2009年10月29日木曜日

カタチと時空間の愉しみ

 子供の頃、良くキャッチ・ボールをした。天気がよければ、空は何時も青かった。その時は、大抵、ボールに触っていた。空が青いのが、ごく普通の事だったのだ。 ボールで遊ぶ事は,宇宙と関わって遊ぶ事の始まり、となってしまった。
 ボールを投げると、青空に、白い放物線を描いて、相手に届く。ボールを受けて、相手に投げ返す。この単純な遊びから、様々な事が見えて来た。まずは、言葉に依らない、コミュニュケーションだ。言葉以上に、以心伝心する、ということだ。

 まずは、腹でゆっくり深呼吸。そして、センタリング。何度か、息を吸い、息を吐ききると、次第に、体中に、腹に気合いが入ってくる。センタリングとは、腹に力が集まる事だ。センタリングが無ければ、自分の体を思う様に動かせないのだ。腹を極める、腹が極まる、とはこの事だ。さすれば、頭でっかちにならずに済む。


 上手く投げるには、体重移動させるから、当然、軸足が大事だし、それに伴って揺らぎ(傾き)、捻れ(螺旋の働き)が起き、宇宙に気が発して行く様な気持ちになり、体重移動を利用して、身体全部の力で、ボールを投げる。全身の力、遠心力、ねじり、揺らぎの力を使って、流れる様に、水が流れる如く投げると、無理が無く、エナジーが、体中を循環し始める。それは、実に気持ちがよい。
 体も、使わなければ、自ずと不自然になり、ぎくしゃくして、自然に沿った動きができなくなってしまう。エナジーが動かない、働かない様になってしまう。肩に力が入りすぎたり、どうしても、意志や頭に、頼ってしまうのだ。身体の声さえも聴こえない。だから、何の打算も無く、素直な気持ちで投げ、そして感じる事、フィーリングを使う様にすると、それだけで気持ちが良い。今でも忘れない。頭も、整って来るし、身体も柔らかく、弾む様になるのだ。全て良い。普通でいられる。

 普通とは、”普遍性に通づる、ユニヴァーサルになる”、という意味だ。決して平均的という意味ではない。誤解の無い様に。
 力は、無心、そして呼吸から生じてくる。腕の力、肩の力だけで投げる訳ではない。それでは、ボールに力が乗ってこない。それに一部分だけ酷使したら、偏りの特徴として、長くは続かない。
 先ずは、センタリング、身体の中に”軸”を意識する事、体重移動、螺旋の力、渦の力を使って投げる事が重要、あとは,ロックン・ロールだ。

 今年、ベルリンで陸上の100メートル、200メートルで、世界新記録をだした、ジャマイカのユセイン・ボルツの走りを見ていると、力みが無く、まるで流している様な、軽さで、壁を破った。ビデオで10回以上も見ていたので、心に焼き付いている。無理が無い。野球でも、相撲でも、自転車でも、水泳にも同じ事が言える。気持ちよく、事をなすには、要はコツを掴む事だ。

 受ける時には、ボールの軌道を良く見て、軌道の先を予想しなければならない。放物線を描きながら、ボールが向かってくる。瞬きせずに、ボールの軌道を読む。最初は勇気がいるかも知れない。最初のうちは、どうしても自分に自信が無いからだ。習うより慣れろ、慣れてくれば、ツボも、コツもが解ってくる。
 ボールを受ける瞬間、腕を引きながら、ボールの力を逃がす様にすると、ボールを受ける時、ショックが少ない。道理が判れば、そして、それに沿って行けば、簡単な事だ。ボールの力を吸収して、ショックを和らげるのだ。サスペンションだ。ボールの動きに、素直に対応しなければならない。ボールが、上手くスポッとグローブに収まると、実に気持ちがよい。何にもいらない。

