2010年1月16日土曜日

癒しと繋がり

 基本的な事実として、人は閉ざされたり、孤独になったりすると、病む傾向になり、なんらかと繋がると、癒されるという特徴がある。人は、何らかとの繋がりを実感すると、安心して、生命力は増大し、楽しくなってくる。その、繋がる事で、反感が減少してくるからだ。つまり、そこで意識の変換が起こるのだ。自分が孤独で、無力感を感じるときには、生命力も落ち込んでしまう。

 人という生き物は、自分を支えてくれるという、ものやこと、家族、友人、恋人、世界、森羅万象、自然、信頼というものが合って、始めて、生命力が充分に働き出すのだ。

東洋には、空、という素晴らしい概念がある。
空が判らないと、意識と言う機能も目覚めてこない。無意識のまま、知能だけを頼りに生きていくことになってしまう。実際、空との繋がりを実感する事から、癒しも起こってくる。
空の発見は、古代インドで、仏教以前に、すでに起こっている。
その、空の哲学のおかげで、どれほど助かっている事か。仏教も空を発展させた知恵と言ってもよいのだ。
 縁起とは、ものともの、人と人とが縁り(より)あって、生じている事。
まあ、ねじりドーナッツのようなもの、DNAの姿にも似ているね。それが縁起だ。
そして様々な原因と条剣から成り立っている、縁起の理法で、この世界が成り立っているのだと云う。縁起は、どこかの一点を挿すのではなく、空と呼応する全ての段階の世界をも縁起と言う。
空を理解すれば、そこから縁起が生じてくる。この世界、場、所に於いては、自己と他者がいると言う事、それも縁起という。その関係性も縁起と言う。
自分ひとりでは何も起こらない。
しかも、空を知るとやがて、イノチのエナジーの息吹を覚えるようになって来る。
そこから生命の木が自分の中に育ってくる。
 空性の知恵は、全てのものごとの背景となり、物事にリアリティーが生じてくる。
意識が目覚めてくれば、ステージが整ってくる。
”あなたは、あなたではないから、あなたなのだ。”
二番目のあなたとは、単なる上っ面のあなたと言う言葉だが、あなたと言う全存在は、単なる言葉ではない。
それが本当の、生きているあなたなのだ。
思い込みのあなたは、真のあなたではない。
容器は、空っぽになって始めて役に立つ。
 空は、時間とともに、私の古い親友みたいなものなんだが、理解すだけではなく、実践して、より生きてくるものなんだ。
 瞑想には、生命力に共鳴すると言う意味がある。
生命の風呂にどっぷりとつかる事である。日本だったら温泉がいいね。
それはただすらることだけではなく、こつさえつかめば、トレッキングも、ダイヴィングも、散歩も、写真を撮るのも、絵を描くのも、音楽を楽しむのも、コーヒーを楽しむのも瞑想となる。
瞑想は、楽しみを増加させると言う事だ。
 ある人に、無条件に、ただ”ある”ということを感じると、”繋がり”が生じてくる。
何らかの、条件がついてくると、それが負担になると、しがらみになってくる。柵と書く。
詰まり、繋がりは、人を自由にし、柵(しがらみ)は人を不自由にする。
微妙だが、些細な事から、ものごとは天地程の差が生じてくる。
 人と人との繋がりは、まず、ある人の存在感を感じ、互いの個性を尊重しつつ、しかも行為、無為のいかんを問わずに、それ以前に繋がっているという感覚から、力が生じてくる。
そうして波動の交流、コミュニケーションと言うものが成り立ってくる。
柵からは、完璧なコミュニケーションは生じないのだ。情報がいいところだ。
どんな人同士でも、個人差、価値観の違いは多少なりともあって当然だ。
又、共有部分、共通部分。共感する部分と言うのもあるはずだ。
それは普通であって、お互い同士が認め合う事から、自由と言う、天からの贈り物画やってくる。
 本物の癒しとは、ただ疲れが取れる、病気が治る、と言うことだけではなく、満足度、そして、深い部分、実存の部分にも触れることにもなってくる。人は、誰しも、時には静かになって、安心したいからである。安心にカタチはないし、安心はものでもないが、それこそが、多くの人が求める、最高のものなのかもしれない。

 私は欲張りで、他にも欲しいものがあるけどね。ショートなヴィデオムーヴィー、映画を作ってみたいんだ。