爽やかな朝であった。まるで、一晩の内に、秋が来たかのようであった。夕べは何か、蒸し蒸しして、暑くて寝付かれなかったのに、今朝は、一変して、最高の日和を迎えていた。
空は何処までも蒼く、高く、海から吹いて来るそよ風が、涼しく、そっと辺りの草むらをなで回し、大きな日の光の帯がが、草むらにまぶしく反射していた。植物にとっても、成長の良い南の島での事,手入れはされずに、草は伸び放題の自然のまま。南国の7月だというのに、何と言う,爽やかさであろう! もう雨期に入っているのかもしれないのに…
その草の香りの甘さが、心に深く届く頃、“トンボ”を見つけた。それも、“赤とんぼ”だ。赤トンボは、日本では。秋の象徴、秋を反映(リフレクション)している。ますます、秋めいてしまった。自然のままの草むらが気にいっているのかも知れない。
彼(彼女)は、道端の草むらの上を、ホヴァリングしていた。赤い色が、緑一色の背景に、とてもシックに眼に映った。鮮やかだった。羽根を震わすかすかな波動。“飛んでいる”というより、かすかなブーンという、ハミングの波動で、“フワッとした、微妙な柔らかさで、浮かんでいる”。
“フワッと、浮かんでいる。”その不思議さが、何とも絶妙であった。一体、一秒間に何回、羽根を震わすのだろうか?トンボの羽根のハミングが、トンボの全身、そして周辺に、くまなく振動や波動を創りだしているかのようだった。何か、とても新鮮だったのである。心までも、“フワッと”してしまう。

トンボが、側に近づいて来た。私という存在の、反響(リフレクション)を感じ取ろうとしていたかのようだ。当然,トンボは,私のオーラを通じて、私という存在が、生き物であるのは感じ取っている筈だ。様子を伺っているようだ。私から、何らかの磁気を感じている。まるでレーダーだね。波動で色々と解るんだろう。暫く、宙に浮かんだままでいた。安心したのだろうか? そのまま浮いたままで、動こうとしない。不動のまま浮いている。見事なものだね。
それは、私に取って、以外と大きな出来事だったのだ。
“思いのほか”の何かが“内側から湧いて来て”、何かが始まる様な、“嬉しい思い”をした。
ここは、南の島だ。まるで、その“南の島に雪が降る”かのようであった。
トンボの出現とハミングに、宇宙の鼓動を感じたのだ。
これは悲しんだり,憂いていたり、悩んでいる時、何かに同化していたり、囚われている時には、決して起こらない。
無意識の内に,扉を閉ざしているからだ。
ハイな時にしか起こらない。その時、扉は開いている。
これは瞑想中にはよく起きる。時には,日常的にも,音楽を聴いている時など、時として起こる事は往々にして起こる。偶然は、より神秘的で素晴らしい。これは,天佑だ。
カール・ユングに依れば『偶然がもたらすリアルな結果に比べると,原因があるから結果が在るという“因果関係”に基づいた考え方は、しばしばナンセンスにさえ見える。』、と。その偶然が起こる瞬間というのは“その瞬間に「特有な性質」”を持っている事になる。理屈抜きの、純然たる“今”の体験である。この世で、特別な事は,常に,“今”に起こってくる。
頭の中の,煩雑さが、静けさに置き換えられる事で,“今”が体験できる。真の今を体験する事で,理性に依る批判、条件付け、思い込みと言う“幻想を”避けて通る事が出来る。全てがクリアになる。そして…、世界が一変する。まるで、“空が私を呼吸している“、様に感じてしまう。産霊(むすひ,ムスビ)なのだろうか?
