2008年4月21日月曜日

サイレント・ジョイ2 間合いの時空間

 ベランダ(veranda)とは、バンガロー、カーキ(土)、ピジャマ(パジャマ)、ジャンガル(ジャングル)と同様に、ヒンドウー語である(前記事「間の力」参照)。既に世界語化していて、それが、どういうものだかは,誰でもご存知と思う。

 本来は、ヤシの葉や麦わらで葺いた屋根、もしくは庇(ひさし)があって、バンガロー、或は母屋の軒を延ばして、しかも壁が無く、簡単な間仕切りとなる低い柵が巡らされて、何げなく、結界が出来ている。この”何げなく”というのが、間合いのツボであり、神秘への入口なのだ。



 太陽の日差しが強く、陰影のハッキリした、南の世界では、殊更、意義あるものとなっている。東洋のエスプリでもある。これが判らないと、東洋では、そして、今や、主だった世界では、視力がない、という事になってしまう。今や、欧米でも。東洋を研究する人が増えて来ているからだ。微妙なニュアンス、大事にしたい。

 北インドやネパールだったら、背の高いエレファントグラス、日本だったら、さしづめ,屋根に茅を葺く所であろう。最近,日本では、余り見られなくなってしまったようだが、風情があって懐かしい。屋根は軽い方が、柱にかかる負担が少ないし、造るのも、壊すのも簡単で合理的だ。家、或は部屋と庭、詰まり、建物の外に張り出した、部屋と外の自然との中間に在る空間。廊下ではなく、通路という訳ではないが、日本の”縁側”にあたる機能がある。

 ベランダには、簡単な屋根と床、柱と間仕切りがあって、壁がない。建物の一部であって、内でも外でもない、曖昧で、不思議な、だが密度の濃い、微妙な空間。趣も風情もそこから生じて来るというものだ。
 しかも,暑い日差しや雨もさけられ,高床式にすると、何よりも、風通しが良く、乾燥度が増し、しかも虫除けにもなっていて涼しい。須く,自然に沿っていて,実用的なのだ。自然を知って、コツさえ見つければ、エコロジーとなる。取り分け、暑い熱帯の国では,涼をとるにも、自然と共に寛ぐにも、無くてはならない重要なオアシス空間となり,文化となっている。

 ベランダは素晴らしい。家に居ながらにして、直に自然に触れられ、家に居る安心かもあるからだ。一挙両得とはこの事だ。程よく広いベランダなら、それなりに形はあるものの、その形は,無形のものをを際立たせる為の、古代から伝わる英知の仕掛けなのだ。家の中の部屋と違って,外の自然を完全に遮断するのではない、という所に意味が在る。部屋の壁につけられた窓よりも、大きな世界が、直に、リアルに広がってくる。 床や屋根、柱と言った形のあるものと、内容そのものでもある”無形のもの”、空間、との間合いが,要となっている。

 タイには,一時、”ベランディスタ”という言葉が流行ったくらい、凝ったベランダを作る事が、流行した事があった。リッチな人達が、高価な紫檀、黒檀、チーク材や竹を使って、お洒落な、粋でクールな,或は、ハイテクがらみの、使い勝手の良いベランダを持つ事を自慢しあう程であった。

 間を知る人にとっては、雰囲気の良い、そして居心地の良いベランダで、コーヒーやお茶を愉しんだり、朝ならフルーツシェイク、夕べにはシタールのラーガに耳を傾けながら、食事をするのは愉しい。周囲の環境の音に耳を傾けながら、本を読んだり、DVDを見たり、音楽を聴くのにも良い。充分に広ければ、ベランダの板の間で、手足を延ばしてのストレッチやヨーガをする場所にもなる。ハンモックを吊るして,午後の一時、昼寝するのにも良い。低いテーブルと座布団か御座があれば,又、用途も、夢も広がって来る。日差しが強ければ、或は間仕切りが欲しければ,簾(すだれ)を下げれば良い。
 気の合った友人達と、企画を練ったり、ゲームをしたり、麻雀をするのも愉しい。コンピュータも楽しめる。一寸した、カフェやクラブもどきのラウンジにもスタジオにもなってしまう。タイかラオス製、或いは,イサム•ノグチの、モダンでクラシックな洒落た提灯でもあれば,夜も充分楽しむ事が出来る。
 周辺の風情、何もせずに、鳥の声、風のそよぎ、ドサッとヤシの実が地上に落ちる音、遠くの方から、時たま、聞こえてくる車やバイクの音、近所の生活音。テレビやラジオの音。おばちゃん達のお喋り、何処からとも無く聞こえてくるタイのポップス。色々な音が,絶妙に合わさって、周辺の環境音楽となっている。

