2010年1月4日月曜日

カタチと時空間の愉しみ2 「卍(まんじ)」

 今日は、以前にもブログに取り上げた、仏教で言うところの、共有意識の話だ。しかも、ヒンドウー教の、創造性の原理ともオーバーラップする。そこで、今日は、一寸、卍(まんじ)とその周辺をマインドジョグしてみよう。

 インド周辺を旅をすると、卍を良く見る。だが、インド文化圏ならずとも、卍は世界中でよく見られる。卍は、最古のシンボルの一つで、極めて複雑な意味を併せ持つ。取り分け、ヒンドウー、仏教の世界には、多い。チベットのボン教となると、卍が中心になってくる。ボン教の開祖、シェンラブ・ミウオーが、卍をデザインしたドージェ(金剛、独鈷)を持っていたからである。


 寺院、民家の壁、落書き、道端の石、広場にも描かれる。祭壇、神仏の像の一部、衣服、武器、花器、家具にも描かれる。何処に描かれようとも、卍は、古来から、幸運、吉祥、善意、祝福、健康、生命、長寿のシンボルである。思い起こしてみると、卍が意識の中に入り込んでいるときは、今もそうなのだが、悪い事は何もなかった様に思う。”良い時間”をすごしていた印象が強い。なんとも不思議なシンボルだ。

 漢字の”万”と言う文字の形の源は、卍と言うことだ、と聞いた事がある。卍から万の字、成るほど、と思うほど説得力がある。万は数字の万でもあるのだが、無数、たくさんと言う意味、豊穣と言う意味だ。卍は、漢字が出来る以前からもう在ったと解釈できる。
 文字は、シンボルだ。只、表面的な意味だけではない。その背後に無限の深みがある。言霊(ワード・スピリット)、トーンと言う意味もあるし、奥深い風味と言うものもある。見えない部分の探求は面白いものだ。
 以前、ヒマラヤのアンナプルナ山系(豊穣の女神)の裏側、即ち、北側に当たるムクティナート(解脱者、解脱の地)と言うヒンドウー、仏教、ボン教、共通の聖地で、満天の星が、思わず絶句してしまうほど、鮮やかに見えたことがあった。例えば、オリオン座の長方形の中だけでさえ、100万もの星達がクリアに見えた事があった。後は、推して知るべし。無数とはこのことなのだ。
 そのとき、月はなく、星明りだけで、新聞が読めるほどだった。天候の状況が良かっただけではなく、自分の霊性も極めてクリアだったのだろう。北極星を中心に、全ての星が、卍状に回転している様子が、赤裸々に見えたのだ。人々は、古来から、この天の姿が、四つの河の源、チベットのシャンバラ地方という地上にそのまま現れたのだと認識している。

 卍は、現存する最古のシンボルの一つであるのだが、先史時代から、アフリカを除く全世界で見られるのだ。東南アジア、インド、チベット、中東、地中海、欧州、北欧、日本、南北アメリカと、殆どの世界で知られているということだ。古代インダス文明の遺跡から、そして、今から7000年前のシュメールの遺跡からも卍柄の陶器が見つかっている。古いねえ。
 日本に於いては、卍は仏教を通じて入ってきて、当時の日本、混沌のさなかであったのだろうが、その中心に舞い降りた、真理を現すシンボルとなっている。”和”という文化もそこから生じてきたのだろう、と聞いたことがある。コロンブス以前のアメリカやメキシコには、ヒンドウー教のガネーシュ神とともに、卍は紀元前に伝わっていたと言う話だ。ホピ族のシンボル、メディスンホイールも、卍のヴァリエーションだ。南米のインカ、終末論で今、話題のマヤの見事な石組みも、卍のようではないだろうか?

 ケルトに於いては、雷神とともに、卍は幸運の象徴として描かれた。ギリシャ神話の太陽神アポロンの胸に、本家ヒンドウー世界のヴィシュヌ神の胸にも、卍は描かれている。卍は、北欧のルーン文字にも使われ、太陽と関連付けらえれていたようだ。そして、風、雷、稲妻の神。ソールの槌、斧と解釈されていたようだ。この世の神の力として、キリスト教にも伝わっている。カタコンベに、そして中世にはあちこちの建物や、福音書にも描かれたと言われる。

 卍には、右卍と左卍とがある。無論そこには、作用や意味の違いがあるのだろう。それぞれ試してみると、その力の意味、作用に違いが判ってくる。
 まず、体に於いては、鼻の通りがよくなって、呼吸が自然で楽になってくる。整腸作用もあるかも知れない。香りにも敏感になってくる筈だ。宇宙的には、時空間が整い、自ずと秩序が生じてくる。ヒンドウーに於いては、卍は吉祥の門、神秘の入り口となっている。タントラに於いては、ムーラダーラチャクラと言う、基底のチャクラとして、天頂のサワスラーラと繋がっている。
 見方を変えると、卍は交差する中心を軸とした、回転運動、循環運動、円運動とも解釈できる。又、この交差する軸は、次元の変換点でもある。そして、これは、万物の発生、運動、活動の原点、中心なのである。