今日の朝飯に、“おむすび”(お握り)を食べた所為だろうか? “御結び(おむすび、お握り)”とは、まんざら無関係でもないのだ。
おムスビは、“縁起”ものなのだ。まさに、“アンナム・ブラフム“(食はカミなり)だった。たまたま,全てがシンクロしていた、のだった。
それは,宇宙的ハップニングなのだ。

姿も形もないある種の“不思議な力”を、古代の日本人は、“ムスヒ”(産霊、結びの語源)と呼んだ。“スピリット”である。“降りて来るカミ(アブリ、天降り)”が起こる事を、そう呼んだそうだ。ある種の生命力、“気”の様な力である。それを感じる為には、広いスペースにいく事、遠くを見る事、自分を無にする事、ある種の力を感じるものの側にいる事、不思議な力を感じる石や樹木の側にいる事、が重要とされた。すると,“一見,外面的に現れている事は,単に内に深く潜在しているものが反映している”、という事に、気が附き始めるのだ。昔から色々と解っていたんだね、賢い人は… 尤も,古代人は,現代人以上に、全てに敏感だったろう、という事は,容易に推測される。
“それ(カミ)”を迎える為に、“依り代”と呼ばれるものまで作られた。
石や樹、鳥居、門松、注連縄、結び(ムスヒから転じたもの)、お札、それらは全て、依り代だ。
ヒンドウー世界の、ヤントラや神石、祠や寺院、シヴァ・リンガにあたる。
“カミ”を招霊する為の“仕掛け”、詰まり、”触媒”である。
古代の日本では、勿論、シャーマニズムではあるが、少なくとも、カミ、真理は人物でない事、姿、形もないある種の生命力、と捉えられている。
タイにも、“ピー”と言う精霊信仰が残っており、仏教、ヒンドウー世界とともに、共存共栄して、祭られている。そして、互いにオーヴァーラップしている。
インド、マレーシア、インドネシアにも似た様な伝統や文化が残っている。
無論、日本にもまだまだ、様々な形が残っているはずだ。
そして、産霊(ムスヒ)から、ムスビ。そして、おむすび(おにぎり)が作られ、カミに奉納されていたと言う。
石川県の某所で、弥生時代、2000年前の、“おむすび“(お握りの化石化したもの)が発見されている。
古事記に依れば、その力は、“神産巣日(カミムスヒ)”と呼ばれたと言う。
その為、おむすびが、神殿に奉納されていたのだ。
おむすびは、その伝統を伝える“名残り”なのだ。
そこから縁が生じ,“縁結び”も起こったのであろう。
“二見が浦”の二つのストーンと注連縄の姿は,スピリット溢れ、誰が観ても、見事である。
どれも、“カミ”を呼び出すのには、効果が高かったのだろう、と推測される。
体を忘れてしまう。意識が拡張して,浮かんでいる感じがして来るのだ。だが、突然起こったのは、久しぶりだった。御結び(おむすび)を食べたのも、も久しぶりだった。運良く、“焼き海苔”も少し、“炒り胡麻”も少し残っていたのだ。“美味い、三角のお握り”だった。
怪我をしたら,怪我をした痛い所に注意は向けられる。
身体を意識したら,人は身体に住む。
注意が花にあったら,花とともにある。
食べ物と一緒に在ったら,味わいに集中する。
トンボに注意が向かえば、トンボと共に在る。
セックスに注意が向かえば,性的になる。
仕事に注意が向かえば,仕事で頭が一杯になってしまう。
お金に注意が向けられれば、お金とともに居る。
意識に注意が向かえば、意識とともに在る。その時、身体は意識されなくなる。
“人は,注意の向かう所に、存在する”。
もし注意が,何処にも向かわなかったら、限定がなくなり、“何処でもない国”にいる事になる。
人が何らかの“枠の中”で生きていくには、それなりの道が在る。それはそれで良い。その時、その時の枠組みを知って,そこに道を見いだせば良い。
だが、人に依っては、状況や場合によっては、自分の意識が、“枠に収まりきれなくなってしまう”事が起こることがある。普通は、成長と言われる。