 ただ、何もせず、自分の奥深い中心で、あるゆる音を聴いていると、素晴らしい静寂、平安が、環境音と平行して降りて来る。無音の音が周囲の音と、同時進行しているのに気付く。真に寛げる時、音と、音無き音との両者を同時に聴いている、と言う不思議な瞑想状況にはいってしまう事も在る。これが堪らなくいい。この間合いが判ってくると、煩雑で煩い都会においても、周囲に振り回される事無く、結構楽しめる。周辺は円周になり、円の中心にあれば、そこに、スタンスも生じて来る。だが中心を知らなければ、円周は落ち着かなくなってしまう。先ずは、センタリングという技法(タントラ)が入口になる。中心を定め,フィットさせる事だ。
 内側の中心に無音があって、始めて、音が存在できる。そこで、音が生きて来るのだ。だが、内側に無音がなければ,周囲の音も,雑音となりかねない。相対性理論である。音の真髄を聴く。それは無音の音である。それを確認すると,意識が目覚めて.基盤が出来て来る。
 物思いに耽るのも,空想するのも,想像するのにも、この上ないステージとなる。基盤が極まって来ると,何気ない事も素晴らしくなって来る。無論、瞑想空間としても良い。良い夢が見られる。ユティリティー(多用途性)があって、しかもユニヴァーサル(融通性)の在る、しかも風雅な空間がいい。

 インド、タイ辺りでは、当然、日本とは気候も風土も違い、暑く、それ故、生活もシンプルで、当然、より開放的なのだが、ベランダは、日本で言う所の、”客間、茶の間、縁側”の三つの役割を果たしている様に見える。それに加えて、庭園をより楽しむ為の,東屋(庭園の中にしつらえた休憩用の簡単な建物。)という機能もあるだろう。
 タイ、ラオス辺りでは、東屋は東屋としてポピュラーで、大きなガーデンを持つ、タイの高級リゾ−ト等は、受付やガイド、インフォメーションにも、たわいのないお喋りするのにも、散歩の合間に休憩するにも。そして昼寝するにもグッド。庭園の中の、ユニヴァーサルな、間空間になっている。庭の美観にも貢献していて、ワンポイントのアクセントとなり、”馬子にも衣装”、原生林も,ジャングルも、庭らしくなって来る。

 縁側とは、無論、縁、すなわち”仏教用語で、”縁起”、詰まり、”人と人を結ぶ、超自然な不思議な力”、に側している、という深い意味がある。京都の龍安寺の縁側には印象深いものがある。茶の間は,禅から生まれた、家の中心となる所。茶や食事を楽しんだり,団らんや談笑を楽しむ,寛ぎの、和空間である。
タイ、ラオス,ミャンマー、カンボジアの仏教、ヒンドウーの寺院建築に於いても、本堂の回りに、廊下の如く、回廊を回し、正面には広くしつらえたベラン ダ、大きいのでテラスと言った方が良いかもしれないのだが、大きな広がりになっている。日本の能舞台も、寝殿造りの屋敷の周囲に廊下を巡らし、延長させ、 特別な空間を作ったもののようだ。そこにも、ベランダと言う宇宙、を見る事が出来る。
 薪能ともなれば、かがり火で舞台を照らし、野外に特設したベランダ様の舞台と廊下がある。有名な、京都の清水寺の舞台も,大きなベランダと言っても良いかもの知れない。太い柱を組んで、高台に設置されている。安岐の宮島もしかり。視覚的にも,風雅な宇宙的空間となっている。

 日本に限らず、仏教、ヒンドウー世界、中国も、そしてアジア全般に言える事だが、殊更、“間”に拘った、間の文化と言えるだろう。その”間”に、空間に力を見いだしたからなのだ。
 空という概念の発見は大きい。空は、インドでは、仏教以前から知られており、今では誰もが知る力の空間となっている(前記事「空の極み」参照)。それを、地上に実用化サイズにしたのが、ベランダなのだ。精神構造も,”間”を意識すると整って来る。寺院建築。には、そんな智慧の力も秘められているのだ。空間を埋める事に、躍起になってかまけて来た近代文明にとっても、思わぬ智慧と力となっていくだろう。

