2011年1月7日金曜日

”安心”と言う魔法

 人が生きている以上、何かしらの問題や、超えなければならない状況が生じてくることがある。
人生、中々、思い通りにいくことばかりではない。
そして、そこでは弱さは役に立たない。
短気になったり,慌てたり、悲観したり、逃げ出そうとしたり、避けていようとしたりしても、状況がどうにかなる訳ではない。
状況次第では、無理はむしろ障害になってしまう。

 そこでは、あるがままの状況、その問題に”直面する勇気”と言うものが必要となってくる。
それは戦うことではない。
人がこの世に生き、そしてそれを存続させようとするならば、それは本能と言っても良いが、まず自己をポジティヴに感じること。
自己肯定が必要となってくる。自分が自分であること、リアルになる事だ。
人が真に存在しないうちは、何をしても上手くはいかなのだ。
此れは”仏陀の教え”といわれている。大事なことなんだよ。

 人は、本来、強いわけでも、弱いわけでもない。
だが、そこで強さと弱さが枝分かれしてしまう。
それは、力の問題と言うより、”姿勢”の問題なのだ。
状況に同化して悩むのでは無く、一歩引いて、先ず状況を良く見る。
そのとき、自分は、すでにその状況や物事に同化していないだろう?
自分の心の問題ならいざ知らず、外の問題だったら対応のしようと言うものがあるものなのだ

人の行為には二種類ある。
一つは”すること”、そしてもう一つは”在る事”。
”在る”ということは、一つの大きな全体性と繋がっている、存在と繋がっている、ということだ。
”すること”ばかりにかまけていると、つい”在る”と言うことの大切さを忘れてしまう。片手落ちになってしまうのだ。
何が何でも自分ひとりで頑張っていると、在る、と言うことを忘れてしまう。
”在る”ということが判って、初めて、することにも意味が出てくる。

 何事も、まず、”在る”ということから始まる。
在る、と言うことが出来たら、純粋に、事の全体を眺めることが出来るだろう?
さもないと、何かしないではいられなくなってしまう。何かに追い立てられてしまうのだ。
それは、その物事に取り込まれて、対象に同化してしまっているからだ。
”すること”に中毒してしまうのだ。

 それは、同化が原因なのだ。
一度、”安心とは何なんなのか?”と言うことに注目してみよう。
のどが渇いたら水を飲む。森羅万象、全てのものが水を飲む。生きているものは水を飲む。
砂漠のようなところで、水を切らしていたらなおさらだ。それは身体に潤いを与え、生命を与え、意識のセンターを、頭から、内なるどこか安心できるところに移動させる。
そこに間合いが生じ、潤いが生じてくる。
潤いが生まれれば、人は、安心して素直に成れるものだ。それは、ゆとりが出来るからだ。
ゆとりは、”間”といっても良い。

 ”間”という文字には、門の向こうに日が射しているだろう?
”間”を感じると、心にも光が射してくる。
”間”とは、時間にも空間にもかかわる、古来からの、時空にかかわる宇宙的な知恵なのだ。
”間”を生かすこと、それがゆとりなのだ。それは時間的にも、空間的にも言えることなのだ。
適切に”間合い”と言う知恵を使えば、リズムが出て、よりものごと、することが生き生きとしてくる。

 生と言うものは、人のマインドからすれば矛盾している。
生は人のマインドに合わせているわけではないからだ。森羅万象は、素直にその生に従っている。
だが、個別意識の強い”人間は、生に合わせなければ生きていけない。
人生の目的は、究極的には”、生きることである。
つまり、人のマインドからすると、矛盾しているものに如何に上手く対応し、そして協調して生きていくにはどうしたら良いか?
矛盾しているようだが、矛盾を認めると、そういうものだと思えば、矛盾はなくなっていくようだ。
例え10分でも頭を落とすと、そこで、もう生と一体になっている。

 安心、それがどういうものかというと、”安心とはエナジーの一形態”なのだ。
エナジーを消耗してしまえば、安心もなくなって、不安が増してくる。それが道理と言うものだ。
本当に安心しているとき、今、内側でどういう状況にあるのか、どういうことが起こっているのか、ということに注目してみよう。
普通、何か原因があって、或いは因果関係があって”安心”は起こってくる。物質的なレベルで起こってくる。

 だが、何の因果関係もなしに”安心”をクリエイトできるのだ。
それは、無心から起こってくる。
真に無心にあるとき、周辺、世界は意識されないからだ。
そこでは、すでに、世界を超越している。
そして、その空間に”安心”という特別な”力”をクリエイトできる。その力は柔らかで、爽やかで、暖かい、しかもオールマイティーだ。
自分が安心したときのことを、因果関係を忘れて、安心そのもの思い出せばよいのだ。
人は何度も、何らかの原因のある安心をした経験を持っているはずだ。
形のあるものではないが、誰でも安心の力を知っているはずだ。
そして、安心ほど、心強い味方はない。少しはエナジーを安心のためにリザーブすると良いと思う。

 ”安心からの発想”と言うものはいいものだ。
対象や部分だけではなく、無理なく全体が見えるからである。楽観性が生じてくる。
安心は宇宙的なのだ。
全体が見えなければ、五里夢中、不安は当然だ。
そこで不安からの発想とに大きな違いがでてくるのである。
そんなときは、安心に帰って繰ればよいのだ。

