2011年1月8日土曜日

シズル(sizzle)

  シズルって何だろう?
それはね、肉や焼き鳥、海老や魚介類を炭火で焼くとき、或いは、厚い鉄板でベーコンやハンバーガー、ステーキを焼くときの音を、日本語だと”ジュージューと言う音を立てる”、と表現するだろう?
或いは、ジュージューと焼く・・・・・。
何ともいえなくいいトーンだ。おいしい料理屋さんの雰囲気に、現実感が生じてくる。
今日は、一寸、美味しい話にしよう。

 その時のトーンを、英語で”シズル”という。
誰もが好きなトーンなのだ。音感を言葉にすると、その言語によって文化や言葉のニュアンスに違いがあることが判る。
でもそこに面白さがある。

 この前、近くのミスター・ドーナッツに行ったところ、日本ではオールド・ファッションとかチョコ・ファッションと呼ばれている、粗引きの小麦粉を使った、一寸、甘みを抑えた、ぼそぼそした、硬めのドーナッツがある。
それが、タイでは”サクサク”という名称に変わって新発売になった。
オールド・ファッションがやっと食べられる。
以前は、甘いのばっかりで、甘味の少ない、ドライで硬いタイプは売ってなかったのだ。

 サクサクと言う言葉が、その食感にぴったりの名称とは思えないが、日本語の音や状況に対する音感や情景、そして様々な動きや行為を表現した言葉には、面白くバラエティーに富んでいる。
さらさら、そよそよ、しんしん、じんじん、ざくざく、ころころ、ふらふら、ちょろちょろ、むずむず、とんとん、ぶんぶん、さっさと、びんびん、そうっと、ぎんぎん、じゅーじゅー、そろそろ、うはうは、だらだら、ばたばた、ぶらぶら、がっちり、とろとろ、どんどん、ふわふわ、ゆるゆる、・・・・・・いろいろあるね。無限にあるようだ。日本語は感性が豊かなのだ。宇宙的なのだ。
”波動”と言う言葉は、割と耳新しいかもしれないが、それらは日本では古来から、波動、趣、風味といったものを表す言葉になっている。
昔、ある日本のヒット曲がアメリカでもヒットした。タイトルは意味とは無縁の、”すき焼き”である。
意味はともかく、言霊(ことだま)のスピリットが、ユニークに聴こえるのであろう。
日本にも、タイにも、いまや外国語がたくさん入ってきて、言霊の面白さを再認識している。
波動の時代だからね。

 ”シーーン”と言うと、日本語では、静けさ、”シーーーンと静まり返った状況”を表す言葉だ。
或いは、英語の”情景”といった意味にも使われる。オーバーラップする面もないとは言えない。
正月には、その”シーン”を聴くためにも、感じるためにも、初日の出、夜明けの朝日、富士の朝日を愛でに行く。
或いは、神社や寺院に、新たな華やぎを求める人もいるだろう。
風景を見るだけではなく、聴く、感じる、味わう、嗅ぐ、そして五感を解き放つためでもある。
目は五感の一つではあるが、目だけで感じるわけではない。
目は映すだけで、解釈するのは他の部分なのだ。
肌で感じ、心で感じ、においで感じ、耳で感じ、味わって解釈するのだ。

 静かな朝、と言うのは、正月に限ったことではなくいいものだ。
気持ちが新鮮になる。朝だけが楽しみではないが、朝はいい。
静まり返った音、無音の音、それは、”創られていない音”という。
インド、チベットでは、意識を目覚めさせ、ハートのチャクラを開く重要なトーンとなっている。
禅では、”隻手の音声”といって、禅の公案(意識を目覚めさせるための、問いかけ)にもなっている。

 無音の音は、何も聴こえないわけではなく、無音は無音として確かに聴こえる。
聴く耳、感応する心があれば、思い込みが何もなければ、無音と言う”トーン”として聴こえるのだ。
ヒマラヤは、エナジーも高く、人も少なく、人工物も殆どなく、まさにうってつけの場所なのだ。
瞑想者は、その音を聴きに、ヒマラヤにやってくる。
全宇宙の無音の音、始めなき、そして終わりなき、”究極のトーン”。
それが、全宇宙に響き渡っている。
”絶対音”と言うようである。

 その無音のトーンをベースに、辺りを感じると、何もないようでも、静かな様でも、音に溢れているものだ。
そこに、自分が呼吸する微かな音、扇風機のまわる音、熱帯魚の水槽の水が、ちょろちょろと循環する音、猫が二匹でふざけあっている音、冷蔵庫の音、遠くから聴こえる鶏の声、車の走り去る表の音、人が歩いて通る音、それらが無音の音の上に立体的に重なっている。
そんな風に、当たり周辺を感じたことはないだろうか? 
無音をベースにしているから、一つ一つの音をよく聴き分けることも出来るし、より三次元的に総合的な広がり、そして立体的な深みを感じることも出来る。何でもない空間が生き生きとしてくる。
それがサイレント・ジョイだ。私の楽しみの一つ。実用的な瞑想なのだ。
バスや汽車を待っているときでも、飛行機に乗っている時でも、町を散歩している時でも楽しめる。
何事もないようでも、気づけば、色々なことが起こっているのだ。

 ”静けさや、磐に染み入る、蝉の声”。
芭蕉の有名な一句だが、騒がしい蝉の声が、磐に染込んでいく様子と、静寂さ、とを美味く対比させ、静けさを強調している、
音と無音とが同居している。何とも素晴らしい!

