2007年3月7日水曜日

寛ぎの技法2

 誰しも、イライラしている時、緊張している時、不安な時がある。この技法は、数十年前に、たまたま車を運転している時、発見したものだ。

 交通渋滞で、信号待ちで、気が散漫になり、イライラしていた。四回以上も信号待ちに待ちくたびれていた。自分の中でも、緊張と言うか、不自然な力が乗っ取ろうとしていた。集中力も切れかかっていた。何かが、内側で鬱積していたからだ。結果的に抑圧状態になっていた。それは、不快で心地よくなかった。が、逃げ出そうにも、どうしようもなかった。
 そんな時、静かに、平安になれる技法がある。人は、マインドに囚われていて、背後に在る、無形のものをつい忘れてしまいがちになる。それは、無意識からの衝動だった。たまたま、自然に、通路を見つけ出したのだ。何となく、声を出したくなった。そして、「アーーーー」と言う、音を出してみた。

 すると、その瞬間から、なにか内側が軽くなった。そこで、もう一度、同じ音を、ゆっくり出してみた。「アーーーー」。二度、三度行ううちに、落ち着いてきた。深い静寂が訪れたのだ。大げさに言えば、この気づきで、人生観も変わってしまった。この気分は,実にさわやかだった。マインドが変化すれば、色々な事が変化する。そして、リラックスが肝心である事に気づいた。

 この場合、要点は、呼吸の入息ではなく、出息にある。イライラしている時,人は,たいてい、吸気に意識する。出息に意識はしない。ここに鍵があった。
 呼吸とは、丁度、潮の満ち引きのようだ。入息とともに、生の潮がやってくる。出息とともに、潮は引いて行く。無理はいらない。只、「アーーーー」という音を、ゆっくりと出して、息を吐ききってしまえば良い。吸う方は、意識せずとも,自然に任せれば良い。無為自然が覚醒し、意識が敏感になってくる。そして、落ち着いて、気分も良くなってくる。生は空(くう)になる。生きると言う事は、生にしがみついている事ではない。

 呼吸の方式に変化がくれば、世界は変わって行く。見え方にも変化が訪れる。意識も体も健康になれる。
呼吸と自分の気分とを、暫く観察していれば、気づく事がある。
知識や常識だけにたより、知恵が無ければ、人生は「苦」となってしまう。

 一度、この瞬間を見つけ、この旨味を悟ったら、又、普段の呼吸に戻りゆっくりと続ければ良い。
只、その意識をしばらく持続させるようにする。さすれば、何時でも、その意識を見いだし、心を安定させる事が出来る。宗教的であるか,霊的であるか、無信仰、無宗教であるかを問わず、誰しも落ち着いた,平和な生活を送りたいと思うのが,本音だと思う。
リラックスすれば、日常的な様々な問題も、より容易に、リスクも少なくする事が出来る。

 緊張しているときも、嬉しいときも、不安なときも、悲しいときも「アーーーー」と言う、マントラを唱える。経験の有る無しに関わらず、平安や寛ぎ、幸福感が訪れる。
それは,実にデリケートなものなのだ。それを少しずつ広げて行けば良い。

 この音は言語ではない。言語的な意味は無い。トーンである。だが、ある種の音は、マインドや頭には意味は無いが,意識や体には意味がある。反応するからだ。「アーーーー」と言う音を媒体にして、乗り物として使えば、出息はより完璧に近くなる。その時、内観しながら、次の息を吸う間の間合いに入り、内側の静けさと沈黙を意識してみる。後でわかった事だが,この技法は,とうの昔にタントラとして、発見されていたのだった。

 「ア」、「アー」と言う音は、チベットに於いては、“勝利のマントラ”とも呼ばれている聖音である。この音は,エネルギーに関わっている音である。音を発するたびに,エネルギーは循環し,体や心のバランスが整ってくる。例えば、「オーンム・アーー・フーン」。何度か唱えているうちに、意識も、心も、体も整ってくる。アッラーもいい音だ。ラーマもいい。どんな音でもいいから、言語的な意味や宗教的な教義に囚われずに、自分に合った音を見つけてみる。自分にとって、どういう音が,どういう効果をもたらすのか? 自分と言う機能を知るには、大切な第一歩だ。その為の基本となるのが、「アー」の音だ。
 仏教で言うところの「阿字観」とは、「アー」と言う音を発して、内観すると言う技法(タントラ)である。文字だけ見ていても、何にもならない。瞑想にもならない。あいうえお、全ての音に,それぞれの言霊(ワード・スピリット)があるのだ。音の組み合わせ、色合いからも不思議な力が現れる。ほんのわずかだが,隙間が現れる。その隙間に注目していれば,やがてその隙間は大きく広がって行く。

 タントラ、ウパニシャッド(奥義書)を問わず,インドの内的探求に於いては,存在の基本的な単位は「音」とされている。又,現代物理学、近代科学に於いては、音は電気の一形態であると言う。インドに於いては,古来から、電気は音の一形態であると言う。そこで、現代では,波動と言っていいだろう。

 自分の限界を知る,と言う事は、又,自分を克服すると言う事は、まず、あるがままの自然体を見つけ出すと言う事でもある。自分をいじめる事ではない。自分をめちゃくちゃに酷使しない事でもある。そして効果的に,健康的に自分を使う。やがて、いつか、真の境地と自分の自然体とが一致するポイントに達する事も不可能ではない。光明と言う。

「ア」 と言う音は、音であって、トーンであって、電気であって、波動であって、言葉ではない。論理的に探求しても、意味が無い。ここでは、論理に意味は無い。「無心」とはマインドが無い状態の事。マインドが無ければ,言葉があったにせよ,意味は無い。次元が違う。それは,無と静寂への、「量子的飛躍」だ。「無」には限りが無い。無限である。

 それは,目の前と言うより,目の背後に在る。この事をポジティヴに実感出来たら,世界も,人生も変わる。背後のものが,機能し始めるのだ。生はそこから意味を持ち始める。