2010年6月28日月曜日

そよ風の風韻

 鳥の声で目が覚めた。爽やかな朝だ。空は晴れ渡り、目の前の海は、静かにたゆたっている。鳥たちが朝を讃え、そよ風が木々の緑や花たちと遊んでいる。夕べは満月だったので、海辺の東屋で一晩過ごしたのだ。ここはあるリゾートの庭園なのだが、友人のパット(タイ語で風の意味)が教えてくれたのだ。月光は雨のように降り注ぎ、空も海も風も大いなる喜びに包まれているようだった。ここはプラーナ(生命気)がいっぱいだ。
 夕べの夢は格別だった。その上ぐっすりと眠れた。深い眠りには、若返りの力があるのだそうだ。たまたま、ケム(タイ語)というタンジェリン(オレンジ色)の色鮮やかな小さな花を咲かせ、明るい緑の葉を持った、ヒンドウー、仏教界でも聖樹とされる樹のすぐそばにいたのだった。タイのお坊さんに聞くと、仏陀トリーだという。(ボーディー・トリーとはまた別に)。ハートのチャクラ。アナハート・チャクラを開く力があるという。実際そばにいるだけで、心が落ち着き、気持ちが晴れ晴れする。
 ここの庭には、ほかにもたくさんの椰子やバンヤンが植わっている。波の音、ケムの波動、満月、多少の星、海の力というこれ以上ないシチュエーション。

 夢は無意識から起こってくるヴィジョン。私の深いところで何かが感応し、活動し始めたのだ。
 夢は青い鳥の夢だった。同派に出てくる青い鳥は、どんな姿や色をしているか、わからないが、夢に現れたのは、.かつてインド、カシミール、ネパールあたりでであった青い鳥だ。インドでは二-ルカント(青い通路、パッセージ)。英語名はカシミール・ローラー、またはインディアン・ローラーという。背中、尾翼、そして翼は紺色で、頭と翼の裏側の一部がターコイズ・ブルー。そして胸の辺りがビスケットという、ちょっとおしゃれな鳥だ。30~40cmくらいの大きさで、はととカラスの中間くらいだ。主にヒマラヤの麓、周辺に分布し、カジュラホやブッダガヤでも見た事があったから、デカン高原にもいるかもしれない。インドには13年ほどいたのだが、5~6回くらいしか出会っていない。出会うことすら貴重な鳥なのだ。

 初めてニールカントに出会ったのは、30年以上も昔のことになるが、ネパールのカトマンドゥ郊外の、山間の森の中であった。当時は、チベット仏教、ヒンドゥータントラを勉強していたころの話だ。始めてみた時、姿も色合いも。存在感というか、垢抜けた波動を持って、いきなり心の琴線に触れたのかと思うような、スピリチュアルな興奮を味わった。思わず、夢中になって後を追った。樹から樹へと移動するたびに、つかづ、離れず、適当な距離を保ちながら、無理に間合いを詰めようとはせずに。しぶとく食い下がった。こちらには、つかめようとか、どうにかしてやろうとする野心などはさらさらなく、相手からも嫌がられなかったようだった。非常にシャイな鳥と聞いていたのだが、普通人が近づくと飛び去ってしまう。なかなか姿を人に見せたがらない様子である。だいぶ、人を意識しているとしか思えない。当時は、まだ、バードウォッチングという言葉が世界的にはやっていて多少のことは、興味のある鋳物については勉強していたものだった。また、欧米やインドのバードウォッチャーも多かったのだ。最近は動なんだろうか? このときは、ニールカントは、前述のケムの樹(ヒンドゥー名は忘れてしまった)が、お気に入りのようであった。

 さて今日はハートの核心に迫ってみよう。


 アナハ-タ・チャクラは、人の体にある7つのチャクラのひとつだが、その真ん中、4番目にあって、胸、ハートのあたりにあるチャクラで、肉体にオーバーラップしている、霊体、アストラル体に現れる。肉体の心臓とつながりはあっても、チャクラはアストラル体にしか現れない。もし、肉体の心臓のところに現れたら、心臓障害を起こしてしまう。