 今朝、タイのテレビで、ジェット・リーのカンフー(クンフー)映画を見て、身体の動きの妙が、気になった。動きが素晴らしかったのだ。これに触発されて、身体に付いて、何か書きたくなったのだ。
 身体とは、体感しうる、唯一の”現実”なのである。身体が無ければ、私は居ない。頭は、どうしても、現実以外の事を考えたがるものだ。そう言うときは、エナジーを循環させて、エナジーを頭から、身体の方に回すのだ。身体があるから、感じたり、動いたり、反応したり、楽しんだり、喜んだり、苦しんだり、悲しんだりする。幸い、私は、自分の身体が、気に入っている。使い慣れてる、と言った方がいいかも知れない。

 忘れているかも知れないが、身体にとっては、脊椎が肝心なんだよ。尾てい骨から天頂迄、貫いている一本の軸だ。人の体は、消化器系、生殖系と循環器系だけではない。神経系が全てを統御してるんだからね。禅もタントラも、脊椎を重要視するのだ。だから、医学にも則しているんだよ。そこに神秘が有るのも事実。そこが軸なんだから。

 

 スピリットが、身体に入れば、脊椎、そして、自律神経がきちんと働けば、行為,そして無為、両方のの可能性が、大きく広がってくる事にも気がつく。

身体が、思う通りに、素早く動く事は、それだけでも素晴らしい。

 マサイの人達は、狩りに行く時、祭りの時、男達は、集まって高くジャンプする。生半可では無く、かなり高く飛ぶ。元々、皆、背が高いのに、ハイジャンプするからその高さは凄い。

オリンピックのハイジャンプ競技(走り高跳び)にでも出たら、とは思うが、彼らに興味は無い。

最高に、いい生活してるんだから、当然だ。

狩りに出て獲物を見つける為に、遠くを見る為もあるのだろうが、同時に、足腰のバネを生かしている。そして、エナジーは螺旋状に身体を巡り(クンダリーニ)、そして、エナジーは昇華して、全員がハイになる。

タントラ・ヨーガのケニヤ版だ。意識も、自律神経も、ギンギンになってくる。

気合いも入って、最高に、気持ちよい。

そこで気持ちを一つにして波長を合わせ、役割分担し、狩りなり、祭りをを成功させるのだ。

レッツ・ゲッツ・トウギャザー・アンド・フィール・オールライト!

 お相撲さんだって、四股を踏み、腰を割って、身体をねじり、身体の体勢を柔軟になる様に整える。呼び出しさんや行司さんが、間合いを上手く整え、そして仕切りを重ね、少しずつ、気合いが入ってくる。

儀式、様式は様々な所で使われる。それは、本来、力を効果的に働かせる為だ。

単に勝ち負けだけではなく、宇宙全体が、恰も錦絵の様に、見るものには映るのだ。単に勝ち負けだけが目的のスポーツではない所が、厚みがあっていい。

 健康の定義は難しいが、健康とは、気持ちが良い事、そう言う事だ。

自分の体を”内観”出来れば、自分でわかるものだ。

脊椎が、柔らかく、シャンとしていたら、ほっておいても、自立神経が、後は上手くやってくれる。そのように出来ているのが。人の体の宇宙なのだ。有り難いね。

それが、自律神経の仕事だからだ。さすれば、怖いモノなしになる。

そして、身体を大事にすれば、死ぬ迄使えるし

 身体を通じて、考えたり、創造したり、直感したり、歌を歌ったり、子供を作ったり、食べたり、飲んだり、トイレに行ったり、車を運転したり、歩いたり、走ったり、泳いだりもする。何もしてない様でも、色々な事をする。

身体は、ありとあらゆる事象に関わっている。眠ってる間でさえ、働いている。

身体が無ければ、言語も、文化も、文明も、宗教も、経済も、遊びも、スポーツも有ったもんじゃない。

身体が無ければ、あなたはいない。


 タントラは、身体と精神の両者に関わる、科学、そして全肯定的なメソッドだから、否定するものは、何も無い。 シヴァム! 全て良い! 身体こそが、本来の寺院であると言う。

