2007年8月27日月曜日

竹の風雅(懐石空間、ストーン・ラウンジ)

 アジアには竹が多い。竹はアジアの特産物だ。竹はアジアの熱帯,温帯に多いと言う。アジアは竹の宝庫と言っても良い。 言うまでもなく、竹は、中が空洞で、洒落にもならないが、節があるのが“ふしぎな特徴”で,人は様々な、ざるや籠、提灯、家具や道具を,或は家その物を、竹から作ってきた。他の樹木とは一寸,性質が違うのだ。しかも竹は、アジア中、何処にでも生えている。長生きだし、しかもいつも緑を絶やさない。何千年もの間,人と密接にかかわり合ってきた。これからも,そうだろう。


 そう言う意味では,Nuts'n Bolts(実質的)な、万人が使える地球遺産だ。南アジアの竹は、日本の竹同様に、竹としての共通部分は確かにある。だが、日本のものとは,何か風情も,姿、形にも、一寸した違いが見える。気候の所為か、生命力に凄みさえ感じてしまう。どちらが、どうという事はないが,それぞれ特徴があって、同じ竹でも目新しい。

 20年近くもアジアに居て、見慣れてしまえば,何程のものでもないかも知れないが、タイであれラオスであれ,インドであれ、カンボジアでも、マレーでも、何処のものでも,アコースティックな風情も、魅力も豊かなのである。
 子供の時から,祖父が竹好きで、竹の道具に触れ、筍を良く食べ、竹の近くで育った所為もあるが,竹には殊更、親密感が深い。つまり、子供の頃からの、身近な家族の様な存在である。
 逆に,竹が側に無いと,家に居る気がしない。日本では、“梅に鶯”、“竹林に虎”だが、タイの本土ややインド、ヒマラヤでは様子は違う。ここでは、“竹に鶯”だ。
 良く、本土やヒマラヤでは、竹林の近くで鶯の声を聴いた事がある。でも、ここタオ島には、雀もカラスも鶯もいない。マイナという黒と黄色の鳥や、うぐいす色っぽい大きな鳥がいるだけだ。本土から離れているからだろうね。数は多いが、鳥の種類は少ない。

 まず、竹には、他の樹木とは違った性質が在る。容姿もユニークで,軽く、しかも柔らかく,しなやかで,そして強い。いずれにせよ,竹には,人を引きつけずには置かない、不思議な力が在る。松や梅と比べても,何か、粋で、最も通々なエネルギーがあり、生命力を感じる事が出来る。しかも,くねくねしていず、嫌みが無く、真っすぐで,爽やかな感じがする。だから、いつも、風雅な不思議な生き物として、新鮮な眼で見る様にしている。無論,松や梅にもそれぞれ違った趣があるのは言うまでもない。比べても意味が無い。それぞれ素晴らしい。
 古来から,日本でも、爽やかな初夏の緑の色を“若竹色”と言って尊んでいた。松竹梅の中では中心となる、重要な、“植物様”である。
 竹を観ると、つい、心に浮かんで来る言葉がある。松には気品があり,梅には華やぎがある様に,竹には、“風雅”という感覚が揚げられる。風雅のエスプリが竹になったのではと思ってしまう。“風雅”とは、好きな言葉なのだが、上品で角が取れ、風味、趣や味わいが在り,風流で雅びである事だそうだ。“フーガ”と言う“言霊”のトーンも耳に心地よい。何か音楽的だ。
 音楽用語にもフーガというのがある。イタリア語だ。バッハのトッカータとフーガという名曲があったね。主題(テーマ)とその応答が交互に現れる形式の事だ。遁走曲という。

 一つ、トーンそのものにマインド・ジョグ(思索)してみると、“トーンと言う音そのもの”,“言霊の響き”が、音楽的で素晴らしい。“天地が繋がる様なトーン”がしてくる。
 サンスクリット語で、同じ様な事を“サウンデリア”と言う。根源はシヴァ神にあると言う。シヴァ・リンガから発生する、無音の、波動の力のことを言うらしい。“美しき波動”、“響き”と言った意味だが、それが、英語の、“サウンド”の語源となっている。
 言霊や波動に注意してみると、何か、知覚に新鮮味が、起きて来るようだ。それが脈動し始める。
しかも,タイ語で“トーン”とは,“黄金”の意味なのだ。ここタイでは、トーンという音は誰しもが好きなトーンである。タイ人達も、意味は勿論、トーンという言霊の力、霊力を知っている。言葉の通り,まるで,黄金のようだ。

