2009年12月22日火曜日

無音のハーモニー

 今日は、軽く、他愛無く、只、ぶらぶらとノンビリ気楽に、”色”、”色合い”の世界を楽しんでみようではないか。色と言っても、色事の世界ではない。色は思いの外。道草でも食いながら、ゆるりと参ろう。

 馬に乗ったことある?馬に乗って、初めて、道草を食うという意味が実感できる。馬にしてみれば、本人はどこかに行くよりも、道端の草を食んでいる方が、本業。美味そうな草が見つかると、なかなか言う事を聞いてくれない。

 同様に、色は思考ではなく、感性、感覚で感じるもの、頭ではなく、ハートで感じるものなのだ。生り(なり)に任せよう。レティット・ビー。
 江戸時代の都都逸にこんなのがある。

「餓鬼の頃から いろはを覚え はの字忘れて 色ばかり」

 色事にばかり現を抜かしている連中をからかった歌だ。はっはっは… 人は昔から色、そして色物、色事、色の未知が好きだ。色には、色彩、色事、エロスといった意味の他に。”あるがまま”、”心”と言う意味もあるそうな。人は頭だけで生きているわけではない。色なくして、生はない。色を生きれば、心も生きて来る。


 人の心の中には、ロマンと言うものが、大きな部分を占めているはずなのだが、生涯かけてそれを追い求める。そんな情熱もなくなってしまったわけでもないだろう。夢も希望もないと、若いうちから、心まで老化してしまう。

 成長とは、老化のことではない。成長とは、ある限界を突き抜けて、自分と言う山を超えて、初めて起こってくる。つまり、己に勝つことだ、そこに初めて、心身の成長があるのだ。冒険、探求、瞑想、スポーツ、音楽、武道、それらは、自由と成長にかかわっている。成長は、自由から起こってくる。自由がなければ、成長はない。成長がやみ、生命力が枯渇してくると、既に老化が始まっている。生とは、そういう意味では、実に簡単だ。
 現代社会では、”無限の進化”なる神話のようなものが、信仰されていて、宗教の代わりに信仰されているようだ。可能性が全く残されている面、未開発の面もないわけではなかろうが、どうなる事やら。
 世間では、環境問題が第一とばかりに語られ始めているが、1970年代からそれは起こっていた。加えて、デフレ懸念、アフガン、パキスタンの紛争、これは終わりそうもない。泥沼化しそうだ。景気の動向に一喜一憂し、企業同士が統合を繰り返し、問題とはいえないが、21世紀末には、世界の半分はイスラム化する。面白い風景だろう。矛盾を絵に描いたようだろう。それがモザイク、世界というものなのだと思う。

 自然に沿った、新たな実用的な産業はまだ育っていない。嘗てのテクノロジーの多くは。ブルドーザーに象徴される、自然を人間の都合に合わせて、無理やり、強引に変えてきた事だった。自然の生態系、人間の身体もそうなんだが、まるで、奇跡といても良い程、デリケイトで、しかも完璧なデザインなのだ。何も余計な手出しをしなければ、常に完璧なのだ。

 今、確かなのは、このままいくと、地球はやばいという事だ。手出しが過ぎたのだ。無配慮の結果なのだ。判っているのは、このことだけよ。生存にかかわる問題なのだ。経済も糸瓜もない。それは、何十年も前から判っていた。只知らん振りして、先延ばしにして来た結果だ。だが、それももう無理だ。オゾン層はもとより、余りの地球環境の変化が目に見え始めてきているのだから。このままいくと、消滅、沈没する地域も現れることだろう。

 何であれ、緊張が起こってくると、人の意識は狭まって、更にもっと狭まってしまう。緊張にはそういう性質がある。最終的には、意識は閉じてしまう。闇雲に生きるようになってしまう。緊張とは,エゴの働き、エゴとは緊張だ。エゴが緊張を強いるからだ。それは不安の重荷を背負うという意味である。だから、エゴの何たるかを知っている人は、何も背負わないのだ。人のマインドは、常に判断を求めている。判断せずにはいられない。過ぎれば、狂気のようになる。マインドにとって大事なのは、問題の対象と言うよりも、判断の事。白か黒かはっきりさせないと、どうにもならない。それがエゴの何たるかだ。それゆえ、判断に悩んでいるという事は、マインドが腐りかけている、ということなのだ。判断ができないと、マインドは居心地が悪い。最悪だ。
 マインドとは、ニュートラルではいられないものなのだ。無心で、ニュートラルであったら、マインドに居場所はないんだ。そう、必要なときにだけ使えれば、それでいいんだよ。

