2007年5月29日火曜日

港の風景(普通という魔法)

 港の朝は気持ちよい。港は夜明けとともに動き始める。港には、出発の準備をするタオ島行きのフェリーや、早暁に出かけた“烏賊釣り”の漁船が帰ってくる。港全体に、朝日の赤みがさしてきて、次第に、活気を帯びてくる
 人々の愛想もいい.船の漁師達が手を振っている.きっと,大漁だったのだろう。

 港の気風は開放的だ。ここでは、誰とでも友達に成れる。知らない人同士でも、外国人でも、朝には挨拶をする。ごく簡単なことだ。サバイ・ディー! 都会では無理かも知れないが、いい習慣だと思う。

 子供をあやす母親、フェリーの出を待つお客相手の、コーヒー屋のおばちゃん。朝の風景が眼を醒す。新しい一日を祝うかの様に,小鳥達が唄いだす。犬や猫達も、やおら活動を開始する。東の空が,赤みを帯び始め、日の出はもうすぐだ。そよ風が無音のBGMとなる。

新たな一日が始まろうとしている。新たな世界が,今から始まろうとしている。

 朝の海の香りは,例えようもなく,美味である。コーヒーも旨くなる。何かが、自分の中のDNAを刺激する。深呼吸するだけで、意識が目覚め、世界の見え方が変わってくる。あたかも、生まれて初めて,自然の大気を呼吸するかの様に新鮮な気分になれる。

 朝日と夕日と、どちらが好きと言われても困ってしまうが、それぞれに特徴も良さもあり、私は,両方とも好きである。昼の太陽や蒼い空も.夜の闇や月や無数の星も素晴らしい。一日中、全てが好きである。

 バスで一緒になった,旅行者達と取り留めの無いお喋りをしながら,夜明けのゴールデン・タイムを満喫する。話題が瞑想の事に変わってきた。最近は、多くの人が,少なくとも興味はあるそうだ。未知への興味であろう。実際、未知程魅力のあることは無い。最近,1970年代の頃の様に,瞑想を志す者が増えてきたそうだ。女性も多い。聞いてみると、生の真の姿を知りたいからだ、と言う。当然の欲求だ。其れには,マインドや科学、知識は、全く役に立たない。瞑想とは“思いのほか”の出来事なのだ(前記事「思いのほか…、という宝物」参照)

 瞑想と言うと、何か大げさに考えてしまう人も多い。其れは瞑想を知らないからかもしれない。堅苦しく考える人もいるかも知れない。だが瞑想は、あらゆる形式からの自由を意味する。誤解や観念的な思い込みがあるようだ。

 瞑想はこの上なく、神秘的だが、何の矛盾も無く、シンプルで、自然である事が出来る。何もなくとも,幸せでいられる能力の事だ。人が、本来持っている力を、引っ張りだす事が出来る。特に,禅に於いては,形式からの解脱がまず基本に在る。せっかちで、始終,イライラして、じっとしていられない人には、最初は難しいかもしれない。あらゆる形式や概念、枠組みの外に出て、初めて、視力、知力、知覚、感性力が着いてくる。タオ(道)が観えてくる。マインドも自由に使う事が出来る。

 分別なくして,この世を生きるのは難しい,というよりも不可能に近い。だが、分別も一つの形から成り立っている。人は分別を通して迷い、無分別となって眼を覚まし、生に気付く。無分別とは、“思いのほか”の事だ。無心といってもいい。そこに、自分も他人も無い、一つの世界が観えてくる。ここにいると、様々な、生き物や、人々が共鳴してくる。それは大いなる喜びなのだ。
 両方旨く使えるといい。迷いや不安に捕われるのは、何らかの原因で、エネルギーが通
じていない事、内なる視力に欠けている事が原因なのだ。しっかり、ストーンできない、詰まり、本当の意味で寛げないのだ。

 それは、一種のコツと言ってもいい。インナー・サイエンスといってもいいし、タオ(道、老子の教え、宇宙原理)と言った方が判り易いかも知れない。だが、生の真の姿を知るには、瞑想以外に道はない。これだけは断言できる。

 長い人類の歴史の中で、今程,多くの人々が,意識の目覚め,を渇望している時代は,嘗ては無かった。価値観の変容という奴だ。新しい歴史の節目になるだろう。

形より、まず実質,無形のものに興味が出てきたという事はいい。生の質を高めるからだ。

そんな意味で、今は,とてもいい時代に入っている。これからが楽しみだ。

 瞑想は、インスタントではなく、多くをマスターするには時間はかかるが、時間は無限にある。あわてることはない。少しずつ始めれば良いし、そして、これほど実用的なものも無い。すぐに役に立つ。

