存在に於いては、何一つ、対極なしで存在するものはない。真実は、二つの極、同時に双極性をはらんでいる。
昼と夜、男と女、光と蔭。愛は憎しみと対し、笑いは、緊張の呪縛から起こってくる。昼は夜と対し、生と死は対し、美は醜と対している。
何かの事を、これでもかとやっていくと、必ず反対の事、対極が現れてくる。行き過ぎた行為は、その反対の結果を生じてしまう。
だがその双極性、対極性を越えた“静寂”、“間合い”に気付く事がある。それは,無因なるもの,創られていないものだ。そこに注意しない手はない。禅のスピリット、タントラの英知は、“そこ”にある。“無因なるもの”だ。
もし、生と死の両方とも、ともに見る事が出来たら、無選択であったなら、そこに“超越”がある。自由を知る。恰も、生きたまま、生死を越えたかのようだ。これは実に愉快だ。
真理、気付き、全面性、慈しみ、愛.悟り、光明、それらは、山頂に於いては、一つとなる。分かち合いは可能だが、分割は不可能となり、言語は意味をなさなくなってくる。山頂が、高くなればなる程、物事の意味は深くなってくる。そこから新たな次元が始まってくる。この辺りまでくれば、まず一安心できるだろう。
禅は、マハカーシャパとゴータマ・ブッダとの間に起こった事を、源としている。こんな話が伝わっている。
ある日、ブッダは、一輪の花を持って現れた。その時、そこには、何千人という弟子達が集まって来ていた。時は過ぎ、ブッダは、無言のまま、花を見つめているばかり。弟子達は、どうしていいか判らず、落ち着かなくなって来た。その時、マハカーシャパ(弟子の一人)が、堰を切った様に、笑い始めた。
ブッダは、彼を招き寄せ、その花を彼に手渡してから、弟子達に向かって言った。曰く
「私には、正法眼蔵(正しく真理を見る目、第三の眼、シャンブー)がある。言葉に依って与えうるものは、全てあなた方に与えた。だが、言葉では、鍵を、真理を伝える事は出来ない。言葉に依らないもの、この法の鍵は、この花とともに、マハカーシャパに授けよう」
禅は、ここから始まった。禅とは,“沈黙と笑い”のことだ。内側の沈黙,静寂と,外側での喜び、そして、全てを一つにする笑い。それは他人の失敗や不幸を。あざけ笑うのではない。それは単に,“宇宙的ジョーク”なのだ。其れが、禅の笑いだ。沈黙、それは、ブッダの最大の教えだ。
真理は、“語り得ない”。そして,沈黙、静寂だけが,そんなジョークを理解できるのだ。沈黙が花開く時,沈黙は喜び、そして笑うのだ! それは丁度,草木から花が咲くかのようだ。それに、気付く心が美しい!
沈黙が、歓喜となった時、それは“光明”と呼ばれる。苦はない。ここから、禅が始まった。< “始めに、言葉は無かった”。沈黙と笑いだけがあった。他には何も無かった,が,全ての意味が其所にあった。そこから、最もユニークで、最も、偉大な宗教が起こったのだ。ブッダが源流で、マハカーシャパが開祖となった。
後年、禅は、ボーディー・ダルマ(達磨大師)に依って、中国に渡り、日本に伝わった。ボーディー・ダルマは、26代目の“鍵の所有者”となった、と言われている。だが、中国では、“沈黙”を理解する人、聴く事の出来る人には、中々出会えなかった。殆どの人は、頭で、言葉でしか理解しないのだ。殆どの人は死んでいた。現代とも変わらない。沈黙があって、初めて理解できる。ハートに入れば、初めて新しい鼓動、脈動、解放、自由が訪れる。やがて、一人の“無心”が見つかった。 そして、禅は、日本に渡り、日本で熟成し、今や、再びインドに戻ってきた。ほぼ2,500年もかかって、東アジアを一周した事になる。その輪は、世界中に浸透しつつ在る。“円”が出来たのだ。これは,本当に感動的な事だと思う。 “禅”とは、自己を学ぶ事、可能性の領域を広げ、生を知る事だ。詰まりは瞑想の事。それは、ある種のコツの事。何よりなのが,信仰ではない事だ。何者も歪めない。信仰は、物事のありようを歪めてしまうからだ。それは、タントラ、ヨーガ、タオにも共通する。これほど役に立つ事も無い。それ故,今では,“インナー・サイエンス”という。
まずは、自分というメカニズムを知り、その上で、自然にフィットさせるのが目的だ。信仰の宗教ではないから,仏教,ヒンドウーの人々は当然としても、イスラムやキリスト教の人も,学ぶ事が出来る。
瞑想には副産物として、愛、慈しみを知る、という事がある。無心を通して、ユトリが生ずるからだ。
まず、エネルギーが必要だ。自然環境の良い所で、静かに暮らすのが良い。
やがてエネルギーが備わって来る。胸全体に意識を集中して、ゆっくりと静かに呼吸し続ける。何ヶ月も時間はかかるかも知れないが、やがていつかハートのチャクラに、チューン(同調)出来れば,波動も変わる。
時間はかかるかも知れないが、難しい事ではない。本来、自然な事だからだ。
マインドではなく、ハートに属する事だ。それは、丁度、コインの裏表のようだ。
片方に瞑想が,もう片方には,慈しみ,自然、愛があると考えれば良い。
逆に、愛や慈しみから、瞑想に入る人もいる。
一つが極まれば、後の残りはついてくるのだ。
全ては山頂で出会うのだから。
普通,私達は、現実を変えて、自分達の都合の良い様に、現実の方を自分達に合わせようとして来た。それが、“理想”とも言われる。
だがこれは馬鹿げている。万が一、上手く行ったにしても、何れ、破綻が起きてしまう。
全体が、部分に合わせる事には無理がある。部分が全体に合わせるのなら判る。
実在の方を、人間に合わせる事は不可能だ。
何故なら、変えられるのは、偽りだけだからだ。
自我や仮説や偽善は落とせるが、“真実は変え様が無い”。
真実は,善くも、悪くもない。善悪とは,価値観とは、あくまで,人の“都合”だからだ。実にいい加減な話だろう?