 判断が難しいときには、勇気を持って、判断しない事だ。それが最も簡単で、上質な解決方法だ。白か黒か、YESかNOか、状況次第で、決めつかずにはおれない人と言うのも意外に多いものだ。ところが、世の中というものは、そう簡単に割り切れるものではない。無私になって、状況を見れば尚更だ。
 生きている人には、その間合い、色合いと言うものがある。生は、数学の問題を解くのとは違う。

 問題ばかりに注目したがる人は五万といるが、答えを生きて行くほうが、ずっとスマートでいい。できる事はやったほうがいいが、できないことはしない方が良い。身体と言うものは、もっとも身近な、しかも見事な大自然だ。そこで、自然と文化とが絡み合い、綾となり、彩となって、輪のスペースになっている。世界の動向なんてものは、二次的なものに過ぎないが、身体に戻れば、人は、本来エコロジカルな、ナチュラリストなのだ。それが自然体なのである。只力を抜いたからって、自然体成れるわけじゃない。

 先のことは誰にもわからない。只何が起こっても、人は、普通の生活を維持しようとするだろう。どんなに、文明が進化したとしても、昔から変わっていない。いちいち不安になって振り回されていたら、一生不安ですごす事になってしまう。それが、マインドの陰謀なのだ。悪魔のささやきだ。

 世界を救う方法は一つしかない。実に簡単だ。それは、スローイング・ダウンだ。まずは、呼吸から始める。技法はいい。ただゆっくり呼吸することを、日常とすればよい。今を充実して過ごすのが良いからだ。ゆっくりした気分で歩ければ、自分の身体と言うものも、より直に感じられるようになってくるだろう。
ゆっくりと素材の味を、噛み締めながら、味わって食事ができる。いいだろう? ぐっすりと眠る事ができる。酒も薬もいらない。スロー・イズ・ビューティフル。スモール・イズ・ナイス。その上、ストーン出来れば、心も意識も無限大。大いなる喜びはそこから生じてくる。

 色と言う、光のエッセンスがないと、人は、なかなかまっとううには生きていけないのかもしれない。色のある世界にいるということは幸せだ。目の不自由な方には申し訳ないが、目の不自由な方ほど、よく見えるそうなのだ。不思議だねえ。人は、生死と言う矛盾を認識すると同時に、生きがい、生きる喜びをも意識するものなんだよ。

 人々は、色、色合いと、色に惑い、色を愉しみ、色々遊びながら、生きてきた。だが、単色では詰まらない。雪に白鷺、闇夜のカラスでは意味がない。色合いとしては、少なくとも二色は欲しい。複数の色が調和して、初めて”色合い”になってくる。見えない縁の(えにし)の赤い糸は、見えなくとも、せめて、白河夜船くらいではありたいものよ。

 色合いとは、味わい、和、知恵、文化のことだ。色はものではない。だが、どんなものにも、色はある。
色とは、生の味わいだ。光があって、始めて、色が見えてくる。睡眠中に見る夢には色はないという。色はあるという人もいる。どちらも正しいのだろう。その人の意識状態、状況しだいで。あらゆるものが変化する。諸行無常。そのことだけは、唯一不変。普遍だったかな?

 ブラック&タン・ファンタジー(黒と茶のファンタジー)、中間派のジャズ(スイング、ビーバップ、モダンジャズへ向かう過渡期のジャズ)が好きな方ならば、ご存知とは思うのだが、かのデューク・エリントン作の名曲のタイトルだ。カンザスのカウント・ベイシー、ニューヨークのウディー・ハーマンとともに、多くのスタープレイヤーを抱えたビッグバンドジャズの横綱であった。歌い上げる、ジョニー・ホッジスのアルトサックスが素晴らしい。名人芸は、いつになってもいい。トーンに色があるのだ。

 黒は、風物でも、ファッションでも、芸術でも。使い方が難しく、場合によっては、重苦しく、閉鎖的で、野暮天になってしまうのだが、様々な色を引き立て、間合いや基盤のような働きをする。古来からの、魔除けの色でもあるようだ。
 黒は、往々にして、偏見で、暗さや闇とイメージされる事もあるが、生きている黒は暗いどころか、魅力的になる。自然界にある色で、とても重要な色なのである。

 タオの人たちは、”玄”を明るい入りだという。中国では、ゼンと読むらしい。膳の語源なのかもしれない。タオイズムでは生きた黒を玄というらしい。子供の頃、夢の中で、その玄の舞を見た。玄は生きていて、生のリズムは、”玄”のは背後の、深遠から生まれてくるようであった。
 黒は、生のエッセンス。英語には、玄に当たる言葉がないのだが、とりあえず、ブラック・イズ・ビューティフル。

 タン(茶)という色には、爆発的なすごい力はないのだが、押し付けがましい力はないのだが、明るく、地に着いた、穏やかに彩る調和の力がある。持続させ、宇宙を維持しようとする、中道の風味がある。
熱い、ふろふき大根に、ゆず味噌。そんなトーンがいい。