それは途轍もなく深く、しかも、超越している。
そして、全体が、全宇宙が、その人の中に宿る様になる。存在との一体感が起きて来る。
故に、タオイスト(道教を奉じる人、道家)は、“何処でもない国”こそ、“真の我が家”と言う。一方、“何処でもない国のもの”は、“何処にでも居られる”と言う。彼は、“あらゆる所に,いたるところに居る”事が出来る。そして、初めて“自由”というものが感じられる。
シヴァ曰く
“あらゆる所に 存在できるものは 喜び楽しむ”
この事は、ムスヒ(産霊)を示唆している。彼の魂は、この上なく安らぎ、寛ぎ、穏やかだ。空しさや、生気のなさ、否定性は消え、完璧になる。その人は、本来の“我が家”に帰り着いている。
今や、物事は、ひとりでに起こり始め、中心に留まったまま、“永遠”に触れる事が出来る。宇宙に内側から触れる事が出来る。深遠なる光が、上昇し始める様になって来る。
トンボと共に居る事で、身体を忘れてしまった。身体がなくなった訳ではない。只、身体が意識されず、とても軽いのだ。まるで、意識が身体の外にも浸出して、存在とひとつになってしまったかのようだ。通通になってしまっているかのようだ。これは、シヴァ神のヒンドウー・タントラと、チベットのタントラ・仏教にのみ、伝わっている原理である。ヒンドウーの人々が言う所の、無形の“ガンジスの降下”が起こったかのようだ。
これは、“禊”、“命の洗濯”って奴だ。命の水が降りてきた。“空”とひとつになる。そしてその空は、すでに“空しい空”ではない。自我(エゴ)や人格はきえてしまうが、“もっと大きな何か”、が現れて来て、それは、“充満した空”になる。
意識は、身体よりもずっと大きい。無限の広がりを持っている。人は、身体が感じられないとき、初めて、意識(コンシャス)に目覚める。
意識が広がれば、歓喜がやって来る。それは誰とも共有できる。
人の、内的宇宙はそのように出来ていて、“共有意識”と言う。
ヒンドウー・タントラ、仏教、古神道、シベリア、オセアニア、アジア、
アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカの多くのシャーマニズムは、全て何処かで繋がっている。そして,喜びや楽しみを共有できたのである。
これが本来の宗教だ。
人は、“枠を、一歩、踏み出して、初めて、『生』を知る。”
それは、日常的にも、“偶然” 起こる事もある。
音楽で起こる事も在る。無心になっている時、何かに、夢中になっている時、少なくとも、身体を意識していない時に起こってくる。
詰まり“健康な時だけ”に限られる。
インドの伝統医学、アーユル.ヴェーダに依れば、人が、“真に健康な時には、身体は意識されない“。と言う。
子供の頃の様に、何も考えずに、無我夢中になって動いている時の事を、思い出してみよう。
トンボが去ってしまった後にも、無音の残響が残っていた。
意識の広がりはそのままだ。心地よさはそのままだ。
何かが、“訪れ(音連れ)た”のだ。それは祝福であった。
カミの方から、ドアを開けた、という事なのだった。
トンボが、ハミングの音が連れてきたのは、一体、何だったんだろう?
トンボの方は,どうなったんだろうか?
在るバランス点に達すると、体が軽くなる。
何かフワッとした感じで心地よい。絶妙感が起こって来る。
気持ちも晴れ晴れとして来る。
その心地よさは、身体を意識しなくなり、自分の中の、最深の源と繋がり,活力が戻って来るからなのだ。
その状況に在ると、エネルギーに満ちて、流れているので、あらゆるもの事が良く理解できるのである。意味も、そして真髄も……。
全て納得する。
“創造性”とは,そう言う事だったのだ。
それは、起こる事であって、起こす事ではないのだ。
そのトンボのルックスは、日本の赤とんぼと殆ど変わらない様に見える。
尾の節目や,翼の形や、大きな目玉も変わらないようだ。
気持ち,ほんの一寸,大きかったかな?
