2009年12月27日日曜日

ストーンフラワー

 アントニオ・カルロス・ジョビンのアルバムに、ストーンフラワーというのがある。ボサノヴァの良い曲が何曲も入っている。中でも、”ブラジル”って曲は気にっている。30年前に吹き込まれた曲だが、今でもきにいっている。ウエイヴ(波動、波)ってアルバムも良かったね。大ヒットして、世界中を席巻した。両方とも、今ではCDとなって販売されている。

 今日は、ストーンな話だ。


 古来から、ストーン、石には、安定、信頼、永続性、不死、不滅と言う意味があって、石には、人々の願望や願いが込められている。だから、石と言っても、只の石ではなくなってしまう。スピリットや思いと言うものが入ってきてしまうからだ。山、岩、木、森羅万象との結びつきがあり、宇宙の全体性をも象徴する事がある。神の、依り代にもなっている。小ダインシャーマニズムから、現代にいたるまで、その意識、伝統は脈々と受け継がれてきている。

 石、ストーンには地域の共同体のシステム、つまり、所という二次的な意味もある。環境の事だ。元を辿ると、石、巨石文明と言うものは、太陽信仰から起こってきている。ストーンの意味は多岐にわたっているのだが、その社会システムが、自給できる、うまくいっているという意味でもある。ストーン・ストック、そのまんまと言う意味もある。
 文化と言う言葉を意識して、ストーン、石と言う事を考えると、まるで宇宙のように意味も世界も広がってくる。最近は、あちこち荒れ果ててしまったかもしれないが、単に土地や場所と言う意味ではなく、生活圏と言う意味がある。無論、そこには、規律なり、作法なり、しきたりもあるだろう。

 つまり、人の世界とは、様々な形、クオリティといった無数の石が集まったものとも見ることができる、
文化人類学だ。ストーンとは文化であり、タオ(道)なのだ。無論、常の道にあらず、だ。世界の見方にも、色々あるのだ。人の数だけ世界はあるのだから、60億以上かな?

 物事がスムースに、うまく物事が運ぶようになれば、そこに、ストーンという素直な意識があるだけで、そこに自ずと、秩序と言うものが生じてくる。昔のカトマンドゥを思い出してしまうが、静かにその経緯を眺めていると、素晴らしい。瞑想にもなる。仏教で言う所の、共有意識と言う意識が生じてくる。それは、無私からのみ、生じてくる。
 規則というものは、状況次第だが、規則は少なければ少ないほど、美味くいく。共有意識が、人々の意識と同調するのだ。これは、波動原理が生きているところでは、自ずと起こってくる。特に規則を作らずとも、道筋が誰にも見えてくるということだ。リアルな世界と言っていいだろう。

 規則が多すぎると、自由と責任の所在をいい加減にしてしまう。見方にも依るが、規則の強化はごまかし、或いは脅しのようなものになってしまう。人の自発性を減らし、無駄なエネルギーが余分に消耗される。ストレスが蔓延してしまう。

 さて、石にはあるところでは、只の石であっても、又あるところでは、神とも呼ばれ、仏陀とも呼ばれ、宝石と呼ばれる石もある。パワーストーンと言う、意識や身体にも共鳴する、不思議な力のある石もある。人と同様に、様々な石に、様々な特徴がある。そして、石に自分をオーバーラップさせる生き方は、伝統的な、ストーンな生き方だ。

 馴染んでくると、ものごとの深い意味がわかり、表面的なことに配慮はしても、やたらと、思考や情報に惑わされなくなってくる。素直な自分でいることがいい。もし無力感を感じたのだったら、誠実さを力にするといい。これは日本でも有効だと思う。柔軟で、臨機応変なのがいい。それが、”技法としての表を持つ”、ということだ。それが、内なるお洒落にも通ずる。クールでスマートだ、
 ストーンと言う言葉には、頭を落とす、無心、くつろぐという、仏教、ヒンドウー的な印がある。軸を定める、センタリングと言う意味もあるだろう。

 一寸、イマージン、空中、一片の雲。真っ青な空に、雲が一つポッカリと浮かんでいる。気持ちがいいね。雲になってしまいたいぐらいだ。気持ちが良くなれば、意識は自ずと広がって、自分の家、広大なスペースに戻ることが出来る。ものごとにも、自然体と言うものがある。どんなものにも命は宿っている。ストーンな世界では、ものごとがそのように見えてくる。それが普通なんだよ。

