2007年1月3日水曜日

空の極み


 空の極みには,肯定的な意味と否定的な意味とがある。人は,物事がうまく運ばない時、失敗、不首尾、不都合な時、空しさを感じる。それは憂鬱であり,否定的な空虚さだ。

 それは、空の極みではない。それは、寧ろ暗闇のようなものだ。それでは、心の奥底に花を咲かせる事ができない。なにか大切なものが欠如しているからだ。
 空虚さが肯定的である時、充満している時、完璧な時、人は、喜び、至福を感じる。そして成長を実感する。理由も無いのに、嬉しさが満ちあふれて来る。何か無益な物事が内側で消えて行く。力は往々にして引き算から生じて来る。そして、真の生が残される。其れが空の極み。

 人が否定的、世界や社会に反目している時、その理解は生じてこない。嫉妬,心の傷、満たされない欲望、エゴから起こってきる色々な事がある。それは不能という意味だ。状況を吟味するスペースを決して与えてはくれない。

 生は論理ではない。論理は,輪郭がはっきりし,整理され,分割され,人が納得しやすく見える。論理は易しい。だが、生とは混沌の一語につきる。論理は生のほんの一部分でしかない。
 世の中は、目には見えない、理解の及ばぬ様々な秘密の累積を基盤として成り立っている。表面的な、規則や思想や政策だけで成り立っている訳ではない。一寸、見たくらいでは、誤解を生むだけなのかも知れないからだ。思い込みだけを深めてしまい、真実はもとより,事実を歪めてしまう。
 そこには大きな違いがある。全ての物事は関係性のなかにある。自分だと考えられる全ては関係性から生じて来る。人は、物事を比較して判断する。だが、それは本質的なものではない。そして、人々はその「本質的では無い事」に悩み、苦しむ。普通の人にとっては、全ては何も変わらない。同じままに見える。

 流行(はやり)ものがあり、概念が代わり、社会が変わり、世界は変わり続ける。変化の度合いに違いはあっても、変化する事に変わりはない。
関係性も変化する。食べ物の好みでさえ、歳をとる毎に身体に合わせて変化する。変化する物事は、関係性と言ってよい。だが,変化しないものも在る。其れはものではない。

 「空」(くう)は思考の対象にはなり得ない。記憶にもなり得ない。空について考えても意味が無い。思考しか知らない人には,空は神秘的な脅威かもしれない。空には痕跡が全くないからだ。「ものでない事」それは無の極み。「思考が存在しない状態」を空という。
 もし、一言でも空を語れば、それは既に空ではない。空でさえ、思考に成り下がってしまう。空すらも捨てさって、初めて空になれる。

 空は一つしかない。空は掴み所が無く、空を論じることもできないが、空になって初めて理解が広がって来る。この感覚は実に素晴らしい! 
その感覚が自分を貫いていると理解するといい。それは既に在る。ただ再発見すれば良い。気付けば良いだけだ。

 満ち足りた「空」(くう)は美しい。光や朝日のようなものだ。誰のものでもない。が、誰でも体験する事はできる。人が,空になる時、あらゆるものの質が変化する。輝きの質が変わる。太陽の、月や星の、樹々や花の輝きが、微細に、微妙に祝福してくれているように感じる。
ぬくもりが感じられる。

 空を体験するものが消えた時、あなたや私が消えた時、二元性が落ちた時、スペースの広がりが実現して来る。本当の自由とは「自分からの自由」。それが、全てを新鮮にする。

 あらゆる探求が満たされる。存在の力が、あなたや私に取って代わる。問いも答えも無い。全て良し。人は、そこに至って初めて「自己」を知る。それが「本来の面目」。

 このこつを覚えておくといい。一見、市場ではあまり役に立たないかもしれない。市場には、それなりの道理がある。だが,気付けば、その背景にあるのが「空」である。そして、空の外側というものは無い。

 柔らかな視点で、スマート(賢く)に生きる事もできよう。タオ(道)は易しい。だが人はタオ(道)の上にいない。自分が分割していればいる程、道から遠く離れている。分割とは思考、マインドの事だ。そこには対極が含まれている。愛は憎しみを伴ってしまう。好きは嫌いを伴う。心は常に二つの狭間で戦っていなければならなくなる。あまり選り好みをしなければ良いのだ。さすれば,生は流れ始める。区別が無い時、自分は一つになっている。人を,世界を、対象をあるがままに見る事が出来る。意識の明晰さが訪れる。

 意識的に何かを行う時、それが重荷になる事は無い。過去を思い出そうとすれば、思い出せるが、何時も自分の関心を集めるという事は無い。そして、何かを思い出す時、人は、公平な、中立的な観察者となってみる。過去を思い出すときは,誰でも賢者になれる。自分が意識的であれば、物事を吟味する事ができる。力まずとも、自ずと焦点も合って来る。そして、完結したものが人を悩ますことはない。現実にも生かして行きたい。

 無意識に行えば、残存物が生じて来る。其れは完璧ではない。完結していない何かが残る。トラウマが生じて来る。それは誰の所為でもない。全ては自分に責任がある。

 空の体験を通じて、初めて何かが見えて来る。新たなステージが現れて来る。此処からが、本当の始まり。生が、本来の意味を持ち始めるのだ。

 色即是空、空即是色。“Play it by ears!” 臨機応変に生きる。それが、楽しめるといい。

*写真は、ヴィシュヌ・レイク(海抜、約5,500m、背後の山はヴィシュヌ・マウンテン)、カシミール、インディア。(パキスタンとの国境に近い)