2011年1月3日月曜日

インスピレイション

 ”インスピレイション”、善いトーンの言葉である。気づき、閃き、直感、それは、ビヨンド、超越からのメッセージ。語源を辿れば、”イン・スピリット”、精神、心を生きる、と言う意味になる。心は、理性や知性では理解し難い、超越的で大きな世界にも繋がっている。人は、さまざまな”もの”を使い、頭を使い、知識を使い、体を使い、ペンやコンピューターを使い、道具を使い、お洒落をし、車や電話を使って、”物”を利用して生きているが、人、そのものの精神、スピリット、心、それは”もの”ではない。それは、根源的には、”無と言う領域(名のない領域)”からやって来るのだ。

 一寸、イマージン、”空の向こう側”、ってのはないだろう? 空は、どこまで行っても空だ。空に外側はない。これで一寸次元が変わる。その空のなかに、太陽も、月も、地球も、無数の星たちも浮かんでいて、永遠の舞を舞い続けている。

 予知とか、直観力、共時性(シンクロニシティー)という現象は、主観的な現象で、傍からは見えないのだが、あくまで”思いのほか”の出来事だ。それは、今、ここと、未知、或いは、未来との間に、何らかの接点があって起こってくるようである。内なる世界と、外の世界との間に微妙な繋がりがあるのだ。この点が、東洋思想の要と言ってもいい。それが起こった当人にしても、どうやってそうなったかを説明することは不可能なのだ。因果性も、距離の多少も、関係がない。無因で起こることもあるようなのだ。起こるときには、起こってしまう。リアルな世界ってのは、不思議が一杯なんだよ。虚偽の世界は、一貫しているんだけどね。

 宇宙の万物の間に潜在している”見えない繋がり”、それが生じることを、直感として感じたり、共時性と感じたり、物理学者にとっては、素粒子が波動に転じたり、時間が逆行したり、人は様々に感じたり体験したりするのだが、少なくとも、”考えられた事”ではなく、”知ることが出来る何か”なのである。
考えられたことって,たかが知れてるんだよ。

 少なくとも、自分が、自分以上の、何かとてつもない大きな力のあるものと繋がっていて、言葉にすると難しいのだが、巨大な連続性のある統合体と一つになっている、という気づきが起こってくる。心に力が宿ってくるのだ。波動が生じてくる。
 今までかつて、人生で、最高に素晴らしい瞬間、と言うものを体験したことがあるだろうか? それは、今、此処にある。それは、頭ではなく、知性ではなく、全身全霊で”判る”ものなのだ。そこに、初めて”存在する”と言う喜びがあるのだ。生きると言う”意味”を感じてしまう。

 そのことは、普段の身の回りにあるありふれた日常性、或いは、ややこしく複雑で面倒な世界よりも、ずっと深く、判りやすく、しかも意味のあるもので、それが身体にも、生活にも、物事にも浸透してくるのだ。普段の何気ない生が、生き生きとしてくる。全てが一つになるのだ。サムシング・クールな、何か… マーヴェラスな何か… ”楽しみ”とは、このことよ。

 それは恐ろしくも、怖くもなく、苦もなく悲しみもない。辛い事などさらさらない。暑くもなく、寒くもない。エナジーを感じ、充実感がある。軽やかで、心地よく、さわやかで、静かに、さまざまな物事を、それこそ”クール”に、リアルに楽しむことが出来る。慈しみ、愛を感じられるようになってくる。喜びもあふれてくる。何の原因も、因果性(原因と結果)もなく訪れる”喜び”と言うものがある。
 サムシング・クールなもの… それは、創造性というエナジーだ。アムリット(甘露、サンスクリット語)という。サウンデリア・ラヒリ。美しき波動なのだ。ニュアンス的には、少し意味が違って変わってしまったが、フランス語のアムール、イタリア語のアモーレの語源となっている。瞑想する人、芸術家、探求者、発明家、と言った人たち、そして恋人たちの間には、よく体験されることなのだ。何か超越的で、何らかの新しさ、新鮮な力、魂の蘇り、のようなものを感じてしまう。Something cool.

