2007年8月26日日曜日

ドーナッツ飲茶

 ドーナッツはタオ島でも売っている。ドーナツには、アメリカンスタイルの、リング状になったものも、イギリス風の、饅頭の様なのも在る。中にチーズやジャムが入っているのもある。

オランダやベルギー、デンマークにも美味しいのがあったね。

日本にも、カレーパン、餡(あん)ドーナツという、日本独自の、傑作のドーナッツがある。

ロシアのピロシキや中国の揚げ饅頭も、ドーナッツと言っても良いだろう。

もともと、dough(ドウ)という英語の言葉には、練り粉、という意味が在る。だがdonutと書く事もある。

又、nut(ナット)には、木の実、ナッツ、そしてそれを発展させた、神秘、英知、螺子、豊穣、或は、誕生。それに、資金という意味も在る。

形容詞の、ナッティ(nutty)となると、“趣のある”、“粋な”“格好いい”という意味がある。

“ナッティー・プロフェッサー”って言う映画があったね。主演はエディー・マーフィーだったかな?

Nuts’n bolts(ナットとボルト、実質的)という言葉にも使われている。

ボルトは螺子を切った雄螺子。柱の様なものだ。一方、ナットは,雌側の螺子。重要な要の事だ。

ナットが無くちゃ,ボルトも,何事も締まらないだろう? 又,緩める事も出来ないだろう?

本来は自由自在である筈だ。錆び付いてしまっている人も数多い。

“バイク乗り”が、よく使う言葉だ。

 詰まり、ドーナッツと言う言葉は、元々“趣のある練り粉”という意味である。

粉を練って,様々な形を作り,味や風味に工夫を凝らして,揚げたり、焼いたりしたお菓子と言うか,食べ物の事である。お茶と一緒に,二つ三つ食べれば,空腹は癒される。持ち運びも簡単。

といって,同じ練り粉仲間の、クレープやホット・ケーキ、パン・ケーキとは形が明らかに違う

 タオ島には、ドーナッツがあった。だが、店で売ってるのではなくて、島の娘さんが、天秤棒を担いで売りにくる。今年から始めているようだ。風情があって、とてもいい。笑顔につられて、つい買ってしまう。

とは、表向きで、何時もは、彼女が来るのを待ちかねているのが実情だ。

彼女がやって来ると,5〜6個は買ってしまう。

少しずつだが、地元の人も、欧米人にも人気が出て来たようだ。

 馴染みになった所為もあるが、元来が、ドーナッツ好き。

会うと、必ず幾つかは、買う様にしている。好みから言うと、甘さが控えめな方が、美味しい、

美味いビスケットと並んで、ドーナッツは、人生には欠かせない。

コーヒーにも紅茶(チャイ)にもフィットする。日本茶とだってマッチする。

 時には、中国式の飲茶も、決して嫌いではないし、本土の街,チュンポーンやバンコックに出たときは、軽食代わりに食べる事もある。と、言うのは、今、私が住んでいるタオ島には、高級中華料理店はあっても、小粋な飲茶の店が一軒も無いからだ。

中国式の点心は、ウーロン茶と一緒に食べると、無論、美味い。

だがどうしても重くなってしまう。

饅頭、揚げ饅頭、餃子、焼売、小龍包、フカヒレスープ、ツバメの巣、中でもツバメの巣は、タイの特産だ。どれも美味いのだが、殆ど、ミールになってしまう。

ランチかディナーの様な豪華な重い食事になってしまうのだ。

食事としても充分なボリュームがある。

でも、“おやつ”としてなら、一寸、トウー・マッチ。

 何らかの活動の最中には、もっと軽いのがいい。原稿を書く時には、又、本を読む時には、コンピューターに向かう時、ドーナッツやビスケット、こっちの方がいい。
音楽を聴くときも、
DVDを観るときも、軽い方がいい。

