2007年3月9日金曜日

ナーガーい

 メコン川を隔てて,対岸のタイのチェンコーンから、渡し船で河を渡れば、そこはラオスのファイサーイ。ラオスの北西部、ボーケオ県の県都である。
 ここから、メコン川を下って,世界遺産の古都にして、嘗ての王国ルアンパバンまで船が出ている。メコンの船旅は、二日程かかる。又、中国との国境の町、ルアンナムターへ行くバスもある。そして、そこからムアンシンにも通じている。それらの町の周辺には、多くの少数民族が集まって暮らしているから、今、旅行者に人気が高いのだ。

 チェンコーンの船着き場を離れてから、5分で河の対岸のファイサーイに着き、船着き場を降り、イミグレーションを通過すれば,目の前に、ワット・マニラートと言う寺がある。この寺の入り口に,途轍もなく長—い、ナーガ(龍、蛇)がいる。大体,ナーガは長いものだが,人工のナーガとしては,“ナーガーい”

 全てのナーガ像を見た訳でもないので、何とも言えないが、ともかく長—い。100m以上ある。くねくねしたところを、真っすぐに引っ張ったら、もっと、長くなる。さすれば、3割以上も長くなる。あくまで私の推測だが、日本語の、“長い”と言う言葉のルーツは、この“ナーガ”ではないのだろうか? 音読みでは、中国の漢字の影響がどうしてもあるだろうが、訓読みだと、意味は、一寸違ってくる。ナーガが語源となれば、嘗ての,海の国,水の国としての次元が現れてくるではないか。
 今日は、この愛すべきモンスターに焦点を合わせ、一寸、ディープに話を進めよう。


 メコン川流域に栄えたタイ、ラオス、カンボジア、べトナムには、メコンを象徴する水の神、ナーガがよく祭られているのは当然だと思う。このモンスターほど、人々に愛される怪物もいない。
時々大暴れをして、大変な時もあるが、いなくなったらもっと大変だ。干上がってしまう。

 大河は、自然も人も文明も育む。飛行機に乗って、上空から、海に注ぎ込む大河の姿を見ていると、“海という大地に根を張った、大きな「大樹」に見えてくる”。そういう風な見方をしたことは無いだろうか?なかなか、見事なものである。

 雪解け水、湧き水。雨の水といった、ヒマラヤで生じた水が、水の流れが流れそのものに従っている時は,河は目標を知らず,只、自然の原理に従っていけば,やがて海に出る。タオの原理もここに在る。全ては,大きな一つのシステムである。生命のシステムでもある。
 暑くなれば,蒸発して雲や霧にもなる仁左衛門みたいな所がある。寒くなれば,氷山や氷原にもなってしまい、タイタニックをも沈没させる。

 広大なガンガー(ガンジス)の河口は特に見事である。河口だけでも、バングラデシュから,ベンガル州の多くの地域を占領してしまう。近くには、ナーガランドと言う地域もある。マニプーラというチャクラの名前をとった気になる地域も在る。いつか、入ってみたいものだ。
 河口の端から端までの距離一つをとっても、計ったことは無いが、おそらく,日本列島の縦の長さよりも長い。枝葉をヒマラヤに持ち、そしてさらに、あちこちの国に延ばし、あらゆるところを繋げてしまう。自然のナーガに逆らうものはいない。おそらく、河の総面積では、地上で最も大きい河の一つではなかろうか。あちこちに花が咲き,実が実る。豊穣の源となっているのだ。その陰の大立て者が,ナーガなのだ。
 頭をたくさん持ったナーガは、そのこと、多岐にわたると言う性質を象徴している。根である海に近づいたところで、また枝分かれしていて、“バンヤン、(ガジュマル)”の樹を思い出してしまう。
 世界にある無数の豊穣伝説には、エデンを含めて、樹と蛇が必ず現れてきるが、そこに共通した何かが理解出来る。それらは,一見、二つには見えても、理解を深めれば、一つに見えるではないか? 事実、河も空から見れば、樹にも見えるではないか。まるで、粒子と波動の見え方の関係のようでもある。
このことに、タントラやタオの鍵がある。瞑想に於いて、二つのものが、一つになる時、第三の目(シャンブー)が開くと言われるからだ。嘗て、大悟して、仏陀になった人で、龍樹(ナガール・ジュナ)と言う人がいたが、大河の姿を空から見ると,まさに“龍樹”と言う言葉、そのものに見えてくる。

