2006年11月29日水曜日

パワー・アニマル 4(鳥)


 パワー・アニマルに出会う事、それは、全ての旅の始まり。旅はまだ、深まってはいないのかもしれない。だが旅の可能性、意識を広げる事に関わって来る。目的の地、あるいは目標の近くまで連れて行ってくれる。

 パワー・アニマルのうちでも、鳥は沢山の意味を持っている。先ず、鳥についてのイメージは「自由」という事だろう。高くも、低くも、近くへも、遠くへも、地上を離れて飛んでいく事が出来る。鳥は、人類の長い歴史の中でも目標や夢であった。飛行機、グライダー、電話。インターネット、手紙、それらは、人が鳥を夢見る事から起こってきた。
 一方、鳥は宗教的な意味も持っている。聖なるもの,神の使い、そして魂のシンボル。特に,イスラム世界では、鳥は魂が昇華した創造的な生き物と考えられている。そして、「ハイヤー・セルフ」、これは殆どのありとあらゆる文化に於いての共通意識、コモンセンスだ。


 「青い鳥」は古来から,世界中で神話のように,お伽話として人々は夢を見てきた。その意味は漠然としているが、一言で言うと、幸福ということだ。真意はこんな事かもしれない、青い鳥とは、ハイヤー・セルフ(真我)のメタファー(隠喩)。その青い鳥を見つけて,さまよい、冒険の旅に出る。人生にはその意味がある。禅で言う所の,牛の足跡だ。失敗や苦労を重ねるたびに,人は賢くなり、世界を知る。上手くすると、自己に出会うチャンスも出て来る。幸福にも出会えるかもしれない。幸福って何なのか? 旅が続く内に,何となくその感じが判りかけて来る。新たな発見がある。苦しかった人生にも,明かりがともって来る。そしてそこから又新たな人生が始まって行く。

 インド,タイ、マレーシア、インドネシアには沢山の青い鳥がいる。水辺のジャングルに入れば、何処にでもいる。私のお気に入りはカワセミとカシミール・ローラー。取り分け、15−20cmくらいのカワセミは日本にも、何処にでもいる。神奈川県等の小さな小川や大きな川のそばには、まだカワセミが住んでいる。まだまだ、捨てたものでもない。自然は残っている。カワセミの大きなものになると、4~50cmから60~70cm位もの大きいのがいる。青いのばっかりではない、極彩色のや、赤いのもいるし,白黒のもいる。
 南アジアはカワセミの宝庫。水辺にカワセミの飛翔を見ると、まるで空飛ぶ宝石のようだ。中でも、青光りする小さな奴はかわいい。小粋な,洒落ものだ。
 オーストラリアのジャングルには、大きな笑いカワセミがいて、ジャングルの中で「ディジャリドウー(アボリジニの楽器)」を吹くと、コミュニュケートして来る。頭もいいし、センスもいい。よく夜ふけまで,野鳥達と演奏会をやった。真夜中に、ジャングルが大騒ぎになる。きっと,朝寝坊をしたに違いない。

 ヒマラヤはカワセミの宝庫。特に湖や川といった水辺には,上空には鷲、水辺の低いところには、カワセミが沢山いて,狙うサイズは違え、両方とも魚や蛇を狙っている。勿論共存共栄だ。
 カワセミは、英語でキング・フィッシャー(つりの王様)と言われる通り,キング・フィッシャーだ。釣り道具には、鷲やカワセミのマークやシンボル、ブランドが沢山あるのはその理由からだ。その集中力、無駄のない動き、的確な獲物の捕獲。小さな蛇等を捕まえると、美しい姿にも似合わず、乱暴に、首を左右に振って蛇の頭を木の枝にビシバシと何度も叩き付ける。そして、蛇が失神すると飲み込んでしまう。時には銜えたまま、何処かへ飛んで行ってしまう。家には子供がいるのかもしれない。

 夢の中で「飛ぶ」という事は、超越という意味になる。日常性を遥か超えて,自分のビジョンを確率させる事だ。我に帰るという事にもなる。その力は新たなリスクや冒険、未来への挑戦ともなる。その事だけでも,楽しい。
 鳥の飛ぶ姿は、人の心をとらえて離さない。鳥は人々の夢を体現している。鳥が空を飛ぶ時、その鳥が大きかろうと,小さかろうと、人の心を支え続ける。そのうち,何時か鳥が何処かへ行ってしまうと、今度は、人は自分自身に滑空する。新たな自分に滑空する。だから、鳥達は、人々に取っての、パワー・アニマルなのだ。

 もし、青い鳥に出会う事があったら、それはもしかして,鳥の姿をしていないかもしれない。青くないかもしれない。どんな生き物でもいい。そうしたら、暖かく迎え、もし出来たら、心で触れたり、何か感じられるものがあるかもしれない。ディテールがきめ細かで,大きい程、それはそのようになって行く。波長が合えば、心を交流させる事が出来る。住むのなら、周囲に鳥が住んでいる所がいい。

 いつか、未来のいつかにまた会えるかもしれない。お伽話の良い点は、ハッピーエンドだという事だ。
 鳥は人の夢の一端を握っている。心の支えになっている。