 言霊と言う、言葉の意味だけではなく、もうひとつの波動の意味を知っているのは,インドやチベット、ネパール、タイそして日本なのだ。最近欧米でも,波動力学やサンスクリット語の影響肩か,言霊に気付く人が増えてきた。今や、世界がひとつになろうとしているね。
 一方,日本でも古来から“ト”という言霊には“特別な力”があったのだ。“トの天神”、“ト”の神が国を守護して,嘗ては日本は“ト下の国(としたのくに)”とも呼ばれそうだ。“トホル”、“マコト”、“ヒト”、“ヤマト”、“トンボ”の“ト”、トのトーンは,“整う”という事であったらしい。“マト”は、“真(まこと)のト”の教えという。マトを外さない様に…

 “天つ君、一(ヒ)より十(ト)迄を,尽くす故、仁(ヒト)に乗ります”

とある。これが人(ヒト)という言葉の語源になっているそうだ。そして、その“ト”のトーンは、国の頂点に立つ“言霊”、ワード.スピリット、即ちトーンとされたのだそうである。最高神とされた言霊だそうだ。
 又、“コト”(九十)から、“コトノハ”、詰まり、“言葉”が生じたと言われる。この辺、探求すると、面白ろ(顔を白くする事)そうだね。そこにも、“ト”のトーンが関わって来るのだ。“トホカミエヒタメ”。日本のマントラだ。

 さて、波動力学(ウェイヴ・メカニックス)はその辺りにして、元に戻ろうか。
 地下茎を広げて,繁殖し“疎林”を作るものと,稈(かん)が密集して“株立ち”になるものとがある。竹にも色々と種族がある。人間なら、文化の違いと言っても良い。それぞれにそれなりの特徴があり、魅力がある。花も咲き,出始めのものは,“筍”と称し、風味が際立っており食用にもなるのはどなたもご存知だ。日本でも、懐石料理を始め、笹の薫りを食材や酒にも流用してきた。
 “懐石”とは,禅の言葉で、瞑想中、温石(おんじゃく)を懐中にして、それこそストーンしたり、途中で、空腹をしのぐという事があったそうな。詰まり,一時しのぎの、軽い料理の事である。飲茶や点心よりは一寸重いが、茶席の席で出される、簡単な料理の事でもある(茶懐石)。詰まり、フルコースの豪華な晩餐という訳ではない。風雅な,気の効いた、旬の、美味しい、しかも、その場にマッチした粋な料理やもてなしのことを言うらしい。
 旬の焼き魚に、笹の葉を敷いただけで,一段と風雅さを増す。イカそうめん、鯵のタタキ、鮎の塩焼きにもマッチする。大根おろしに柚子でも絞って、後は、だし醤油に唐辛子を一振り、柚子、生姜、あるいはワサビ、それで良い。
 南インドのカレー料理は、バナナの葉っぱの上にご飯をのせ,ご飯の直ぐ側に、何種類かのサブジー(おかず)をよそう。アチャール(漬け物)も附いて来る。ポテトや豆やカリフラワー、オクラや人参のカレーが,生き生きとしている。何と自然で、旨味を増す事か! どんな見事な陶磁器や、銀の皿に盛りつけられた料理よりも,気品があり、ずっと美味い。勿論,右手で、素手で頂く。インド人に言わせると,せっかくの食べ物をフォークやナイフ,箸やスプーンで食べるのは,“食べ物”という“神”に対する“礼節”を忘れている様に感じるらしい。尤もな話だ。
 インドに長く暮らしていれば良く判る。何かの道具を使って,間接的に食べるのは,不潔な感じがする、邪道という事だ。“手で直に食べる”のが最もダイレクトで,神の意志にかなう、と言う。インド人の心が、良く解る様な気がする。この事が理解できれば、隔たりというものはなくなってしまう。箸の文化にも、素手の文化にも、それぞれ誇りもあり、道理も在る。理解を深める事が大事なのだ。
 私達だって,寿司、お稲荷さん、ピザ、ハンバーガー、フライドチキン、フレンチフライ、ゆで卵、おむすび、おはぎ、饅頭、磯部巻き、ドーナッツ、ビスケット、サンドイッチを、トウモロコシを、素手で食べるではないか! 