 ビエンチャンやルアンパバンの寺院にも、ユニークなナーガがよく見られる。又、姿は見えないが、ビエンチャンの、“タート・ダム(黒塔)”には、ナーガのスピリットが住むと言う。信仰とはいえ、やはりスピリットを感じてしまう。
 ナーガのルーツはムー大陸との事らしいのだが、仏教、ヒンドウー教、道教と結びついた、そして中国ともインドとも、インドネシアやインドシナにとっても縁の深い、豊穣信仰でもあり、水の神。今でも時々、海中から、ナーガの石像が見つかることがあるそうだ。嘗て陸地だった所だったのだろう。それは、有形、無形の文化、生活を象徴している。

 インダス、ガンジス、ナイル,黄河、チグリス・ユーフラテスと言う大河も,言ってみればナーガ(龍)である。九頭竜川は無論だが、アマゾンもミシシッピーも、長良川も相模川もナーガ(龍)には違いない。宗教と言うより、自然であって、古代文明の香りが強く、興味がそそられる。

 古代のインドには、宇宙をぐるっと取り巻いているナーガの絵があって、何度も見た事がある。このナーガはコブラの姿をしていて、しっぽをくわえて円状となり、始めと終わりが繋がり、無限性を表している。また、ヴィシュヌ神のお休み用のベッド、寝台とされているのは、“アナンタ・シェーシャ(無限)”と言う名の、“千の頭を持つコブラ”であった。この無限を表す場合のナーガは“永—ガーい”と理解した方がいいかもしれない。

 ヴィシュヌ神の化身である仏陀の背後にも、この“無限”と言うナーガが後背として,オーラ(光背)となって保護している姿がよく見られる。シヴァ神も,その英知と無限を象徴するコブラを、ネックレスの代わりに首に巻いている。これはクンダリーニの象徴なのでもあろうか?

 象徴的なことでも、常識でも、探求して行くと、その意味が分かってきて、世界が開けてきて。面白い。
一寸した工夫で、扉は開いてくる。知られたことは、既知となり、過去となり、知識となり、時には伝説となり、歴史となっていく。知らないこと、知り得ないこと、が現実となっていく。そして、それは、いつも目の前に在る。

『未知ほど面白く、既知ほど退屈なものは無い』

 探求を続ければ、エネルギーの流れ方がわかると言うタントラ的な副産物が生まれる。至福も副産物だ。だが、至福を目標にはできない。それはあくまで,副産物だからだ。そこが一寸難しい所だ。それは何時、何処で現れるか、判らない。
 そこからまた多様性も生じてくる。ブータンのように、国旗にナーガ(龍)を使っている国も在る。日本のあちこちにも、ナーガや龍神の信仰が未だに残っているところが在る。ナーガは、まだ生き生きと,生きている。生命力の象徴でもある。象徴に囚われること無く、生命力の流れに、気づけば、あらゆる物事の活性化の元となろう。ナーガと言う古代の名称も,ムーの時代からの生命力を表している。だが、あくまで、それは言葉であって、生命力そのものではない。
 ナーガは古くて、しかも新しい。きっと,ナーガなしでは,自然も人も動物も植物も生きてはいけない。生きていたとしても、新鮮味に欠け、退屈この上ない世界になってしまうことだろう。もし、ナーガが死ねば,この世もやがて終わってしまう。目には見えないが、水のスピリットが失われると言うことだ。きっと、月面みたいになってしまうかもしれない。水が無いとは、そういうことだ。アジアンはそのことを誰でも良く知っている。当たり前だけどね。

ムーの神かー、古—い、ナーガーい、神様だねー。
ナンセンスの背後にも、真理あり。

*最初の二枚の写真は、ラオスのファイサーイの寺院にて…
*三枚目の写真は、ヴィエンチャンの“カフェ・インドシーヌ”の壁にかかっているもの。この木彫のナーガには、翼がある。
*四枚目、五枚目の写真は、それぞれ、ヴィエンチャンの寺院にて…
*ナーガの事については、前記事「カフェ・インドシーヌ」 「南の島で龍を見た」も参照