2011年1月2日日曜日

ハミング

 真によき場所、よき状況にあるとき、独りでにハミングしてしまうことがある。何かが原因で嬉しくなる時、仕事が上手くいったり、試験にパスしたり、人の 病気が回復したりとか、いいニュースが,情報として入って来る。嬉しいことである。又、そうではなく、何の原因もなく、何の因果性もなく、何の理由もなく 喜びがこみ上げてくることがある。喜びとは、エナジーだ。気づき、直感(インスピレーション)が起こっている時だ。これまた素晴らしい。それは、ビヨンド からのメッセージ。時空を超えた宇宙通信だ。それは、音もなく、目には見えず、インターネットでもない。だが感能する心さえあれば、感じることができる。 その繋がりを、”インタービーイング”と言う。

 宇宙の万物の間には、目には見えない、隠れた結びつき、絆のようなものが存在するのだ。霊性、スピリチュアリティに触れると、心にも自ずとセンターがで き、整って生き生きとしてくる。風景の焦点が変わってくる。そして、内にも、外にも、さまざまな、新たな繋がり、新たな価値観が生じてくるのだ。 どんな自己欺瞞も、思考もなく、ただあるがままの現実に直面する時、物事や出来事の中に”光”が見えてくることがある。それが自分の中の深いところと、何 らかの具合でシンクロすると、内なる世界、心の世界と、外の世界との間にある通路、インタービーイング(絆、一体性)が開通するのだ。それは神通力と言っ てもいいが、意識と無意識とをつなぐ通路なのだ。

  ”開”という漢字を見てみると、門の向こうに鳥居が見えるだろう? そこに、タオ、神、スピリットがあるってことなんだ。それが”開”なのだ。でも人の意 識が眠りこけ、無意識で心が閉じていたら、開も糸瓜(へちま)もなくなってしまう。全てが閉じてしまうのだ。悪循環はここから始まってしまう。何事も、そ の人次第なんだよ。この世は…

 いろいろ探求していくと、自分の周囲、世界という”外部にあるもの事”は、実は自分の”内面的な状況の反映”なのだ、ということがわかってくる。自分のあり方次第で、その世界のあり方、見え方にも変化がおきるのだ。
宇宙とは、自分に対する応答、反映なのだということが感じられる。
つまり、極論すれば、あなたが笑えば、世界も笑う。静かであれば、宇宙もそのように共鳴する。
根本原理がわかれば、対応の仕方も自ずと判って来るではないか。
私とは、一体全体、何なのかと言うことも判って来る。

 普段は、表層意識、個別意識、自我意識という、いわば”鎧”のようなものを、自己の代用品として、仏陀の言葉によると、玉葱のごとく幾重にも着て、心も閉ざしているので、通路も開きようがなくなってしまうのである。
当然、閉ざされて、心にも慈養も届かず、無神経になってしまうのだ。

 それが普通と思い込んで、習慣になってしまうと、自我意識という偽者を、真の自分と勘違いし、自分がどういうものなのかも知らぬままに、霊的、情緒的にも、心も感情も安心して育てたり、成長する状況とは大きくかけ離れているようになる。
生きる意味も知らずに、心も魂も、煮え沈んでいくかの様になってしまうのだ。
苦は必然的に起こってくる。
その反動として、無闇に、刺激的なことを求めたり、闇雲に突っ走ったり、殊更、興奮や、快楽、権力を求め、空しいながらも、精神性の貧しさや寂しさを何とか補おうとする。
そして、苦しいこと、憂鬱、悲観、怒り、憎らしいこと、嫉妬、恨み、辛みは、理性によって、潜在意識、無意識へと仕舞いこまれてしまうのだ。
とりあえずは、一応、表面的な体裁は平静に保てるからだ。
だからって、それで解決したわけではない。何も解決していない。

 真底、安心しているわけもなく、常に、何かに追い立てられ、夢にうなされ、理由のわからない不安に慄いているのだ。
しかし、それにも限度というものがある。
許容量というものがある。
限度を超えれば、爆発したり、病気になったり、狂気が起こったりする。
少なくとも、健康とはいえない。
普通ではないのだ。
生は、人のマインドから見ると、矛盾しているように見える。むしろ、虚偽や、何らかの観念、哲学のほうが一貫しているように見えるものなのだ。生は人のマインドや都合など眼中にないのだよ。

 殆どの病気、苦の原因は、こういった過去の残存物、心のしこり、心のわだかまりが、潜在意識、無意識の中に集積されていることにあるからだ、と言われている。
病気というものは、本来、気の病、心の病から起こってくる。
それが、インサイド・アウト、内なる何かが、身体に現れた、ということなのだ。

 ヒンドウー、仏教の人たちは無論だが、最近ではイスラム教徒やキリスト教徒もいるらしく、ガンガー(ガンジス)に詣でる人が、後を立たない。世界中からやってくる。ヴァラナシは、今や世界的な聖なる空間となっているのだ。
心の奥深くこびりついた垢を洗い流す為だ。手遅れになる前にやってくるのだ。
そこで何が起こるかというと、シヴァ(言葉を変えると、純粋意識)と繋がる事ができ、その結果、意識に目覚めることで、意識にべっとりとついた過去の残存物を、綺麗に洗い流してくれる。
ヒンドゥーの人達は、心を込めて、この場所を、”カーシー(光の都)”と呼ぶのだ。
古代から伝わっている呼び名なのだ。

 だが、上っ面を見ていてもカーシーは見えてこない。
見ると言うことだけではなしに、まず、感じること、真底、深く感じることができるようになると、見え方にも変化が訪れる。
風景の焦点が変わるのだ。
意識が、目覚め、整うと、二次的に心も安心し、くつろぎ、安定して来る。
浄化、つまり”禊”ということなのだ。