 英知とは、感応する能力の事だ。それは、単に知識が多いという事ではない。誰でも修行すれば、自分のものにする事が出来る。無心になればなるほど、感応する能力は鋭敏になって来る。理解度も増して来る。
 例えば、素晴らしい鐘の音は,一瞬にして,邪気を払い、人を無心にする。そして、内側に、何もない空間をクリエイトする。ステージが整って来るのだ。寺院にある様な、大きな鐘は、頭を落とし、腹に響く。
小さな鐘は、デリケートで,柔らかい甘いトーンは,内的宇宙の奥深く迄、貫いてしまう。何とも、クリエイティヴだ。波動はやがて、龍がうねる様になって、領域を広げるように、聴こえて来るのだ。そして、そこに間が生じてくるのだ。そんな思いで、鐘の音を聴いた事はないだろうか?
 自分でも、時々、古代(とはいっても500年程前のもの、金、銀、銅、錫等、五種類の金属の合金で出来ているそうだ。)のチベタン•ベルの、柔らかく、澄んだ、甘いトーンをたのしみにしている。このところ,殆ど毎日、一回は聴いている。その”間”に、美味く同調、フィットできると、素晴らしく愉しく、力も湧いて来る。間は力となってくる。間に力がないと、詰まり空間がないと、イライラしたり、混乱したり、落ち着かなくなってしまう。間を力とするには,間を意味あるものにするには、コツが要る。
 人の心は、遊んでいる時の方が障害がない。邪気も無く、ゆとり、間合いがあるからなのだ。切羽詰まっている事や、忙しい事に、同化してしまったら、何事も旨く行かないからだ。飲み込まれてしまう。内側の空間にゆとり、遊び心を造る事が、瞑想の”質”そのものと言っても良い。間の創造なのだ。

 今が、質の時代に入ったと言われるのは、アジアは無論、欧米の人たちが、この30年程、量だけではなく、質にも拘り始めているからだ。それも、空間の質に拘りはじめたのだ。間合いの秘密を知り始めて来たのだ。禅仏教、ヒンドウー•タントラ、タオ、ゾクチェンにその秘密がある。なにか、誤解があるのかも知れないが、瞑想、ディアーナ、禅という言葉には、本来,技法という”方便”はあっても、本来は、深刻なものでも,形式的なものでもない。考える事でも、勿論ない。瞑想と言う伝統は、欧米にはない。信仰である以上、二元性に関わり、超越は有り得ない。ブッダが、ことさら信仰や崇拝を嫌ったのは、その点でもあろう。神秘や、生きる意味を体験するには、自分自身で、直に、知るしかないからだ。言語が、意味をなさない次元に入るからだ。生きた生に入るからだ。

 人の感応する能力が高まるのは、無防備な時である。何故なら、抵抗や邪魔がないからなのだ。無防備であれば、無為であれば、リラックスして、落ち着いてきて、あらゆるモノゴトが生き生きと,”闊達”になって来るのが観えて来る。真に無防備であったら,否定するものは、何もなくなってしまう。対立も,疎外感もなく、そこから,エネルギーも愉しみも高まって来る、というものだ。今が極楽になってまうのだ。極楽とは特別な場所ではない。天国でもない。それは純粋意識と新鮮な心が織りなす、新たな次元と言ったらいいだろう。
 だが、深刻な時には、誰でも閉じてしまう。エネルギーも閉ざされ、硬直してしまう。緊張すればする程、能力は落ちて来る。何も見えなくなってしまう。緊張 度が高まって来ると、感情が高まり、興奮し易くもなって来る。ものごとが複雑で、ややこしく、冷たくなって、悪循環が始まってくる。
 何故、人が深刻になるかと言うと、状況次第で、もし余りに敏感だったら傷つきやすくなって、社会に対応できなくなってしまうからだ。そこで防衛手段を講じる事になり、そして、習慣となり、その事に”同化”してしまうからだ。それに、おぞましい世界や、世間で生きる為には、防御も鎧も仕方がない。だが、その所為で、閉じたままになって、その事に同化して、真に生きる事が難しくなってしまう。敏感であればある程、苦労は絶えない。そして、防御すればする程,敵を生んでしまう。そして次第に鈍感になって,エネルギーを失ってしまうのだ。そうやってストレスは蓄積されて、エネルギーは閉ざされてしまう。世界全体が,閉塞感に覆われ、どーんと重たくなってしまう,という悪循環が続いてしまう事になる。

