2007年1月2日火曜日

間の力


 この世には、「時間と空間」という「ものでない事」、物質ではないものがある。
「無」という。それは何も無いという意味ではない。
それは、今では誰もがしっている。
文化は,その理解から構築されて来る。

 日本の伝統的家屋には「縁側」というものがある。
もとを辿れば、寝殿造りにも、数寄屋建築にも見られ、一つの特徴となっている。
回廊を回して部屋と部屋、部屋と庭を繋げるという発想があったのだ。
屋根の下にある事から,家の外にあるというものでもない。
と、いって外の空間、庭とは壁で仕切られていない事から、当然、部屋の中にあるとはいえない。
内でも,外でもない「曖昧な空間」。
外と内という二つの種類の空間を繋げるもの。

 「繋げる」、という言葉そのものからすれば、「ヨーガ」(サンスクリット、ヒンドウー語)という言葉になる。
次元が入れ替わる、第三の微妙な間合い。
恐らく、内と外の空間が、急激に変化する事を避け、暫定的な、しかも中間的な間合いを造ったのであろう。そこに、日本文化の知恵が隠れている。
そのプロセス、遊びの間が文化の「隈取り」となっている。
人々の生活や趣味性の基盤ともなっている。
私達の心の何処かに、その微妙な「間合い」というDNAが働いている筈だ。
其れを生かさない手は無い。
其れは、どこでも、様々な事に応用が利く。

 一方、ベランダという言葉は、もともとヒンドウー語だそうだ。
これは,西欧、アラビア、東南アジアにも形を換えて伝播し、廊下ではないが家の内と外とのどちらでもない特別な場所となっている。高層な建物の場合は、出窓として見晴し台(ルック・アウト)にもなっている。
庭と家との間の中間的な空間。
アジアの庭園には、その中間的な空間を際立たせるようなものも見る事ができる。
庭から一寸,小高くしたり、逆に掘り下げてみたり,特別な、粋な空間を作ろうとしている。

「縁台」となると、肘掛けと背もたれの無いベンチのようなものだが、余計なものが無い分,用途は広い。ユニヴァーサルに使える。
日本のみならず、東南アジア、インド、中東やアラビアでもよく見られ、将棋をさしたり、おしゃべりしたり、煙草を一服したり、チャイを飲んだり、バック・ギャモン(アラビアのゲーム)をやって寛ぐ姿を良く見かける。
タイによくあるゲストハウスや、商店に依っては,店と外との間に一寸したスペースがあり、そこに人が集まって来る。外でも,内でもない,第三の空間。

 人が生きる為に、少々の緊張はあるだろう。努力も苦労も在る。
だが、過ぎれば、緊張は、肝心な「生」を阻害してしまう。
生は、間合いの中、遊びの中に充満しているのだ。
さもないと、鬱憤(うっぷん、心の中に堪りに堪った,不満、怒り、憎しみ、欲求不満,嫉妬)や憂さが堪ってしまい、視力、聴力、感性、知性全ての力を奪い、心も意識もぼかしてしまう。
皆、「間」を知っている。知らなきゃ「間抜け」だ。

 間には「空間」という意味がある。転じて「距離を測る」という意味もある。
例えば、家の柱と柱の間を、何間という。
距離を表す時、間は「けん」と呼び、距離の単位にもなる。
一間は約1、8メートル。畳のサイズの単位にもなっている。

 一方で、間には「時間的な間合い」という意味も在る。時間とは時の間合いの事だ。
「間」は相対性理論から生じて来る。空間の他に、時間、そしてタイミングだ。
時空という宇宙を知り、そこに英知を求めた,ということだ。
だから、間合いを計るという事は、タイミングを言う場合もあるし、空間的な距離を言う場合も在る。同時に両者を見なければならないときもある。
剣術やボクシングなどは、間合いのスポーツと言っていい。

 日本文化の源、「和」という特別な波動の交流も、此処で起こる。
間合いの理解から、音楽、舞踊,能、歌舞伎、演劇、武道、格闘技、スポーツにも使われる。
空間、リズムやテンポに使われる物差しだ。東洋ならではの物差しだ。
現代では、一寸、知的な欧米人でも、「間」を良く口にする。

 よく使う言葉に、「間に合う」、「間が悪い」、「間合いを詰める」、「間仕切り」、「間違い」、「間々ある」等という言葉があり、日常的に使われる。吟味すると面白い。
「間」という意識は、既に日本人の心の中に住み着いていて、遊びを上手く生活に取り込んでいる。仕事にもトータルに於いては、具合の良いという事から利用する。
意識の上で「潤い」が、仕事の上でも「ゆとり」が増して行く事になる。それはやがて力になっていく。

 間は安らぎと寛ぎのオアシスであり、とっておきの空間でもあり、そこから泉も湧きいずる。それは,タイの言葉でドウシット(浄土、極楽)という。それは、天にあるのではなく、地上に創られる。意識の上でその間合い、内なる空間、に触れていると、例えば、街の雑踏のなかでは、様々な音が,様々な所から宇宙的に聞こえて来る。だが、内側に静寂さが行き渡っていると、それらの雑音は聞こえても深い奥までは届かない。だから安心してその雑音すら楽しむ事が出来る。それを生かすも殺すも,その人次第だ。
 シビアな時程「間」をもっと有効利用しよう。良い知恵が生まれ易くなるのだ。「間」を大事にしよう(前記事「反作用の法則」参照)。