 私達は、意外と、素手で食べる美味さを知っている。箸は中国の文化が伝わったものだ。箸やナイフやフォークを、無理に使って食べても美味くない。試しに箸でピザを食べてご覧よ。食べにくいし,出来なくはないだろうが、上手く格好よく食べようと思ったら,箸を巧みに使わなければならなくなって来る。状況的に,無理が生じて来る。味噌汁の椀で,ビールを飲む様なものだろう? きっと美味くも何ともない。旨味とはそんなものだ,適材適所だね。鰹のたたき、イカそうめんを、手掴みで食べる美味さ、をご存知か? 本来がそうやって食べるのが、むしろ正式だったとは思わないだろうか? 
 妙な格好ずけや形式は、良いときは良いが,場合に依っては、物事の本質を歪めて、下品にしてしまう事もある。最近やっと聞かなくなったけど,「おビール、おコーヒー」なんて言葉を聞くと,虫酸が走る様な気がしたものだ。野生に近ければ、素直であれば、旨味も野性味を帯びて来る。誰もが、素手で食べる美味さを知っているのだ…

 でも箸も長い歴史のある文化だから、なかなか捨てる訳にもいかない。最近の外国人は、下手な日本人以上に、箸の使い方が上手い人が居る。箸がどうこうではなく、その使い方に、その人の個性や、生き方も現れて来る。丁度、字や書を書くと、その人となりが解るのと同じだ。箸の使い方が、美しい人は、書もうまい。背筋も真っすぐになっている。全ては繋がっているからだ。素手と箸、大変だが、両方大事にしていきたい。適材適所、臨機応変、大事な事だよね。“上善は水のごとし”、水が流れる如く、自然が良いと思う。それが真っ当な“人”ってものだ。 “オーム・マニ・ペム・フーム” ぎこちないのは、野暮で、不自然だからだ。
 例えば、おむすびを、竹の笊(ざる)の上に敷いた、何枚かの笹の葉の上にのせれば,風雅さを増し,不思議な事に、美味さも倍増する。笹の葉の薫りまで一緒について来る。風情が増すというものだ。こういう事は,日本人は,本来、情操教育として,先祖から無意識のうちに教わっている筈である。それは、もともと自然をカミとしたからだ。私はその点は、子供の頃から“確り”と教わったし,又そう言った深い意味を知る事が楽しみでもあった。物事が、良く納得できるからだ。それを無視して,何でも鵜呑みにしてしまったら,この世は詰まらなくなって、退屈してしまうだろう。最近、そんな子は,いなくなってしまったのかな? 相変わらず、鵜呑み、丸暗記かな? それとも、なんでもかんでも,表面的で、物質化して、欧米化して、合理化して、心を失ってしまったのかな?
 国は関係ない。日本も外国も何も問題無い。ものにも罪は無い。合理化にも問題は無い。ものは使えば良い。物事や対象に、精神が同化して、精神その物が、物質化してしまう事に問題があるのだ。精神がものに負けてしまっているんだよ。 そう言う“眼に見えない事”が、どんなものよりも一番大亊な事。人が人である最低条件だ。心ってのは、そう言う事の積み重ねで出来てるんだから。一寸した事で、直ぐ壊れてしまう。今や,心ある欧米人なら,ヒンドウー、仏教を学び、禅を学び、人としてアジアにとけ込んでいるんだから。皆それをやってきて,やっと少し楽しめる様になってきた。これからもアジアに人が集まって来る時代になりそうだ。何しろ世界の半分の人口、30億の人がこのアジアに住んでいるんだから。

 おむすび幾つかと、かき玉汁一椀と、季節の野菜の煮付けや炒めものでもあれば,上等。野菜の煮付けでなくとも,蒸した温野菜にゴマだれソースも美味い。それに、胡麻油を一塗りして焼いた鯵(鯵やサンマの干物を焼く時に、私は胡麻油を一塗りして焼き、レモンか柚子を絞って、大根おろしと醤油で頂く事にしている。)の干物に、大根おろし、柚子胡椒、漬け物でもあれば、立派な懐石料理だ。食感を一段と美味くする、プラスアルファーの料理のコツだね。より自然に、懐石風になるという事だ。
 懐石の意味は深い。欧米の文化にも応用できる。フランス料理やイタリア料理にも応用されている。野生、無垢な、自然の“ストーンな意識”という英知を、文化的な、あるレベルに迄、“整えた”、という事でもある。この整えるという事は,前述の、日本の源、“ト”の言霊と、シンクロする。それは、“禅”が果たしてきた、大きな人類への貢献であると思う。そのうち,状況さえ整えば、懐石茶房を始めとして、懐石文化でもより深く,広く研究してみたい気もする。