トンボは、“蜻蛉”と書く。
世界ではおよそ6000種,日本だけでも200種も居る、と言われる。
トンボは、熱帯に多いと言う。トンボに、寒い雪国には、似合いそうも無い。
想像もできない。
南アジアには、沢山の種類が居るだろう。暑い所,それも水辺や,森や草原の近くになら沢山居るかも知れない。中でも、自然の宝庫とも言われる、タイやマレーシアの熱帯雨林には、蝶や他の昆虫も無論のこと、トンボも、色々いそう。
トンボは、日本では、アキツ,かげろう(陽炎)、せいれい(蜻蛉)、だんぶり、とも呼ばれる。“太陽のスピリット”に溢れている昆虫だ。その所為で,気持ちが通じ合えるのかもしれない。
全ての、生きているものは、単なる“もの”ではない。
人にも依るのかも知れないが、昆虫の中でも,トンボは、特に親密感が強い。
というのは、トンボは、うじうじ、ジメジメしていない、グニュグニュしていない。ゴキブリや芋虫、ムカデの様に、気持ち悪くない。
蜘蛛や蝿や蚊の陰険さも無い。蝶や蛾の様に、粉を振りまいたりしない。
ありや蜂の様に、煩くも、せかせかもしていない。
それに、何よりも危険がない。
日本の、古い文献に依ると、虫は,主に、風、空,地の要素からなり、風が勝るものは声を発し,空が勝るものは,飛び跳ね、地が勝るものは,地に這ったり、地下に潜ると言う。トンボは,空のスピリットが勝っているのだ。
又,鳥は、空、風、火、水の四元素からなり,火の要素が勝っているものは,水鳥となり、埴(地)の要素が欠けているので,空を飛ぶ。
一方、獣は空の要素が欠けており、埴があるので、地を這うと言われる。
話をもう一歩進めると、アイウエオの五母音は、それぞれ、空、風。火、水,地の五元素を現し、そこから,古代の、宇宙の元素観、食物観が生じたと言われている。人は、五元素で成り立っていて,何が勝っているかで,その人の生き方や性格が現れて来る。
「空」という概念がある宗教は,古代の日本の古神道、仏教、タントラ、ヒンドウー教、それと中国ではとうに終わってしまったが、タオ(道、老子の思想)だけのようである。
それらには皆、根源的に相通ずるものがある。

在る説に依ると、“龍”のスピリットが、空に舞う時、トンボになる、と言われている。又、一説に依れば、その事が“ドラゴンフライ”という言葉の語源となっている、と言われる。
クールで、からっとしていて,爽やかな、“陽(ヤン)のスピリット”を感じる。
小さくても,堂々としている。
理屈なしに,少年に取っては、好ましい存在だと思う。
その事から、成長が始まるのだから……。
“ギンヤンマ”、“ルリボシヤンマ”、“コシボソヤンマ”、“オニヤンマ”というトンボを知っているが、ヤンマと呼ばれる大きなトンボには、体長6cn以上の大型のトンボがいる。南アジア、マレーシアやボルネオには、15cm、或は,それ以上のも居るかも知れない。ここは、“スワンナプーン”、アショカ王の時代から、“黄金の大地”と呼ばれる、自然豊かな大地。“ゴールデン・ヤンマ”とでも呼べそうな、トンボもいるかも知れない。新種だって見つかるかも知れない。“ムカシヤンマ”というのも、未だ観た事は無いが、この辺りに、居るかも知れない。
しかし、今朝、出会った“赤とんぼ”は、何か特別だ。“レッド イズ ビューティフル!”赤は美しい。赤は生命力を現す色だと言う。

殊更、緑の原野にこそ、その姿は映える。“紅一点”、と言う、もはや、日本的とは言い切れないが、そんな美意識も、その辺りから生まれて来たのではなかろうか?
