2010年5月17日月曜日

楽しい日々を過ごすには…

 ひとの心の情緒について言うと、もっとも主要な情緒には二つある。ひとつは、「うれしい」ということ、もうひとつは「悲しい」ということがある。
 精神が縮こまった状況から、より大きな状況、完全性と言ってもよいが、そこに移行するのが「うれしさ」であり、より小さな状況に入り込んでしまうのが「悲しみ」とされている。生きているということは、その二つの両極間の推移といってもよい。それらは、心の深遠に感じられる感情だが、自分の外側に発散もしくは提示されると、「喜び」であったり、反対に「嘆き」であったりする。これは世界中の民族、宗教を問わず、人類共通の意識である。

 さて、今回のテーマは楽しむことである。「嬉しさ」の抹消形態は「楽しむ」ということになる。また、楽しみは感覚的、知覚的、精神的なものへと移行する性質がある。

 「たのし」という言葉は、伝説によると、「天照大御神」が、天岩戸を出られたとき、神々たちが、「手押し(たのし」手、喜び歌ったところから来ているそうだが、「手を伸ばす事」は、空間的な広がり、そして時間的には、未来へ向かって手を伸ばすことである。つまり、楽しいという言葉の中には、「未来への展望」が開ける、という意味があるのだ。
うれし、たのしは意味が深い。
 「楽しみに対する言葉に「苦しみ」がある。悟りを得る前の仏陀は、人生とは苦であると仰った。悟りを得た後、無苦であるといわれた。悟りの後、生を楽しまれたようである。仏教では、道楽という。

 「嬉しさ」が発展すると、「笑み」や「笑い」が生じてくる。心も和んで、うきうきしてくる。考えてみると、不思議である。そして人は、嬉しさを起こさせる対象に「愛」や「慈しみ」を感じ、悲しみを起こさせる対象には苦や否定性を感じてしまう。つまり、嬉しさや楽しさとは言葉の上で、「愛」とつながる、微妙な関係を持っていることにも気づく。うれし、たのし、は素晴らしい。
 また、うれしという言葉は、「うるはし」から転じたことばだそうで、心地よい様子を意味することで、「心(うる)-愛(はし)」という意味だそうである。
 楽しむとは、何らかの行為、あるいは無為を通して、心が動くことである。体ばっかり動く現代では、心が動くというにはすばらしいことである。別に乱痴気騒ぎをしなくとも、些細なこと、お金をかけづとも、楽しみのエッセンスは楽しめる。

 今、列車は、マレー半島を南下してタイからマレーシアに向かっている。開け放った大きな窓の外を見ると、青い空に白い雲が浮かんでいる。形を変えながら、あるがまま、なすがままに漂っている。
気持ちのよい晴天である。窓から入り込んでくる風が、体を通り抜けて幾野が気持ちがよい。緑一色の風景がどんどん後ろに流れていく。まるで、緑の大河の流れを見ているかのようである。ジャングルと田畑や村が交互に現れては流れていく。
 牛や白鷺が一緒になって、水辺に草むらで遊んでいる。池には、白やおインクの蓮の花が咲き競っている。畑では、時折、焚き火をしており。その香りが香ばしい。海側に目を転じると、波のないタイ湾の青い海の色が、水平線で空と接しつつ、空と一つとなり、その青の濃淡の中に白い雲がふんわりと浮かんでいる。静かで、何事もない。その状況が、心に届くようになってくると、同時に、万物が自分と一つに解け合ってくる。何かいうにいわれぬ、心地よさが、どこからともなく沸いてきて。何の不安もなく、リラックスして、心が生き生きとしてくる。宇宙エナジーとの「共感の磁場」が生じるのだ。
 近くの席のオネーサンや、おばちゃんたちから、マンゴーやドリアンがまわってくる。嬉しいね。

 私は楽しむことが好きである。きっと誰しもそうだ。体を動かすことも車の運転も好きである。静かに本を読んだり、テレビを見たり、トランプをするのも好きである。だが、殊更何をするでもなく、何気なく、ただ意識をほんのちょっと変容させるだけで、見慣れた風景も、新鮮に見えてくる。そんな時、生の底知れない深みと楽しみを感じずにはいられない。要は、素直な自分を大事にすることだ。

 今、あるもので充分と知る人は、常に満たされる。今、生きていることのリアリティに触れるゆとりができるからだ。真の豊かさとは、きっとそれなんだと思う。この世のすべてのものは、生まれ、育ち、活動し、成長し、やがていつか、あの静けさに帰ってくる。すべてのものは目には見えない大きな流れに従っていぬんの居場所に帰っていく。
 それは何処かって? それは、今、ここさ。今、あなたがいるところだよ。場所はどこでもいいんだ。今という、唯一リアルな時と、ここという次元が大事なんだ。それを知ることが知恵であり、騒ぎまわってあたふたしたり、問題を作ったり悩みの種を作ったりしなくなるのだ。今、奥深いところで何を感じているだろうか?

 無為とは何もするなということではない。余計なことをするなということなんだ。もともと本来の自分とは、自我という作り物とは違って、無理に我を張ったり、欲張ったり、争ったりしないものなんだ。自分なりの普通がいいんだよ。欲しいものがあるなら、それもよい。私にも欲しいものがある。欲しいものがあるということは、よいことだし、何よりも未来への展望が開ける。物心両方楽しめると、いいね。生きているうちだけだからね。

 エナジーというものは、目には見えないし形もない。無か空に見えても、充実して、実在してるんだ。それは、自然、宇宙から生じ、無理に押し付けられたものでもない。長く自然と接していると、自ずと、根付いてくるものなんだ。頭でっかちになりすぎたり、雑念がなければ、エナジーはよく流れるものなのだ。

 ライムソーダでも飲みたくなった。