 私は、ライフワークとして瞑想を楽しんでいる。生きている事を瞑想としている。科学や,数学、知識といったものはマインドの延長線上に在る.それはそれで、マインドを使えばいい事だ。ある意味で、実に簡単である。だがそこに生の本質を直に見る事は無い。生の歓喜を知る事も無い。当たり前の話だが、生は理論ではないからだ。理論とは死の様なものだ。だが、生は不条理で、無道徳(不道徳という意味ではない)で、矛盾に満ちている。何故なら、それは生きているからだ。そこに生の意味がある。それ故、生に本格的に参入しようとするものは、不条理も、矛盾も理解しなくてはならないのだ。

 ジョークであるが、面白い、理論の“こじつけ”がある。それは“女が選挙権を得るまでは、核兵器は存在しなかった”という奴だ。因果関係をこじつけにしている。マインドは、都合で、何にでもこじつけてしまう。

 一方、瞑想は、無心を基盤とする。これがまず、生へのアプローチとなる。そして、タントラに依れば、そこには,可能性として、人の体の中に、七つの海がある。チャクラと言う。だが、マインドからすると、とりつくしまが無い様に見える。まるで、雲を掴むようだ。寧ろ,音楽や詩、ダンスや絵画のようでもある。だから,アート(芸術)と言ってもいい。

 最近では,瞑想を“インナー・サイエンス”と呼んでいる。新たな時代の、柱となっていくだろう。

 例えば,旅でも,水泳でも,自転車でもいい。少しの予備知識に沿って,見よう見まねで,何とかやっていくうちに、自転車にも、旨く乗れる様になってくる。慣れてくれば、コツが判ってくる。“習うより,慣れろ”,という諺がある。水泳でも,コツさえ掴めば、何とはなしに泳げる様になり,やがては,10メートル以上でも素で潜れる様になってくる。

最初の内は,自分の精神的、肉体的構造を知らなければどうにもならない。

人、それぞれ持って生まれた特質があるからだ。其れは時には大きく,又、微妙に違う。

全く同じ人間は、存在しない。この事も、神秘的だ。

其れを知る為にも,無心は大切だ。無心は、思い込みと言う枠の中から解放して、人を自然体に近づける。自然体が、人にとって、最も能力が高くなるからだ。

 そして、無心は,“感応する能力”を高めるのだ。

“思いのほか”を感知する能力であると言ってもいい。暫く無心を探求してみると、その深い意味が判ってくる。

よく、“無事、これ名馬なり”と言う。

“英知”とは,無心の事なのだ。

“無心、これ英知なり”。

学校では教えてくれないだろうがね!

 最近聞いた話だが,日本の心理学者が,赤子を水の中に放り込んで,泳ぎを教えたという話がある。

可能性としては,大いにあった。

そして、教えるまでもなく、一寸,補佐するだけで、赤子はすぐに、“コツ”を掴んだと言う。

其れは技術でも知識でも理論でもなく,“コツ”だからだ。どのような経験も要らない。

只,自分が“それ”を発見すればいいだけの事だ。

 それこそが、創造性(クリエイティヴィティー)。

創造性は、特定の仕事とは関係がない。それは、意識の質そのものと関係がある。頭や心の向こう側と、直に、繋がっている。その事が判ったら、どんな事でも、何をしようとも、例え、無為であっても、創造的になりうる。

それは、瞑想として楽しむという意味になる。

 瞑想は,泳ぎ以上に真実だ。だが,多少の努力を必要とする。さすれば,コツを発見する事は,それほど、難しくはない。

試行錯誤の内に、偶然、発見するという事もある。

数メートルの崖から落ちて、たまたまクンダリーニが、目覚めた人もいる。

 無心は,宝庫である。其れは純粋意識(シヴァ)であり、心の源である。

そして心は無心から生ずるからだ。

無心は、始まりにして、又、あらゆる神秘体験をしてきたものに取っては,究極と言える。

何よりも、無心が、最も心身を休めて,寛げる。暫くすると,力も戻ってくる。

瞑想者なら、何時間か、何ヶ月か、何年か,何十年かかかって、七つの海を旅したら,いずれ、人は、又、ここに、無心に戻ってくる。

そこに、“円”が一つ完成する。

 無心に港の情景を眺めていると、自分の中に在る何かと共鳴して、アット・ホームに寛げる。内なる宇宙が共鳴するからだ。存在と一つに成れるのだ。真実との間に隔たりがなくなってくる。全ては一つという次元に入ってしまう。そこに何の違和感も無い。全てはあるがままだ。不自然な物事がない。波動環境が整うと,村や街自体もスムースに静かに活気を帯びてくる。それを私は、“普通”と呼びたい。

 汽笛が鳴って,そろそろ船が出る。出船の汽笛は,何時聞いてもいいものだ。船がゆっくりと動き出す。だんだんと気分が、軽やかに高揚してくる。潮風と戯れ、船の軌跡を眺めている程に、“思いのほか”という、プラス・アルファが生じてくるからかもしれない。何とはなしに,期待感に包まれる。

気分が一新し、波動がきめ細やかに,ハイになってくる。未来が開けてくる感じがする。