2007年5月28日月曜日

アジアで最初のF-1ドライバー

 最近目にしたタイの雑誌に出ていた話なのだが、F—1ドライバーの話。今日は、F—1の話で、遊んでみよう。意外と知られてない事かも知れない。

 アジアで最初のF—1ドライバーは、以外や以外、タイ人だった。しかも、タイの王族。ピーラポンパーヌデート親王殿下。それも、あの、イタリアのマセラティーの、ワークスドライバー。ドライバー名は、プリンス・ビラ。そして2勝もしているのだそうだ。

 マセラティーと言えば、モーターサイクルの名門“ドウカティー”と同様に、ボローニャに基盤を持つ。ボローニャはソーセージやスパゲッティのソースの名称にもなっていて、料理の旨いことでも有名な街である。そして、ボローニャ市のシンボルマークである“トライデント”、ネプチューンが持つ『三叉矛』をシンボルにしていることで有名である。シヴァ神の持つ,“トリシュール”に似ているが,意味が全く違う。“トライデント”は,魚を突く銛のことなのだ。

 だいぶ以前の事になるが、イタリアに住んでいた時に、何台かのドウカティーを持つ友人の計らいで、マセラティーのスパイダーと年式の違うクーペを運転させてもらった事があるが、エンジン音と排気音の素晴らしさ、操縦性、走りの小気味良さは、例えようもなく素晴らしかった。
今でもはっきりとした,忘れられない印象が残っている。

 又、殿下は、タイ国の功労者でもあった。
と言うのは、第二次大戦中に、日本との結託関係を断ち切り、連合軍への鞍替えに尽力した結果、タイ国は、戦勝国側になったという経緯がある。これは実に大きな話である。下手をすれば,天地程の開きが生じてくる。
タイの歴史上に於いても重要な人物となっており、当時の国王、ラーマ7世から位を格上げされたとのことである。

 1914年生まれ、シャム王国の王族として生まれ、父親はラーマ4世の息子さん。
という事は,有名な名君ラーマ五世とも、関係は浅くはない。
母親は、元首相の叔母にあたる、という名家の生まれ。

 1935年、彼は、イギリスに留学中に、従兄弟のプリンス・チュラからE・R・A、R2Bをプレゼントされて、ブルックランヅで最初のレースに出場し、好結果をもたらしたといわれる。次第に、当時のヨーロッパのドライバーの中でも、トップドライバーとして認められていたと言う。

 当時の彼のライバルとして,名を列記すると、F-1初代優勝者、ジュゼッペ・ファリーナ、タツイオ・ヌボラーリ、アルベルト・アスカリ、ファン・エマニュエル・ファンジオと言った、錚々たる名前が現れてくる。

 一時は,彼の功績により、バンコク・グランプリなるものも,計画されたとも言われている。
だが、第二次大戦勃発で流れてしまい、グランプリそのものも中止になってしまった。その間、彼はイギリスに留まり、日本との関係を絶ち、連合国側に鞍替えをするという政治的な活動をすることになったのだ。

 1950年に再び始まったF-1グランプリで、彼は初めて、マセラティのワークスドライバーとして参戦。好成績を収めた彼は、後に、ワークス・マセラティを与えられ,プライベートの準ワークスチームとして活躍したと言われる。その後、シムカのワークスドライバーとして,1955年まで現役を続けたそうだ。
 F-1公式戦は,19戦に出場、最高順位は4位となっている。ノンタイトル戦では二度程優勝もしているのだそうだ。
1955年のニュージーランド・グランプリでマセラティ250Fを操り、優勝したのを最後に引退している。

 タイでは、マセラティは、非常に高価な車であるにもかかわらず、人気が高いのは、その辺りに源があるからかも知れない。

 詳しくは、http//www.maserati.com/landing.html を参照のこと。