2009年12月26日土曜日

「今」という未知3

 インド文化圏での基本的な考え方として、物質を色と呼び、粒子でない状態を空と呼んでいる。空とは、いっさいの存在、それ自体が自ずから”無”である、と言うことなのだ。無と言う文字は、簡単な一字に過ぎないが、誠に容易ならざる、広大な世界の入り口でもあり、又、ゴールでもある訳である。
 無とは、何もないという意味ではない。普通の言語では、無は”有る”に対立する言葉だ。タオや禅においては、有無の対立や、あらゆる執着を超えた、円満究極の真理は、言葉で言い表せない、と言う意味で、無、というそうだ。ここにいたって、無は空と同義語である。
 東洋思想の多くは、この無を基盤にしている。西洋的な探求は、科学、思想、哲学などは、有の探求と言うことになる。そして、今や、有は無に到達した。

 東洋の無の思想は、”何もない”と言う意味ではない。”ものでない事”と言う訳がいいかと思う。他にも、”ものの本性に決まったカタチはない”。”実体がない”、無相である、と言う理解に到達している。また、禅においては、人は、本来無一物と言う言葉があって、本来執着すべきものが、何もない。汚れも塵すらもない、と言う意味での、無がある。
 無事、と言う言葉は、人は様々な煩悩を持って生きているが、その中に、純粋な人間性、仏性ト言うものが隠れていて、しかもその可能性は誰にでもあるという事である。だから、外に求めず、自分の中の深遠、玄妙なるものに分け入って、もう一人の自分に出会う努力をしよう、というのが禅の本位なのである。もう一人の自分に出会った人を、貴人と言うそうだ。


無一物中無尽蔵 有花有月有桜台

 本来無一物の澄んだ心で眺めると、そして利己心を空ずるなら、所有物など何もなく、捨てるという事すら、捨ててしまうと、究極的には、宇宙に存在するもの全てが、花は花として咲くだけではなく、それぞれが全自己であるという理解なのである。何もないことが、今度は、全てがある、無尽蔵と言う理解に到達する。つまり、空も、無もよく学ぶと、そこに真の”有”が生じてくる。不思議だね。この世と言うものは面白い。

 ”色”、と言う物質に偏り過ぎれば、現実主義に、空に偏りすぎれば、虚無主義になってしまう。どちらにも極端に偏らずに、”程よく”粋抵抗と言うことなのだ。それが、到達したものの理解なのだ。タントラの意味するところである。見えない縁(えにし)の赤い糸ではないが、全てはどこかで繋がっている。それが玄妙ということだ。ディープだろう?

 仏教では、世界は縁起、無常、因縁で成り立っているという。未来永劫、永遠普遍の実態などはないといっている。波動力学によれば、見え方によって、エネルギーであったり、粒子に出会ったりするのだという。科学も、仏教に近づいてきたようだね。仏教の、その理解と知恵から、文化と言うものがあって、人々のよりどころともなっている。変化をゆっくりさせたり、ノンビリさせたり、緊張を緩和したりする働きがあるのだ。

 人に物心がついてくる頃から、私、僕、自分と言うものが身体にすみ始めてくる。赤ん坊の頃は、まだ、私と言うものはなかった筈なんだ。鏡を見たり、様々な事があって、これは、私と言うものではないのかな?というものが、身体とか、頭に住み始めてくる。そのうち、何かに遠慮したり、謙遜したり、分別もつき、自分と言うものが芽生えてくる。綺麗とか、汚いとか、良い、悪いという分別は、親や環境によって教え込まれる比較概念なのだ。それが生じてくると、自分以外は、汚い、悪い、と言う考えが当然起こってくる。自我意識が生じてしまう。

 物心がつき、無意識なうちにも、比較概念を伴って成長してくると、どうしてもこの世を生きるということは、自分以外は汚い、悪いというおかしな概念に虜にもなってしまう。極端な話、自分のいる世界は、戦場のようになってしまう。
生は、戦いになってしまう。競争社会は、そこから火ts全的に生じてしまう。
そうやって、無意識の内に、様々な事が積み重なって出来上がった私と言うものは、本来の私と言う医師kの構造体に間借りしている、厄介者と言うことになってしまう。そのうち母屋ものっとってしまう。
当然、いじめも起こってくるし、精神も歪んでしまうから、夢も希望も、おかしなものになってしまうよね。
リアルなのは、欲求不満だけと言う事になってしまう。

 この自我、エゴと言う奴は実に厄介で、しかも無責任な奴で、自分の身体とか、宇宙とか、調和なんか眼中になく、自分の都合、利益、そのことだけを考えているんだ。トータルなる自分にとっても、迷惑な話なんだ。視力、認識力が偏ってしまうんだ。
それが、自我と言う奴なんだよ。周りの事を無視してしまう。
だから、世間を生きていくとき、中庸な自我が大切に成ってくるんだ。程々がいいんだよ。

 仏教は、信仰の宗教ではない。
そして信仰とは、宗教と限ったわけでもない。
イデオロギーも、資本主義も、共産主義も、どんな観念や哲学も、社会通念も、信仰が支えているんだよ。
無知の信仰もあれば、多数決の信仰、自分の都合と言う信仰もある。
そのこと自体は、いいとも悪いともいえない。