 アナハータチャクラを表す、ヤントラという、抽象的な神秘図形がある。それによると、十二弁のタンジェリンの蓮の花弁に囲まれ、中には六角形の星があり、ダヴィデの星に似ているが、意味が違うし、それに中央部には、創造性を表す、下向きに三角形がある。星の内部の色は、煙色、グレイとも、ブルーグレイともいわれている。下向きの三角形は、緑である。その司る原理は”風”、すなわち、生命力、プラーナである。
 この星の内部の世界は、マハローカといい、大いなる存在の領域とされている。形もなく、何の支えもなく、始まりも、終わりもない。チベット仏教では、サンボギャ・カーヤ。豊かな体。星の体という。そこにいたるのには何年も瞑想の修行が必要なのだが、マスターすると、スムースに最深部にいける様になる。
 ここにくつろげるようになると、心も体も癒され、体は軽くなり、身の内外の風(プラーナ、エナジー)も整って、気分も爽快に成ってくる。フローマスターとも言われ。エナジーのコントロールがうまくなってくる。また、空間的に意識が広がり、宇宙的な愛、慈しみが生じてくる。物事の見え方、感じ方がこの上ないものになってくる。ここにいると無価値なものはないように思えてしまうほどだ。

 ハートのチャクラ、アナハータチャクラには、聖なる樹があって、カルパヴリクシャという願望成就の樹である。これは、アナハータチャクラがマスターできると、春が来れば、自然に草が生えてくるごとく、自ずとその人についてくるとされている。学んだ当時は、何もほしいものなく満ち足りていたし、瞑想に夢中だったのだが、今になって思い起こしてみると。悪くない話だ。嬉しい。アナハ-タチャクラには、そんな樹があったのだ。すっかり忘れていた。ニールカントはそのことを知らせにきてくれたのかな?

 今、ここ、自分とニールカントとの波動の交流(コミュニオン)が始まった。呼吸も脈拍も静かだが、エナジーは体内をよく循環している世だし、自分のエナジーも充実していたのを覚えている。エナジーは原から、胸、喉、第三の目。そして天頂のチャクラ、サワスラーラに届き、そしてつきぬけてしまう。それが始めてというわけではなかったが。クリエイティヴでいい体験だった。しばらくしてアナハ-タチャクラまで降りてくると、無言のテレパシーで、それでよいといっているように聞こえた。物事すべて超えられて始めてリアルになってくる。静かな森の中、遠くで格好な泣き声がこだまにこだまする。静かな森の中、遠くでカッコーの声が木魂する。時々、木の実や枯葉が落ちる音が、無音を背景に際立って聞こえてくる。明鏡止水の静けさである。

 強い日差しに輝く緑の梢の合間から、どこまでも晴れ渡った青い空と、 雄大なヒマラヤ(ランタン山系)が、風のおかげで、見え隠れする。二ールカントは、シヴァ神の化身とも言われ、それゆえ、そのご神体(ヒマラヤ)周辺でよく見かけられるといわれる。二ールカントの本来の意味は、”青い通路”。転じて”意識のハイウェイ”(純粋意識)を意味する言葉である。又、シヴァ神の別名でもある。二ールカントに出会う、柔らかな光(光源なき光)が心に届き、心が光そのもの、本来の姿に戻ってしまうという言い伝えがある。夢に現れた、と言うのは、何かの前兆、吉祥なことだとは思うが、悪い気はしない。何か嬉しい。あたかも、”水中のそよ風”のようであった。自分の閉じの記憶と、夢の中とには、多少のギャップがあり、”おいおい、そんなことになっちゃうの?”と夢の中で文句を言うほどのことになってしまったが、夢だからそれはそれでよいとして、最近の友人、知人、サドゥーやお坊さん、当時近所に住んでいた、ブータン大使まで現れ、皆で祝い、笑い、その後は安心して熟睡してしまったのか、覚えていない。いずれにせよ、心の心底にあった、緊張感が緩み、安心できたことは、何よりであった。