だから、多くのヒンドウー寺院の内部は、人の意識を目覚まし、力が効果的に出る様な、特別なカタチの内空間を持っている。

頭は兎も角、意識に耕造は、古代から全く変わっていない。そのまんまだ。

ヒンドウー寺院の表の姿は、ヒマラヤを象ったものと言われている。

身体こそがエネルギーを、行為、そして無為にも変えるジェネレーターなのだ。

使いこなせば、自由自在。

使わなければ、もったいない。

 もし、身体がなければ、私はない。

さすれば、無さえも無い。

無を認識出来れば、私は居る、という事だからだ。


 人間、詰まり、ホモ・サピエンスが、直立して、今の様に”人”になったのは、二本足歩行故にである。脊椎が真っすぐ垂直方向に伸び、脳が発達し、手の指が器用になり、視野が広がり、火を使い、今に至っているんだからね。

その背景には、”重力”という、生命、生活に多大な影響を及ぼす、不思議な力が働いている。

それは、誰のものでもあり、誰のものでもない。重力は、実に民主的だ。

 木の葉が木の枝から落ちるのも、木の葉が、重力に引っ張られている、と見ると、より現実感がある。

落ちる、と引っ張られる、というのでは、ニュアンスが、全く違うだろう? 

コンセプト次第で、私達も、全てのものも、地球の中心、コアに収束している事が認識出来るだろう? 


 一寸、イマージン、重力がもし絶たれたとしたら、あらゆるモノゴトが雲散霧消してしまう。まるで雲霧仁左江門だ。小説や映画なら、面白くていいけど、現実に、もしそうなったら、宇宙服が必要になるね。

まさに重力、グレイトである。

 重力の働きが、ボールの動きに作用して、”放物線”という軌道を生む結果を生み出す。どんなに速い球を投げる、プロのピッチャーでも、完全に直線状に球が走る事はない。どんな豪速球も、直球でも、放物線を描いて、ボールがキャッチャーに届く。そこから、自然界に直線はない、という事にも気づくだろう。重力が働いている事を、無視出来ない。水平線でさえ、ほんの僅かだが、カーブして見える。地球が丸い星だからだ。どんなモノでも、重力には逆らえない。重力は選り好みをしない。


 直線とは,人間の都合で造った理論,理想、そして”英知”でもある事なのにも、気づく。文明は直線のパワーに支えられて、何千年もの永きに渡って、自然を切り開いて来た

モノゴトを、整理整頓する為の智慧、理想と重なった面がある。人のマインドと言って良いかもしれない。反面、やりすぎると怖いよねー。

それは、諸刃の剣だ。


 海の中でも、山の中でも、ジャングルでも、自然の中に深く入り込んで行くと、人工的なモノが無い。直線がない、というのは、大いなる安らぎである。ホッとする。小学校で、キャッチボールを始めて、集中してくると、周囲のカタチに惑わされなくなる。それは新たな発見だった。それが無心だったのだ。


 ボールを投げる時、人差し指と中指でスナップを利かせ、ボールに回転を与えると、ボールの軌道を変化させたり、スピードを上げたり、放物線が奇麗に描く事が出来,球にも力が乗ってくる。

又、回転を与えないナックルボールの様な球種では,こっちの方は、どうも上手くは投げられなかったが、ボールがふわふわ、ゆらゆらとして相手に届く。

バッターも、キャッチャーも、ボールの軌道を見極めにくい。

ボールの回転力、そしてその妙と言っても良い、変化球という、影の力も知った。

須く、モノゴトには、カゲ(光と蔭、陰陽の両方をさす)がある。

だから面白い。


 普段、無意識で気がつかないが、地球が自転しながら、公転している事とも、重なってくる。今も、そうなんだよ。そう、宇宙船地球号だよ、ここは。

 丸いボール、そしてボールの放物線と遊ぶ事は、最初のマナビでもあったかも知れない。ある種の、充実感と愉しみであった。自転車のバランスをとる事や,カーブを上手く曲がる事、水泳を覚える事、とも何処か共通する事があった。理屈よりも要は実践だ。やってみなくては、智慧も工夫も浮かんで来ない。


