2007年3月30日金曜日

アンタイトルド(Untitled)

 言葉のない言語というものがある。無言の言葉、無言の対話といってもいい。言語モードを離れて、意識や心の次元で対話する。言語モードを離れるという事である。そんな時間を過ごすのが好きである。
最もシンプルで、しかも贅沢な時間の過ごし方である。旅や、音楽、絵画、芸術、瞑想、様々な体験もその中に入る。自然とともにある時も、そこにいる事が多い。それは形のない、大きな家だ。私の家でもある。そこには,全宇宙が入っているからだ。

 時には,言語で把握できないほど複雑で、或は、説明不可能な時も在る。 言語は,宇宙的な視点で見れば、人間に限られた,”究めて小さな現象だ” 。自然の星や月や花やあらゆる生き物達は、一切の言語を使わずに,その存在を伝えている。感受性さえあれば、全ての人たちにその香りを伝え続けている。 
 言葉は、その字の通り,”コトの葉”であって、幹でも根でもない。全体を言い表す事は出来ない。内なる印象や考え、想いを、言葉に変換して相手に伝えるメディアである。だが言葉は全てを伝える事は不可能である。決して万能ではない。実際のところ、”現実は、言語を超えている”。何かに納得できないときは,ここに来るといい。

 勿論、言葉あってこその文化、文明であるのだが、言葉を忘れる事で、新たな次元が出現してくる。それは、言語モードと言語モードとの間合いにある。
非言語モード、そこには一切の虚飾がない。
あるがままを、あるがままに見る事、聴く事,感じる事である。今まで見えなかったものが見えてくる。
単純で明快、素直で無垢な次元が現れてくる。

 無心は知性である。一方、マインド(心)は,常に戯言(たわごと)を生み出している。
戯言の全てを表に放り出せば、その背後で,純粋に,清浄に、洞察に満ちた視点に留まることが出来る。サマディー(三味)と言う。
”悟り”は、決して他人から得られるものではない。又、人の真似をしても意味がない,そればかりか,遠回りになってしまう。
元々、人が本来、持っていたものに初めて気付くという、実に簡単なことなのだ。

 丁度,眼鏡をかけていて,その眼鏡を一生懸命探している状況に似ている。
成長は,そこからがスタートとなる。眼鏡は見つかったのだ。
楽しみはここからなのだ!
禅もゾクチェンも”悟り”から始まる。

 まず、顕著なのは、時間のモードが変わる。時の流れが、ゆっくりとしてくる。当然、呼吸もゆっくりとしてくる。世界が新鮮みを帯びてくる。何があっても,即時に解釈したり,判断したりしない。言語モードを暫くの間,無視してみよう。
心が解き放たれ、リラックスして、自由になれる。人が,只,”在る時”、あらゆる戯言,あらゆる物事が落ちて行く。
本当の我が家,内なる我が家に帰り着く。

 知る事は頭の為にあるが,知らない事、知り得ない事、そして解る事、これはハートのものだ。
知らない事、頭でない事が深まって行けば、…それは、行ってみれば解る事だが、それに就いては、言葉では説明できない。言おうとすれば,取り逃がしてしまう。

 言葉を超えた所を見るという事は,頭は勿論,心(マインド)をもって見るのではなく、自分が純粋な空間になった時、内なる自発性、”本性”を表すという事だ。
笑うもよし,踊るもよし!
茶を一杯飲むのもいい。新たな人生が目の前に在るのだ。

 逆説的だが、この非言語モードにあることで、言語モードのエネルギーをもチャージする事もできる。
非言語モードは、生エネルギーそのものをチャージする事が出来るからだ。何故ならそこになんの障害も無くなっているからだ。
それを普通、瞑想,或は,禅、と言う。

 ペットに名前をつけるのは、一般的だが、例えば、猫なんかの場合、名前をもらった時から、猫は人間になってしまう。本来の猫性はそのままに、人の意識に入り込んでくるからだ。人の頭の事はともかく、よりダイレクトな、心や意識にまで、興味深く入り込んでくる。そして自分のものにしてしまう。