ダイヴィングや、活動した時には、殊更、美味く感じる。

暑いときは、冷たいのにすれば良い。

ャイを冷たくして、ミルクでなくライム(レモン)を絞れば良い。冷たくした、緑茶も良い。

遊び心も、寛ぎも、自ずと起こってくる。

 バンコック辺りでも、又、マレーシアでも、インドでも、最近ドーナッツ屋が増えて来たようで、アジアにも馴染んで来たようだ。

他にも、少しずつ、ピッツァ、ハンバーガー、ホットドッグ,フライドチキン等も市民権を獲得したようだ。

 軽いスナック代わりに、ドーナッツを良くつまむ。

何よりも、寛ぎの友でもあるし、心地よさも、遊び心も、ついてくるからだ。

そう言う点では、ドーナッツ飲茶は、何処の国の文化とも相性がいい。特にリング状のドーナッツは、形状的に、円、丸、ゼロを思い起こさせて、ポジティヴな感じがあって、気持ちが新たになって来る様な気がするのだ。

 元々、“飲茶”という言葉自体が、“禅”からの発想だ。

“茶を喫する”という事、フィットしても当たり前だ。

 禅とは、ただ、“本当の自分に気付かせる為”の方便だ。

それは創られたものではなく、既にあるものを、内なるものを発見する事が、瞑想だ。創造性は、二次的なものだ。

マインド(思考)や知識は、後から取ってつけたものだが、瞑想は“自己の本性と繋がる”。本来、難しい訳が無い。実に簡単なことなのだが、これが、この世で、最も難しい。

だが、難しく考えているだけに過ぎない。

 例えば、元気な子供は、意識の質が全く違っている。子供達は、無意識の内に、ストーン意識を知っているし、そこに繋がっていれば、ハイなのである。

活気に満ち満ちているから、毎日が生き生きとして、たとえ同じ事をしていたにせよ、単調でも、反復的なものでも無い。たとえ、同じ遊びを続けていても、創造的に、楽しむ事が出来る。

退屈等、考えられない。

その“楽しむセンス”、と言っても良いが、それが、物事の質を変える“錬金術”だ。

 退屈は、反復行為を起こし、物事をもっと退屈にする。

行為が退屈なのではない。何もしなくても退屈する人は退屈する。一切が退屈となる。本当の所は、行為は関係ない。対象物の所為ではない。対象物に責任は一切無い。本人が退屈しているのだ。

それは、意識が目覚めていないから、無意識だからだ。

仕事や、生活、世界を変えたいならば、意識の質を変える事が唯一の方法だ。

まずは、自分を愛する事から始めると良い。自分という機能を知っておく事だ。

 子供は、生き生きとした子供には、幸いに、餓鬼と違って、観念が無い。

観念に囚われてにっちもさっちもいかなくなった人間を餓鬼と言う。仏教用語だ。

子供は、未だに“社会の知識や常識に、完全に汚されている訳ではない”からだ。

まだまだ、“無垢な意識”が生きているからだ。

生きているとは、そう言う事だ。

少しずつ、成長するに従って、意識の本性は、退化してしまう。

 だが、真に瞑想的な人、真の遊び人。そして、恋人達は、再び、無垢になる可能性がある。瞑想を通じて、人は対極を理解する洞察力をもたらし、そこから葛藤や、争いや、偏りが消えてしまうからだ。

道が観えてくるという事だ。気付けば、それは目の前に在る。

だが、“自分という山を越さない限り、道は観えて来ない”という所以は、其所にある。

 生に直に触れ、生が判ればそれでいい。言葉は必要ない。

それは論理でも、理屈でも、弁証法でもない。その真髄(スピリット)は、言葉を越えた所に在る。頭では、把握できないのは確かだ。

生とは、対極間のリズムなのだ。

 

 真理には、一貫性が無い。

矛盾している。非論理で、矛盾に満ちている。

だが、矛盾を認めれば、矛盾は消えていく。

面白いよねえ。生というのは……。

 何故なら、真理は“生の全てを、人にとっての、幸福も、不幸も包括する”からなのだ。トータル、全包括、インテグリテーとは、そんなものだ。人もそう在りたいと思う。一方、仮説や、虚偽には、理論には一貫性がある。