 中国の古い諺に次のようなのがある。

”弟子に心の用意が整ったとき、丁度、そこに師匠が現れる”

 インドには、次のような神話がある。奥方のパルバティーが、そっと夫のシヴァの後ろから忍び寄り、両手でシヴァの両目を目隠しをした。その瞬間、シヴァの額の第三の目が開いた、と言う。

 久しぶりに島に帰ってきて、今朝、近くを散歩していると、新しく出来た木工の家具屋さんが出来ていて、その店の前に大きな瓶が置いてあった。そして、そこに黄色い蓮の花が一輪、見事な姿で咲いていた。すぐ側に、高さ50cm程の、これも見事な、木彫のヴィシュヌ神(宇宙神)の像が、涼しげに,立膝をしてまどろんでいる。インドでは黄色い蓮の花は良く見られるのだが、タイでは珍しい。しばらく眺めていると、そこに波動空間が生じてしまう。何処からともなく赤とんぼがやってきて、その花の周りを、ホヴァリングしていたのだが、その内、意を決したのか、フワッと蓮の花の花弁にとまった。一つになった。花弁も、水面も微動だにしない。見事なものだ。その瞬間から、時が止まってしまった。

”長閑さや、蓮華にフワッと、赤とんぼ”

 所謂、快楽と呼ばれるものは、すべからく、肉体、そして欲望に負ってエナジー(霊力)を、そして体力を消耗する、と言う特徴がある。一方、至福というものは、本来、人が持っている精神のあり方に依っていて、霊体(スピリット・ボディー)に於いてエナジーが生じてくるクリエイティヴな状況なのだ。至福は、実に単純で、無垢、であることから起こってくる。
特別な聖地や、特定の場所だけで、至福が感じられるわけではない。それは、本来、人が持っているもので、開発したり、造り上げたり、修行してどうのこうの、というものではない。ただ、再発見すればよいだけだ。すでにあるものを、見つければよいのだ。

 そこに, 間合いが生じ、微妙な、そして微細な波動感知能力もついてきて、微妙なエナジーが流れてくることを感じる事が出来るようになるのだ。いい循環に入ると、いい事ずくめなのだ。相乗効果なのだ。”間”というのは、時間にも、空間にも、距離の上でも、タイミングと言う面でも、色々なことに使える有益な知恵。それが身についてくると、”人間”と言う存在になってくるのだ。学んでおいて損はない。間という文字を見ると、門の中に日がさしている。意味は深いんだよ。

 真の強さというのは、あるがままの状況に直面する勇気、と言ってもいいだろう。生きると言うことには、勇気が不可欠なんだよ。弱さと言うのは、例えば、何らかの危険や問題に直面したとき、ただ闇雲に前に進む、と言うのではな、待つ、状況を見極める、という忍耐が出来ない人なのだよ。頭でしか反応しなくなっていて、感応する心と言うか、心にゆとりがないんだよ。道に縄が落ちていても、蛇と間違えてしまう人だっているのだからね。幽霊だって出てきてしまう。

 最近のアメリカの本などを捲っていると”インタービーイング”と言う言葉が良く使われている。”縁”とも訳してもいいかもしれないが、基本的には、目には見えない”絆”、或いは”間”としたい。色々な意味に使える。ある特別な、時空の、そして心にとっての英知なのだ。タオに、真如に繋がる、と言う通路と言う意味にもなる。アメリカも変わってきているだろう。

 瞑想する人やスポーツする人は、適切なタイミングと言うものがあるだろう? 状況に合わせて、調子を合わせるのだ。早すぎても、遅すぎても駄目なんだよ。蕎麦やパスタをゆでるにも、適切なタイミングと言うものがあるだろう? 同じことなんだよ。

 ”インスピレイション”、ジプシー・キングスの名曲だ。いい曲だね。テレビ時代劇、鬼平犯科帖のテーマ音楽になっている。映画は池波正太郎の原作で、シナリオも演出も素晴らしく、主役の中村吉衛門や脇を固める役者も揃っている。何時も、楽しみにしている映画である。そして、日本の時代劇にスパニッシュ・ギター、うまく調和するものだね。心が弾み、生き生きとしてくる。