何かに夢中になっていると、時間はあっという間に過ぎ去り、汽車でゆっくりと窓の外の風景に心を委ねている時とでは、全く、異質な時の経過と言う物を感じる筈だ。人を待っていて、待ち人現れず、イライラしているような時には、又、違った時の質と言うものが感じられる。時に形はないが、それぞれのクオリティがある。
厳密に言えば、時間にも、”時感”というものがある。腹時計は、誰でも持っているだろう? 時間、つまり、時間の感覚にも、漠然としているから、数値的に計ることはできないが、時には、重さもあるし、流れや、薫り、密度のようなものもある。
”宇宙”、”世界”と言う言葉は、仏教用語だが、時間と空間(時と所)を表している。それは、今、目の前にあるし、目の背後にもある。何ら特別なものではない。「時」と言う言葉は、宇宙原理の一翼を担っている重要な言葉だ。地球が、自転しながら、公転して太陽の周りを回っている事から、昼と夜が生じ、人々に時間の観念が生じてきたのだ。
時はただ流れている訳ではない。それは相対性理論だ。あなたのあり方次第、ということだ。例えば、象の時間、犬の時間、猫の時間、ねずみの時間、鳥の時間、それぞれの生き方や身体にあった時間と言う、生理時間と言うものがある。大きな自然界という世界の中に、様々な、時間軸と言うものがあり、それぞれがその時間軸に合わせて生きている。均質な時間と言う、ニュートン力学的な物理的な時間と、生きている時間と似は、大きなギャップがある。人工的な時間と、自然に即した時間とのせめぎあいと言っても良い。
現代風の時間には、例えば、2008年12月17日 9時55分、何がしかの秒。ただの数字の羅列。無機質この上ない。本来、時を取り巻いているはずの感覚、感性がすっかり排除されてしまっている。生きるな、といっているかのようだ。心もない、柔らかなときの感覚もない。耐えるにも限界がある。
時間には、いろいろな時間、そして時間軸と言うものがある。自然に近い所で暮らしていれば、いろいろと観えて来る。海辺ならなお良い。と言うのは、潮の満ち干、一日の変化、空気が良い事、風邪が涼しいこと、朝、夕べ。月の夜、何よりも、宇宙のリズムに満ちている。素朴な村の人々、プラグを抜いた、欧米人、日本人、もいるが、ここでは、国籍というものには意味がない。ヒンドウー、仏教と言う、スローな文化がある。生きた心地がする。テレビやインターネットもあるが、気が向けば、動物的な時間、神話的な時間にも手が届く。
海辺から、世界を眺めてみると、エネルギーを使えば使うほど、時間の進み方が早くなっていく。人も、鼠に近い時間帯に暮らすようになる。膨大なエネルギーを使って、時間を早め、地球の温暖化に貢献している。それが、お金になるからだ。このままいくとは思わないが、お金や効率の為だけに払った犠牲は大きい。人の呼吸そのものもせかせかした、忙しいものとなっていく。
ところが、人本来の,身体の時間は、古来からそれ程変わっているわけではない。この100年ぐらいで、急激に変わったのだ。
かつての、日本に於ける、光の原理では、”物事には蔭(陰陽)がある”。時の感覚では、”物事には。時がある”。という。只、単に、物がある、蔭がある、時がある、と言うのではなく。「物に、時が宿る」というふうに考えてきた。この考え方は面白い。
物事に、時が訪れ、そして時が宿ると、物事に意味が出てくる。と言う意味だ。時が宿るとは、スピリットが入る、と言う意味になる。オーガニック(有機的)だろう? 生とは、スピリチュアルなんだよ、根本的に。人の身体の場合なら、気合が入る、と言うことだ。
その時間に、どんな事が、どんな風あったかによって、只の一時間が、一生の長さになる事だってある。逆に、一瞬のように過ぎあってしまう事もある。地域や、文化の違いによっても、時間の室は変わってくるものだ。重力も関係あるかもしれない。ダイヴィングは、無重力を楽しむものだからね。
無駄と言うと語弊があるが、時を過ごす達人は子供達だった.だから子供達は元気が良かった。子供には敵わない。
子供の頃は、野球もしたし、相撲もよく取ったし、魚釣り、泳ぎにもよく行った。トンボや虫たちともよく遊んだ。毎日泥んこになって遊んだ。充実していた。それが普通だった。疲れても、その復元力も半端ではなかった。不満と言うものはなかった。最近の子供はどうなのかな?
