2010年11月29日月曜日

知のオデッセイ Part5

 人には知性というものがある。だれか特別な人だけが持っているわけではない。誰しも知性を持っている。木にも、草にも、動物にも、微生物だって持っている。それぞれが、それぞれの生に合った知性を持っている。一つのものさしでは計れない。

 数学の得意な人、論理の組み立てが見事な人、商売やビジネスに、知性を発揮する人もいる。音楽や、芸術に優れた人もいる。それぞれの分野、分野の外にも、ここの知性は働いている。頭の切れる人、センスのよい人、専門知識の多い人、どうりを知っている人、自分を知っている人、心やさしい人、スマートな人、粋な人・・・・。色々な人がいる。そこにさまざまな知性のあり方や使い方がある。人それぞれが、自分の得意分野を中心にして、知性を育てている。 知性は、美と同様に、価値のあるものだが、一言で定義できるようなものではない。知性の特徴は、ある事の一部を、部分として鮮明にする。役に立つのはいうまでもない。だが全体性を捉えることはない。知性は、分析し、分割し、論理立てるにはよい。だが余計なもの、物指しにあわないもの、枠に入らないものを排除してしまうという特性がある。ここに知性や文明の悩み、苦というものが自ずと生じてくる。論理的や科学的な姿勢や方法だけで、物事のありよう、全体性を理解することはないがしろにされてしまう。一つの世界の、半分しか見ていないことになる。視力がないのである。

 ”知る”ということは、単にその対象の上っ面を眺めていることではない。状況として、まず、”知る者、知ろうとするもの”、”自己性”というものが必要だ。それなくして、何も成り立たない。”知る”ということは、考える、ということではない。知らないから、仕方なく考えるのである。真に知っていれば、判っていれば、考える必要はない。

 そして、”知られるもの”、対象、それは、人でも、物でも何でもよい。知るものと、知られるもの、とが生じれば、自ずと、関係性、縁、英語だとインタービーイング、最近よく聴かれる言葉である。つまり”知ること”を理解することである。

 仏陀はこの知ること、にあることを、正念と呼び、大事にしたそうである。すべからく、知るとは、そして、リアリティーとは、三位一体なのである。どれがかけても、実在性はなくなってしまう。知るという行為は、そう単純でも、いい加減なものでもない。それは”存在に深く入り込んで、理解する”ということだ。

 自我という代用品が落ち、”私”、即ち、自分という宇宙的な出来事の機能、そして総体が、一つの”まとまりとして”、理解でき、より大きな”存在の全体性(タオ、ブラフマン)と繋がったとき、理解できたとき、意識の目覚めというものが起こってくる。悟りといってもよいし、光明と言ってもよい。それは、”判る”ものなのだ。そして幸福感が生じてくる。

 世間にあって、世間に対応していても、世間に惑わさなければ、人は明晰でいられる。それは人を鋭敏にし、寛ぐゆとりを与え、微妙で、微細な、波動感知能力を高め、エナジーをもたらす。
物事が生き生きとしてくる。幸福も生命力もそこから生じてくる。”これ”こそが生きる意味でもあり、目的でもあるように思う。究極的には、人は、例え無意識ではあっても、幸福を目指しているのだ。

 それは形のあるものではない。なぜなら、生きているからである。