 ”ラトナ・サンバーヴァ”、ラトナとはストーン、貴重な石の事だ。サンバーヴァは、賢者、ブッダ、つまり、ストーン・ワイズな人と言う意味だ。金剛乗る(ヴァジラヤーナ)にあって、南を守護する、南方浄土のブッダである。
 日本では、宝生如来、宝を生む如来となっている。嘗ての、私の修行中の名前にもなっていた。そのラトナサンバーヴァのテーマが、共有意識だ。コモンコンシャスと言ったらいいだろうかね。

 基本となる、シヴァ神の純粋意識を発展させたものと言っていいだろう。無論、両者はオーバーラップし、共振、共鳴する。タントラと仏教、ともに探求の、リアリズムの宗教だ。探求好きな人には、チベット仏教はタントラ同様に、たまらなく面白いと思う。

 生きるとは、今を生きることに他ならない。過去は、記憶の中にあるし、未来はまだだ。今と言う次元、そして宇宙的領域において、ストーンし、共鳴し、意識が広がっていくにつれ、それだけで気持ちが良いものだ。生きていることそのものがパラダイスになってくる。腐った、イデオロギーみたいに、将来の為に、今を犠牲にするという生き方は、お勧めしない。本当に生きていたいんだったら、愉しみたいんだったら、”充実した今”を見つけるのがいいと思う。問題をとやかく言うよりも、答えを生きるほうがいいと思う。それだけでいい。無論、今さえ良ければ、後はどうでもいいということじゃない。まあ、言わぬが花かな?

 花は柔らかく、生き生きとしたもの。イノチのあらわれ、息吹、と言っても良い。石と花、一見、正反対のものごとの対比なのだが、コケなどは石の上にでも花を咲かせる。進化論を学んだものなら、無機質から生命(花)が生まれたことを知っている。様々な文化を行き来し、異文化との共生が可能であると言う、知恵の事でもある。それがストーン・フラワー。

 イノチと言う神秘に瞑想していると、大本の所では、生とは無目的だ、と言うことに気づく。イノチには悩みもない、方向すらない。肝心な事だよね。イノチの目的は、生きること、このことよ。他には何もない。動物や、植物にも、何らかの目標があって生きているわけではない。生きるのに特に理由も要らないはずだ。山を見ても、海を見ても、華や樹木を見ても、何か語りかけてくれる。意識が宇宙と一つになるに従って、生きると言う意味が判ってくるような気がしてくる。一とは万物の根源であり、全宇宙は一つ出会うと言う理解が生じてくる。
 老子によると、一は道であり、真であり、善である。善においては、本来の面目、本当の自己といって、これを体得する事が、善の目標になっている。

 花が咲く。なんでもない言葉だが、花が咲くと言うことは、閉じられていたシステムが開くと言う事だ。それは成長の証なのだ。生物学で花を捕らえれば、頭の世界、分析、分類の世界になってしまって、味も素っ気もない。だが、花は、人の頭ではなく、意識や心にかかわっている存在だ。

 無、ものでないことの中心にあるのが、花だ。花と石と言う、人の心の深層にある二つの世界は、見えない糸、つまり、玄、人の意識の深みで繋がっている。
 玄とは、只の黒い色と言う意味ではない。玄とは、非常に深く、優れている、と言う意味である。あらゆる相対的論理の束縛を離れ、深遠な味わいがある、と言う意味である。花が咲き、甘露を得、至福を得る。玄妙と言うだろう。

 甘露(アムリタ)は、シヴァ派に依れば、天頂のチャクラ(サワスラーラチャクラ、千弁の蓮の花のチャクラ))が開くと、クンブー(水瓶)から降りてくるという、不死の甘露の事である。
何処にクンブーがあるのかと言っても、視覚的に見えるわけでもないので、物理的な表現は不可能だ。
瞑想を重ね、場所的には、ヒマラヤがいいだろう。エナジーが高く、容易にサワスラーラが開くようだからだ。やがて繋がりが生じ、天界と通ずるようになると、甘露(アムリタ)が、泉の世に湧き出してきて、全身全霊を潤し始めるのだ。

 甘露(アムリタ)を味わった人は、覚りを得る。甘露を得、至福を得る。そして途切れのないエナジーの流れを、暫く体感する。覚りという、イノチのエナジーの流れは、所謂、高揚感や興奮とは全く次元が違う。そのエナジーの流れを知ることこそ、生きる喜びなのだ。それは、あらゆる創造物、創造性、森羅万象と繋がっていて、尽きる事がない。禅も、タントラも、タオもこの一点で一つになる。

