《その一》
弟子が師匠に尋ねる。
”暑さ、寒さを避けるには、どうしたらよいでしょう?”
師が答える。
”暑くもなく、寒くもないところに行ったらどうだ?”
”そこに行くには、どうやって行ったらいいのでしょうか?”
”熱くなれ、寒くなれ”
暑さ、寒さというものを真に体験すれば、暑くもなく、寒くもないところが何処にあるか、が判るのだ。
《その二》
中国の皇帝が、禅師に訪ねる。
”人が死ぬと、何処に行くのでしょうか?”
師が答える。
”何故そんなことを尋ねなさる?”
”貴方は、禅のマスターではありませんか?”
”そのとおり、如何にもそうだが、まだ死んではおらぬ”
《その三》
弟子が師匠に尋ねる。
”仏性というものは、どういうものなんでしょうか?”
師が答える。
”朝飯が、冷めてしまうぞ”
《その四》
弟子が師匠に尋ねる。
”自由とは、何でしょう?”
師が答える。
”足を上げてみろ”
弟子が、片足をあげて見せた。
”それが自由だ。もう一方のほうも上げてみろ”
弟子が答える。
”それは、無理というものです。ひっくり返ってしまいます”
”それが、責任、というものだ。自由があれば、責任もついてくるのだ。どっちかだけでは、何も成り立たないのだ”
《その五》
弟子が師に問う。
”瞑想中に、タバコを吸っても良いでしょうか?”
師が答える。
”何を馬鹿なことを言っておる、とんでもない”
”それでは、タバコを吸っているときに、瞑想してもよろしいのでしょうか?”
”それは、結構、大いによろしい、どんどんやりなさい”
禅という、世にも稀なる宗教は、人の願望や望みをかなえる宗教ではない。人が、すでに持っているもの、”宝”に気づかせる宗教なのだ。
2011年1月1日土曜日
禅問答
時刻: 18:00