2007年3月10日土曜日

泰国木陰日記2(ソイの風景)

 私たちの記憶とか、心と言うものは割といい加減に出来ている。
そのおかげで,何とか、平静を保っていられるのかもしれない。
毎日,色々な人と出会い,色々な事柄と出会い,色々な知識や,情報や,名前を見たり聞いたりする。そのうちの僅かなものが、記憶となって,私たちの中に残る。
だが殆どの,多くのものは,忘却の彼方へと消え去ってしまう。
忘れる,と言う事,忘れる能力と言うものは,生まれながらに身に付いて入るものの、ありがたい恩恵と受け取っている。
もしも、それらの全てが,記憶となって残っているとしたら、それこそ収拾のつかない,どえらい事になってしまう。とりわけ,嫌な記憶は,一日でも速く忘れてしまいたいものである。

 しかし、何かのきっかけで,忘れていた事が、意識の上に蘇ってきたりするハップニング、いやその起爆剤なのかもしれないが、楽しいことが起こったりする。
縁起となってくることも、全く、無いとは言えない。
それは、逆作用を使った“創造性”と言えない事も無い。
写真は、その時の,楽しい感じ、良い記憶、心がときめく事が起こった時,撮っておくものだが、全く同じとは言えないが,楽しみの起爆剤にはなってくるのだ。
それも,人生の面白みの一つである事には違いない。

 ソイと言うと,タイの言葉で、細道。
大通りから,一歩,裏に入った狭い路地の事である。
割と,スピードの速い,緊張度の高い表通りから,裏に回り、横町から路地へ,その又奥へとディープに足を進めているうちに,かなりの次元の変化、グラデーションを実感する。
ここでは,人々も,犬も,猫も,梢のとり達や,そこここに咲く花達も,皆安心して寛いでいるようにみえる。空気がまず違う。

 決して,豪華とは言えないが、家々の姿も、精一杯のお洒落をしている。
タイの人たちは,基本的に奇麗好き。周囲の風景が“笑いかけて”くるように見える事もあって,実に楽しく、微笑ましく,その雰囲気に飲み込まれてしまう。笑いが起こると、心も体も喜びだす。歩いているうちに,自然と顔がほころんでくるのが、自分でもよくわかる。

 夢の中では、その人の感性が煌めきだし、理性や知性と言ったものが消えて行く。本来の自分に近い所で見ているのだ。素晴らしい夢や,楽しい夢もある。最近は余り見ないが,おぞましい夢や,つらい夢も無いとは言えない。それゆえ、目覚めた時、夢が何か馬鹿らしく思える事も無いとは言えない。しかし、夢は,自分の潜在意識の主張でもあるので,考えように依っては,普段の理性や知性以上に,賢く,しかもリアルなのかもしれない。馬鹿はどっちだろうか?

 一ついえる事は,目覚めている時,楽しさや面白さ,痛快さが実感出来ると,夢もそれにそって反応してくる事がある。そんな時に限って、色々な人に出会う。久しぶりに出会った人に合うと、また、心も一新する。いい循環のサイクルに入って来たのかもしれない。

 いいそよ風が吹き抜ける。