チベット仏教,そして真言宗にはマンダラという瞑想用のデザインがある。
マンダラとは、サンスクリット語で、円を表すという。
一見、円でないものもあるが、一般には、チベットの瞑想用の宗教画は、マンダラを含めて、タンカと呼ばれる。
ヒンドウー世界の、ヤントラにあたる、瞑想の媒体となるものだ。
多くのタントラ的なマンダラには、「ヤブ・ユム」という、陰陽が一体と成ったものがある。
光りと闇が、男性原理と女性原理とが、一つに成ったものだ。
それらは、エネルギーの二つの特性、陰と陽とを表している。
このタンカは、金剛サッタ(ヴァジラサットバ、金剛菩薩))とシャクティー(女性原理、エネルギー)とが一体と成った、縁起の良いもの。
それは、本質的に一つのものとされる。
確かに、言語の上では、二つの部分と成るのだが、そこが生の面白い所。
現実とは、言語の誤解が無い事だ。
二元論は、見かけ上の形から、やって来る。頭の次元である。
だが、本来は、実質的には、一つなのだ。心の次元に浸透する。
あらゆる、苦や執着の原因となっているのは、ある種の緊張、それは、「現実を自分と他人とに分ける事から生じて来る緊張」が原因だといわれる。
日常的に、私達がやっている事だ。
小さな部分である内はいいが、大きくなり、ヴィジョン全体に波及すると、厄介な事になってしまう。
頭を落として、素直に現実を見れば、判る事。
何かを深く感じる時、人は頭を落とす。
考える事は、頭の事、必要な時、使えば良い。
感じる事のセンターはハートである。
それは感覚であって、感情ではない。
心を開く事、それは誰しも持っている能力なのだが、光りが心に差し込み、地球、環境、生活を輝かせる事が出来るのだ。一寸、夢のようだが、夢ではない。
その時代は、とうに始まっている。
地球は神秘の場であり、絶えず不思議な驚きに満たされる。
光りがあれば、必ず陰がある。
昔の日本では、光りと陰の両者を一体なものとして、蔭、或は陰、カゲとよんだそうだ。
新陰流という剣術も、そこから来ている。
中々、深くて、良い言葉を作ったものだと思う。
世界は、別に、人のエゴ等にかまっていない。又、真実が虚偽を支える事も無い。
なかには、自分のエゴを守るため、真実を見ないようにする人もいるかもしれない。
真実とは、何か新しいものを造り出したり、何かを構築するものではない。
又、あるがままのものを、定義出来る概念でも無い。
又、それは、創造性でもない。それは、二次的なものだ。
全ての生きるものに、本来備わっている原初の境地。
人が生きる、基盤と成るものだ。
其れを発見出来れば、自分の限界を克服したという事にもなる。
そこでは、良い悪いはない。あるがままだ。
善悪、美醜は人の判断。
正しくあろうとするのではなく、自然であれば、生きづまりから、解脱する事が出来る。
月へ行こうが、木星に行こうが、宇宙の果てまで行こうが、この原理、ダルマから、タオから離れる事は無い。
目を覚ませば、生は、常に、全体性として存在している。
誰も一人ではない。一つの波ぐらいではあるかもしれない。
そして、相互に関係している。
月面にも、光りがあれば、陰が出来る。
不可分の一体性。シヴァとシャクティー。
「エッセンス」の所でも述べた事だが、仏教においては、全体性は太陽と月のエネルギーに集約され、象徴されている。昼と夜とで、一日である、と言っている。
それは人の身体の中にも流れている。その事をインナー・マンダラという。
そこには、プラーナが流れ、その通路(ナディ)があり、体中の72000とも言われる、スポットに波動を伝える。その微細な、エネルギーを、クンダリーニ、と言う。プラーナとクンダリーニとは別のもというよりは、互いに互いのエッセンスとなり、リアライズ(悟り)へと働き続ける。
二つの種類のエネルギー、陰陽のエネルギーが、インナー・サーキットで出会う時、明かり、光明がともる。
それは、本来、人の潜在性として備わっている。
だが、普通、未だ現実ではない、可能性としてあるという事だ。
自分の潜在性、自己の成就については、ただ、気づけば良い。発見すれば良い。
それは、人生における最も大刹那、目標の一つとされている。
インナー・マンダラに気づいた人の身体は、金剛体(ヴァジラ・ボデイ)と呼ばれる。
自己実現、ヒンドウー世界では、スワヤンブー(自己創造)と呼ばれる。
一寸、特別な身体のようだが、そうではない。
本来の、人の健康体である。ブッダの身体と成る。
そこには、力がある。不自然なものを自然に戻す力がある。そして知恵がある。
そして、静かな、ヴァイタリティーがある。
そして、不満も消えていく。
集中を通して、プラーナ(スピリット)と人の心がリンクした時、心と 心が焦点を合わせた所に、プラーナ【スピリット】は、集まって来る。
同時に、人の心も、バランスが取れ、スピリットと心は一体と成る。
このタンカ(マンダラ)は、その事を、成就をあらわしている。
ここに至ると、具体的な方便や言語こそ違え、ヒンドウーも仏教もタオもスーフィー(イスラム密教)もない。
在る意味で、現実、リアリティーそのものと言っていい。
その波動が込められている。
だから、見ていて、何となく、気持ちがよい。
不思議な力がある。
*シャンバラ カフェからのお知らせ。
この写真のマンダラのポスターは、チベットの国宝級のものを、イギリスで70年代にプリントしたもの。何枚かが、残っております。
数に限りがありますが、欲しい方にお分けしたいと思います。
梱包、送料を含めて、¥3000です。
詳しくは、メールアドレス、fortunesawada@hotmail.com 迄、お知らせください。