それは,部分であって,全体ではないし,それは人の作り物、偏りだからだ。

 気付きがあれば、気付きを楽しみ、無自覚なときは、それを楽しむ。生にフィットする。無自覚とは、休息の様なもの。それは言葉を知らない。

無心になれれば、無心こそが、本来の心、それが判れば、瞑想の実質が、少し解った事になる。

生は、形在るものと、形なきものとの間、対極間に生ずるリズムだ。

それは全体であって、変化し続ける。そして、それは分割が出来ない。

執着せずに、今、を楽しむのがいい。

“音”だけ選んで、“間”は要らない、と言ったら、“音楽”は意味をなさなくなってくる。単に、“音の羅列”になってしまう。死んだものとは、そう言ったものだ。

静かな間があって、音があって、タイミングの妙があって、リズムがあって、初めて、音楽が生きてくるのだ。

“スイングしなきゃ、意味が無い”、よね。

生きてきて初めて,音楽がエネルギーを生み、人を“生かす”様になってくる。意味が生じて来る。

 生はリーラ、遊びだ。戯れなのだ。

無意識でだらだらと生きているものは,礼儀を知らない。実は、真に生きていないのだ。生を持て余しているに過ぎない。

幸せな時には、それを楽しむのが、幸せに対する“礼儀”というものだ。

人に対しても同じ事が言える。何故なら、幸福になる為に、人は生きてるんだから。

もし、その、幸福と言うコツが判ったら、悲しみだって楽しめる。

静かに悲しみを楽しめば良い。それは、美しい。

 “この世にイエス(諾)”と言える人は、覚者(ブッダ)と呼ばれる。

表面的にはどうあれ、霊的にはブッダ(目覚めた人)と言われる。それは寺や,坊さんとは関係がない。イスラム世界にだって起こりうる。何故って,ブッダというのは,人の本来の本性,持って産まれたものだからだ。

その事に気付いた人は,ブッダと呼ばれる。

 人にとって、これ以上の“存在”、可能性は無い。王や皇帝でさえ,土下座しなければならない。そして、死んだ人をブッダとは、仏とは決して言わない。

目覚めた人(ブッダ)を死人にしてしまう様な所には,まともな人間は暮らせないではないか? それに仏教は,先祖崇拝とは、縁もゆかりもない。

本来から、無関係だ。それは信仰ですらない。

仏教は,並の宗教とは違う。寧ろ探求の道なのだ。そこの所も理解する必要が在る。

これは物事を歪めてしまう、大きな原因となっていて,私が懸念している事でもある。人間の勝手な都合で,様々なものが歪められてきた。でもそれが長く続くとは思わない。その事の不都合は,何倍にも倍加してしまうからだ。

 悲しみでさえ,楽しむことが出来たら、そうなると、悲しみ自体の方が、変容してしまうのだ。

映画でも演劇でも、音楽でも芸術でも“悲劇を楽しむ”、という事があるだろう。

これは錬金術。エリキサ(妙薬)となる。

ドーナッツでもつまみながら、“心底から”、イエス(諾)といえば良い。

世界が変わるよ。

 誰しもが、頭に囚われていて、物事が上手くいかない。

頭の善し悪しは関係ない。頭だけに囚われている事に問題がある。

頭は同化するものではなく、使うものなのだ。

頭に囚われるという事は、視力が無い、知恵が無いという事だ。

仏教では、無明と言うではないか。

 普通,人は意識しては居ないかもしれないが、マインド(頭、心)の外に出た事が無い。もし、あったとしても、無意識の内に見過ごしてしまう。それは、“思いのほか”の出来事なのだ(前記事「思いのほか…、という宝物」参照)

人が知る世界は、全て、マインドの中で、マインドを通して、知られたものばかりだ。だが、もしそうだとしたなら、マインドを通して知る事が、人生とは、“退屈”そのものになってしまうだろう。

知識は頭を通過するだけなのだ。そのうちどれほどのものが、心や心底に届くのであろうか?