トンボを見ていると,何か,古い“複葉機”や“飛行艇“のようで,殊更、男の子達には人気のあった昆虫だ。何か,冒険やロマン、スピリットをかき立てるのだ。
それほど。大げさではなくても、様々な、冒険や探検に興味が湧き、面白くなってくるのだ。先日見た“メンフィス・ベル”というアメリカ映画にでてきた爆撃機の操縦桿にも、トンボの姿の様なマークが附いていた。
古いボーイング社のマークらしい。
よく、トンボと遊びながら、内なる宇宙や外なる世界のあちこちへ飛んでいく自分を、空想したものだ。
そしてその通りになった。
トンボは、私に取って“夢を膨らます、スピリット”ともなった。
“盟友”と言っても良い。
まるで、魔法の様な昆虫、いや、森や水辺に住む,“精霊”だったのだ。
生きた、トンボ・スピリット。それは、ストーンな意識にも共鳴する。
日本から持って来た、“竹とんぼ”を、島の子供達にあげて、喜んでもらっている。もうなくなってしまったが、子供達には喜ばれた。普通の、まっとうな男の子は、何と言っても、“飛ぶ事”が大好きだ。それは,万国共通だね。

だが、昭和の時代、戦争の後、当時は、今から見れば、大したものは、何も無い。自然と、自転車、魚釣り、コマ、ゴム動力の模型飛行機、それとラジオから聞こえてくるジャズやプレスリーと言った新しい風、米軍放送の音楽だった。しかし、それだけで満足できた。そこから色々と工夫してきたのだ。結果指向ではなく,プロセスを楽しむ事が、楽しく出来たからだ。雨の時は、音楽、読書、模型造りだ。何の不満も不足も感じなかった。
何よりも、自然の中で過ごす時間があった事、につきる。暇さえあれば、自然に浸っていた。常に新しい発見があったのだ。そこに居るだけで,躍り上がる様な気分、を味わったからだ。何時でも、自由に、心の枠を越える事が容易だった。
そこに、森羅万象との繋がりを知ったのだ。その時、何か言葉を越えたもの、むけいのものを知った。物事の究極が、“ことばでは把握できない事”が判った事は、何よりも大きい。以後,悩みや存在の不安というものが、少なくなったのだ。それが“悟り”の第一歩だったのかも知れない。
自然の中に居ると、何故か、疲れを知らない。疲れてもすぐに回復する。
不自然な大都市に居れば、直ぐ疲れてしまう。長くは居られない。
過激なまでに加速された、現代の都市というものは,自然から観れば、それは、もの凄い。エネルギーが、吸い取られてしまうからだ。
だから相当頑張ってないと,生きては行けない。
自然の中、それは、周囲の自然が,緑や水の蒼さが、眼や意識や身体を寛がせるからと言われる。“自然体になる”という事だ。
考えてみれば、選択肢が余りに多すぎると、どうしても頭は混乱し、気は散漫となり易く、迷い、集中する事も、深く味わう事も、難しいのでは、と思ってしまう。人は、一度に、ひとつの事しかできないのだから。
走行しているうちに、やがて、物事が全て物質化してしまう。
昔は、選択肢が多いとか、少ないとかは、全く意にかいする事も、そんな状況も無かった。その分,深みというものがあった。
そして,東京にも、未だ沢山の自然が残っていた。
古代の日本には、“真奈霊(マナビ)”と言う、神、スピリットがいて、その“真奈霊に問う”と言う事から、“学び(まなび)”、“学問”ということが起こってきたと言うそうだ。
“真奈霊”,“学び”を知らない事は、退屈で、詰まらない。
生きる意味や楽しみを見失ってしまうような気がしてしまう。
そんな、豊かな世界の中心に居たのが、トンボであった。
豊穣のスピリット、トンボが、そのスピリットを連れてきたんだと思う。
それが、“訪れ(音連れ)”と言うのだろうね。
トンボは、ハミングとともにやって来る。
トンボは、人間にとっても、“益虫”と言われている。
稲や畑を荒らす害虫を食べてくれるからだ。
トンボは、顎がものすごく発達している。
複眼と言う,眼のシステムも,凄そうだ。
総合管理する“中枢”はどうなっているんだろうね?
