2007年8月20日月曜日

サムシング・クール

 ある時、何をするでも無く、ただ座っていた。犬や猫が遊びに来たり、様々な事が、静かに動いていた。只、其れを、無心に、無選択に、眺めていた。朝も早く、そよ風が心地よい。世界がゆったりと寛いでいた。
 そのうち、小さな子供が、猫と遊びだした。子猫はそのうち、縁の下に隠れてしまった。子猫も生まれて数ヶ月の子供だったのだが、猫は人間よりも、早熟だ。相手が子供と知ると、逃げたり、隠れたり、からかい始めたようだ。子供は、無邪気に好奇心を募らせる。
子供は、自分と猫とが少し違う、という事に気がついたようだ。子供なりに、子猫の好みや興味に合わせようとしていたのだ。優しいねー。いい友達になったようだ。子供も、子猫も、無垢なのだ。微笑ましい!
 二人とも、素直で、心に何の傷も負っていないのだ。何の汚れも無い。二人は、いい関係となり、長い時間、そこに過ごしていた。人と動物との、違いを越えた、交流があったからだ。人間同士もこうありたいものだね。言語を越えた、眼に見えない、真のコミュニケーションがあったのだ。波動の交流と言う。

 気付けば、無心の内に、全ては静寂で、平和で、何事も無く、至福に包まれていたか、の様に感じられた。知らず知らずの内に、“真理”と呼ぶ次元に入り込んでしまったのであった。二人とも、“神”の中に、入ってしまっていた。其れは、夢ではなく、現実、その物であった。だが、端で見ていても、まるで、夢の様な心地よさを覚えたのだ。何かが内側から、沸々と沸き上がり、やがて天地を巡りだし始めた。甘露、甘露!
 刺激的なものは何も無かった。だが、無心な、内側に、不思議な高まりを感じた。そこには、海があり、そよ風が吹き、素直な子供と子猫がいただけの話だ。だが、これ以上ない、素晴らしい瞬間だった。私もその中に取り込まれてしまった。背景には、殆ど静まり返って、波のない海。丁度、引き潮が極みに達しようとしていた。
 空の下に“古いものは何も無い”。只、“眼だけが古くなる”。物事に慣れてしまうと、そうすると、新しい物事は、何も見えなくなってしまう。何もかもに退屈してしまう。習慣が、ただそれを“古い”と感じさせてしまうだけに過ぎない。真実、何ものも次の瞬間、同じでは有り得ない。同じ日の出は二度と起こらない。

 子供達は何時も生き生きとして、石ころにさえ夢中になる。眼の色が違う、生きているのだ。その活気、新鮮さ、輝き、しかも鏡の様に静かだ。まるでブッダのようでは無いか? くたびれた人間は、いつも、古い眼で見る。過去からの投影で見ているからだ。観念や知識に頼ってみるからだ。目が死んでいる。見るものの中心は、記憶である。それは常に過去に起因する。
 それは錯覚、或は仮説であると言う認識から、リアルな世界に一歩入る事が出来るのだ。従って、普通の人の、見るものの中心は、生きているものではない。嘗ての記憶や思い込みなのである。直に生を見てはいないし、生に入ってすらいない。生の部外者になっているのだ。それが多くの文明国に起こっている事なのだ。ただ、機械的に、無意識に、習慣として見ている事が、眼を古くしてしまう。感性も知覚も殺してしまう。本来の自分も死んでしまう。そこで借り物のエゴが力をつけて来る事になる。何の感動も、喜びも、楽しみもあろう筈が無いではないか? 其所に大きな差が生じてくる。

 これはタントラの技法の一つだ。この技法は,素晴らしく、そして易しい。“恰も初めて見るかの様に見る”。これは、眼を新鮮にさせるための技法だ。自分が今まで、慣れ親しんだものでも,初めて見る様に見る。そうやって、視力を回復する。今までは,眼があるにもかかわらず、見る事が出来なかったものが,観えてくる。瞬間ごとに,未来と過去を切り捨てる。自分が、どんなにか“美しい情景を見逃していた”のかに、気付く筈だ。
新たな眼で、周りを見渡してごらん。
 いつもと同じ通りを歩いていても、新鮮な眼で眺めれば,新しい通りになる。全てが新鮮に見える! これは素晴らしい! この新しい次元は、ストーン意識、或は、沈黙せる心という。それは常に現在にあり、今、にあり、リアルなのである。少しは視力がついたかな? さすれば、内側の世界にも入っていける。

 そよ風が心地よかった。何もかもが至福に満ちていた。そろそろ、潮が満ち始めてくる頃だ。その素晴らしさは、一体何処からやって来るんだろう?
 それは、何処からとも、無くやってくる。根本的には、原因が無い。無因なるもの、からやってくる。奥義書(ウパニシャッド)に依れば、実在は“喜び”に依って出来ているからだ、と言われる。それなら話は早い。つまり、瞑想自体は、無為、無心のものであるが、行為、有為には、対立していない事に気がつく筈だ。気付きを深める事が、瞑想そのもの。其所からあらゆるものが生まれてくる。無い事に、対立する様な事は、何も無い。そして、全ては無い事を基盤にしているのだ。

 あの世の事は解らないが、面白いよねえ、この世は! それは、生からの逃避ではなく、より積極的な、生への参入だ。生に参入できない人が、対決し、戦い、頭でっかちになり、視力を失い、生から離れていってしまう。気付けば、ドアは自ずと開いている。ドアを閉めていたのは、自分だったのだ。笑っちゃうね! そのことに気付けば、豊かな、感性を、知覚もたらす。そこに、“サムシング・クール”、詰まり“掛替えの無いもの”が生じてくる。

 最近の“クール”という言葉の意味は、冷たい、合理的、或は、知的という意味だけではなく、少し意味合いが変わって来た。元々、ある種の“格好よさ”を表す、ナッティーな(粋な)言葉である。私達,と言っても私と近くに居る友人達、欧米人やタイ人達なのだが、よくクールという言葉を使う。“無為”と言ってもいい。時代の変化で、言葉も変わる。
 ここでは、慈しみ、英知、さわやかさ、涼しげなで、ストーンな“質”を意味する。丁度,麻のシャツを、さりげなく着こなしている様な、大げさではない、しかも、力みの無い、“粋”なセンスと言ってもいい。だが、そのエッセンスは、“気付けば”、何処にでも、何気なく、起こっているのかも知れない。
 
 生は日々新しい! あらゆるものが美しい。あらゆるものが素晴らしい! 四六時中とは言わなくとも、時には“サムシング・クール!”がいいね。それが“サイレント・ジョイ”(前記事「サイレント・ジョイ」参照)

ボム・シャンカール!