 アジアでは,筍は、カレー、スープ、麺類,炒め物、魚料理の蒸し物にも使われる。日本では割と“魚を蒸す”というのは意外と聞かないが、タイでは新鮮な魚は、蒸して食べるのが一般的だ。新鮮な蒸し魚の料理は臭みが無く、肉料理に比べても風味もずっと上品だ。それに筍の千切りは欠かせない。それに、人参、大根、ピーマンやネギ、レモングラス、梅酢、ショウガ,パクチ、唐辛子等を利かせたあんかけを、蒸した魚にかけて頂くのが美味い。

 竹は、分類上、“常緑樹”。イネ科の植物だそうだ。それで,成長すると,稲穂の様に頭を垂れるのかな?真っすぐに,成長し,伸びて,伸びきって、そして頭を垂れる。良いねえ。見習わなくちゃ。

“人生の 極意なるやも 常緑樹”

なんて歌もある(前記事「ものの心」参照)

 竹は、釣り竿にも使われ、昔から、ヨーロッパやアメリカの、釣り師達の羨望の的であったそうな。六画竿の事だ。高価なのだよ! 日本でも、“名竿”と呼ばれる釣り竿は、竹製と決まっていた。それは,調子の微妙さも然ることながら,その姿やトーン(この場合は、色合いのことを言う。トーンとは五感に響くトーンの事,音だけではない。)の美しさ,“趣”にあったのだ。まさに、(趣がある)だね。それらは,全て,アジアの竹から作られていた。意外かも知れないが、竹は、本来、欧米には無い植物なのだ。だから、竹と言う植物は、殊更,欧米人には魅力が在るようだ。笛や尺八,笙(しょう)、竹琴という楽器も作られている。竹の風鈴もそうだね。
 床が竹の簀の子になっていると,南アジアでは,涼しく,快適に暮らせる。椅子やテーブルといった家具も竹から作る。こうして見ると,竹はことさらアジアの人にとっては,ごく当たり前に生活に密着した、重要な道具となっていたのだ。竹なしでは,アジアは語れない。

 竹の魅力は,その静寂さ,中空にある。内なる空性の事だ。そして,その撓り、柔軟性に魅力が在る。又,古竹の色合いに,独特な風味がある。個人的な、趣味性ともマッチする。使いこなされて、古びた“飴色”をした、まるで宝石の“琥珀”の様な、艶やかな“バンブー・ブラウン”、“バンブーイエロー”の深い風雅さは、心に滋養を与えるかのようだ。私を含めて、アンバー(琥珀)の色とトーン(波動)は、アジア人が共通して好きな色とされている。生命力を喚起するからだと思う。
 竹には、何処までも、真っすぐに伸びようとする生命力に、魅力が在る。こんな、利用度の高い素材は滅多にあるものではない。しかも食用にもなるのだ。もっと大切にしてあげたい。

 竹は、日本では、正月の“門松”にも使われ続けている。それは,降りてくる神々(天降り、アブリ)を感じる為の,アンテナの様なものだった。それ故、竹は、人にとって、縁起の良い植物でもある。竹の節とは、一貫した時間や四季の移り変わりの流れの中に、リズムを刻むものなのだ。それを節目という。凄いねえ。
 今の段階から、次の段階へと移行する。いつの間にか、そんな節目や段階の様なものへと進んでいる事に気付く事も在る。苦を喜びに変換する可能性も其所にある。こうやって“遊べる”事にも、世界は共鳴(リエゾン)していくかのようだ。
 先達の禅師達は,竹を“師”とした人もいると聞く。その所為か,竹林に庵というのは、視覚的にも、波動的にも相性がいいようだ。一歩間違えると,“珍竹林”になってしまうけどね。遊びなら、それも悪くはない。竹を通して,究極の体験をした人も少なくはない、とも聞く。竹林は、瞑想空間、懐石空間(ストーン・ラウンジ)としても、超一流なのだ。“かぐや姫の話”,「竹取物語」の様な夢物語も、そこから生まれたに違いない。竹の側に暮らしていると,心は癒され,様々な夢も観えて来る。まだまだ、知らない日本の古典があるのかも知れない。
 ウィリアム・ライヒ(心理学者、波動研究家)に依ると、それが重くとも,軽くとも、精神病は,全て、愛の欠如から起こって来ると言う。深い愛を感じる事が出来ずに,又、完全に愛の中に没入できないので,人の中の隠れた部分は、決して満たされないからだと言う。