ビートルズの御蔭で,カブトムシが有名になってしまったが、昔は、トンボは、蝶や、カブトムシや,クワガタよりも人気があった様に思う。
しかも,フワッと、しかも、垂直に浮く。
水の上にも、植物の上に、スット着水する。
スピードを落とすのも、まるで慣性力(イナーシャ)も,重力さえも遮断してしまうかの様に、スット止まる。
反重力とは,パワーだ。まるで、UFOのようだ。
トンボ返りや、宙返りは、そのなの通り,トンボにとっては、お手のもの。
バックもできるんだよ!。凄いねえ。
鳥だって、こんな器用な真似は出来ないと思う。
全てが、魔法のようだ。
池や沼や川に、魚釣りに行くと、良くトンボが、釣り竿の先っぽに、止まったりする。浮子(うき)に止まったりもする。
そうすると、トンボが飛び立ってしまわない様に、息を凝らし、釣り竿を揺らさない様にしていた事があった。何か懐かしいね。
暫く、同じ場所になじんでしまうと、肩や手に止まったりもする。
トンボは、私に、無心、無為、静寂、を教えてくれた。
私に取っては、最初の、禅の、そして、タオ(道)のマスターとなった。
昔の事だが,それは、今でも新鮮な出来事である。
見つけたのは、“独創性”という奴だ。それを覚えておけば、何時でも、意識は蘇る事が出来るのだ。その時、人は、外見的に、“単独”ではあっても,決して“孤独”ではない。だから、一人でいて、寂しい思いをした事は、殆どない。
馴染んでくると、トンボは、直ぐ近くにも、長い事居てくれる。
眼をギョロつかせて、360度、全宇宙を見守っている。
かわいいと思った。羽を休める姿は、美しいと感じた。
指を延ばすと、手にも乗って来た。
勿論、必ず、自由に離してやった。決して、殺したり、いじめたりする様な事は無かった。
四枚の翼をピーンと延ばし、大きな複眼の目玉、長いテール、その姿のバランスが,格好よかった。
黄金分割の指数“ファイ(φ)”にもマッチする、パーフェクトな姿。(1:1,618)。スマートで、格好よく、しかも、堂々として見えたのだ。
だから、少年達の、憧れの的だったのかも知れない。
昆虫は,トンボを始めとして,モーターサイクル、自動車、飛行機のデザイナーにとっても,ロマンをかき立てる、憧れの的であったようだ。
彼らも、きっと、子供の頃にいい思い出があったのであろう。
誰しも,子供の頃は,邪念が無く、素直に物事を観る機会が多いからだ、と思う。
昆虫みたいな,プロトタイプや、製品が,50年代から、60年代、70年代に架けて,次々と現れていった。
特に、イタリアの100ccから250cc位の小型のモーターサイクルや、飛行機のデザインには、魅力があった。ドウカティー,マセラティー、MV, アエルマッキ、モトビー、モト・モリーニ、モンディアル、イギリスのラッジ、ヴェロセット、前述のダグラス、トライアンフ、ドイツのBMW、アメリカのハーレー・デヴィッドスンのサイドヴァルブ・レーサー、KR750といっ、今から観ても優れた造形と個性の強いのが色々あった。

星形エンジンというのも面白そうだったね。一本のクランクシャフト(軸)を中心に,シリンダーとヘッドが放射状に設計されているエンジンの事だ。飛行機ならではのエンジンだ。
トンボは,古代の日本では“秋津”(アキツ)と呼ばれ、大和(やまと)地方の総称でもあったそうだ。
それは、狭い意味での“日本”という国を、そして,“日本の中心”を現す言葉でもあったのだ。
小さな昆虫だが、何と大きな意味を秘めていたのであろうか!