 人は、誰しも卍に何か不思議な、神秘的なインスピレイションを感じるようだ。それは、直観力が目覚めると言う事だ。無意識のうちにも、隠れた知覚が目を覚ましだす。カタチの単純さゆえに、人の心を引き付けて止まない。これは、近くの心理学にもなってしまうが、人の知覚の傾向として、どんな複雑なものごとでも、単純化して、自分の理解しやすい姿、形に翻訳すると言う能力を持っている。卍はその助けになるのだ。

 人は、大人になればなるほど、様々な知識、情報が入り込んで、なかなか純粋無垢にはなれないものだ。或いは、ものごとによっては、世間や社会、個人的な都合で見ないようにしている。また、盲目的な信仰、拘り、或いは習慣的な思考ではなく、真に、ものごとのあり方や、何らかの疑問を探求する人は、尚更だ。生に誠実な人、そこの所こそ知りたいと思うものだ。それがロマンと言うものではないのかな。そこで、気づき、目覚め、覚りなりが重要になってくる。
 シンボルと言う言葉の意味は、ギリシャ語のシンボロン、割符と言う意味だ。つまりそれは、対(ペア)の片方であって、もう片方の何かと出会って初めて、意味を為すと言うことだ。シンボルの探求は、単に知識の問題ではない。何事も、表面は浅薄なものだが、背後に回れば、奥は深いと言う意味である。そこに、不思議な力も、見えない縁の糸と言うものもある。又、そういう大きなもの、力のあるもの、神秘なもの、不思議なものだけが、シンボルとされるのだ。仏教は、縁、縁起によって、世界は生起するという。その為にも、卍はとても大切なシンボルなんだ。

 それは個人を超えた、普遍的、ユニヴァーサルなもの、生きた魂に根ざすものなのだ。真に深い意味を持つものだけが、シンボルと言う”代名詞”を持つことが出来るのだ。
 右卍と左卍とを合わせると、田と言う文字になる。スペース、領域、森、フィールド、田、畑といった意味だ。共同体を構成するもの、共有するもの、例えば、卍を通して、統合を確認する印となる。悪用すれば、第二次大戦のナチの様にもなってしまう。何事にも言えるのだが、包丁と同じで、上手く使えば、美味しい料理を作ることが出来る。
 シンボルは古来から個人によって生み出されたのではなく、ある社会、共同体、集合的なグループ、そして神秘的な体験や経験、覚りに基づいている、のだという。

 日本には、卍の持つ意味は、主に仏教の真理、仏心、英知として伝わっている。だが、そこに、ヒンドウー教、ボン教、欧州文化との共通性が現れてくる。
 また、卍は、サンスクリット語で、スワスティカ、吉祥と言う意味なのだが、インドで、欧州でもそのまんまの音で使われている。一部、ヨーロッパで、ギリシャ文字のガンマ、Γ、を四つ併せ持つ事から、卍はガメイディアンとも呼ばれる。ナチに迫害された、ユダヤ人にとっては、卍には良い印象は無かろうが、アジア全般、日本、地中海、欧州、北欧の人々にとっては、縁起がよい、吉祥なシンボルなのである。

 古来から、混沌や閉塞が起こると、秩序を回復し、活気つけるためもあって、卍は部屋の中にも、壁にも、塀にも、道端にも描かれる。単独の場合が多いが、日本では、連続的な、流れ模様となって衣服に使われたのが、ユニークだ。
 時代劇で、大岡越前守や遠山金四郎が、奉行の座に就くとき、卍柄の衣服が使われる。卍は、浮世絵師北斎の画号にもなっていて、卍の博物誌(植村卍著。晃洋書房、2,625円)を参考にさせていただくと、北斎の図案は素晴らしい。

 卍の起源は、水とされている。チベットのシャンバラ地方の地形、即ち、カイラス山を軸として、四つの河の源流となっているところで、そこから、水は海へと繋がっている。人が、カオスを秩序付けると言うことは、宇宙を、時間化、空間化するということだ。そこに、何らかの”軸”と言うものが必要になってくる。それが瞑想では、センタリングと言う。
 自己を軸とすれば、認識上、世界と自己存在とを分離する事になる。瞑想を深めると、よりリアルになってくる。軸が定まり、尾てい骨から天頂まで、通々になれば、秩序は自ずと整ってくる。物事がクリアに見えてくる。
 東西南北の方位は+のカタチで四つに分断される。その周囲を円で囲むと、自然の、神聖な力と言うものが加わってくる。円とは、自然な聖なる形。その意味するところは、存在の輪である。その中にはいればよい。

 ここで、ダンス、舞いと言うものに注目してみよう。シヴァ神は、ドウンドウーミ(鼓)をもって、宇宙を舞う。ナタラージ、舞踊の神として、世界を創造する姿なのである。私たちが、音楽を聴いたり、舞を待ったり、スポーツしたり、祭りに行ったり、遊んだり、活動するのは、意識的、或いは無意識の内に、この舞に参加しているのである。花が咲くのも、自然な舞なのだ。舞いとは、宇宙エネルギーを、時間に変える、時間化するということだ。それが、グッド・タイムを創造するのだ。