2009年12月19日土曜日

「今」という未知2

 表向きとは、言葉そのまんまのアウトドアーと言う意味ではない。意外と、ディープなんだよ。日本の文化と密接にかかわっている言葉なんだ。
 表、すなわち世間とは、今では、大抵の場合、嘘、都合、化粧、見栄、体裁、演技、ごまかしばかりが目立って、歪んでしまって、おもてっつら、帳尻があってればいい、といういい加減な世の中になってしまった要にも見える。生きているという意味が希薄になってしまったのかのようだ。

 表と言う言葉の中には、人が個人であるのと同様に、ある地域で、共同体をも生きているという、両極性が潜んでいる。それは何処の国に言っても、仏教でもヒンドウー教でも、イスラムの国でも、欧米でも同じ事だ。そこには、そこの水があって、水が合えば、幕屋っていけるということが確認できる。その水が、人々の生きがいを育てているのだ。世の中は、只、利害や損得だけではないという事を、皆がよく知っている。日本では、”表が済まぬ”という言葉があって義理や体裁への配慮が欠けるという意味である。


 そこで、”正直を持って表とする”と言う言葉がある。昔からある言葉だが、気持ちの良い言葉だ。
江戸っ子は、こうでなくちゃいけないね。自分の流儀、生き方、技として、表の事が意識され、自覚されているという意味だ。無意識ではなく、ポジティヴに自分を生かす。小技や小利口さ、模倣といったせこい業なんかを使わない。軸が決まっているという、シンプルな生き方だ。自信もそこからついてくる。人の前をする必要もないし、まねされる事もない。

 個人はそれでいいとしても、社会と言うものは、ある種の依存状況を捏造し続けるし、自然に負かしておくわけはない。そこに、必然的に矛盾が現れてくる。
 例えば、車の依存度を高めれば、車は売れる。何であれ、依存度を高める事が商売の要だからね。道路は、自動車会社が作った訳ではない。国が作ったのだ。ここの所が面白い。後は言わぬが花かな。

 ”技法としての表を持つ”とは、嘘をつくことではないし、造り上げたものでもない。飾りもいらないし、余計な事をしなくてよい、宇宙的な気配りを持って生きていくと言う、粋でクールな生き方だ。無理がなければ、窮屈でもない、窮屈でなければ、力は出しやすくなる。自他と言う、二元性の関係性の理解度。といったらいいだろうか。いい加減な建前、自分勝手な都合と言うことでもない。少ない力で、大きな力をだすコツ、太極拳のような生き方だと思う。武道は、本来が瞑想だったから、共有意識というものを探求するには有効なんだ。

 ”粋”とは、”生きること”の探求から始まった、いわば、生のエッセンス。生きるコツ、ツボ、ポット。内的なお洒落。最近わかる人がいなくなっちゃったけどね。生きることそのものが、楽しみになるという生き方だ。一本筋が通っていれば、姿かたちはどうあれ、野暮であろう筈もなかろうが。

”表勝り(おもてまさり)の、裏小袖”

 江戸にはいい言葉があったねえ。

 無私と言う事は、人を明晰にし、寛大にし、人に中心を与える。そこに、本来の自己がある。中心からは、無形の秩序が生じてくる。秩序があれば、する事は何もない。ディープでビューティフルだろう?

 無為(ウーウエイ)とは、人が生きている以上、何も市内と言うことではないんだよ。生活があるからね。只、余計な事をしないということなんだ。老子曰く

「学を為せば、日々に益し、道を為せば、日々に損す。これを損じて、又、損じ、もって無為にいたる。無為にして、為さざるはなし」

 多くの人は忘れてしまっているかも知れないが、全てのものは、”大きな一つの全体”に繋がっている。無為を通じて、その大いなるつながりを回復する事ができる。そこに調和するエナジーが現れてくる。共有意識、自然や動物との共感、分かち合い。ものではないが、それが”イノチ”と言うものなのだ。自然の中で暮らしていると、その事が如実に判ってくる。実感で切れば、本物だ。普通の人と言う意味だ。これ以上の賛辞はないだろう。

 ”ミタクエオヤシン”という言霊(ワードスピリッツ)には、そういう深い意味が秘められている。ネイティヴ・アメリカンがタバコを吸うときのマントラだ。マントラとは、秘密のドアを開く鍵となっているトーンだ。
さすれば、そこには敵も味方もない。平和の意味はそこにある。力に満たされ、今、そこにいる。