 慌てることなく、何日もかけ、暫く時間をかけ、道の真ん中にどっかりと座っている牛に、りんごでもあげて、バングラッシー(聖なる飲み物)やチャイを楽しみ、そこの空気と一つになっていると、やがて馴染んでくる。
寛いで、自然体になり、明晰になり、波長も合ってくるに従って、魂も身体も若返ってくる。心も生き生きとしてくる。
基本的には、意識が目覚めると、全てが良くなってくる。
世間、世界と言う、泥にまみれた世界から蓮の花が咲くとき、茎は泥の中の根と繋がっているが、花弁には塵ほどの泥もついていない。
逆に、泥がなければ、そして水がなければ、蓮の花はない事になる。
フロウ(flow)、流れていること、エナジー、命の流れているものを、或いは、流れていることを、”フラワー(flower)"、”花”、という。
”エナジーが流れていること”、が語源なのだ。
それが生命の、そして美の象徴となっている。
花とは”真に生きている”と言う意味なのだ。

 光明、無背面というだろう。花はそれを体現しているのだ。

  意識がクリアになれば、ものごとがリアルになってくる。
身体には、重力が働く。思考にも重力の影響が現れる。
だが、純粋意識には重力はかかわらない。
意識は無重力だし、色も形もない。
現代物理学では、まだ推測のうちなのだが、”反重力”と言うものが判ってくる。
普段の何気ない生活の中にも、何か不思議な力が、そこに浸透していることが見えてくる。
外と内とが交流している。
重力と反重力とが交差して綾となっている。
三途の川と極楽とが一つになっている。

 ヴァラナシはただの町ではない。聖なるものと、混沌とが、調和して一体になっている不思議な空間なのだ。暫く暮らしてみると、よく判る。素晴らしい学びとなるところだ。こつがわかると、今度は、何処ででも応用できる。

 気づけば、世界は、もうすでに新しくなっている。インタービーイングも開通している。新鮮さが始まっている。楽しくも、嬉しい事、素晴らしい事、幸福感を堪能することができる。
あらゆるものが美しい。あらゆる物が素晴らしい。全てのものが、全てのもの以上のものを包括し、内と外とが、意味のある一致をしてしまう。生き生きとしているときは、些細なことでも、具合良くなってしまう。何をやっても美味くいってしまう。

 シング・サムシング・シンプル・・・・・・、♪ ♪ ♪ ♪ 
  ”シング・サムシング・シンプル”という曲は、ジューン・クリスティー歌うところの、ジャズの小唄だが、リズミックで、春の小川のように、明るく、爽やかな曲で、ハミングするには丁度よい。メロディーラインもシンプルだ。もうCD化されてるかもしれない。
まるで煙管(きせる)のようだが、出だしのところと、最後のところしか、歌詞を覚えていないので、途中はハミングするしかないのだ。
学生時代によく聴いていた曲で、彼女が、ご主人のボブ・クーパー(テナーサックス奏者)とともに日本に来たとき、たまたま会うことができ、たので、殊更、印象も深かったのだ。
素敵な人達だった。

 誰しも、心に何かしらの歌を持っているものだ。昔の人だったら、小唄や都々逸、詩吟や浪花節の一節が出てくるところかもしれない。ジャズのスタンダード ナンバーかもしれない。若い人なら、はやり歌、ポップスやロックかもしれない。1970年代、80年代のロックには、良い曲が沢山あったね。

 自分が、思い込みではなく、”真の自分である事”、を自覚する以上に素晴らしいことはない。これこそが、生きる意味でもあり、又、目的でもあるのだと思 う。そこから様々な価値観が生じてくる。新たな多様性も生じてくる。そこは、"真によき場所”ザ・プレイス・アイ・ラヴなのだ。

 今、此処が”真の我が家”となる。 今、ここにあるものは、何処にでもある。ここにないものは、何処にもない。今、ここに、全てがある。これは、生における究極の次元であって、これ以上のものは、何もない。

 そんな時、ハミングが、独りでに起こってくる。シング・サムシング・シンプル・・・・♪ ♪ ♪ ♪・・・・・・。あまり速いテンポでもなく、といって スローでもなく、”メディアム・バウンス”辺りが、今の私には丁度よい。”中庸”がいいのだ。それは、様式でもないし、観念でも、道徳と言うものでもな い。無論、頭でもないし、理論でもない。”心の在りよう”を言っているからだ。

 究極とは、そして楽しみとは、この事よ。極端というものは、何であれ、片手落ちになってしまうのだ。極端を進めれば、自ずと、その反対のものが現れてく る、のが道理である。バランスが悪いから、アウト・オブ・ファンクション、何も機能しなくなくなってしまうのだ。秩序が狂って、バラバラになってしまうん だ。

  中庸にあるとき、自ずとバランスが取れ、両極端の枝葉や、過去の記憶、未来への期待も、トータルに、自在に、そしてより有意義に使うことが出来るではない か?  ”両翼を広げる”って事は、そう言う意味なのだ。中庸から起こってくるのだよ。中庸にちじこまっている、と言うのではないのだ。全てを、包括できるのだ。 未来が生じてくるだろう? 心身ともに、よい状況にあるってことだ。

 春が来れば、草は独りでに生えてくる。当たり前の話だが、でも、よくよく考えてみれば不思議な事なのだ。            
      
              ”ア サウンド・マインド インナ サウンド・ボディー(弾む心、響く身体)。”
                        何よりも、此れだよね。