“思いのほか”と言う、ハプニングのおかげで、何とか救われている。

頭を使っても、人は頭で生きている訳ではないのだから。

“道とは何か?”と問われたら,“無心が道だ”と答えている。

“私とは何か?”と問われたら,“無我が私だ”と答えている。

もし、マインドの中も、そしてマインドの外すらも、全ては自分の中に包括されている、と感じたら、個人的な“苦”というものは解消する。

 もはや、その次元に於いては、一個人を越えている。存在と一つになっている。

中心がなくなれば、嘗ての、自己は消え、エゴは消え、ただ、純粋な意識だけが残る。“あなた(という仮説)は居ない”。

只、“在る”という感覚だけが残る。それには,名前のつけ様がない。顔も,姿もない。そしてそこに私達は居る。

意識に拡張が起こり、高揚感が起こってくる。

意識に関わると、面白い。そこから、心も、そしてマインドも生じて来る、基礎となるのだ。

 その高揚感とともに、“苦”は消え去ってしまう。新たな自分が産まれて来る。

ブッダが悟りを得た時、“人生に、苦なし”、と言った理由は、其所にある。

何らかの事実は残ろう、だが、そこに苦はもはやない。

試しに、苦とともに暫く一緒に居て、“苦”を眺めてみれば良い。“苦”から逃げようとしてはならない。“苦”を観照する。

“苦”とは一言で言えば、過去の残存物だ。処理が済んでいない残存物だ。

気付けば、“苦”を見ているものは、観照者は、少なくとも、“苦”ではないだろう。

ここで、苦を分離できてしまう。苦が過ぎ去った後に残ったもの、それが“今”だと言う。そして、生は,“今”にしかない。簡単だろう?

 問題の解決には、頭からハートに、そして腹に、降りて来る事がいい。

エネルギーの向きを変えるのだ。ハートは感じる事のセンターだ。感情は要らない。

感性が重要だ。全てはそこからだ。腹は存在のセンター,宇宙と繋がるセンターだ。

この世の、あらゆる問題は、全て、頭で生み出される。そこで、思考のモードを変えるという事だ。頭は、必要な時に使えば良いのだ。頭は便利だが、万能ではないのだ。臨機応変に附けば良い。

  頭から、ハートに降りる事に依って、多くの問題は消え、解決する。

まさに神秘的だ。宇宙は、すでに、統一体になっている。

ほらっ!

 頭を通して世界を観れば、それぞれが、個々として、バラバラなのに、ハートは一元的な体験をもたらす。不二をもたらす。

世界が混沌として見えるのは、ハートの次元にその人が居ないという証拠でもある。

頭でっかちになってしまっているのだ。

 ドーナッツは美味しい。美味しさを味わうのは、喜びである。喜びを噛み締める事は、実に楽しい。其所から幸福感も生じ、様々なことが起こってくる。

創造的になってくる。それは意識の質が変化してくるからなのだ。

人は,その時、いい循環に入っているのだ。それが、創造的に味わう、という事だと思う。

 今度、自分でドーナッツを作ってみよう。

大きな鍋、いい油と、いい粉、それと新鮮な卵と、サトウキビから取った“生の砂糖”があればいい事だ。

それに、ほんの一寸のスパイス、隠し味だ。シナモン、ココナッツ、レーズン、胡麻、蓮の実、カシューナッツ、アーモンド、ショウガ、カルダモン……。

餡ドーナッツ? 小豆があれば言う事無いけど、タロイモの餡でもいいよね?

カレーパンはうまいのが出来る。お手の物だ。

タイ伝統の、ココナッツカレーなら、“馬鹿うま”なカレーパンが出来る。

チキンが入ればなお美味しい。きりがないね。

 上手くできたら、娘さん達にも食べてもらおう。美味いのを、沢山作って、近所の人にも食べてもらおう。楽しみが増えてきた。

 チャイもあるといいね。美味しい、アッサムかなんか…