 瞑想の何たるか、を知らないと、壁の向こう側の話、まるで嘘みたいだが、真実の話である。
ガンガー(天界の川)が地上に降りてきたという御伽噺も、”ガンガーの降下”と言う、甘露にかかわった神話がある。象徴的な話である。

 ヴィシュヌ神の神話にも、神々と阿修羅たちとが、甘露をめぐって取り合いをしたと言う話がある。甘露は、ヒンドウー教に於いては、最も重要なテーマになっている。現代では、エンドルフィンと呼ばれている。悪魔や魔物が、魔物である所以は、甘露(アムリタ)を得ることができなかったと言う意味にある。
そんなわけで、魔物たちは、人々をだましつつ、せこく動いているのだそうだ。
 日本には、「待てば甘露の日和あり」と言う諺がある。松に鶴、梅に鶯。ヒンドウー教や仏教のように、甘露は、内在しているという知恵や理解はどうなったのだろう。
 美味い茶は、その甘露を引き出す触媒の働きをする。茶の薬効作用と、瞑想技法とを美味くフィットさせると、相互作用として、甘露が生じてくる。通路が開くのだ。それは開いたりもすれば、閉じたりもする。実に微妙で玄妙なものだ。

 花は咲く。春が来て、季節がめぐって、環境や状況が整ってくれば、草は一人でにはえ、花はひとりでに咲く。当たり前のことなんだが、なんと不思議な、神秘的な現象なのだろうか。
 能の開祖、世阿弥によれば、「風姿花伝」の中で、「全ての技や経験を極めた先に、ゆるぎない花がある」、とある。チャクラのことだ。”秘すれば花”と言う名言が残っている。

 生物学的に花の意味を行ってもしょうがない。人が花から受けるパワーは、まず、視覚。目で見て、その色、姿に惑わされる。色と言う言葉の意味には、あるがままと言うのがある。心と言う意味もある。
花は、意図的に、人を惑わそうとしているわけではない。花はあるがまま、そして、只、咲く。
 花咲きて、世界に香し。視覚の他に、人が花から受けるパワーは香りである。香りは、色以上に人をひきつける、薬効効果のあるものもある。インドやアラビアでは、アロマテラピー、香水として医療的にも、くつろぎの為にも、古代から発展してきた。インセンスもそうだ。香りは、人の心に強く作用する。人は、花の美、色、香り、姿を楽しむ生き物なのだ。

 南アジアでは、特にインド、ジャワ、カンボジア、ラオス、タイ、バリ、そして、ハワイ、沖縄、ポリネシア等では、祭儀のとき、客が来たとき、ジャスミンが香りが良いのでよく使われるのだが、花輪をだして、首にかける習慣がある。花の少ないチベットでは、白い布を首にかけてくれる。いいものである。花は心だ。花が心を開くのだ。人の心理に合わせている。科学的だろう。

 今でも、タイ、バリ、ラオスそして沖縄、ハワイ、ポリネシア辺りの若い女性が、髪に花を挿す習慣を目にする。粋で、見た目にも風情があって、インド、ベンガル、ラオス、タイ、ジャワの更紗模様のロンジー(ルンギー、長い巻きスカート)ともよくフィットする。風情豊で良いものである。欧米人の女性が、老いも若きも、まず飛びついたね。
 祭りのときは見応えがある。お洒落の極み、と感じたんだろうね。そうして、南アジアに夢中になってしまう。香りの良い、ジャスミンやマグノリア、ランの花の小枝を一本、髪に挿す。代のワンポイントほどお洒落なものはない。皆日に焼けているから、なおさらだ。
 長い髪の女の人は、長い髪を後ろで纏めてたくし上げ、花の咲いた小枝を一本そこに通して、形を作る。うなじの表情が、なんと美しい。

 それは、神仏の依り代としても機能する。魔よけの意味もある。太平洋、ポリネシアにもそんな習慣がある。沖縄周辺にもあるそうだ。ムー大陸の文化遺産かもしれない。日本の古代、神代の時代にも、そんな習慣があったようだ。
 挿頭(かざし)は、古代の日本では、身分の高い男性だけがするものであったらしい。後に、江戸時代になって、女性達は、金、銀、銅、木やガラス、鼈甲、琥珀、象牙、翡翠などで、意匠を凝らした、簪(かんざし)を頭にさす風習がファッションになっていった。本物の花を使うと、花簪と呼ばれた。