 例えば、お金だってそうだ。昔の小判ならいざ知らず、一万円札は、紙でできている。
紙質や印刷にお金がかかっているといっても、大量に印刷するわけだから、たかが知れている。
10円以下で出来るのかもしれない。もっと安いかも。
それでも、一万円札が、一万円として通用するのは、国を、お金を信じているからだ。
信じていなければ、お札だって只の紙くずだ。
それは信仰なのだ。
国が傾けば、お金の信用度も落ちてくる。
そういった、様々な信仰の寄せ集め出成り立っているのが、世間と言うものだ。
世間とはそういったものだ。いいと変わるとかの問題ではないんだよ。
見方を変えれば、面白いではないか。

 話を戻そう、
世間にどんなにかかわっていたとしても、人が人である以上、自由と言うものに憧れを持つようになってくる。
真の世界と言うものを見てみたい、真に生きてみたい、潜在的な願望がある。
真を知れば、自由があって、健康もついてくる。
イノチも生きてくる。天地いっぱいに生きられる。
だから、人は、真実と欺瞞と言う矛盾する二つの次元にかかわって生きていることになる。
だが、矛盾を認めると、世間とはそういうものだと認めると、矛盾は消えていくようだ。答えはその辺りにありそうだ。

 シヴァという神様の、サンスクリット語の意味は、”吉祥なるもの”、”良い”、”安らかなるもの”等意味だそうだ。
いい事ずくめだ。今では、ヒンドウー教の主神の一人になっているが、本人には、寝耳に水ではなかったのかな?
しかも、仏教においても、自在天と言う、力のよりどころとしても働いている。ヴァラナシ、ムンバイ、コルカタ、そしてバンコックでも人気は高い。
シヴァが存在していた時代、当時は、ヒンドウー教も仏教もなかった時代である。
いまや、ヒンドウー教の信仰の対象にもなっていて、奉られ、エナジーを生む事から、男根崇拝の信仰とも重なって、ヴィシュヌ神とならんで、膨大な信仰の世界をももっている。今でも、シヴァの”純粋意識”は”共有意識”として、多くの人たちの助けとなっている。

 私個人は、タントラも、禅も、タオも、ゾクチェンも30年以上も勉強したり、瞑想したり、探求したりしているが、職業にしているわけではない。だが、趣味と言うより、今では、楽しみになっている。
今は、仕事に夢を持っているが、仕事にも、隠し味的に、生かして行きたいと思っている。

 最近では、知識や知性、分析力がもてはやされているようにも見受けられるが、瞑想と言うものは、頭や言葉だけの知識と言うよりは、それらを超えた英知と理解して欲しい。
プラスアルファななんかなのだ。
知恵と言うものは、工夫とか、知識といったものと違い、なかなか言語似はしにくいものなのだ。簡単なことでも、言葉によって説明すると、膨大な量になってしまうのだ。
ものごとの延長線上にある何かと言うことではない。
思考や,思いではなく、思いのほかの何かなのだ。
それが、人や物事に深みを増し知恵となって、キャパシティーを拡げていくのだ。

 曹洞宗の開祖、道元師の言葉によると、
”仏道を習うとは、自己を習うことなり”、”自己を習うとは、自己を忘れる事なり”。
おのれが、一体全体なんなのかが判らないうちに、只、闇雲に、漠然と学んでも意味がないだろう。
理解力と言うものが付いてこない。まず、おのれから始めなさい、といっている。
そして自分とは何かと問うとき、その問う門は誰か?
気づけば、自分を忘れているときにgは、視力も、気力も体力も、充実しているているもの、なのだ。
そこから真の自分と言うものが生じて来る基盤が出来るのだ。

 慣れて食えば、簡単なコツなのだが、道しるべが見つからないうちには、暗中模索の状況が続いてしまう。
しかし、やがて、”旧来の私”と言うものが、解け始めてくると、北極の氷だって解け始めている近頃だ、そこに、本来の面目、と言うことが、リアライズしてくることになる。
大いなる自己は,無私から生まれるのだ。

無私、無心が判ると、様々な事が面白くなってくる。
もし無心が難しかったなら、ちょっとしたコツを教えてあげよう。
それは、一生懸命になって無心に成ろうとしているからだ。
逆作用を働かせて見るといい。
無心ではなく、自分は考えているのだとしたらどうだ?
その考えを眺めていれば良い。
考えを、眺めているものは、考えではないから、無心だろう。

 頭は使うもの、心は生きるもの、感じるもの、そして腹はすわるもの。
禅は、安楽の法門とも言われている。
それは、苦楽を超えた中道にある、と言う意味だと思う。
軸が決まってさえいれば、中道を行き、そこで、始めて、両翼を広げることができるだろう?
可能性はそこから生じてくる。

 タイには、民家や商店、家の前に、よくベンチや椅子、テーブルがおいてある。
急がしく動き回っている人も、散歩や、ぶらぶら歩きをしている人も、誰でも自由に座って、くつろぐ事ができる。
簡単なカフェもある。静座は正座ではない。窮屈にする事はない。
静かにくつろげれば、タイの環境は極楽なのだ。
いい習慣と言うか、文化だね。素晴らしい。サイレントなジョイだ。

 ”笊(ざる)に水だったかもしれないが、少なくとも、一寸は水にぬれたかもね。
少しでも理解していただけたら、それは私の喜び、愉しみとしたい。