 ”古池や、かわず飛び込む、水の音”
此れも、世界的にも、あまりにも有名な句であるが、水の音と言う”唯一の音”が、波紋を広げ、背景の、全体の静けさ、無音を、浮き立たせている。
タオを感じさせる。

 無音を意識できると、ステージが変わってくるものだ。深みと広がりが生じ、意識の高みに入ってくる。
新たな、そして豊かな価値観が生じてくる。
無音が音を生かすのだ。無があって、初めて、有を生かすことが出来るのだ。
一度聴いたら、忘れないのが”無音の音”だ。
タントラでは、”音の中の音”と言う。

 音は耳で聴くのではない。耳は伝えるだけなのだ。
情報なら頭に向ければいいし、心に向けたものなら、心に響くようにすればよい。
しかし耳は選択するのだ。どうでもよい音は無視してしまう。
雑音なんかはあまり聞きたくないものだ。
よく出来ているんだよ。

  ところが、無音の音を何処で聴くのか、と言うと、人の心の最深部、仏性(ブッディー)のあるところで、聴かれるのだという。
そこには雑音は一切届かない。
そして、それを体験すると、どんな雑音を聞いていてうるさくても、その背景に、その絶対音、無音の音を持ってくることが可能なのだ。
さすれば、少々の雑音も、少しの時間なら何てことない。周囲は、周辺でしかない。中心は、無音の静けさにある。

 この無音のトーンが、ハートのチャクラの奥の奥まで開くのだ。
観世音菩薩、即ち、アヴァロキテシヴァーラ(チェンレイジー)は、仏陀の直弟子の一人だが、その無音の音を知り、世間の音を知って、悟りを得たと言われる人だ。

 シーンといっても、,ジャズのシーンでは、ジャズとは、”有意義な喧しさ”、といってもいいのだが、
無論、喧しくないのも多い・・・・・・。
ブルー・ノートにシンコペーション、オフ・ビートにアフター・ビート、音と無音、それらが心に、絶妙な刺激を与えるのだ。
ジャズは小学校の頃から聴いている。
ビートがあって生き生きとして、心の琴線に触れ、しかもスリルがあるのだ。
シズルは、此処にも登場する。

 ドラマーが使うシンバル。
多く、トルコの”ジルジャン”と言うメイカーが有名だが、ドラマー達の注文で、独自のトーンを求めて、金や銀を融合したり、シンバルに小さな穴をいくつも開け、そこに、鋲を打ち込んで、しかもその鋲を浮かせて、シンバルの余韻が、長く尾を引くように工夫したものがある。
一寸、スティックでたたいても、ジーーーーーーーン、シーーーーーーンと余韻が長く、それが刺激的な効果を出す。
日本語の、言葉の上でも、”ジーーーンと、胸が熱くなる。”という言い方をするだろう?
それだけで次元が変わってしまう。
初めて聴いたときは、その効果に驚いたものだった。
昔の、録音の良いレコードで聞くと何ともすばらしい。無論、今でも使っている人も、少なからずいるだろう。
此れが一時、流行って、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・コッブ、エド・シグペン、アート・ブレイキーといったドラマーたちが一世を風靡した。
それがシズル・シンバルである。
それが、スタン・ゲッツや、マイルス・デヴィス、オスカー・ピーターソンを盛り立てていたのだ。
実際に、演奏に入り、トップ・シンバルで、ビートを生み出すようになると、余韻がシーーーン、シーーーン、シーーーンと、心の深遠、頭のてっぺんから、足のつま先にまで波動効果が伝わって届いてしまう。何とも気持ちがよク、身体がスイングしてしまう。
心が空っぽになると、キャパシティー、受容能力、感受性が増してくる。スペースが生じるのだ。
それにベースが絡み、ピアノやギターと言ったリズム・セクションが、そこにスピリットを注入する。
そして様々な楽器が入り込んで、重なり合って、インプロヴィゼイション(即興演奏)が始まる。
ファンタジーが始まる。

 肉や魚をジュージュー焼く音も、食欲を刺激して堪らない。それは肉体レベルで、身体を、そして食欲を刺激する。
一方、シズル・シンバルの波動は、心の雑念をきれいにする精神的効果がありそうだ。意識の奥のほうまで染み渡っていくからだ。
何か人の心に何かが残る効果があるようである。
昔から、太鼓と鐘、そしてシンバル、或いは銅鑼(どら)は、様々な儀式や宗教儀式、信号や合図に使われてきて効果を挙げてきた。
意味と言うより、ニュアンスだが、電子音の絶え間ない今になってみれば、何か堪らない魅力があるものだ。
船の出港のときにも銅鑼を鳴らしたり、汽笛を鳴らしたりする。汽車が発車するとき鐘を鳴らす、或いはベルを鳴らす。お寺でも、鐘と太鼓、それに銅鑼を使い分けている。
意味というものは、微妙なニュアンスがあって、初めて深まって生きてくるものだ。
ニュアンスというものがないと、ぶっきら棒で詰まらないのだ。微妙なことが、色合いや風味を増しているのだ。

 うなぎを焼く音、そしてその匂い、思わずそそられてしまう。
それは、江戸時代から続いている。当時は、屋台で焼いて売っていたようである。
南アジアでは、炭火で魚介類、肉や野菜を焼いて食べさせる屋台が、夜になると町に中心付近に登場し、いい音、いい匂いをあたりに撒き散らしている。昔からの伝統だが、風情があっていいものだ、しかも辺りが華やいでくる。
バンコックには、シズラーという、”シズル”を意識して、看板にしている有名なステーキ・レストランがある。
以前、サイアム・スクエアの店に行ったことがある。
いい音が聞ける。ジュージュー、シャー・シャーといっている。
無論、匂いもいい、そして味もいい。

 最近では、英語の雑誌などを捲っていると、シズル、シズラー、シズリングといった言葉が眼に入ってくる。
”刺激する”、と言う意味に使われているようだ。文化の波動といっても良い。
今は、ナノの時代、微細の時代、 どうしても敏感になってしまう。