 夢とはいわず、ほんのひと時でも、たとえば転んだ拍子とか…、普段とは違った現実に入り込んでしまうと、意識が目覚め、自我が消え、風景の焦点が変わり、周囲や世界に、直に、リアルに体験できることがある。物事の外形のみならず、何よりも内容がよく見え、よく聴こえ、より理解が深まり、何か充実した気持ちになってくる。そんなひらめきや経験はないだろうか? 子供のころ、何かの拍子に、そこに入り込み、”これ、これ、これだ! これを生きればよいのだ!”と思ったことがあるのを、今でも覚えている。
 生徒は、上辺や周辺だけを、いくら探ってもわかるようなものではない。自分の中の深い、何もないところ、どこでもないところに、センターがあって、そのことを知ろうが知るまいが、中心にいたって初めて、理解というものが起こってくる。意識の目覚め、魂というようなものも判ってくる。例えば、、地背を水平線とすると、理解は垂直線と例えていいかも知れない。両者が交差したポイントが、自分の中のセンタと共鳴すると、そこに磁場というようなものが起こってくる。宇宙と共鳴し始めるのだ。生徒は実に不思議なステージであることか。夢は夢であるが、現実もまた夢のようである。対立も矛盾もあり、それが重なったり、シンクロしたり、相互依存したり、融合したり、クロスオーヴァー(フュージョン)したら、又、クリエイティブな、新たなる風韻(素敵な趣)も生じてこよう。

 これは誰しもがやっていることなのだが、マインドを通して世界を見ると、まるで、原子の集合のようで、てんでんばらばら、まるで統一性がない。知性の働きと言うのは、分類、分析、選択、損得ということでも奥のものがふるいにかけられて無視されてしまう。それゆえ、知性は部分的で、断片的になってしまうという特徴がある。一夫、ハートを通してみると、無選択故に、世界は”ひとつの統一体”のように感じられる。モードが違うのである。庭道の通人によると、”庭は見るものにあらず。感じるものなり”、とか。全ての物事、人も、自然も、生きているものは、ただ一つの、大きな全体の中にあり、その全体の調和のエナジーが、”生命”という神秘であるように感じる。
そのことを知ろうが知るまいが、みながその中にいる。この一如(シュンニャータ。真如)であること、宇宙と有機的に繋がって”絆”というものができたとき、世界は瑞々しくなって来る。

 神とは、人物ではないし、物でも対象でもない。はたまた、天空のどこかに隠れている訳でもない。この存在の全体性、一つであることを神と呼んだり、タオと呼んだり、ブラフマンと呼んだりしているのである。感じることは考えることとはまったく違う。この一如であることがエナジーをもたらす。アナハータ・チャクラの門をくぐった時、神秘の門をくぐった時、本物のライフフォース、エナジーに繋がるのだ。一見、食うカムに見えれけれど、しばらく吟味しているうちに、それは充実している本物の実在であることに気づいてくる。一如が判ると、全てがわかってくる。同時に、意識と無意識との通路が開いてくるのだ。

 朝の海はすばらしい。朝日が、西海岸にも反映し、世界が赤みを帯びてくる。無選択の美がここにある。なんとも新鮮で神秘的である。せいは対極間のリズムだ。これなくして生はなりたたない。世界は鼓動して生きている。全体が、共鳴して成り立っている。それにシンクロしながら、広々したところで、深く息をし、裸足で砂の上を歩くのは実に気持ちがよい。

 又、風が出てきた。風のお陰で、ケムの花弁が、頭といわず、肩や背中にまで、音もなく降り注いできた。まるで夢のようだ。それも、タンジェリンな夢のようである。

ア ブリーズ プリーズ。(そよ風を、どうぞ)