 本当に価値のあるもの、喜ばしいもの、信頼.愛、美しいもの、慈しみ、生きる歓び、それらは、閉じていないものにだけやって来る。問題があるとすれば、頭や観念、常識にとらわれている、という事。肝心なのは、そう言った素材や道具を上手く使う事であって、同化してしまったら、元も子もない。茶道も華道もそこの所が大事なのだそうだ。そこから先ずは出て来ない事には何も始まらない。
 エネルギーを、頭から、ハートに降ろして来れば、多くの問題は消える。熟達すれば、腹に中心を定めると容易にエネルギーを動かす事が出来る様になる。暫く、ハートに意識を移しておれば、頭もやがて整って来る。
 山や川、森、海の側には、自然が侵されず、タオが漂い、脈動して、いたるところにエッセンスが満ち満ちている。そういう素晴らしい環境のベランダはパラダイスとなる。無為であれば、クリエイティヴな空間になるからだ。 “間”という文字を見ると、門の中に”日”、詰まり太陽がある。明らか、明るい場所.という意味であろう。間,それは”時空のエッセンス”。そして、間そのものには、姿も形もない。時間にも,距離にも、特定の領域や空間にも当てはまる。色々な意味が在って,深い。
 真っ暗闇に明かりを灯せば,自ずと間が生じる。日中、木陰にはいれば,そこに”間”を感じる。何もせずとも,木陰が,間になってしまう。池に花が咲けば,そこに新たな間が所持て来る。何ともこの世は素晴らしい。日本流の“見立て”という文化にも近い。昔の人は,そうやって智慧を開発したのかも知れない。5000年前のシヴァの時代に、心を馳せてみたくなって来る。人の意識に,間が生じて来て、始めて,”人間”になれるのかもしれない。

 面白い事に、日本語では、時間にも、空間にも、”間”という文字が、共通して使われている。時間と空間に仕切りがない。時空間と言う。
 欧米の言語では,時間と空間とは,time と space、それぞれ別個の言葉である。だから別個に考える。二つに次元の繋がりが、何処にあるかは見当もつかない。我々にとっては当たり前の”即”が,彼らには神秘と映る。東洋の神秘という鍵はここに在るのかも知れない。
 だが、インドでは,5000年もの昔に,仏教、ヒンドウー以前に、既に、時間と空間の関係、タントラ、相対性理論を発展させて、時空が一つのものである事に気付いていたそうな。シヴァ神に依るものとされている。無論、大昔、ノーベル賞なんてものはない。インドには凄い潜在力が備わっている様だ。知識、それも表面的な知識や哲学ではなく、明知(ヴィディア)、智慧を発達させたのだ。ゼロや無の概念の発見も凄いが、元々は仏教用語で、”時空間”という言葉も凄い。相対性理論に始まり、間(はざま)、間合い、間に合う,間が悪い、桶狭間、 知らぬ間に。音楽では’間’のとり方、リズム、テンポが主役となって来る。間が命だ。昔の日本では、間仕切り、屏風やふすま,障子を使って、次元の異なる 空間を創りだした。粋な計らい、と言ってもいいだろう。

 ”間々ある”ことだが、間には、機会、チャンス、タイミングの意味も在る。魚釣りでは、重要なポイントだ。潮加減、流れや障害物と言った蔭の間合い、当たりのと合わせのタイミング、間合いをはかる事、一致させる事,それが間合い。魚釣り、ボクシング、ムエタイ流のノー•モーションのカウンター•パンチ、お相撲さんの仕切りや投げのタイミング等,間合いや駆け引きをよく観ていると面白い。意識の基盤をさだめること,そして集中力で、あらゆるものが面白くなってくる。

 サンスクリット語の”マナ”という言葉は、スピリットを表し,そこから、ケルト語の“マナ”、そして英語のマン、詰まり、人が生じた、と言う説がある。マナなくして、人にあらず、という事にもなって来る。インド•ヨーロッパ語という様に、欧州の言語の源は、サンスクリット語、古代インドの言語で、現存する最古の言語とされている。言霊の力のある言語とされている。つまり、日本語同様にトーンにも特別な意味が在るという事だ。
 ケルト族という人々の源流が、中央アジアにあるという点にも考慮したい。無論、それだけでもないだろうが…
 因みに、日本語のルーツは、ロシア語とも、南インドのドラヴィダ語ともいわれている。マというトーン(言霊)には,不思議な,根源的な魔力があるようである。マナ(心、愛)、ママ(母)、マ(真)、マハ(マカ、大きい)、マ(魔)、マー(感嘆詞)、マドロミ(睡)。古代ペルシャの僧侶、呪術師を”マギ”と言うが、マジック(魔法)はここから産まれて来た言葉だそうだ。
 陰陽、様々な意味が在る。日本文化も、アジア諸国とは気候風土、言語は違っても、”間”に拘った、アジア文化。例え、無意識の内にも、アジアの人は、無形の”間”を使い、”間”を生き、”間”を生かしている。だが、意識すると,より面白くなっていく。間が力となって来る。