古代の日本は“トンボの国”だった。
“アキツ”はヤマトという言葉が普遍的になる以前の、“日本と言う国”の名称でもあったのだ!
トンボは、古代の日本では、秋の霊(ち、スピリット)と考えられたので、“アキツ”と呼ばれたと言う。秋は収穫の時、黄金色の稲穂や、海の幸、山の幸、豊かな季節を現している。
きっとその“豊穣さ”は、トンボが連れて来るものと、当時の人は、本気で考えたのかも知れない。
トンボがいるという事は、植物も良く育ち、それを目当てにする虫たちも多い、という事だ。その虫を食うのが、トンボなのだから。
日本の古代文字研究家の、大羽弘道氏に依ると、トンボの姿は、描かれたそのままで、絵文字であったそうである。
雄略天皇(463年〜?)の歌とされるものの中に。「空みつ大和の国を、アキツシマ………。」と言う歌があったそうだ。
敷島という言葉も,良く聞くが、秋津島という言葉も、同様に、日本を現していたらしい。当時の日本の自然を、つい想像してしまう。
奈良時代以前の時代だ。弥生の後期以降という事になる。
人口も少なかったろうし、食料も豊富だったのかも知れない.気候も温暖、島国だった所為もあって、外部からの侵略も無かった。
トンボを象徴としていたくらいだから、長閑で、平穏で、豊かな国であったかも知れない。今から見れば、まるで,夢のような国だったに違いない。
日本の古代文字は,絵文字であり、それは、青銅の銅鐸に描かれていたそうだ。
銅鐸の謎には果てしがない。未だにはっきりとした用途が判っていないかのようだ。やがて,解明されると,日本の古代は,もっと明らかになり,面白くなってくる。それにしても、日本の古代文字の研究は、遅れている様にも見える。
6世紀頃、中国から入って来た、漢字、が当たり前とされた所為もあるかも知れない。
5〜6世紀の中国の歴史書「隋書倭国伝」に依ると、「倭国には文字なし、ただ木を刻み、縄を結ぶのみ.仏法を敬す。百済(くだら)において仏経を求得し、初めて文字あり。」とある。
だが、大羽氏に依ると,日本書紀には“帝王本紀(古い天皇の系図)に、多(さわ)に古き字どもありて、撰集(えらびさだむる)むる人、しばしば移り変わる事を経たり,云々。”という記述があると言う。古い文字は在ったのだ。
当時の中国人には文字とは認められないものでも、何らかのものは、日本では、実用としてあったのかも知れない。
過去の事はあくまで推測に過ぎないが、昔の中国人には、如何にも、文字らしいインドの古代文字以や、自分達の漢字以外は、文字とは認められなかったからなのかも知れない。
無視されたのかも知れない。もっとも、中国にも、漢字以前に、“金石文字”と言う古代文字も中国にはあったのだが……。
何らかの先入観や観念が、まだ横たわっているのかも知れない。
以前、バンコックの、喫茶店で、“木鐸”なるものを見た事があるが、“銅鐸”に関しては、未だに謎に包まれている。
その銅鐸にレリーフ(浮き彫り)として描かれていたものの中に,“トンボの絵”があったのだ。ピクトグラフだ。
日本の古代文字は、表意文字だった。
尤も,漢字と言う特殊な文字以外は,表意文字のほうが,世界では一般的だ。
普段、目にしている、ここ、タイの文字は,古代のインドの文字から起こった、とも言われている。インドには古くから、何千もの言語があって、今でも、200近くが、実際に使われている。言わば、文化、文明の宝庫。
南インドのドラヴィダ語は、日本語のルーツにもなっているとも言われているそうだ。機会があれば、又、行ってみたい。
なんであれ、言葉と文字、そして自然には興味をそそられる。
