2010年7月12日月曜日

センシ パラディーゾ!(朝飯前の、パラダイス)

 今、ラオスの首都、ヴィエンチャンにいる。まだ朝早い。
 メコン川のすぐそばにいる。今朝、宿の前の、大きな水瓶の中に、蓮の花が、花開こうとしていたのに気ががついた。蓮の花は、朝になると開き、夕暮れになると閉じてしまう。花の蕾が、今、まさに開こうとしていた。
 水瓶には、金魚が数匹すんでいた。浮き上がってきた金魚の頭を、そっとなでてあげると、口をあけて、指先をなめようとしている。こんなことは初めてだ。こっちの波動に違和感がなかったのではないだろうか? 金魚も、朝だし、機嫌もよかったのではないだろうか?

 そのうち、蓮の花は、次第に開花しようとしていた。花弁は白く、中心の黄色い部分が微笑んでいる。指のほうは、なんと数匹の金魚が、私の指をしゃぶっている。指先になんともいえない心地よさが伝わってくる。コミュニュケーションが始まった。
 小鳥が鳴いている。近所の人たちや、同宿のフランス人たちが声をかけてくれる。”サバイ・ディー”。宿の兄ちゃんが、自転車でどこかに行こうとしている。車が宿の前をゆっくり動いていく。何事もない。ただ、水瓶のそばに腰掛けている。蓮の花は完全に開花し、黄色い中心部分も、笑っている。
 いろいろな音が聞こえてくる。目を閉じ、存在を感じると、さらに多くの物事、微妙なものが現れてくる。香りも漂ってくる。バゲット(パン)を焼く香ばしい香りだ。さまざまな出来事が思考の流れとなって、流れているのを感じることができる。思考はすべて、外からやってきたもの、本来自分のものではない。集めたり、集まったり、お客さんのようなものだ。それを眺めている静寂さだけが、自分本来のもののように感じる。思考の流れは、外からの頂き物だが、その静寂さは、人やほかからもらったものではない。もって生まれた、素の自分そのもののようである。

 その静寂さゆえに、外の世界も、内なる世界も、潤って、調和の取れたものとなってくるようである。自分の思考の流れを、ただ黙ってみていることを、それを観照というが、それを楽しむことができると、うれしくもあり、楽し くもある。それがサイレント・ジョイである。
 人が何かものを考えているとき、中心は頭になる。普段よく使っている。思考は生きていくうえで、重要な働きをする。なくてはならない。といって、それ以外のものを拒否したり、やめてしまうと、生のバランスはおかしくなってしまう。これは個人についても、社会や世界全体についてもいえることなのだ。感じることすら、考えるようになってしまうこともある。何事も解決しない。

 思考に同化してしまうのではなく、思考を感じるようにすると、焦点は変わり、別世界にワープすることができる。すると中心は頭ではなく、ハート(胸の中心)に移っている。考えている時は、中心は頭になり、何らかの結論に向かおうとする。だが、深く感じようとするとき、頭なしになる。存在の中心はハートになる。
 美とは、ハートの感覚であって、頭で量れるようなものではない。それは観念でも、思い込みでも、数学でもない。そして ハートの感覚は頭の働きとは違って、すでに結論に達している。美は蓮の花や金魚や周囲の出来事にあるのではなく、自分のハート と、周囲の出来事、蓮の花、金魚、人々との出会いの中で生じてくるのであろう。一見、何事もない世界が、この上ないもののように感じられる。無論出入りは自由だし、あなた次第だ。

 さて、朝飯にしようか? バゲット(パン)と、カフェ・ラオ(ラオスコーヒー)だ。