2010年9月12日日曜日

平凡というヘヴン

おもしろい事に、物質文明がきわまって、ものが行き渡るようになると、人は”もの”ではなく、”ものでないこと”を求めるようになってくる。
幸福、自由、至福、愛、安心。そのどれをとっても”もの”ではない。
実際には、その”ものでないこと”が、”もの”を動かしている。
あまりに物事や観念、思い込みにとらわれると、そこに価値観の硬直が起こってくる。
あらゆる物事に関してその一面、上っ面しか見えなくなってしまう。
生というものは、矛盾している。むしろ虚偽のほうが一貫しているように見える。
生とは、対極性、双極性で成り立っている。
光と闇、きれいと汚い、あるとない、男と女、
対極性こそが、磁力となり、エナジーを生み出している。
もし生に何の矛盾もなかったら、生は実に単調なものになり、死んだようなものになってしまう。
もしエナジーがなくなれば、不安は増大し、意味もなく感情的になってしまう。
さすれば、人は、心の不安から、どうしても、鈍感で閉鎖的になってしまう。
道理とはそうしたものだ。
無意識の偏見というものは、人の知覚と知性との間に割って入り込み、ふるいにかけ、自分の先入観や観念にそぐわない物事、データも情報も、ふるいおとされてしまう。
現実をゆがめて解釈してしまうことにもなってしまう。ウイルスみたいだね。
禅の言葉に、”人が平凡になったとき、その人は非凡になる”というのがある。
非凡になろうとする欲求、努力、野心こそが陳腐で、平々凡々たるものだという。
そして誰しもが。非凡になろうとしている。
禅の言葉にはリアルな深みがある。
まずは、自己中心になってみる。そうして初めて、無自己の広大さを知ることができる。
そのプロセスの中で知る知恵は計り知れない。
古来から、力は協力から生まれ、独立は奉仕から生じ、大いなる自己は、無自己から生じる、という。
自分なりの普通を生きればよい。心にもゆとりが生まれ、夢も楽しみも広がってくる。
人の真似をしても意味がない。自分の人生だったら、自分の普通を生きればよい。
平凡とは、平均的という意味ではない。ひとそれぞれ自分にあった道があり、得意、不得意もある。
そして、至福や幸福に形がないように、平凡にも決まった形というものはない。
世間が余りに、物質的、形式的、常識的に、形や様式にこだわるようになり、何らかの形にはめてしまうと、平凡も実質性を失ってしまう。
大切なのは、頭、理知ではなく、心の持ち方だと思う。
形やセオリーやものに同化してしまうと、リアルな世界に入ることも、触れることもできなくなってしまう。
それが何であれ、ものは道具である。使うものである。
美味く使えば、役に立つし、楽しむこともできる。
だが、主従が逆転し、ものに同化してしまうと、精神も硬直化して、ものの様になってしまう。
平凡を住処とすれば、家は豪邸でもバンガローでもかまわないが、肩をいからせることも、見栄を張ることも、背伸びをすることもない。
自分をごまかすこともない。シンプルになれる。
どうしても自我(エゴ)が必要なときは、中庸なものでよい。
自分の道を得たのであれば、好きなように生きればよい。
贅沢結構。贅沢は悪いものではない。
幸福とは、贅沢なものではないのかな?
自由も、安心も、静けさも、贅沢なものなのだ。
エナジーはそこから生まれてくるからだ。
今、ここは、マレーシアのペナン。一年ぶりにやってきた。
町の様子も少しは変わった。
朝のアザーンを聞きながら、久しぶりに町を散歩して見ると、近代的なビル、英国統治時代のコロニアルな建造物、
イスラム建築、マレー風、インド風、中国風の建物が入り交ざって、まるでモザイクのような、国際色豊かな町だ。
今は、その町にあるカフェで、この原稿を書いている。
福禄寿が店に祭ってあったから、おそらく、道教徒の店だ。誰もが人懐っこい。
今、タイやインドでもはやっている、チベットの柔らかな音楽が流れてくる。
タイでもよく聴くがとてもいい。
仏教の経文の詩を、瞑想音楽風にポップにアレンジしたものだ。
皆が静かに聴いている。