時を遊びに変える、無駄な時間、自由な時間、輝いて充実していたのだ。子供にしてみれば、時間を有意義に使っているのであって、無駄にしているわけではなかった。人は、遊ぶ為に生まれてきたのではないだろうか? 大人になって、多少、遊びの室にも変化はあるものの、泳いだり、歩いたり、のんびりと花を眺めたり、自然と対話したり、無視や動物たちと遊ぶのは、人の本来の、自分が自分である為のありようとして、最重要課題なのだと思う。生きるという意欲の為にも遊び心を忘れちゃいけないね。遊ぶ喜び、それが生のセレブレイション。
状況しだいで、”時”は、スピリッツ、或いは髪のような働きをする。”時の氏神”と言う言葉があるだろう。ある瞬間から、何らかの事、物、人、機会で、流れが変わってくることがある。時節、好機、タイミング、それをはずしたら意味がない。英語の場合でも、グッド・タイム、オポチュニティー、チャンスとか言うのだろう。日本語だと、「時を得る」と言う表現をする。面白い言い方だが、言葉は便利なだけじゃない。宇宙を背景にしている時には、実に面白い。こんな所にも文化の厚みを感じてしまう。
あえて、”時感”と言う言葉を使わして貰うと、”時感”とは、一様ではない。ある意味で、実にいい加減なものだ。時計によって刻まれる時間を、物理的な時間としても、人には寝ているときもあれば、忙しく街の仲を動き回っているときもある。南の島で、そよ風に吹かれている時もある。喚起のときがあり、つらい時があり、のびのびとして生きる時がある。
人の本性は、効率とか、生産性とかには、むしろ無関係で、無為に時間を過ごすという事は、ある意味で、実に有意義な事なのだ。”時と場合による、所による”というのが、古来からの、日本の”宇宙感覚”、”状況判断”だったのだろう。
時と言う言葉には、機会、タイミングと言う意味もある。それは、野生の動物だって知っている。昔の人は、時計なんか持っていなくとも、時の意味を知っていた。時計を持っているからと言って、時の事を知っているわけではない。現代人とは、又、違った観念を持っていたことだろう。
さて、時は人のマインドに作用する。といわれている。マインドがなければ、時を感じない。時間とは、人の観念と同調する。無心とは同調し得ないのが、時間だ。意志は、全く無関係だ。要するに、頭を初期化できれば、時間も消える。人は、無意識の内にも、無時間と言うものを体験しているんだよ。瞑想とは、それを意識的に起こすということなんだ。現実から、源への逆算したり、応用したりする、商店を変えたり、ずらしたりといった、内的なアートと言ってもいいんだよ。この世で、一番贅沢な楽しみだ。
”今が今になる”。 それが今だ。純粋に、今のど真ん中にいるときは、時の感覚、時感は全く違ったものになる。神話的時間にだって入ることができるんだ。今と言う、ヴィジョン・クエストなんだよ。人はどうしても、過去の思いや未来への夢、希望にとらわれてしまっているからね。現実には、今ということが、全ての源なんだからね。だから、今をディープに堪能しよう。唯一リアルなのは、今ということだけなんだよ。後は全部嘘なんだ。生と言う大河は、そこにだけ流れてるんだから。
何も起こっていないときに起こっているのは何なんだろう。今、無心で呼吸もゆっくりならば、時の質も変わる。空気も変わる。心地よく居たければ、じきにそうなる。自分の好きなところをイメージすればよい。せせらぎの水音、かわせみの飛翔、蓮の花、ジャングルのざわめき、美味い空気、花の香り、静寂。秩序が自ずと整ってくる。自然と一つになれると、息吹が感じられ、力が現れ、充実してくるものなんだ。
この世に生きている以上、者や時の世界、物事の世界を無視したり、否定する気はない。だから、様々な事にも、程ほどに付き合っていく事だろうし、多忙になれば、自然に無私の沈黙、スローなライフに戻ろうとする。そこがツボなんだから。それが、自然、普通ってものだ。スローはビューティフルだ。損得とか利害とは違う四。向き不向きもあるし、個人差もあるからね。でも、メリットも大きい。
物には“程”、人には”分”、時には”所”と言うことがある。生きてさえいれば、いずれ観えて来る。古来からの、知恵である。世の中と言うものは、一言で言えば、矛盾である。これだけは、明白だ。明日のことは、誰にもわからない。表向きはともかく、人のありようも千差万別、百人百様、男女差もあり、暮らしも違い、身体も心も違う。それで成り立っている。生きている人もいるし、そうとは知らず、死に向かっているような人もいる。辻褄の合わないのが、人間だ。