2007年5月9日水曜日

思いのほか…、と言う宝物

 “思いのほか…”、とは、何も思わない事である。思考も,迷いも、先入観も,一切の観念も無い事である。考えたり、想像したりする事の外側のことである。予想外の事である。それを、“思いのほか…”という。丁度,ムエタイのボクサーがよく使う,ノー・モーションのパンチのようである。何処から来るか判らない、タイミングも判らない、意外性があり、カウンターにもなり、“力み”も無いので、思いのほか、効果が高いのだ。


 思いがけない,思いもかけず,思いも依らず、と言った言葉と、同義語である。大抵の場合、期待や予想していたよりも、良い結果がでたときのことを言う言葉だ。上手くいかなった場合にも、まれに使われる。

 思いのほか、成績が良かったとか、上手く行ったとか、よく使われる。
四六時中、考えたり、思ったり、ああでもない、こうでもないと始終、思いを巡らしている人や、何故か、じっとしてはいられない人にとっては、意外な事なのだ。特に、何かに夢中になって、熱中している時、思いのほか…、という結果がでると、意外性とともに、嬉しいものだ。無心の部分が,際立ってくる。思いのほか…、という次元そのものには“魅力”が一杯ある。

 何かが起こるのは,この次元、“思いのほか……”でよく起こるからだ。
何らかの結果が生じて、それが良ければもっと良い。つまり、“思い”とは、自分のマインドの内の、個人差はあるにしても、割と“狭い領域”の事なのに気付く。
それを一歩進めると、知的作用という事になる。
知的作用というのは、感覚で捉えた沢山のデータ、経験的データから、“一般的な仮説を構築する事”にあると思う。普段、我々が無意識にやっている事だ。

 世の中は,自分の“思う様にはならない”、のは、誰でもよく知っている。人の思いで複雑に成り立っているからだ。
人に依っては、飽く事無く、常に思いの中、経験界の過去の知識の中を、堂々巡りをしているようにも見える。それだけに頼っていると、必然的に、悲観や絶望に落ちいってしまう。
下手をすると、“敵意に満ちた世界の中で孤独感に苛まれてしまう”という事にもなってしまう。
何かを変えようとしても、その努力が、物事をさらに悪化してしまう。これは誰にでも判るだろう。

 “百考は一見にしかず”。

 一方、“思わない事”は、思いのほか…、広く広大である。大空の様に、果てがない。
“プラチャハラ”というと、感覚器官から、心を解き放つ事をいう。ヨーガやタントラで使われる言葉だ。
これは、“集中する”という意味である。
散漫していたスピリチュアルな精神エネルギーを集めて統合する事である。
心が外に向かおうとするのを、内側に向けさせて、“ターン・オン”する事である。
これは、瞑想の基本となっている。内側を見る事で、その人に変容が起こる。
光明を得た人は、普通の人と同じ様に生きる。だが、実存の“質”が違っているのだ。
その時、内側に留まったまま、初めて、新たな眼で、外側を見る事が出来る。
世間にいても、世間は只の夢、ゲーム、夢の様なものになっている。
深刻なものはない。

 様々な、思いや知的作用の中に、始終、出入りはしているものの、私は,“思はない事”を自分の家、心の家としている。この世には、自分が“する”しかない事もあるし、又、自分が“いない事”を通じてなされる事も在る。往々にして、素晴らしい事は、人為的でない時、起こるものだ。
生命のエネルギーは死なない、と言われている。では誰が死ぬのか?
死ぬのは、“私”と言うエゴが死ぬ。
エゴがだんだんと落ちていくと、死も落ちていく。
エゴが落ちれば、“思い”も違ったものになっていく。
神秘はそこに在る。

 正確には、思わない事を通じて、自然に扉が開くのだ。
大きい家だろう? 全宇宙と等しい大きさだ。
しかも形が無い。だから壊れようが無い。屋根がなくとも、雨にぬれる事も無い。
この二つ、“思う事”と、“思いのほか…”とを、調和させる事も楽しみになっている。それは、“現実と、現実に対して抱く概念との“ずれ”を小さくする事が出来る“のだ。
それが、“シャンブー(シヴァの第三の眼)”。
禅に於いては、“正法眼蔵”と呼ぶ。内側を見る眼、真の視力のことを言う。

 私達の生に於いては、あらゆるものが条件づけられている。環境、伝統、社会に依る条件付け、あらゆるものが条件づけられている。
なんであれ、自分のもの等何も無く、全ては外側から来ている。
禅は、先入観、予見、期待、様々な思いを排除して初めて、人は自己の中心に至り、全一(トータル)であり得ると言う。“一即全”という。

 言葉を変えると、『共感的な調和』と言ってもいい。
チベットの金剛乗仏教(ヴァジラヤーナ)によれば、“宝生如来、ラトナ・シャンバーヴァ”がその『共感的調和』のマスターとされている。シヴァとブッダが融合した様な、“存在”だ。
タントラや仏教の“心”と言ったらいいだろうか。
方位は、大日如来(ヴァイロチャーナ)を中心に、南方とされている。これからももっと探求してみたい。

 取り分け、無防備であることは、心身ともに、気持ちがよい。健康には一番だ。
風呂が気分いいのは,その理由の一つだ。
必要なときは、仕方が無いが、始終、鎧を着ている様な生活は,本当の“生”とは言えないだろう。意識が眼ざめ、心を解き放つと、宇宙、環境との間に信頼が生じてくるから、気持ちがよいのだ。
ここから再び,心は蘇ってくる。静かに寛いで堪能できる。