 この数ヶ月,特に何もせず,ただ静かに、竹林の側にいた。この島の宇宙観、波動の質、特性を掴む為でもある。深く馴染もうと、愛や慈しみというエッセンスを感じようとしたからである。ヒマラヤにいたときもそうだった。それは良い体験だったと思う。少し又,寛ぎは増し、安心し、宇宙が豊かになった様な気がする。又、ほんの少し,成長したのかな? だって、昨日よりは今日の方が良いだろう? 眼に映るものは,全て外面であり,本物は内側に隠れている。それは表面には現れない。だが、ディープに洞察できれば、感じる事は出来る。深く知ることは出来る。生きることは出来る。ここの所が肝心だ。多くの瞑想者は,これを目指してきた。そして、そこに“宇宙の鼓動”(ターラ)が在ったのだ。理由等なくとも,笑う事が出来るのだ。

 風が動けば,ギシギシ,グシャグシャ、さわさわと語り始める。竹達の声は小さく静かだ。耳を澄ませば,その交響曲が聴こえて来る。夜ならば、夢のお伽ともなるのだ。
 近くで,鳥の啼き声がする。トンボが宙を飛び,蝶が舞う。皆、安心なんだね。何事も無く,全てが共鳴(リエゾン)しているかのようだ。宇宙とは、“黙すれば語り,語れば黙する。”か、のようだ。聴く人なれば、聴く事が出来、沈黙が深まれば,いっそうはっきりと聴こえて来るようだ。音楽を聴いていても、より良く聴こえてくるかのようだ。それは言い換えれば,よりリアルになった、と言う事の証でもある。
 ここではみんな、普通の,個性的な良い人達だ。敏感になっても大丈夫だからだ。安心して、普通の自然体で生きていけるからだ。それが生の目的でもある様に思う。外国人でも、そうでなくとも、角が取れて丸くなっている。そういう人が集まって来る島なのだ。島の人も、只、単に平和に暮らしたいだけなのだ。そう言う、“場”の力というか、磁気のようなものを、多くの人が、直感的に、体感的に知っている。でも、これが、本来の普通である様に思う。
 何とも、瑞々しい。そして,今、私達は、そこに居る。これは、生へのダイヴィングだ。山は、とうの昔に越えている。好きな所に住めば良い。自分と言う山さえ越えれば,道は“自ずと”開けて来る。竹に囲まれて、風雅な環境と時間の中にいる。潮風が涼しい。BGMはエリック・クラプトン。曲は“川まで3マイル”。ここから、海まで、たったのハーフマイル(約800m)だが、この演奏には、何処で聴いても、魂が揺さぶられる。ブルースならではの力だ。その鍵はブルー・ノートなのかな。良い曲だね。Good!