全ての人の営みの源だからね。そして、人はそれに沿って生きていくのだから。
だが、漢字以前の、“日本の固有の文字としての絵文字”には、もっと興味をそそられる。日本の固有文字、それは、日本という風土の、源流だからだ。誰だって興味あるよね。
取り分け、トンボ、カメ(カミとも呼んだらしい)、魚、鳥、船、蔵の様な文字があって、嬉しくなってしまう。
もっと解明されると、より楽しくなってくる。
その中でも、“アキツと読む、トンボの文字” は気に入ってしまった。
丁度,アイウエオで言えば、最初のトーン,“ア” にあたる文字なのだ。
ABCのAにあたる。
“アキツ”が、当時の日本に於ける、“世界の中心”だったからなのだ、と思う。
今年は、色々なトンボに出会えるかも知れない。人の姿に化けたトンボも居るかも知れない。
タオの賢人、壮子、の夢の中にでて来る,“蝶”の様な“トンボ”もいるかも知れない。
島の地元の人に、トンボの話を聞いて見よう。又、新たなエピソ\u12540 [ドが聞けるかも知れない。
今日も、街へ出た帰り道で、バイクのうしろに乗せて送ってもらった島の人に
トンボの話をした。夕方会ったイギリス人もトンボ好きだった。
トンボ好きは意外と多い。
そのうち,トンボが“世界の眼を醒す”様になってくるかも知れないね。
虫だからって馬鹿にしちゃいけない。一寸の虫にも,五分の魂、だ。
下手な,アホな、人間よりはずっとましだ。
今度、トンボが良く集まる所に、一緒に行く事になった。
歳が、幾つになっても、少年の心を失いたくはないからね。
“極楽トンボ”や“昔トンボ”でも見つかるといい!
ここで、一寸,タントラしよう。これは、“有為から無為”への橋渡しだ。
今、あることは,昨日には未来であったし、明日には過去となる。
だが、気付けば、その“観照”そのものは,決して過去のものでも未来のものでもない。
真に気付けば、“観照する意識”そのものは“永遠”なのだ。
それが“私”と呼ぶ純粋意識だ。橋は、すでに架かっている。
それは、その橋は、時間の中にはない。
時間に於いては,その橋は,霧の彼方に消えてしまうのだ。
一方、時間の中で起こる事が、夢となるのだ。夢は夢として楽しめばいい。ホワイ・ノット? タントラを学ぶと解るのだが、タントラは、何も非難したり,否定したりしない。タントラはこの世の全てを肯定する。ここの所がとても大事だ。
その姿勢は,インナー・サイエンスだからだ。それはメソッド,技法やコツであって、道徳でも,信仰の宗教でも、思想でも、哲学でもない。タントラは,物事の“根源”に関わっている、“全肯定的”な,メソッドなのだ。この世に、タントラより深い学びは皆無である。
そして,その理解のプロセスで、形を通して無形のものに、意識に、空の真髄に、触れる事になる。あなたは、本来の姿に変容する。自分が本来の自分の姿になる。そこで人は初めて,世界を,宇宙を,力というものを知る。
これはマインドの巻き戻しの技法。これは,タントラの覚醒技法なのだ。過去を思い出す。どんな出来事でもいい。“只、巻き込まれずに対象を観る。自分の過去の事でも、まるで、他人事の様にしてみる”のがコツだ。そして,観るものそのものは,対象ではない。さすればもっと楽しくなる。不眠症も治る。一つ掴めたかな?

“結び”は、“おむすび”となってしまった。産霊(ムスヒ)なのだよ,おむすびは…
結びとは、終わりではない。言語の上で、一見、終わりのようだが、言霊(ことだま、ワード・スピリット)のモードでは、そして、心ある人には、それは、ムスヒ、“始まり”なのだ。