 猫は探求者だ。しかも非常に知的な面も持っている。勿論、人の言語は話さない。だが彼らにも、言語ではない言語がある。人間だけが解らないだけの事かもしれない。

 ゴータマ・仏陀が、サルナートで説法を始めた時、その話を聴いていたのは,鹿達だったという話は有名だ。勿論,鹿達が,仏陀の言葉、パーリー語を理解する訳はないのだが、鹿達は,仏陀の波動に引き寄せられていたのである。鹿はハートの波動に敏感な動物で、鈍感な人間以上の,理解力、感応力があると言われる。肝心な事を、人間以上に解っていたのだ。今でも,鹿はタントラ・ヨーガで言う所のハートのチャクラ、”アナハッタ・チャクラ”のシンボルになっている(前記事「パワー・アニマル5 鹿」参照)。鹿はかわいい。

 猫と視線を合わせるごとに、意識が交流を始め、お互いがリラックスしてくる。
人が非言語モードに入ったのを察知すると,素早く側にやってきて、猫は、噛んだり、蹴ったり、体をすり寄せたりと、色々な非言語的コミュニュケーションを始める。
猫は面白い。猫に限らず、ペットに限らず、馬、イルカ、象も、その辺りからコミュニュケーションを少しずつ始めると、やがて、中には200位の人の言葉も理解できるようになるものも可能だと言う。

 中には、庭の木々や花にも名前を付ける人もいると、聞いた事がある。木々や花と交信するのだろうか? 木々も当然、交信を始める。花も当然。
世界は広い。色々な人がいる。色々な木々も在る。花も絢爛と咲き競う。
意識を広げれば、まだまだ、この世には、様々な可能性があるという事だ。
石でさえ仏陀になると言う,禅師がいる。
閉ざしているのは,人間だけなのかもしれない。

 30年ほどの昔の事だが、“マウナ” と言う行を行った事がある。
ヒマラヤのダウラギリとアンナプルナ連山の間の渓谷にカーリー・ガンダキというガンガー(ガンジス)の源流の一つがあり、近くに温泉も湧いている。
そこにいた時の事だ。其れは、無言の行である。

 近くのネワーリ族のおばさんに、食事や洗濯、その他の身の回りの事を一切任せて、一ヶ月、二ヶ月と無言の行に入る。どうしても,言葉が必要な時は,筆談で伝える。ネパール語やヒンディー語、チベット語が出来なければ、何らかのサインを予め決めておかなければならない。

 ヒンドウー、タントラ、仏教界では,マウナを3ヶ月以上行ってはならない、という不文律のようなものがある。何故かと言うと、3ヶ月以上マウナを続けると,二度ともとの世界に戻って来れなくなる可能性があるからだ、という。彼岸に行きっぱなしになってしまうと言われている。
 例えば,山に登るという事は,目標を持って、山に登って,その後、目標を達成して、帰ってきて初めて,登山と言える。行ったっきりでは,登山とは言えないだろう。それほど,マウナは素晴らしい。其れは,嘗てない真の現実に直面するからだ。

 始めの内は、自分の中から出てくるのは、言葉、言葉、言葉しかない。
様々な思考や想い,過去の出来事が現れてくる。
これはまずリラックスし始めた証拠でもある。最初の段階である。
思考の動きを自覚できるようになったら、気にせず、只、其れを眺めていると、“沈黙そのもの”になる用意の出来ているものにとっては、それが、あらゆる光輝の扉となってくる。

 そのまま、リラックスした境地に留まり,どのような知覚が現れても,それを統合して行けば良い。
その境地は,佳境と言っても良いが,自分の外側にある訳ではない。
誰しもが持っている内なる深淵に在る真実である。

 意識は異なった質を持つように変化し、無垢となり、全く違った陰影(ニュアンス)を持つようになってくる。新たなメロディー、ハーモニー、新たなリズムが生じてくる。ここに至って、人は初めて生の意味を知る。言葉を超えたものを知る。
と、同時に心が踊りだしてくる。
この踊りは無垢からの答え。
其れこそが、全生命の鼓動。

 人は,花の香りを嗅ぐ事に依っても、禅,すなわち自らの本来の自己に至る事が出来る。それは,自分を忘れ,花の香りだけが残るとき、美を見出す事になる。
真理は秘密ではない。其れは,あなた次第だ。
全ては,大空のように解き放たれている。

 さて、そろそろ、又、言葉の世界に戻ろうか!