この世に、イエス(諾)と言える人は、覚者(ブッダ)と呼ばれる。人は元々、その可能性、潜在能力を持っている。ブッダは、目覚めた人、神秘家と呼ばれたりもする。だが、所謂、宗教家ではない。政治家でもない。やり手ではない。世間で言う様に、死人ではない。頭に固執する人でもない。
だが、“真に生きている人”を、ブッダと言う。
そのような覚者は、混沌、混迷の中にも、コスモス、秩序を発見してしまう。
ものの中にさえ.素晴らしい何か、ものでないこと、を発見してしまう。
最近増えてきたようだ。
禅とは、“開悟”の事だ。
その為には,何十年と努力しなければならないかも知れないし、そうでないかも知れない。それは、その人次第だ。全ては,開悟してから、それからの話だ。無理する必要は無いが、好きな事を、無理無くやれば良い。
楽しむ事が人生だ。喜びがエッセンスだ。
結果を気にする事は無い。勝って善し、負けて良し。
全力で生き、そして、寛ぐ事が人生だ。生きる事こそが、目的なのだから。本来、実に簡単だ。ボーディー・ダルマ曰く
「行住坐臥、全ての、人がなす事が、禅となる」
歩き、座り、横になり、シャワーを浴び、食事をする.夜ぐっすり眠り、朝はすっきりと眼を醒す。仕事も、遊びも、スポーツも、旅行も、心の乱れも無いままに、それをやっている。普通でかまわない。気付を持って普通であれば良い。疲れたら休み、腹が減ったら食べる。無理が無い。出来ない事は、出来ないでよいではないか? 生活全体が、瞑想になっている。形式に拘る必要もない。
禅の人にとっては、何も特別な事は無い。彼は、自分なりの、普通を生きている。全ての条件付けから、自由になっているからだ。さすれば、自ずと、生きる能力も高くなって来るのだ。悩みが無いからだ。虚空を見る習慣を持つといい。
私は陶磁器が好きなので、良く、壷や瓶、器を見る事が多い。器は、内部の虚空や、窪みがあって、初めてものの役に立つ。何かで詰まっていたり、一杯になっているとしたら、ものの役には立たない。瓶や壷の中の空間は、外側のに広がる空間と別物ではない。空性があるからこそ、光明も、太陽の存在する事が出来る。
だが時として、自信のなさや、恐れや心配で、通路が詰まってしまう事もある。いつでも、直感力が働く訳ではない。だが、完全性を気にする事は無い。四六時中、通々という訳でもない。“ノーバディー イズ パーフェクト”。良いときもあれば、良くないときも在る。寧ろ、完璧を目指す事の方が、バランスを崩してしまう。気楽に行こうではないか。
人が生きるに就いて,二つの要点がある。それがバランスとなる。
一つは“在ること”(ビーイング)、もう一つは“すること”(ドウ−イング)だ。
“すること”は,何かをすること,何かを達成するもので、人はその為に様々なことをする。だが、それは,周辺の部分だ。
一方,“在る”,という事は、その人の本性。獲得しようとして獲得できるものではない。元々、その人とともにある。だから、気付く事が重要になる。ブッダの意味は其所にある。
だが,人は“すること”を通じて,その活動の影響、欲望で、それが障壁となって,複雑さや,忙しさにかまけて、自分の、“在る”,という、本来の“核心”が解らなくなってしまうことがある。
知らず知らずの内に,その核心部分は,すること,所有することに取り囲まれ,乗っ取られてしまう。
だが、“在ること”なしには、人は、まっとうに生きられない。“すること”もままならない。“在ること”は、その人の,すること,所有,もつこと以上に、重要な基本的なことなのだが、人の心は,つい,全てのすること、持つこと、金、財産、知識,社会的な地位、欲望、執着、選択、に囚われてしまいがちになる。“すること”自体に問題は無い。欲望も、知識も良い。だが、それに囚われることが問題となるのだ。ここの所が大事だ。何であっても,それは,“すること”は、自分自身ではないことは明白だ。
はてさて、“在ること”はどこに行ってしまったのか? “すること”と言う周辺部と,“中心”、即ち“在ること”との区分を、良く理解しておく必要が、どうしても生じてくる。この“中心”を知らない限り,苦悩や悩みが消えることは無い、と言われる。 そんな時こそ,空性の理解は、役に立つ。人の空なる本性は、普遍的(ユニヴァーサル)だ。全ての生き物に共通する、と言う。気付いていれば,それが“ゼンシティヴ”。気も、心も、晴れ晴れとする。あらゆるものが美しい。それに気付く心は,もっと美しい!
それは,飾り様が無い。それが一番のクールな“お洒落”と言ってもいい。そこに、その場の本質的な空気、微妙な波動が起こってくるからだ。偏らず、地に足がついている人なら、何事も難しくはない筈だ。きっと、“ゼンス”の判る人だ。