2010年10月8日金曜日

円を楽しむ(エン・ジョイ)

 上善は水の如し、というだろう? 命のエナジーの流れというものは、水とは違うが、水に似た働きをする。それがタオのエナジー、宇宙のエナジーというものだ。

 水はすべての生き物を生かし、川底や岸辺の形、石や岩、あらゆる状況に逆らわず、右に左に曲がりつつ、重力にも逆らわず、行く手に抵抗がない方向に進み、滝があれば落ち、柔らかに流れていく。とがった岩も、いつしか角が取れて丸くなってしまう。本当の力というものは争わないものなんだ。

 水の流れを、流れるままに眺めていると、そのリズムやタイミング、調子によって、思いもかけないものやイメージが見えてくることがある。勢いよく、よどみなく、水が流れている様子は、なかなか見ごたえのあるものである。春から秋にかけて、渓谷の森は瑞々しく、また、秋には紅葉が美しい。その渓谷の森に中を一筋の渓流が流れている。水が岩にはじけ、木漏れ日を浴びて、水しぶきが眩しい。時には、虹も現れる。水はすべての生き物を生かし、しかも、おごらず、誇らず、恩も着せない。川は名詞ではない。流れていること、動いていることが実態だ。川は、川しているのだ。それは動詞なのだ。川は歌っているのだ。

 物心ついてから、よくバイクで、奥多摩の渓流に行き、毛ばりを振りながら、水の流れを眺めていて、”水ってすごいなー”と感心したものだ。高校生から大学生の頃で、丁度、老子を読み始めていた頃のことであった。水の流れる音を聴いているだけで、心が和んだものだった。今でも、それは最高の音楽と心得ている。

 一見なんでもない、平凡な遊びだが、裸で自然と向き合い。自然をじかに呼吸して、自然の中に溶け込んでいくことができる。それはエクスタシーのようなものでさえあった。自然や宇宙を学ぶには、これ以上のものはないと思う。そこに生きとし生けるものへの共感も生じてくるのだ。奥は底なしに深く、広く、生を学び、知恵を学び、風情を楽しむ。風流を楽しむ趣も大きいのだ。無論、体は丈夫になり、スピリットというものも知り、直観力もついてくる。したがって精神の成長も、可能となってくる。

 幸福なときというものは、時間の質(クオリティ)が違ってくる。空気も違ってくる。この質、クオリティということに気づくと、物事や物質の品質ということではなしに、ものでないことの質というものがなんとなくわかってくるものだ。この知恵が非常に生きていくうえで大切となってくる。なんであれ、深い木月は、能力の源なのである。

 今、この瞬間、というのは、現存する唯一の時間である。私たちの多くは、過去の記憶と、未来への期待という時間の中でしか、ほとんど生きておらず、つい、今という、この瞬間を見過ごしてしまう。でも、まれに、何らかのきっかけで、今、現在という時間のない次元に触れることもあるのである。この今という、時間のない次元にこそ、生の秘密が豊富に隠されえている、ということにも気がつくのだ。そこは生のエナジーにあふれている。世界的に見ても、いまや気づいた人は少なくはない。特に欧米の瞑想ブームは盛んになりつつある。無心であって、時には充満している、生の不思議な躍動感に、新たな一面に驚きを禁じえなかったのであろう。

悟りというエナジーの流れを、自分の内側に感じる事と、興奮や高揚感と次元が違う。
混同しないようにしたい。
興奮は、欲望や何らかの刺激を受けたときに起きる緊張といったらいいかもしれない。
一方、悟りのエナジーは、今もそうなのだが、うなじから、肩、脊髄を通して、流れてくる流れである。
健康なら、抵抗もストレスもなく流れ続毛、体中を循環し、隅から隅まで、全宇宙を潤していく。
タオのエナジー(タントラのエナジーといってもよい)葉、あたかも、永遠から、沸き出る泉のようである。

 そこに思いのほかの美しさ、静けさ、驚き、生命感、安心、楽しみが満ちている。よく空の下には新しいものは何もない、といわれている。さにあらず、対象に責任はない。ものに責任はない。目だけが古くなってしまっている。感じるハートがなくなってしまっている。思考というものは、記憶の中だけしか働けない。記憶の外や、道の中では、まったく役に立たない。つまり思考というものは最小限のものしかもたらされないが、感覚というものは、ハートがあれば、今、現在、最大限のものをもたらしてくれる。
 思考を通じて、”存在”に至る道はないといわれる。考えてどうなるものでもない。ハート、感じる能力、受け入れる能力(空性)、感覚を通じて、深めていくのが唯一の道なのだ。

 今、海辺にあって、渓流を思うのは”初心に帰る”ということかもしれない。それは多少なりとも、力がついてきたということかもしれない。また、十分に生きたということかもしれない。そして、理性を超えた、知の道、自我を超えた、本来の自己が生じてくるのだ。円がひとつ完成する。

 海の釣りも面白いのだが、渓流のフライ・フィッシングは、また、格別なのだ。バックストロークにゆとりを測り、大きなループを造って、丁度、鞭のように、糸の重さを利用して、フライをキャストする。こつがわかると難しくはないのだ。毛ばりが、フワット、目的のポイントに着水し、流れに乗せてしばらく眺めていると、突然水しぶきが上がり、美しい魚体が跳ね上がる。息が止まるほどスリリングである。

 最近、魚を釣ること事態はどうでもよくなってしまったのだが、時に、ヒマラヤ、タイ、マレーシアあたりの源流を訪れ、魚の姿や、様子、渓流の流れという、原始の世界の魅力は尽きないものである。
流れはやがて自分の中で、円となり、宇宙となり、そして、円が完成したとなれば、その円を楽しみたいものである。新たな楽しみの次元が生じてくるやもしれない。

 今、目を閉じると、何か自分の内側の深いところから、闇の中に、乳白色の環が、泉がわくように、いくつも現れては、消えていく。何十もの環が現れては消えていく。オリンピックみたいだ。吉祥だ。私の中の無意識が、OKといっているようである。宇宙に祝福されているようだ。

 赤とんぼが、飛び始めた。何十匹もいる。二匹つるんでいるのもいる。かわいいね。ライムソーダの冷えたのがほしいね。シュウェップスがいい。