 雲一つない、晴れ渡った青空のようだ。意識が目覚めている。
意識が目覚めていないときには,空は晴れていても,心は闇,という事が起きる。
リアルじゃないのだ。ここのところが大事だ。
自分がリアルではない時は,何もしない方が良いのだ。何をやっても,上手く行かない。
そういうときは,何もしないで,何も考えない事がベストなのだ。
暫くすれば、やがてリアルな状況に戻ってくる。
心が晴れていれば、たまに、雲があっても、ご愛嬌。
お茶も美味くなる。食事も旨い。

 思考とは、視力の無い事と言われる。
だがそれはそれなりに面白い。
見方を変えれば,焦点次第で、この世界は,何でも面白くなる。
根本から始めて、何らかの目標に、様々な受験を配慮して、繋げていくのが面白い。
心が広がっているときこそ、気配りも重要なのだ。
例え,朝から雨が降っていても,心が晴れていれば、雨も又、“楽しからずや”である。
思考だけに囚われずに,思考を楽しめれば素晴らしい、と思う。

 聞いた話だが、ある時,ハリウッドの女優が,自分の息子を、新しい夫に紹介していた。
彼女は息子にこう言った。
“さあ、新しいお父さんよ”
 息子は言った。“今日は。お目にかかれて嬉しいです。よろしければ、僕の「お父さんノート」にサインして頂けませんか?”
彼は既に、沢山の新しいお父さんに出会っていたからだ。「お父さんノート」と言う、サイン帳には、既に6〜7名かのコレクションがあった。
人は生きる事を楽しむ為に、様々な事を変えていく。彼にとっては、「お父さん」とは、“始終、入れ替わる人”という事になっていたのだ。

 過去は二度と戻って来ない。
全ては記憶の中に在る。
私は時々、自分の“記憶の部屋”の中を散策するのが好きである。
普段は,そのドアは閉めておくが,全く,過去を見ないという事はない。
記憶の部屋は、割と何でも記憶していて,赤ん坊の頃からの、自分の歴史が全て整理されている。当たり前の話だが、嫌な記憶は,廃棄処分にして,歴史から消えている。
記憶の事は、記憶の部屋の自主性に任せている。
だが、未来のことをいくら思い悩んでも、魔法でも使わない限り、未来の事は判らない。

 今にあれば、未来が判らないのは、当たり前だ。鬼だって笑う。
と言って、未来に行ってくるわけにはいかない。何故ならズーッと、今が続いているからだ。
例え、仮想の未来のある時点に行けたとしても、しかも.生きているとして、その時点では,“今”なのだ。
外的な状況は変わっても、いつまでたっても、“今”なのだ。
それがわかると、深刻に未来を考えなくなるものだ。レット・イット・ビー!
一切皆空、楽天的に、静かになれるのだと思う。

 いくら可能性を模索して、未来を想像しても、統計や確率で計っても、“万が一”という事があるからだ。それに生は理屈でも論理でもない。それは神秘なのだ。
勘が鋭い人でも、ギャンブラーでも、その時が来るまでは、八百長でもしない限り、先の事は正確には判らない。
でもその御蔭で、人は平穏に暮らしていける。
その第一は、先の心配をしないという、ある種の安心感かも知れない。未来が余りにもクリアに観えたら、大変な事になると思う。
 もし、未来の事が全て観えていたとしたら、Sf小説みたいだが、ヒマラヤで瞑想中、そんな次元に入り込んでしまった事があった。
近未来の事が、全てと言わないが、予知できてしまうのだ。
これは落ち着かない。自分で自分に吃驚してしまった。
これは、ヒマラヤのハイな不思議なパワーかも知れない。シンクロしてしまったのだ。
 確かに,内なる回路が、接続して、不思議な状況に入ってしまう事は,たまにある。
元に戻った時、本当にホットした記憶がある。夢の中で,虫の知らせが,何らかの形で現れる事も在る。
それが、なんであれ、“思いのほか…”が、観えてくるからだ。

 子供の頃から、瞑想に興味を持ったのは、この、“思いのほか…、”という事が、面白かったからだ。意識が広がれば,心も広がってくる。この簡単な道理に気付いたからなのだ。

 “思いのほか”、という場合、時に“直感”ということが起こる。
知覚とダイレクトに繋がる事である。意図的に起こる事ではない。
知性を排除した時に起こるのが、“直感”だ。
御蔭で、何度か、命までとは言わないが、危険な事を回避する事が出来た事が何度かある。
虫の知らせと言うのも直感の一つの形だと思う。
虫の知らせは、“蔭”からのメッセージ。
“何となく”、という感じが、無意識の中から起こってくる。
これも、“自己という宇宙”の機能の一つなのだ。
自分の中で、その能力を認めてあげよう。

 我,思うが故に,我なし、思わざる故に,我あり。
無自己(アナッタ)こそに、自己を観る。
そこから、形の無い、大切なもの。ものでない事が観えてくる。
それは物事の背景にも,物事の中にも存在する。
人生の楽しみや喜びのエッセンスとなっている。
それが日常世界にとって何よりのものとなる。
その味わい、吟味が、私の宝物。

 思いのほか……、それは、大きな楽しみなのだ。