 水泳でも、泳いでいるうちに、水に乗ってくる、という感覚がある。身体が軽くなり、スピードも乗り、身体の一部が浮き上がってしまう。

気持ちがいいなんてモノじゃない。面白い。

そのコツ、ツボと言うか、フィットネスが判ると、面白くて、夢中になってしまう。

ピッチャーのボールも、臨海速度を超えると、グーンと伸びてくる感じがする。力の有る球になる。そんな球を投げられる様になると、野球も面白い。マラソンだって,ランナーズ・ハイという、特別な意識レベルに入る事がある。これらは、タントラの原理、クンダリーニ・シャクティーの働きだ。


 無心であればある程、力はやって来易い。水は低きに流れる、というだろう。  そして、エナジーが循環し始める。

 地球に地軸が有る様に、ボールを投げる時、身体の”軸”が如何に極まるか、体重移動が如何に上手くいくかで、プロセス全体が、良く判る。

バランスをとる事自体が、愉しみとなった。流れる様に事が運ぶと気持ちがよい。

やがて,”軸”から”芯”と言うものを知り,そこから,”信”が、自ずと生じて来る。

軸そして芯から”信”が生まれた。少しずつ、自信が育って来るのだ。そう言った事は、すべて腹から伝わってくる。決して頭からの情報ではないのだ。

運動とは、遅かろうが、速かろうが、須く、宇宙的。コスミック・ダンスなのだ。

スローなのがいいね。

 これは大きな愉しみとなった。身体も柔軟に対応出来、とっさの判断力、運動神経も育ってくる。シナジーというう力、相乗効果だ。

センタリング、中心が意識出来る様になると、内なる自己を知る事が出来る様になり、自我の雑音に惑わされる事も無くなる。外の雑音も気にならなくなる。

そして、自分が自分に満足出来れば、意識の状態が、周囲に開放的な雰囲気をもたらす様になる。生きる事そのものが楽しくなってくる。

生きる意味が、はっきり分かってくる。

そんな視点で、世界や環境を見ているのが、最近の愉しみだ。


 生がポジティヴになってくれば、簡素に暮らす能力も付いてくる。余計なものがいらなくなるのだ。自由と豊かさを楽しみ、時間にも空間にもユトリが出来るというものだ。子供の頃、遊んでる最中に、そんな感じを持った事がある人も多い筈だ。そして、どんな行為の中でも、バランスを回復する能力、”復元力”が付いてくる。サーフィンやモーターサイクルの様だが、予期せぬ出来事にも、即、対応出来るようになってくる。


 ボールを受ける時と、投げる時とでは、使う精神作用や、筋肉の使い方も違う。例えば、凸レンズを使って,火をおこすとき、レンズの片側で,全面で日の光を受け、反対側で、その光を収束して、熱の力を生み出す。レンズの裏と表で、全く違う事を同時にやっている。陰陽の道理が重要な要素となる。慣れて来て、無心で、投げあっているうちに、身体も、精神も、何故かほぐれて来て、リラックスできる事に気がついた。道理に沿って、身体を動かして、揺らぎや捻りの要素を加えと、”自ずと”、そこにパラダイスが出現する。春が来れば、草は、ひとりでに生えてくる。


 身体と精神との、微妙な関係にも気がつき、新たな妙味と愉しみを知った。恰も、その”放物線ごっこ”と言う、単純な遊びが,なにか面白く、まるで虹の様にも見えてきたのだ。子供の成長が速いのは、よく遊ぶから、学ぶ事も多いからだ。どんな行為でも、或は無為でも、遊びでも、内観できるようになれば、須く、面白いものだ。”遊び”が、”学び”になっていった。


 学び(マナビ)とは、昔の日本では、以前にも述べた事があるが、『真奈霊(マナビ)という、スピリット』と、交流する事であったそうな。そこから、『学び、に問う事、即ち、”学問”』というものが生まれたそうな。本来、学問とは、スピリチュアルな事、そして遊びでもあったのだ。ここにも、マナビというカミは、いるようだ。今でも、よく遊んでいる。