”色に音あり、音に色あり”

 無論、色だから、音と言っても、”無音の音”なのだが、色には、耳に聞こえる音はないが、イメージを生かせれば、エナジーが、心が躍りだす不思議な力がある。エナジー波動の高い、例えば、朝の小川のせせらぎの音、夜明けの海、森や海辺を散歩する、赤い夕日などを眺めていると、気持ちが良い。なぜなんだろうね。心が、空のように広がってくる、のがよくわかるだろう?
 心と言うものは、ものではないが、状況しだいで、大きくも、小さくもなれるんだね。閉じこもってしまったりして、心をなくしてしまうこともあるらしい。心には、これといった、決まった形がないのだ。だからって、頭でっかちになっても意味がない。生きるとは、心を生きることに他ならないんだから。

 魚の目に、水見えず、と言う諺がある。意外と本人は気が付かないんだけれど、その、気づきが起こると、なんでもない筈の日常の姿がちゃんと見えてくる。愉快である。よく見えてくる。目から鱗が落ちる。気づきとは、思いのほかの、覚醒である。緊張が緩み、空虚なものは満ち、有り余っているものは減っていく。簡単なもので、心が満たされれば、充実してくるものなのだ。

 エリントンが、ファンタジーと名づけたのも、シックな大人の色合いが、ファンタスティックだからなのだろう。そこに、理性を超えた、知の道がある。

”色を求むるにあらず、色合いのみ”

と言う、一寸、小粋な名言が江戸時代から伝わっている。組み合わせの妙、色合い、センス一つで、様々な無音のメロディー。リズム、ハーモニーが生まれてくる。微細に気を集めれば、石たちの声すらも聞こえてくる。動物だって知っている。彼らの五感六感は、人には太刀打ちできないほど、クリアでシャープなのだ。どうも人間だけが、一番アホで鈍感らしい。文明が進化した反面、退化した部分は大きいんだよ。粗雑なんだね。動植物も、人の言語はわからなくとも、波動は判るんだよ。それが、以心伝心するんだ。

 江戸の時代から、風物でも、ファッションでも、芸術や芸能でも、黒、白をアクセントに、茶、グレイ、ブルーグレイ、藤色、藍色、えんじなどは、粋な色とされ、歌舞伎の色合いなんかいいね。染色、虫や石からとった色、草木染の世界にはいると、日本には、素晴らしい色が沢山ある。中間色がいいんだね。
その色合いが、融通と言うことらしい。日本文化の中枢なんだよ。その為には、軸が決まってないと形にならないんだ。
 融通とは、お金の融通の事だけではなく、遍く、全宇宙に張り巡らされている、心の拠り所でもあったんだそうだ。今よりも進んでいたのかもしれないね。無論、今のアジアでは、まだ通用する。共鳴、と言ってもよいが、波動原理、波動文化といったほうが、現代的かもしれないね。

 新しく張り替えたばかりの畳は、色も香りも質感も素晴らしい。だが、使い込まれた畳の色合いもまたいいものだ。木彫でも、白檀(サンダルウッド)や、いちいの木、チーク材の家具、桐のたんすのように、時が経つごとに風合いを増すものを、人は良しとしてきた。チャイや、お茶、ほうじ茶、ミルクコーヒーにビスケット。缶コーヒーじゃ味気ないが、カップに入った茶色の円はいいものだ。何処にいようとも何かホッとする。

 インドのチャイや、大抵は薄汚いのだが、に行くと、安い茶葉、所謂、くず茶を使って、最高級のダージリン以上の美味い茶を飲ませてくれる。美味いチャイには、瞬時にに世界を変える、不思議な力がるようだ。嘗てのコーヒーの本場、アラビアや北アフリカのイスラム世界も、いまやチャイの世界に様変わりしたようだ。美味いチャイ屋については、地元の年寄りに聞くのがいい。オールド・イズ・ゴールド。これは、インドの諺だが、年よりは大事にされるお国柄。亀の甲より、なんとやら…

 茶が、苦くても、渋くても、美味いお茶を甘露と言うだろう。人に内在する甘露(アムリタ)を引っ張り出すのだ。甘露そのものは、その用意のできているものには、内在している。それは仏性と同じで、誰にも内在していると言うことなのだ。
 それは、味覚の甘さと言うのではなく、頭、首筋、肩、棟、腹へと降りてきて、全身全霊を潤すのだ。全てを忘れさせる力がある。内なる温泉と言うと分かりがいいかもしれない。舌で感じる甘味と言うわけではない。それは、至福なのだ。瞑想の目標でもあるのだ。

 そのサンスクリット語のアムリタ、甘露、と言う言葉が、西に伝わって、フランスでアムール、イタリアでアモーレになったのだそうな。本来の意味は、与えれば与えるほど、成長すると言う意味らしい。