2011年1月1日土曜日

初めに、悟りありき

 禅は、ないものを欲しがらせるのではなく、もうすでに持っているものに気づかせる宗教。
それが禅であり、もっともユニークな宗教の一つである。
初めから、人を罪人扱いするのではなく、根本的に、人は生まれながらにして仏性(ブッディー、英知)を持っていると言う、仏陀のヴィジョンから起こっていることなのだ。

 始めに、悟りありき”。

禅は開悟から始まる。
人が幸福でありたい場合、まず’ここにやってこなければならない。
ここがスタートラインとなる。ここと言うのは、特定の場所ではない、ある次元のことである。
ゾクチェンと言う、チベットの宗教も、悟りからはじめる。

 禅は、言語によらず、悟りと言うヴィジョン、啓示、それは人それぞれによって異なるのだが、それを重要視し、
全てのもの、人だけでなく、動物、森羅万象、草や樹、石や水の流れにまでもつ仏性について、直に気づきを得ることであって、知識も何も必要ない。
気づきは、意識に直結した出来事なので、頭とは無関係なのだ。

 こんな逸話が残っている。
夜、遅くなって、あたりはもう真っ暗だ。
師が、弟子に声をかける。
”明かりを持ってきておくれ”
”はーい、只今”と弟子が答える。
弟子がろうそくに火をともして、師のもとに明かりを持ってくる。
ろうそくを差し出すと、師は”フーッ”と、その火を吹き消したのだ。

 その瞬間、その弟子は開悟したという。

 悟りとは、意識の目覚め、内なる光明、無意識状態からの解脱である。
魂の蘇りと言ってもよい。
言葉の表現はそれこそ沢山ある。

 この師の、教え方は、無意識のうちにも、弟子の意識がろうそくの光を捉え、その残像効果を利用して、意識を目覚めさせた、と言うことなのだ。心理的効果、残像効果が決め手となっている。

 タントラにおいては、その意識の目覚めそのものを”シヴァ”と呼び、禅においては、”これ”と呼んでいるようである。