 知識を、只、頭で学ぶというより、身体を通して実体験する事が,何よりの,マナビであった。それは今も続いている。知識だけでは,意味が無い。智慧にはならないのだ。生きるコツを知らなければ、意味が無い。実にならないし、納得しない。無用の長物になってしまう。もったいないよね。普段、それほど意識しなかった重力が、ボールを投げる事で,それが、あらゆるものに働きかける、という事が実感できた。同時に様々な動きの中で,重力を意識しつつ、重力にそって、しかも重力を越える事が出来、ある種の”軽やかさ”を覚えた。


 昔のタオイストの言葉がある。


”有為によって,無為に到れば,モノゴトは,了解される”


 普通の日本語にすると、納得する。腑に落ちる、という意味だ。自分の中の深い部分が、“共鳴し”そして納得する。実質(サブスタンス)が、なによりも大事なのだよ。あらゆる力と有効性、効果は、タオ、宇宙原理に従う事で、モノゴトが如何に起こるかを知る事になる。コツを知るのはこのときだ。自分の中で、何かがはじけたり、身体が軽くなったり、内側に、稲妻を見たりもする。運動は、須く、双極性、対極性、波動、捻れと反発、融合、傾き、そして円運動、螺旋運動から起こってくる。もし、万物が、固定的に安定していたら、何の変化も、発展も、多様性の可能性も無くなってしまう。少なくと生きていない。死んでいる。


 動きは、傾きや、ずれ、ギャップから起こってくるのだ。それが生のエッセンスだ。それが無いと、生は成り立たない。ボクサーや剣術使い、お相撲さんが、わざと隙を見せて、相手を誘発するのはこの為だ。格闘技には共通しているね。あらゆる力は、知ろうと知るまいと、この静と動の原理との協力関係から生まれる。静の中の動き、動の中の静、そこで、始めて、生の意味を知る事が出来る。モノゴトの究極の意味が、言葉で把握出来ない事、言葉を越えている事を知る。何れ判るよ。でも、これは、自分の自身の宝と言ってもいいが、モノではないし、かたちもない。人にとられる事も無い。説明出来なくても、実際に、起こす事が出来れば、判っていれば、それで良いのだ。実に簡単な事が、言葉やコンピューターで説明すると、やたらと入り組んで、複雑になってしまう。次元やモードが違うからだ。論理は、とてつもなく、遠回りしなければならない。


 だが、生は,頭を、論理を越えている。そして、身体は、頭より賢い。”目の前にあるものが、そのものだ”、といっても、判らない人もいる。おかしな話だ。只、単純に、素直にみれば良いのに、理論や観念、損得、損得で、世界を見ようとする人は、なんであれ、モノゴトを複雑にして歪めてしまう。正しくあろうとしてる、のかも知れないが、そういう努力や姿勢が、歪めてしまうのだ。

 前述した事だが、重力に関心を持つと、全てのもの,人、動物、植物、カタチのあるものは,全て,地球の中心、コアに収束している事が良く判る。例外が無いというのも凄い。何の差別も無い。地球の裏側でも、逆さになって,地上に立って、中心のコアに収束している。不思議だよね。

 子供の頃、宇宙空間の彼方から、地球を見ている,と言う”ヴィジョン”が観えた。恰も,それは、自分を眺めている様でもあった。丁度、トゲトゲのウニみたいな地球が、中空に浮かんでいる様に観えたのだ。月から撮った地球の写真を見たのは、その大分後だった。地球を観る為に、月にいったんだなと思った。


 ボールは、何故丸いのか? それとも、丸いから、ボールというのだろうか? アメリカン・フットボールやラグビーに使うライスボールは、丸くはないけどね。投げるのにコツが要るんだよ、あれは。実利面から言うと、野球のボールは、掌に馴染むカタチであること、しかも、投げ易く、受け易くする為でもあり、又、地面に落ちた時、バウンドがスムースに行くからだ。弾んだ先の予想が計算し易いという事がある。丸いカタチは、坂の上に置けば,下に向けて転がって行く。水は低きに流れる。と、同じ道理だ。状況に対して,柔軟性が高い。仏教では真如(シュンニャータ、無、ゼロ)を表す、と言われる。全ての始まりだが、充足、満ちるといった感覚的な深い意味が在る。無だけが、満ちる可能性がある。