 では、門の中に月があったらどうだろう? それに火偏がつくと、”燗酒”の燗(かん)になる。寒い時には何よりだ。乙だね。門の中に、”木”があると、”閑”(ひま)という文字になる。静かでいいね。口があれば”問う”という文字になる。耳ならば、”聞く”という文字になる。門の中に”音”があると、”闇”という文字になる。口を閉じたまま、声を出す、転じて、”入口を閉ざして中を暗くする”ということが、”闇”という文字の原意となったそうだ。闇の創造が,闇となったのだ。
 門の中に,鳥居、詰まり神秘的な力、スピリット、カミ、の象徴があると,“開”、開くという意味になる。開花する,開門すると言う風に使える。だが、スピリットがなければ、ドアは開かないという事になる。門の中に王が居て、三水の偏がつくと,”潤す”という文字になって来る。水の原理を表している様だ。いいね。タイ国みたいだ。

 閃き(ひらめき、せん)という文字も面白い。門の中に人が居る。例えば、誰かが、一瞬、観えて、直ぐ門の蔭に隠れる事が、原意なのだそうだ。一寸、忍者みたいだけどね…
 何か観えた? それが一瞬の閃き、一閃だ。直感かも知れない。門の中に、活という文字がはいると、闊(かつ)、広々としている。度量が大きい、という意味になる。意識が広がることを言う。好きな文字だ。

 インドの首都、デリーという言葉の意味は、ペルシャ語で、”門”という意味なのだそうだ。何故、インドでペルシャ語の地名なのかは、嘗て、ムガール帝国の首都だったからである。門、というステージに、現れてくるもの次第で,位相も、次元も,意味も変わる。ロンドンのマーブルアーチも,パリの凱旋門も,デリ−やムンバイのインド門にも深い意味が隠れている。日本にも,無数の門がある。馬場先門、半蔵門、桜田門、門前仲町… 門構えに拘る人も多い。門、一つとっても、遊びだすと際限がない。
 趣(おもむき)や風情、情緒,エネルギーと言ったエッセンス、エスプリは、そして、あらゆるアジアの文化は、この“間”から生じて来るようだ。「和」もその一つなのである。その「間」に、密度の濃い、生の、時空のエッセンス、コンフィデンス(秘密、力、信頼,自信)が生じて来るからなのであろう。

 間の力を知れば、間はやがて創造的空間になって来る。力とは,気付きの力でもある。気付きがなければ,力は生じないからだ。枠組みが取っ払われ、本物が見え始めてくる。良いアイディアも浮かんで来る。智慧も閃きが、起こって来る可能性も起こる。静かで、緑に囲まれ、風通しが良く、出来れば、水の流れや、海が観えれば最高。ひんやりとした床板を、裸足で歩く、という快感を楽しむ事が出来る。水辺だったら、ざぶざぶと水にはいって、水と遊びたい。

 風のそよぎ、水の流れる音は最高の音楽だ。そして、漣(さざなみ)は,宇宙のリズムを司る。朝の光、夕焼け、そよ風を楽しむのも良い。砂浜を裸足で歩くのも気持ち良い。板の間や大理石の床を裸足で歩くのも素晴らしい。私は裸足が好きだ。健康にもいいし、気分がいい。裸足で歩く歓び。
 欧米人は特に裸足で歩く事が好きな様だ。タオ島のレストランやカフェは、靴を脱いで、タイ伝統の、靴を脱ぎ、裸足で入る店が多い。日本と違って,スリッパ等というものはない。それがいい。

 他愛ない事が、何でもない事が、素晴らしくなって来る。その事にも気付きを深めたい。それは、意識が広がり、感応する能力が高まって、意識も、身体も敏感になっているからなのだ。“素”という次元である。宇宙意識の原点である。
 無心は,マインドや心に対立する訳ではない。唯、マインドを脇に置いて、間を広げるコツなのだ。やがて内的宇宙が広がって来る。あとは”サイレンス・ドウー・グッド!(S.D.G)”だよね。
 満天の夜空を楽しむにも良い。全宇宙を手にする事が出来る。シンプルになるにつれ、心にユトリが生じ来る。頭も整ってくる。何かが、首筋の内側から、胸や背中、鳩尾辺りに迄、ひたひたと降りて来る。
気持ち良い。甘露、甘露!

May everything gonna be alright!