2010年7月15日木曜日

そよ風の風韻2

 静かな森の中、遠くでカッコーの声がこだまする。強い日差しの中に輝く緑の梢の合間から、どこまでも澄みわたった、青い空とヒマラヤ(ランタン山系)の峰々が風のいたづら で見え隠れする。ニールカントは、シヴァ神のご神体(ヒマラヤ)周辺に出、良く見かけられる。その本来の意味は、「青い通路」、転じ て「意識のハイウェイ」を意味する言葉であり、また、シヴァ神の別名でもある。ニールカントに出会うと、柔らかな光(光源なき光)が心に宿り、心が光そのものになってしまうという、言い伝えがある。また、金色に輝いて見えてしまうこともある。一つ残念なことに、いまだ、ニールカントの声を聞いたことがない。
 夢に現れたというのは、何かの前兆、吉祥な事とは思うが、少なくとも悪い気はしない。自分の中でも、特別な思い出なのだ。あたかも、水中のそよ風の様であった。自分の記憶と夢とにはギャップがあり、違ったものに変化してしまったが、夢の中では、知人や友人、サドウーやお坊さん、 ブータンの大使.いろいろな人々が現れ、みなで祝い、みなで笑い、その後は熟睡してしまったのか、覚えていない。

 夢とはいわず、ほんのひと時でも,普段とは違った現実に入り込むと、意識が目覚め、風景の焦点が変わり、じかにリアルなものに触れる体験でできることがある。物事の表面よりも、内容が良く見え、良く聴こえ、より深い理解が起こってくる。そんなひらめきや経験はないだろうか? 生とは、上辺や周辺だけ探っても判るようなものではない。中心に至って、初めて理解というものが起こってくる。
知性を水平線とたとえると、理解は垂直線と例えてもいいかもしれない。
 夢は夢であるが、現実もまた、夢の様である。対立も、矛盾もおき。それが重なったり、シンクロしたり、相互依存したり、融合したり、クロスオーヴァー(フュージョン)したりして、クリエイティヴな、新たなる風韻(素敵な趣、福沢諭吉さんが良く使った言葉だそうである)も生じてこよう。
 朝の海は素晴らしい。朝日が、ここ、西海岸にも反映して、世界が赤みを帯びてくる。なんとも神秘的である。生とは、対立間のリズムである。これなくして生は成り立たない。世界は鼓動して生きている。それにシンクロしながら、広々としたところで、深くゆっくり呼吸しながら、裸足であるく野はなんとも気持ちが良い。
 庭道の通人によると、”庭は見るものにあらず、感じるものなり”、とか。すべての物事、人も自然も生きているものは、唯一つの大きな全体の中にあり、その全体の調和のエナジーを”生命”という神秘であるように思う。そのことを知ろうが、知るまいが、皆がその中にいる。この一如(シュンニャータ、真如)であること、宇宙と有機的につながって、”絆”というものが出来てたとき、世界は瑞々し くなってくる。
 神とは、人物でも、象徴でも、ものでも、対象でもない。この存在の全体性を神といったり、タオといったり、ブラフマンといったりしている様である。誰しもがやっていることだが、マインドを通して世界を見ると、まるで原子の集合の様で、てんでんばらばら、統一というものがない。一方、ハートで世界を感じると一つの統一体のように感じる。感じることは、考えることではない。そして、この一如であることがエナジーをもたらす。頭で知るだけでは何も起こらない人が一つの全体と一つとなって、寛いでいるとき、この一体性から、エナジーが生じてくる。生は、宇宙的な全体性として存在する。あなたが知ろうと、知るまいと…
 風が出てきた。あたりは静まり返っている。風のおかげで、ケムの樹の花びらが、頭といわず、肩といわず、音もなく降り注いできた。まるで夢の様である。
 タンジェリンな夢であった。