 瞑想者なら、時間と空間、両方の次元を、自由に行き来できる。それゆえ、未知から、又違う未知へと旅をする。それが楽しみになっている。普遍性とはユニヴァーサル、宇宙的と言う意味だが、そこに通じているという事が、普通と言う意味である。普通とは、世間的、平均的、大衆と言う意味ではない。変わり者といわれても、常識人と言われようとも、普通の人は普通なのである。誤解のないように。

 一方に偏ると、どうしても皮肉な結果になるのは、世の倣い。何事も行き過ぎれば、反対の結果が生じてしまう。ミイラ取りがミイラになったり、鼠嫌いの人ほど、来世は鼠になるのだという。来世も人でいようとするのは大変だ。それでも、いつしか、知らず知らずの内に、偏ってしまうというのが人間だ。
知らないうちに迷路に入ってしまう。あらゆる問題やトラブル、病気はそこから起こってくる。

 無時間と言う体験は、例え無意識で、眠っていたとしても、誰しもが体験している次元である。瞑想は、普遍的、ポジティヴに無地間体験をする。多くの人が無視して見逃してしまうようなことにも、意識的になるということだ。それは何にもまして、楽しく、面白い。
 人が、ぐっすり眠っているとき、無意識、無時間を体験をしている。熟睡ならば気持ちよい。飯を食うのも、異性を抱くのも、全てを忘れたい為だ。だから、真に熟睡できたら素晴らしいのだ。熟睡できるだけで、不満がなくなるのだ。生きるに就いての、最重要課題なのである。あだ疎かにはできないのだ。無時間感覚なくして、人は生きてはいけないのだ。
 もしそれがなければ、狂い死にするかもしれないね。人の世の中、一生を突き詰めていくと、食べる事と、ぐっすり眠る事。只、これだけの事なんだね。

 人がこの世に生まれたら、その瞬間から、死に向かって歩み始める。これ程の矛盾は他にはない。人とは矛盾の象徴だ。否も応もない。確かな事は、矛盾だけだ。だが、死と言うものが会って、初めて生も成り立つことに気が付く。死というものがなかったら、生も成り立たないではないか。
 難題といえば、これ以上の難題はない。だから、人は、何らかの命題、目標、夢を持ちたがるのだ。
それが普通だ。生きて良し、死んで良し、ここに至って、初めて本気になって、人は生き始めるのだ。

 自分がいいと思うように生きればよいではないか? 簡単だろう。自分が好きなことをすればよいではないか? それが普通だろう。そして、その両者をつなげられたら、もっといいだろう? 夢があるんだったら、夢を生きればよい。無音を聴く事さえできれば、いいトーンも聴ける。無時間を知るものが、時を得るのだ。トータルである事が大事だね。

 人は生きるために、食べもするし、眠りもする。死は、早いか遅いかは別にして、いずれ訪れると決まっている訳だから、死ぬこと自体怖がっても意味がない、と納得しているからだ。でも、いやな死に方はしたくはないだろう。死ぬのが怖い人もいるんだろうね。当然いるだろう。

 シヴァいわく、生とはパラダイスの事だ。パラダイスとはどこか特別の場所の事ではない。唯一、無二のもの。意識の目覚めが鍵となる。もし生がパラダイスでなければ、生き方が間違っているのだ。ちゃんと生きていないからだ。生から逃げていても、避けていたら、真には生きられない。只、闇雲に人生かっ込んでいたって、生きることにはならない。意識の目覚めがなければ、人生全てナンセンスに終わってしまう。生より他に、神はない。

LIVE LOVE SMILE.

 自分の身体を内観していると、こんなに合理的で、すばらしい機能のあるものは、他にはない、と思う。実によく、絶妙に、微妙にできていて、完璧な宇宙になっている。そのことだけでも、大満足だ。
 自分の身体、内側から見たことある? 無論、視覚的に、身体の中や臓物が見える訳ではない。瞑想においては、観るということができる。そうやって、自分の身体を内外から感じてみると、自分は、確かにこの身体に住んでいる。とすると、この身体は誰のもの?と言う疑問が生じてくる。私と言う意識は身体ではない。身体に住んではいるものの、身体そのものではない。只、身体は、思う通りに動いてくれる。そして、体と言うものがあるお陰で、私と言うものが現れてくる。身体がなければ、私はいない。

