれない。ニュアンスが変わって来る。振り回されずに、よく見ておく事だ。何れ動きが緩やかになり、自然に治まって来る。ここでは、「無為」が肝要。それは、「静かなるエキサイトメント」になる筈だ。

 瞑想が進むにつれ、自分の周りすべてがマンダラを通して見るようになり、自分自身もマンダラとしてみる。人の身体の中にもインナー・マンダラというシステムが働いている。自分のセンス(感覚、知覚)を使って、世界を体験する。今いる所が世界の中心。教わった事、知識として外から得た事と、自分の感覚、体験的な知識(知恵)とに当然感覚のずれがある筈だ。体験的な知識、即ち、知恵はその人の宝だ。自分で開発したんだから。そこから出発する。
 世間的な知識は世間的な知識でしかない。それ以上でも以下でもない。それは、知っていて損にはならないし、世間では役にも立つ。だがその人、本来のものではない。共通の知識だからだ。勿論、地域が変われば使われる知識も変わる。それを認識しておく。自分の思考、感覚、知覚にとらわれずに、それらを見つめる事が出来たら、それは、無心の一瞥、その時、その人は、誰でもない。無心を極めたら、もう既に庭園に入っている。マインドや自我が頭をもたげだすと,扉は閉じてしまう。

 マンダラは、イメージと象徴の豊かさを与えてくれる。マンダラは私達の周りに常に存在している。浸透している。その事を知ろうと知るまいと、既に私達はそこにいる。
 朝の太陽、荘厳な夕日、うねるようにして流れる川の姿、ストーン・サークル、メディスン・ホイール、ヤントラ、クモの巣、樹木の年輪、天の動く様、花が咲く様、根が広がる様、巻貝(シャンカ)の螺旋… ひとが内なる中心を見つけた時、様々なイメージは「自ずと」平和な静寂に取って代わる。何と素晴らしい事か! 誰しもが、鍵を開け,幸福への道を歩いて行く事が出来る。
 仏教に拠れば、総ての生き物に仏陀(仏性)を見る。英語だと「ブッダ・ネイチュアー」というらしい。あらゆる音に、マントラを聴く。全ての存在に、マンダラを見る。そして、自分の夢を生きるのだ。
 明日(未来)は,今日から始まる。

(前記事「サイレント・ジョイ」 「エッセンスその2 インナー・マンダラ」 「マンダラ」参照)