2010年12月12日日曜日

転(まろばし)

 柳生新陰流の、蘊奥(うんおう)に、”転(まろばし)”という極意がある。それは、刀法でもあり、又、心の技法、タントラでもある。

 剣禅一如と言うとおり、それは、剣法であり、技法であり、膳の心にも繋がり、したがってさまざまな物事に応用が利く。
何であれ、技を学ぶと言うことは、自分を学ぶこと、心を学ぶことであり、それは、内在する仏陀を学ぶことである。

 転(まろばし)は、剣法として、敵と対峙したり、その折、”陽だまりの猫”の如く、安らかな心を保ち、敵の動きや状況に応じ、自在に変化、転化、対応することを大事とした。したがって、形や外見にとらわれず、昔風に言うと、常形を持たず、構えもない。

 「転(まろばし)」とは、”己を、平らな盤の上に置いた丸い玉と見立て、自在に転がり、自在に転がす事”と言う技法のことである。盤が大きすぎても、修行にならないし、さりとて、小さすぎても、現実離れしてしまう。自分の存在を見極めて、それに応じたサイズにするのがよい。しかも、盤から玉が落ちないようにするには、それなりの技もコツもいる。集中力もバランス感覚も、育ってくる。昔の、剣術、忍術といった、戦いの技法の多くは、猫から学ぶところ、少なからずのようである。

 だが、剣術、剣法は知らずとも、刀など持たなくとも、敵などいなくとも、状況にあわせて自在に変化し、対応する心の技法でもあるわけで、女性でも出来る。幸いにも、今や刀も必要ないし敵もいない現代であっても、言葉を超えた、知的な対応能力は、何時の世も必要となるのである。

 徳川家康が、天下を取り、本人にとって、剣術は無用のものとなってからは、もっぱら、この技法を修行していたと言われる。この技法一つで、徳川幕府を安定せしめたとも言われている。丁度、ゴータマ・シッダルタという人が、アナパナ・サティーと言う、呼吸を見守る技法、唯一つで、悟りを得て、仏陀となった話と似ていないこともない。今も、時々、バスや飛行機を待っているときなど、思い出すようにいて、まろばしを楽しんでいる。

 柳生新陰流の極意、伝えたよ。