 生きているということが、神秘なんだよ。そこから逃げ出さないで、正面から向き合う、と言うのが瞑想だ。いやがうえにも、ポジティヴになってしまう。人の身体は実に合理的で、素晴らしいのだが、人には感情がある。そいつが実に厄介な怪物なんだ。矛盾や混乱が耐えないのはその為なんだ。矛盾、そいつは、理屈では解決できない代物だ。まともにいったって、どうにもならないよ。

 自分の身体って内側から見えない? そいつは不便だね。身体を内観する時には、波動で観るんだよ。石や水晶が触媒になるんだよ。石好きならわかるかな? 宝石ってのは、だめだね。使えない。天然の、自然にスコップで掘り起こした水晶がいいんだよ。ダイナマイト使ったら一遍で全てがフイになってしまう。勿体ないね。
 まず意識を目覚めさせて、脊髄を中心に、第三の目、自律神経、波動に留意し、気の流れを美味く循環させて、波動を聴く調子を聴く。身体の声を聴く、といった方がいいかもしれない。何が不足か、何があまっているか、調子がわかる。五体満足でも、五体不満足でも、それなりにベストな状態というものがある。それが、健康というものだ。だから本来は、一人一人、ものさしは違うんだ。

 とにもかくにも、自分の身体の仕組みは気に入っている。感心してしまう。しかも。何十年も、病気一つしたことがない。最高の棲家である。

 身体が健康なら素晴らしい。だが、人には感情があり、エゴがあり、欲があり、野心がありとややこしくなってしまう。うらみつらみ、憎しみ、嫉妬、トラブル、夢、利害と社会そのものも、非合理を無限に作り出す。世間、世界と言うものは、ケイオス(カオス、混沌)という状況であって、正しいわけでも間違っているわけでもない。それが通常の姿なのだ。だが、ケイオスなくして創造性はない。これだけは言える。

 人は石に始まり、火を起こし、土器を作り、道具を作り、道具を使い、猿や蛸も道具を使うらしいけどね、文明を作り、夢も希望も楽しみも増え、便利にはなり、月にまで行ける様にはなったが、矛盾が消えるわけでもない。戦争がなくなる訳でも、ない。何も変わっていない。目先だけ、見てくれだけ,良くなったかどうかはともかく、変わったようだがね。人の世は、思い違い、嘘、勘違い、誤解で成り立ってるんだよ。だから、余り深刻に考える事はないんだ。いい加減なんだから。

 自分で持っている訳ではないんだけれど、個人的に好きなものがある。欲しいわけじゃないんだ。
自分で使う気は、もうとうないんだ。それは、シンガーと言う古い英国製の足踏みのミシン、手動のもある。古いとは言っても、今でも、インド、ネパール、タイ、ラオス、ブータン、ミャンマー、マレーシア、辺りで使われている。半世紀以上も使われていて、故障もない。たまに油差すくらいだ。耐久性は抜群だ。
優れものと言っていいだろう。しかも姿がいい。蒸気機関車みたいにメカニカルだが、煙は出さない。
その作業の音がいい。シンガーと言うくらいだ、機械が歌を歌う。
 たまに、どこかの田舎で、そのミシンを踏む音楽が聞こえてくるのはいい。ミシンを踏んでいる、おっちゃん、おばちゃん、おねーチャン、皆楽しそうだった。リズムがでてくるんだよね。却って、無味乾燥な、最近の電気式の寄りも、効率はともかく、実質的な性能は良さそうだ。誰もが宝物のように大事にしていた。最近、タイでは余り聞けなくなってしまった。電気を使わず、機械式だから、江戸時代のからくり人形とか、自転車、蒸気機関のような風情がある。進化のスピードがスローだった時代は、趣が大きかったように思う。文化、趣と言うものは、本来、スローなものなのだ。人の楽しみの原点も、その辺りにあるようだ。ここの所が大事なんだよ。

 急ぐ必要って、もともと何もなかったんだ。自分に合ったペースで行けばいいんだよ。ある一面での極端な進化や発展は、別の面では退化を起こすようだ。今は、過渡期の時期、面白い時期なんだよ。何でもそうなんだけど、出来上がったらもうつまらないんだよ。
 ダーウインの進化論のカウンターとして、退化論と言うのがあってもいいな。進化する反面、必ず退化する面が出てくるはずだ。ものや道具に頼らないと、快楽が得られないというのは、明らかに退化だよね。薬や酒がないと眠れないというのは、大変な退化だ。退化を避けるには、アンプラグド、プラグをコンセントから抜く事しかないのさ。地上に戻ることしかないんだよ。それは、アコースティックな、生の人間の本来の楽しみ、幸福を感じる能力、を発展させるという事なんだ。人が人であるという只それだけのこと。