 宇宙の力は,円形を通じて働くから、であろう。だから、四角い部屋のまん中に、別に、畳の部屋ではなくともいいが、竹ひごと和紙でできた、シンプルな丸い提灯の明かりがあると、部屋中が和むだろう? ある種の力が生じるだろう? 形の力だ。満月の様な? ムーン・リヴァーは、河幅が、一マイル以上もある大河、だそうだから,誰しも潤うよね。


 日本人だけがそう感じる訳ではない。今では、ヨーロッパでも、タイやラオスでも、ヴェトナムでも、提灯の明かりは、珍しくなくなって来ている。星の数はうんざりする程沢山あるけど,とりあえず,地球では,月は一つだからね。木星には月が沢山あるそうだけど、一寸、遠いやね。南の暑い国では、殊更、月に人気が集まるのは、当たり前だ。満月を国旗のデザインにしている、ラオスなんかは,フルムーンの日は、何時もお祭りになる。フルムーン・パーティだね。


 赤ん坊は、その姿全体が丸みを帯びている。子猫も子犬も、ひよこや、そして小熊もコアラもパンダも丸い。丸いものが、動き回ると、それだけで,周囲は和らげられる。地球も,月も,星も、太陽も丸い。モノには、丸くなろうとする性質があるようだ。卵だって、微妙にいいカタチをしている。素晴らしい、と思うよ。そして、星の軌道も丸い、或は、楕円形だ。季節の巡りも,大きな円を描くではないか?


 円は、やがて、心のカタチにもなってくる。気に入った、丸い石でも、巻貝でも、ポケットに入れて、たまに手で握ると、何故だか、心が落ち着く。無心に、ストーン出来るのだ。

エナジーが戻って来て、アット・ホームになれるのだ。 

 お金と言う、非常に物質的なものにも、円と言う単位,通貨にスピリチュアルな意味を持たせたている。ここの所が面白い。円とはよく考えたものだ。よく循環しそうな、名前なんだけどね… 隅々迄、廻る様になるといい。


 ”形”には、何らかの作用性、詰まり、それなりの力がある。その力を引き出すには、その”力の性質”を良く知らねばならない。カタチ、という言葉の、カタの語源は、偏り、片寄り、カタヨリ、と言う言葉から来た言葉らしいが、”方向性を持ったエナジー、力が、カタチに固定されている”、と言った意味合いであると言う。勾玉がいい例だ。日本、中国、イランでは、よく見かけるし、タイやインド、ラオス、マレーシアでは、カシューナッツを良く食べる。カシューナッツをから煎りして、チキン、空芯菜、竹の子、有り合わせの野菜でもいいが、スパイシーに炒めると、実に美味い。最高の”ぶっかけ飯”が出来る。


 一方、チというトーン(言霊、ワード・スピリット)は,イノチ、乳、血,地、智、地、そして、チッチーのチッ、と言った言葉、生命力、智力,地を意味する様だ。優れたカタチには、スピリットが宿る、というのはそう言う意味である。カタチがスピリットを生み出すのだ。詰まり、人の心や、もっと深い深層に迄届くとそこで、カタチと共鳴するんだよ。

無論、人それぞれ好みも感性も違うだろうが、力のあるカタチとはいいものだ。

トースターでも、やかんでも、急須でも、陶磁器も、茶碗でも、バイクでも、車でも、カタチが気に入ると、使う事、持っている事、そのものが楽しい。豊かな気持ちに成れるなおだ。1950年代の、アメリカ製のトースター、カタチが良かったね。

只、役に立てばいいじゃ,詰まらんだろう。シナジー、相乗効果が起きないからだ。エナジーの働きを無視してるんだよ。視力が無いのかな? 