 そよ風がでてきた。竹のテーブルに、食事が、用意出来たようだ。艶やかで、緑が奇麗で、美味そうだろう?
 今日のランチ。一寸、スパイシーで、辛くて、ホットな料理だが、“クール・ディッシュ”。(健康的で,実質的で,美味い、という事を、最近ではクールと言う。懐石料理を、私なりに英訳するとそんな所だ)。辛い料理は,後味がクールで爽やかなのが良いのだ。食後感が実に良い。それと,南アジアのスパイシーな料理は、その辛さも然ることながら、スパイスの旨味の所為か,沢山食べなくとも,“満足感”があることに気がついた。だから,腹七分目でも,充分満足できるのだ。
 又、唐辛子のカプサイシンは消毒にもなり、脂肪も分解し、それで肥満な人が少ないのかも知れない。ライムを多用する事から,肝臓にも良い食事が多いのだ。医食同源もその辺りに秘密があるのかも知れない。それに、野菜の力,スパイスの力で熱効率が良いのだと思う。
 空芯采と、一度茹でたインゲン豆、筍、パクチ(香菜)、カシューナッツを、ニンニクや唐辛子、各種のスパイス、ナンプラー(魚醤)、胡麻油、オイスターソース(牡蠣油)を使って、それをサット炒めたものだ。人参やピーマン、カリフラワー、レモングラスやバジルなんかを使ってもいける。それを飯の上にかけて食べる。煎ったすりゴマかピーナッツの粉をかけるともっと美味い。カリッとトーストしたカシューナッツが実に旨味と風味を出していて、肉、要らずである。日本では意外だろうが,インドやタイ、マレーシアあたりでは,カシューナッツ、アーモンド、ピーナッツ、マンゴー、パイナップル、パパイヤを料理によく使う。ライムを絞ると、南アジアならではの、爽やかな、“風雅な香り”がする。日本の柚子胡椒でも美味いと思う。でもコツさえ解れば、料理はそれぞれ違っても,何でも出来てしまう。すべては同じ。要は心かな?
 これは、インド、インドネシア、タイやマレーシアの普通の家庭料理の基本だ。ホーム・クッキングという奴だ。所謂,宮廷料理の様に、形式的で、取り澄ました料理ではない。無論、それはそれで、タイの宮廷料理も、インドのムガール料理もゴージャスで美味い。特に、ムガール風、タンドリチキンは、傑作中の傑作だ。鳥料理の,“皇帝”と言ってもいいかも知れない。こればかりは,良く頂く事にしている。

 その、野菜や豆腐、カシューナッツを炒めたものが、インド風の米の飯にかかっている。最近は,欧米人の中にも、肉食をしない人が増えてきている。アジアは、仏教、ヒンドウー教の影響からか、ヴェジタリアンの食事が多く,しかも、やたらと美味いからだ。
 私はタントラ派なので,肉食でも,魚介でも、何を食べようと,何を飲もうと,何を吸おうと自由であるが,この十年くらい、何となく,肉食は減ってはきている。だが、全く食べない訳ではない。暑い時,ネギと生姜で、柔らかく茹でた豚肉を,冷やして,コールド・ポークで頂く。ゴマだれの醤油に、ナンプラー,唐辛子をほんの少し、柚子かライムを絞ればそれで良い。サンドイッチにしてもなかなか美味い。ひき肉の,キーマ・ドライ・カレーも元気が出る。美味いものは、美味いからね。

 瞑想者なら、誰でも自分の身体の聲,宇宙の聲を聴いている。身体の聲を聴いて、その聲に従って食べているからだ。すると、身体も意識も心地よい。お腹も壊さない。体調も良い。肝臓も腎臓も問題ない。何でも,美味しく頂ける。このコツはいい。美味しいものを,より美味しくするコツである。
 それに,元々,私は生まれついて野菜、根菜、木の実、植物が好きで、あちこちの国スパイシーな料理が好きなのだ。肉類も好きだが,無ければ無くてもかまわない。他に美味しいものが沢山あるからだ。身体の声を聴き、野菜やスパイスを沢山食べるので,肉や魚介も,相乗効果で美味しく頂けるのだと思っている。“アンナム・ブラフム!”、食は,神なり!なんだから。

 カシューナッツと野菜炒めのぶっかけ飯。筍が柔らかで風味が特によかった。それにしても、空芯采は美味いねえ。一度茹でてから炒めるといい。
 お腹がすいていたので、フライドポテトも注文したのだが、ライムを絞ったドレッッシングのかかった、茹でて、冷やした春雨(ウンセン)と、マンゴーのサラダ(ヤム・マムアン)を和えたものでも附ければ、立派なタイ風の懐石料理だ。ドレッシングは、ライムとオリーヴオイルでも、胡麻油でも良いし、もしあれば、青じそか柚子胡椒があれば良い。少々辛くても,熱くても、“キリッと、スパイシー”、南の島では、それが美味いと思う。

 懐石、懐に石を抱く、それはクールで、それこそ“ストーンな楽しみ”だ。今日は、マインドフルなホリデイになるだろう。

ブォナペティート!(良い食慾を!)