 自由に生きたければ、シンプルに生きるのが良い。最近よく聴く言葉だが、”引き算と言う生き方”は、嘗ての足し算ばかりに慣れ切った社会、風潮、人々にとっては、消極的に見えるかもしれない。洗脳されてしまっているからね。テレビとか、マスコミとか、いろいろだね。臨機応変、引き算を見直そう。無駄がなくなるし、公害も少なくなるはずだよ。アメリカと中国はわかんないけどね…
 ボクシングでも、通常は、相手を打つことばかりに集中しているようだが、引くときのスピードに留意して、引くスピードを速やかに上げると、結果的に、打つパンチにも力がつき、連打も可能になるんだそうだ。長谷川穂積なんかそういうボクシングしてるよね。
 引き算がうまく使えれば、タオや仏法、タントラのように、人間本来の楽しみや快楽、真の豊かさを目指す事もできるんだよ。積極的で、心ある生き方だと思う。クリエイティブだよね。視点が変われば、可能性はいくらでもでて来るさ。

 聞いた話なんだけど、最近、女の子も代官山辺りでは、ふんどしをするんだって。しゃれたお店で売っているようなのだ。蒸れなくっていいし、エッチするのにも便利だとか… 実用的なんだね。要は下着である事だし、女の事は、女が決めればよい事だ。

 ものではないが、文化と言うものは、些細な知恵や愉しみで出来上がったもの。効率よりも、ずっとノンビリしたものなんだよ。些細な物事がかさなりあって、息づいているんだ。言葉もすなんだが、粋な言葉と言うものも、大地に漂ったり、染み込んだり、浸透していくものなんだ。ヴィシュヌ神のようなものかもしれないね。宇宙を維持するもの。それが希薄になってくると、詰まらないし、安心もできない。大げさに言えば、生きた心地もしなくなる。本来、文化は自然界と同様に、社会、地域、世界にバランス、調節、節度を組み込むようなものだったのだ。

 毎年、地上から25,000もの生物の種が絶滅している。人の所為なんだよ。モトに戻すには、500万年もかかってしまうんだそうだ。野生の動物達が飢えているのも、人の所為。かれらが食える世にする事は不可能じゃない。

 一方、南アジアはまだまだ文化先進国。生活大国。やりすぎないことで、バランスを何とか保っている。新しさよりも、親しみ、アットホームがテーマとなっている。ゆったりとしたスローなスピードがいい。遅さとしての、しっかりとした文化が根付いている。神や仏も集まってきてしまう。自然と調和した緩やかな文化。何らかの都合ではなく、生きるための楽しみとなるもの。形式や効率よりも、楽しみにフォーカスしているもの。文化自体には、打算がないってのがいい。

 国家とか、経済とか、競争とか、様々な主義南下が枠組みを作るとき、その外にあるもの。生命の時空間。思いのほか、形のないもの、文化はここにスタンスをおいている。それが本物だ。今最先端の物理学、波動力学では、古代のタントラ、伝統文化、広く長く共有されてきた英知を消化し続けているふうにも見える。昔の人は頭も心も豊かだったんだね。波動力学などは、そのままタントラ。
 
グーグー・ワーワー

 さて、矛盾しているようだが、矛盾を認めると、矛盾は消えていく。だから、矛盾、ホワイ・ノット!
人には、怠けるという権利がある。同意する? 休む、と言う文字を見てみると、人が、木に寄り添っている。

 と言うわけで、久しぶりにジャングルを歩いてみたくなった。カオヤイでもボルネオでもいいんだけどね。要は背筋を伸ばし、心の羽を広げられればいい。なぜといわれると、生きていてよかったと思えるからだ。休むという事は、根源的な快楽なんだね。象にも乗りたいし、メガネザル、スローロリス、ムササビもかわいい。虫や鳥も、花もすごい。
 象に乗ってトレッキングすると、象の呼吸がゆっくりだから、その呼吸に同調するんだね。数日心地よく過ごせるんだ。象は、下手な人間よりもズーッと上等な性質をしているし、頭もいい。柔らかな時間、今を堪能したいからね。イノチの洗濯だよ。今が、ズーット続いていくんだから。そのうち、庭に星でも植えようか…

うん、極楽だよ。あなたが笑えば、世界が笑う。
時にも風がそよぎ、時にも花が咲く
ハヴァー・グッタイム
                         
では