生を知らないのかな、・・・・。

使い込んでいるうちに、馴染んでくると、カタチにフィット出来ると、モノにも魂が入って来るからだ。

 

スピリット(精神)&マター(物質)。


 カタチの作用性は,普段,以外と気づかないものかも知れないが,それ故、気づけば、作用性の効果は、思いの外、相対的に強くなって来るのかも知れない。イマジネーションやスピリットを喚起するカタチもある。昔から、人は自然の石に、神秘の力を見て来たのだ。

昔の、無垢で素朴な人にとって、石は、カタチの始まりだったのだろう。

今でも、聖なる石、は世界中に数多い。

今、住んでいる島にも沢山、いい石がある。

ここは、天然の石庭、ストーン・ガーデンだ。

石は宗教さえも生んだ。昔の神託(オラクル)は、石を通じて伝わった。

今でも、らんちき騒ぎを繰り返す騒々しい世界からは、見えない所で、世界中で、実質的に働いているのだ。それは、途轍もなく大きな世界なのだ。

 やがて、神秘的なアプローチと、科学、物理学とが出会う事も有りそうだ。

先日、マレーシアからの帰り、汽車の中であった、ロシア人で、タイの大学で教鞭をとっている、未だ若い物理学の教授が、その事を離していた。

何時か、タントラの事を教えろ、と頼まれてしまった。

アジアは、そう言う意味で、宝庫でもあるのだ。

 音楽にだって、そしてスポーツにも、様式や形式がある。言語は、カタチの代表選手かも知れない。日本語、英語、フランス語、チベット語、イタリア語、ヒンドウー語、ベンガル語、タミール語、マラティー、タイ語、ネパーリ、ブータン、中国、マレー語、インドネシア、アボリジニ、アラビア語、ヘブライ語… 沢山あるが、そこに、文字も、カタチも、様式も、そして文化も、文明も、全て言葉を通じて生まれた。

 イスやテーブルにも、使う為の有効なカタチ、気脳的なカタチがある。用途に応じた、使いやすさが、今では、目標となっている。

船のカタチも、飛行機の翼も、蒸気機関車のカタチも機能を生かす為のカタチだ。どれもそれなりの役割に合った、素晴らしいカタチをしている。

プロペラやスクリューは、風や波を機能的、有効に生み出す、捻れと傾きの力だす為のカタチになってる。

当たり前の話だが、自転車や自動車のタイヤの円周が丸いのは,スムースに、上手く転がり易いカタチになっている。蜘蛛の巣は素晴らしいデザインだ。ローマの街、ニューデリーの街、パリもそうだね、を、上から見れば、まるで蜘蛛の巣を繋ぎあわせたかの様だ。今、ニューデリーは、生まれ変わろうとしていて、大工事の真っ最中の筈だ。世界一の都になるという事だ。期待しよう。

動物、鳥、魚、虫達からも、人はカタチを真似して来た。

彼らは文明の師匠となってしまった。

 バイクや自転車のタイヤを輪切りにして、断面が丸いのは、車体を傾けて、上手くカーブを曲がる事が出来る様にする為だ。自動車ならその必要がない。傾けないからね。当たり前だが、四角かったり,六角形では,うまく廻らない。一歩渦って、八角形でも、十角形でもだめなんだ。丸くなくっちゃ駄目なんだ。

 以前、ホンダの造形室に居た人に聞いたんだけど、当時、ホンダ・ドリーム、確かC-70だったか、そんな名前だった、という”角形”のデザインを取り入れたバイクがヒットしていた時代の事だ。本田宗一郎ファウンダーが、”今度は,タイヤも四角いのにして見よう”、と言って,実際に、断面が四角いタイヤ、の試作品迄造らせたそうな。そして、実際に,社長自ら、試乗しようとしたらしい。現実には,走行不能なんだけどね。”こりゃいかん!”と言って、すぐに、あきらめたそうだ。まず実践。文明とは、トライ&エラーの積み重ねなんだね。