 南アジアに長くいると、日本もかつてはそうだったんだろうけど、人や動物、山川草木、それらの森羅万象の関係が、縦ではなくて、横並びなんだ。国旗を見ても、皆、横縞だろう? 全部ひっくるめて、自然、天然デモクラシーとでも言うのかな。動物や植物に人権と言うのも変だけど、皆がしっかり生きている。
 存在している。全てのものにイノチあり、石にも命が宿っている。木にも。花にも、マンゴーにも、やしの木にも… そして、人々の慈しみが生きている。イノチってそういうものなのだ。皆が分かち合っているのが実相だ。生きると言う事は、動詞、そして、自然とは、自ずと然るべく、と言う形容詞なのだ。

 花は文化、そして宗教の中心にある。花は人の心にとって、最も重要だからだ。文明は、常に変わり行くもの、頭にかかわり、進化し酔うとする力学が働くからかもしれないが、文化とは、人の心にかかわって、スローで、ゆったりと、息づいている。生とは、息をすることだから、変化もゆったりとしている。昔からそれ程変わらないのが、文化だ。言葉、詩歌、文学、音楽、芸能、絵画に於いても、花は表現されてきた。花なしでは、ヒンドウー教も、仏教も成り立たない。それは、花の祭りなのだ。花とは、美であり、究極の真理の象徴であり、生命、生活の象徴なのである。

 それを祭らずして、何を祭るのか?

 睡蓮(サンスクリット語、ヒンドウー語で、赤い蓮の花はカマール、白いのはブンダリーカ、青いのはニーロートパラ、チベットではパドマ、英語だとロータス、車が有名になってしまったけどね)。蓮の花は、神仏が降臨するところ、座として中央に位置する。神話によると、ヴィシュヌ神のへそから、蓮の花が生じ、そこにブラフマ、創造神が生まれたと言われる。チベットに仏教を伝えた、パドマ・サンバーヴァも、吉祥天ラクシュミも、蓮の花から生まれた、と言う意味だそうだ。
 蓮の花は、当然水とつながりがあり、ガンガー女神、アプサラ天女ともつながりがある。又、寺院や王宮にも吉祥の紋所としてあちこちに飾られている。ヒンドウー、仏教では、普通、蓮の花は、太陽のシンボルになっている。亜熱帯から、熱帯にかけて、さんさんと降り注ぐ太陽の下、北はヒマラヤ、南アジア、ボルネオ、オーストラリア、ポリネシア、ニューギニア、アフリカ、中東、マダガスカルの水辺にも咲いている。それも一年中だ。オーストラリアのジャングルの奥地にあった、何千万という蓮の花が咲く湿地帯は、素晴らしかった。

 睡蓮が太陽の象徴になっている理由は、朝になると、恰も、ヴィシュヌ神が、まどろみから、ゆっくりと目を覚ますかの如く、花弁を開き、夜がやってくれば、静かに花弁を閉じ眠いに就く。朝、目を覚まし、夜眠る。太陽の動きに連動している。蓮は泥から生まれ、泥に染まらず、穢れる事もなく、水面に静かに浮かぶ。
 ピースだね。本物の美、それは比較も競争もなく、只、あるがままで、そのもの本来のあり方を体現しているもの。あるがままでの、メディスン(呪術)であり、世間と言う呪縛からの開放なのである。
 睡蓮は、その優雅な姿ゆえに混沌の海から浮かび上がる宇宙を体現しているとされている。美しさゆえに、月のシンボルにもなっている。太陽の力と、月の力、宇宙大海の力との宇宙的なな相互作用、ひとつ、と言う統一の意味も表しているそうだ。何でもかんでもが、蓮の周りに集まってしまう。
 
 同じ事は、富士山にも言える、富士山の美しさには、理屈も哲学も、理論も関係ない。深遠な心に、直に、届く。その姿が美しく感じられる、というものだ。睡蓮も、富士山も、その姿、波動を通じて、人の心の奥底にある、形のないものと、直にコンタクトする。その力が、何よりも素晴らしいと思う。
 個人的には、富士については、夜明け、夕日を背景にした、蔭富士がすきだ。蔭ゆえに、シルエットが、荘厳で美しく見えるような気がする。自分の部屋にも写真をおいてある。エスプリあるからね。睡蓮も、富士山も…

オーン・ナマー・バガバティー・ヴァースデバーヤー
(ヴィシュヌ神のマントラ)

花は、只、咲く
誰かさんに見せようとして、咲くわけではない
只、自然に咲く
そこの所が美しい。

一蓮托生