夜、空を見上げる。月や星を眺める。
都会では、最近、星の見える数が減ってきた。以前は、まだ星 は沢山あった。それでも、一寸,郊外に出れば、少しは数を増す。
オーストラリア、インド、アラビア、アフリカ、アリゾナ辺りでは、もっと数を増やす。家の屋上へ出て、夜空を眺めながら、家族や友人と お喋りをする。取り分け、暑い国では、屋上が茶の間となる。
昼間、どんなに暑くても、以外と夜は涼しい。誰もがリラックスで きる。冷たく冷えた紅茶に、ライムを搾れば、最高の一服となる。
素晴らしいのは,ヒマラヤ。ここは特別だ。空気が生きている。 プラーナ、ルン(チベット語)、日本語だったら神気とでも言うんだろうか。
夜明けは、勿論、素晴らしいが、夜もいい。満天の星。しかも、 一つ一つが大きく見える。星座にしても、10倍以上も大きく見え る。ヒマラヤの夜空の星の数は、とても勘定できる数ではない。無 数のダイアモンドをぶちまけたみたいだ。
海抜4000mを越すと凄い。暫く滞在すると、不思議な事に数が 増える。
見えなかった星まで見えてきたりする。
一分間に3-4回、 多いときは10回以上も流星が起こっている。
月があるときは、ラン タンなしで新聞が読める。手を伸ばすと、月や星も手で掴めそうだ。
まるで空が降りてくるかのようだ。
満月だったら、天空のドームとなる。
完全なる静寂。聞こえてくるのは、無音の音。隻手の音声。アナ ハッタ・ナーダ。判りやすく言うと、何の音も無いとき、完全に無音の 時、聞こえる音。無音の音、それは確かに聴こえる。その音は全宇 宙に響き渡っているという (サウンデリァ、波動、サンスクリット語で、英語のサウンドの語源)。
それは、耳で聞く、と言うよりも、耳は只、伝える役目をするだけ で、意識の深いところで聴いている。その事を、「耳の光」、と言う。 見ると聞くでは、大違いだが、観ると聴くとでは、同じ源に辿り着く。 0は1ではない、が、無は一つである。
人が、音として感じる事が出来るのは、20~16kHzと言われている。「耳の光」が目を覚ますと、耳で聞く音だけではなく、身体全体でも、音にならない波動、サウンデリア(サンスクリット語、サウンドの語源)を感知する事が、可能となる。
引越ししたら、体調も運も悪くなった、と言う場合は、周辺の波動に注意して見るといい。
逆に、所謂、聖地と呼ばれる所では、その微妙な、「美しい波動(サウンデリア・ラヒリ)」を、感じる事ができる。 ヒマラヤ以外にも、プシュカル、ヴァラナシ、カジュラホ、スコタイと言う所は、波動の豊かな、ヴィブラント・ガーデンと言ってもいい。
満月の時には、ヒマラヤの峰々は、ことさら峻にして、水晶のごとく 煌く。鮮やかに、輝く月は、その周囲に、ボーっと大きなリングを作り 出す。条件や運さえ良ければ、虹色のレインボウ・サークルが出来 る。無音の波動と、光の波動がシンクロナイズして、しているせいか、 気温も丁度良い。
一切の緊張は解き放たれている。
不二の一体感で。身体がまる で無くなってしまったかのような無重量感。
あたかも翼なしで飛ぶが 如く、浮かぶが如く。天が地に入るが如く・・・・・ 全て、良し。
知られた事は知識となり、過去となり、記憶となる。新しい事,知 らない事,未知、リアルな事が現実となる。内なる力を解き放つと、 何か新しい次元と入れ替わるようだ。自然体とは、こんなものかと感 じる。
古いマインドが消え、新しいマインドが生き始める。意識は、冴え 渡り、心も新品に生まれ変わる。不自然なものは何もなかった。
インドの古い諺に次の様なの がある。
身体を意識していない時、身体が軽い時、健康と言い、 身体を意識する時、身体が重いとき、病と言うそうだ。
チベッタン・ベルのチーンという澄んだ音。
音は小さくとも、全宇宙 に浸透するかのようだ。
ロッジのおじさんが、煙草盆にお茶を用意し て、こちらに歩いてくる。
*写真は、ヴィシュヌ・レイクとヴィシュヌ・マウンテン(カシミール、インド)
2005年11月5日土曜日
SILENT JOY
時刻: 23:21