 安心は天下無敵なのだ。
ものではないし、形もないが、感応する心があれば、これ以上のものはない。
至福といっても良い。

 安心は只者ではない。
それが心を生かし、身体を生かし、他のもの、家族、友人、犬猫は言うに及ばず、森羅万象にいたるまで、そして自分のみならず、あらゆるものを生かすからだ。
”上善は水の如し”と言うだろう。エナジーは、全てのものを生かし、生き生きとさせる。
それは、ヴィシュヌ神の力、シヴァ神の力、仏陀の力、そして、タオの力なのだ。
そして、安心は”創造神(ブラフマ)”でもあるのだ。

 一度、安心を背景にして、そのスタンスから、目の前にある出来事や問題の全体を良く見てみる。
安心のある時と、安心のない時とでは、見え方が違ってくるはずだ。月とスッポンほどの違いがある。
暫くすると、やがて、その中に光が見えてくる。それがエナジーだ。光源なき光、サンディア、シヴァのシャクティーだ。
安心と言う視点から物事を見ると、事の全体性が良く見えてくる。
心にも、ゆとりが自ずと生じるから、対象に同化することなく、静かに全体を見ることが出来る。

 それに気づいたら、その光の波動に注目し、その波動を広げていけばよい。静かに見守っていると、それは自ずと広がっていく。
ゆっくりと呼吸しながら、何もせず、ただポジティヴに事の成り行きを見ていれば良い。
そして、全宇宙を”安心という波動”で満たすといい。
波動原理、それがタントラの知恵と言うものだ。
複雑だったものごとが、ごく単純な形で見えてくるものだ。クリエイティヴだろう?
最小の被害で済むこともあるし、無事に切り抜けることもあるだろう。逆転して成功することもあるかもしれない。

 安泰、安全、安堵、安住、安眠、全ては、安心から生じてくる。
安心は、所謂、快楽ではない。快楽は、エナジーを消耗するのだよ。
だが、安心は、もっと実用的、実質的なのだ。
取り立ててどうこう言うものではないが、安心ほど心地よいものはない。
安心は、無心から生じ、心地よさを生む。今がそうなのだ。
楽しみや喜びも生じてくるベースともなる。生の基盤となるのだ。
安心なくして、幸福も、愛も、豊かさも糸瓜(へちま)もない。
糸瓜は、風呂場にあればよいのだよ。

 安心があれば、全てが良い。
シヴァ曰く”この世はパラダイス”なのだ。
安心のために生きる、となると、一寸、本末転倒だが、安心あって初めて生活も成り立ってくる。
安心があれば、様々なことにも耐えられる。
安心が力となるのだ。安心とは強さのことだ。
安心は、私の中にすんでいる。

 そして、安心が成長してくると、私や周囲のものを、安心という世界に包み込んでしまう。
だから、ダイヴィングしていても、バイクに乗っていても、車を運転していても、静かにしているときも、安心とともにある。自然と無理はしなくなるものだ。
だから、安心のうちに生きている。安心が自分の家となるのだよ。

 そして、安心は、無心から生じてくる。
安心は、仏教から生まれた言葉である。
真の英知と言っても良い。
安心とは、”心ある道に在る”と言うことだ。
例え、一寸、道を外れても、今は”正しい道に在る”という事なのだ。

 そして、禅、タントラ、ヨーガ、タオ、瞑想と言う技法は、人が”本来持っている力”を引き出す”コツ”なのだ。
それは、復元力をもたらす。真の意味での、健康法と言ってもいい。
ただ、物事の筋道を、一度、根に帰って、新たな視点で見直せばいい。
初心に帰る、と言うことだ。
慌てることはない。人生は長い。
何たって、死ぬまであるんだから・・・・・。

 上っ面だけから見ると、魔法のように見えるかもしれない。
だが、魔法でも何でもない。
無理をしなければ、安心は何処にも行かない。
知らないことは、知らないでいい。できないことは出来なくてよい。知りたいことがあれば学べばよい。
出来ることをすればよいのだ。難しいことは何もない。
難しいのは、頭が難しいからだ。
だが、身体は頭より賢い。ずっとスマートなのだ。

 荘子(老子の弟子)曰く、”易しいことは、正しい”。
その通りである。
”正しい”、”正”と言う漢字を良く見てみると、二本の直線の間に”止まる”、”止”と書く。
それは、中庸に在る、という意味なのだ。

 言葉って面白いだろう?
安心は、何時でも、又、何処にいても、”今、ここ”にある。
静かであっても、活動していても、スポーツしていても、安心があれば問題は少ない。無理をしないからだ。
人は、常に、何処か特別なところばかりを探したがるが、安心はどこか特別なところにだけあるわけではない。

 それは、今、ここにある。
あなたの心の中に・・・・・。

             ” オーン・ナマー・バガバティー・ヴァースデヴァーヤー ”
               (ヴィシュヌ神、宇宙を維持する神)のマントラ。
                

 安心しているとき、何故か、お茶やチャイが美味いんだよ。一服しようか・・・・・。