2010年12月9日木曜日

禅とタオと共時性(シンクロニシティ)

 ”花の説法”というのがある。
これは、仏陀に纏わる有名な話なので、多くの人が知っているはずだ。
タイやラオス、インドの人も知っている。

 ある日、仏陀が一厘の蓮の花を持って、弟子たちの前に現れた。
だが一言もしゃべらない。
長い時間が過ぎたころ、弟子の一人、マハカーシャパが、外の樹によじ登って、この様子を見ていたのだが、
突然、大笑いを始めた。
他の弟子たちは、狐につままれたごとく、何がなんだかさっぱり判らない。

 すると、全てを了解している仏陀は、弟子達に、”言葉によるもの葉、お前たちに与えよう、だが、言葉によらないものは、この花とともに、マハカーシャパに与える。”
といった。
これが禅の起こりである。今から2500年ほど昔の話である
禅の開祖は、仏陀でも、マハカーシャパでもなく、二人の間に起こった共時性(シンクロニシティー)、以心伝心、深い気づき、を開祖としているのが、まことにユニークだ。
言葉によらない教え、無の教え、と言うのが、仏陀の本位であっただろう、と推測される。
だから、本尊も、経文さえも必要がなかったのだ。
言葉による教えと言うものは、二元性、その性質上、遠回りなってしまうのだ。

 老子も言っている、”語られうる道(タオ)は、本物のタオ(道)ではない”、と。
直感的にしか経験できない啓示、物事の本質は、言葉では適切な説明が出来ないのである。
それに知識で禅を知っても、何の意味も力にもならないのである。屁のツッパリにもならない
頭は問題にされていないからだ。頭はリアリティーとは繋がっていないからなの
もっと深い、根源的な心、魂、意識のだんかいまでおりていかねばならない。根本が変われば、頭はどうとでもなるのである。
それは、全ての生き物が持つという仏性(ブッディー)についての、意識の目覚めと言ってもよいが、神秘的な気付きを得ること、
そして、それを通して一つの大きな全体性、連続性に繋がっていることを、自分がその一部であることを、体験を通して知ること、なのである。

 タオが今や、欧米の学校、社会や人たちに浸透しつつあるのは、タントラや禅の研究の他に、C.G.ユングと言う、スイスの精神学者による、” 共時性(シンクロニシティー)についての理論”を発表したことに始まる。共時性については、スティングも歌っているが、因果関係に依らず、意味のある二つの出来事が、一致する原理とされている。
”意味のある一致”といわれる。

 東洋の心と言うのは、人と他の人達、森羅万象、宇宙との繋がり、”絆”を理解することと言っていい。
そこに安心感が生じてくる。
孤立して孤独な人と言うのは殆んどいない。そこに欧米の文化と東洋の文化との大きな違いが生じてくる。
人々は、無論、日常生活にも浸透し、それを知ろうと知るまいと、我々の多くは、知識や常識にのっとられる前、幼児期に、遊びを通して、体験しているはずなのである。
共時性が起こると、相反するものが一致したり、直感的に、あらゆるものに繋がりを感じられるものなのである。
まるで、自分の心に、新たな、出入り自由な扉が出来たかのようである。
その扉を開けると、エナジーを感じ、恩恵を感じ、共有させようとすると、拡張作用も起き、共鳴、共感が起こってくる。
具体的な事実に沿った考え方、論理的な考え方(アメリカではストレート思考と言うが)では、絶対に交差することのないゾーンである。

 未だに、直感がどうして起こるのかを、言葉で説明できる人はいないようだが、でも、直感と言うものを誰でも知っている。
それは事実以上に価値のあるリアリティーなのだ。
私たちの内なる心、魂と言ってもよいが、それと外的な出来事が、何らかの具で結びついていると言う感触がまず不思議なのである。
共時性は、隠れたタオの表れと感じる人もいる。タントラでは、導きの魂という。

 それは自然発生的に生じ、何の因果関係とも無縁に、インタービーイング(縁を生じ)宇宙的な広がりを持って展開する。
無論考えても始まらない。すべては、思いのほかの出来事なのだ。
無論、面白み、喜び、楽しみを感じる。
特に喜びと言うのは、気づいていないかもしれないが。エナジー現象なので、超越性をも感じてしまう。
言葉を変えると、新しい新世界、新しいことが目の前に現れたと言うことなのである。
可能性の実現と言ったらいいかもしれない。

 カルロス・カスタネダ描くところの、ドン・フアンと言う、ヤキ・インディアンの呪術師に弟子入りする話であるが、’70年代には、山手線の中で、ボンベイのリキシャに乗って、カトマンドウーのチャイやの片隅で、夢中で読みふけったものだ。
その本の中で、ドン・フアンが、問題を提示する。
”この道は、心(ハート)を持っているか?”と問う場面がある。
感動的なシーンである。

心ある道とは、一つの大きな全体性に繋がると言うことである。
当時は、みなが全体性を回復しなくてはと躍起になっていた。
無論、誰とは言わないが、我々はそれを達成した。
今は、その事を思い出しているときでもある。
心と言うものは、ある意味で厄介ではあるのかもしれないが、理性知性では、把握できない。
かも、人はその心に従って生きようとする、