2010年8月11日水曜日

南山寿{ナンザンス}

人それぞれ個性があり、個別なものを持ち、いろいろなものを持っている。誰もが、知性や知識と言うものを持っている。
だが意外と、”これ”は知らない。
”これ”とは、自分の所有物のことだ。それは、今、ここにあるもの。もっとも身近にあるもの。身近ってのは、意外と、遠いかなたのことや、月よりも未知なのかもしれない。しかもいつも自分に起こっているにもかかわらず、自分が気がつかなかった事、知らなかったことが,如何に多いことなのか。灯台元暗しって事だ。
人の表層の奥には、不思議なエナジーが流れ、その又奥には意識と言うものがあり、それ以上に大きな無意識と言うものがある。
ほんのしばらくの間でも、”我を忘れる”、”自分への関心をなくす”、と言うことができると、素晴らしい休息となる。
”我を忘れる”、素晴らしい言葉だが、そうなると、自分はいない訳だから、自分にまつわる、さまざまな事、周辺、関係性、世界が、きれいさっぱりとなくなってしまう。エゴも欲得もない、空っぽになってしまう。
何事も、まず空っぽから始まる。
ハートとは感じる能力のことだ。そのセンターは心臓ではなく、胸の中心辺りにある。
まずは、自分の内側を感じてみる。頭に集まっていたエナジーが、向きを買え、内側に入ってくる。
そこには内なる空間、宇宙空間があって、誰でも開発できるものなのだ。
しばらく静かにしていると、落ち着いてくる。静かで、何もなく、何事もない広い空間だから、そして自分の宇宙空間だから安心していられる。
そのうちなる空間に気づくと、少しずつ、先ほどまで頭に集まっていたエナジーが、ハートに向きを変えてくる。
空間全体にエナジーがめぐってくる。しばらくそのエナジーの動き、働きを眺めていよう。
楽観的で、自分自身が好きな人は問題がないが、多少なりとも、自分に嫌悪感を持っている人は、何か楽しいことを想像すると良い。
何でもかまわない、好きなことを想像してみるといい。
そこは、始まりも終わりもなく、何もなく、何事もない静かな空間だ。自分の空間なんだから、いつでも自由に使えばよい。何の心配も要らない。
ただ独りになる勇気が必要だ。
宇宙は空っぽなのだ。踊りたければ踊り、走りたければ走り、泳ぎたければ泳げば良い、横になりたければ横になればよい。
好きにすると良い。
夢では無いが、夢のようなものだ。
楽しむことが肝要だ。
自分の中のう愛的空間にいるってのは、一寸、変な感じがするかもしれないけれど。裸の自分にと言うものがよく見えてくるはずだ。
無論、さまざまな、周辺、関係性にかかわっていない、無垢の自分だ。
それが自由、自分からの解放と言う意味だ。自由とは歓喜を意味する。
心の戯れを楽しむと言い。楽しい事がもの儀音の質を変える。これは浄化作用でもある。
心を遊ばせて、静かにそれを眺めていると、微細なエナジーがより感じられるようになり、微妙な幸福感が起こってくることがある。
古い観念的な姿勢や、条件付けが落ち、べき(must)が消え、体全体が軽やかになってくる。
そして、存在を感じるようにして、存在の源泉とハートがつながると、エナジーがあふれるようになってくる。
それは本来の健康、全体性との絆のようなものだ。気に入ったら、好きなだけここにいるといい。心地よければ、少なくとも自分に対する、悪感情は無い。過去はもう無い。今とは、今のことだ。
存在を感じるようになたら、宇宙そのものが、生き生きとしたものになってくる。秩序も尾の図ちととのイ、些細なことも楽しくなってくる。
そうなって始めて、何かが宇宙の中心を見つけ出し、やがて結晶化していく。
宇宙、全体性の理解が深まるにつれ、鈍感さ、粗雑さは消え、それは大きな飛躍となってくる。超エアやバランスもついてくる。
複雑だったもの語tが、単純な姿で現れるようになってくる。
”普通”と言う実になんでもない日常的な言葉には、普遍性(ユニヴァーサル、宇宙性)に通ずると言う意味もあるそうだ。
そして自然とは創造性の源に近い、と言う意味である。
楽しみや趣が多いと言うことだ。
知恵はハートの最深部、無意識の中から起こってくる。それは理知からくるものではない。思いのほかから、やってくる。
自分が全面的になって始めて、意識と無意識との通路が開き、新たな世界観が訪れる。何も悪いものは無い。
幸福感や至福感が味わえる。そんなときには、周囲の人や生き物。自然も祝福を感じるはずだ。
すべて良い。
宇宙を一巡りしたところで、そろそろ地上に戻ろうか。我に帰ろう。
喉も渇いたし、お腹もすいた。センターをハートから、腹に移そう。
周囲のの木々、黄色いゴールデンフラワーや、ケムのオレンジ色の花、白いマグノリアみんなきれいだ。
周囲も世界も何事もない。
うまいブレンド・ティーをもらったので、チャイにしよう。ビスケットもチーズもある。
PS 南山寿{ナンザンス)は、江戸時代の粋人、通人、風流人たちの遊びの言葉であったらしい。長寿を意味するようである。詳しい意味については、今は判らないが、トーンがいい。面白いではないか。