 皿のカタチは、窪んで、平らかである事が、力、即ち,機能になるわけだし、お茶やコーヒーを楽しむには、液体を入れる為に、充分な深みがあって、口は丸い方が、旨い茶がのめそうだ。まあ、口が四角い茶碗では、美味くなさそうだがね。私はお茶好きだが、やはり、お茶は丸く飲みたい。


 単純に、丸いカタチには、どんな意味が在るのだろうか? 円的直感と言ったらいいだろうか、空性、精神作用にも深く影響する。チベット仏教のマンダラ(円という意味)は、須く、円形を使ったものが多い。中でも、円と四角と十文字を組み合わせているモノが多い。ヒンドウー教のヤントラ(神秘図形)にも、蓮の花をカタチどった円形、それとエナジーを象徴する,上向き,下向きの三角形が使われる。無、そして存在をを象徴する、”ビンドウー”、点,ポイント、”•”、今流行の言葉だと、”ドット”、イタリア語の”プント”だね、がある。


 古代中国の、陰陽のデザインは,バランス、陰陽の和を象徴している。

それぞれ、無形のもの、精神、エナジー、智慧と、物質生、肉体との調和を図るものだ。そこから、新たな力、気付きの力、が生じてくるからだ。

 円形とは、古来から、完成されたカタチ、究極のカタチ、と捉えられている。

見た目にも、ポジティブで、安心できる、”英知”のカタチだ。魂に共鳴するのかも知れない。なにか、ホッとする。

中心から、周辺迄は,何処をとっても等距離である。

何処にも角がないから、平和な感じがして、安心する。

抵抗感がないのがいい。使い方にも依るが、環境が和らいで来る。

円周には、始めも終わりもない。何処も始まりであり,何処も終わりでありうる。

円形を通して,宇宙と,世界と交流できる、という感性も生じてくる。

円形は、カタヨリがない分、生命力,生きている感覚、宇宙の気、スピリットを、受け易くするからだろう。

円には、全宇宙と共鳴する、という感覚がある。

気持ちが、素直に、ポジティブになれば、気合いも入ってくる。

生のまっただ中に居るという、安心感がある。不安も不満もない。今がそうだ。


 立体的に丸いもの,球形を手にすると、意識が水を実感するのは、地球が水の惑星だからだろうか? それとも、カタチや、性質の柔らかさだろうか? 

柔よく剛を制す、ということかな。

円が,目的や対象を生む動き、になるには、円は”螺旋”となるだろう。

そして渦になる。台風、ハリケーン、竜巻,皆そうだろう。気圧のギャップから生じるのは、皆良く知っている。

一般的には、螺旋は、円に時間の要素が加わったもの、と理解されているようだ。

階段なんかにもよく使われる。蛇の蜷局(とぐろ)も、コイルスプリングも螺旋だし、巻貝も螺旋状に発展したカタチだね。


 一方、直線(二点間の最短距離を結んだもの)、垂直線、水平線、斜めの線。又、直線を組み合わせた、三角や四角いカタチには、又、違った力がある。五角形、六角形、八角形等は,ヴァリーエーションだ。五角形については、ヤントラ(ヒンドウー神秘図形)では、”☆”、つまり星型で表され、人の自然体を表す、のだと言う。瞑想の入口となっている。スターゲイトという言葉がぴったりだね。空、風、火、水。地の五つの要素を表している事は一目瞭然だ。まずそこから始めるからなのだろう。


 タントラと関係が深い文化のチベットでは、”私”という言葉と、数字の”五”とは、共に、”ンガー”と言って、同音なのである。日本語の、”悟り”、と言う文字の姿も、心という偏に、五と口とで出来ている文字だ。

 空の星のカタチは、星の光の、見え方で、様々な星のカタチのカタチに、見えるが、実際は、丸い。☆のカタチは、先に述べた様に、瞑想の第一歩となる図形とされている。何千年も前に、インドで発見されたカタチだそうな。五角形はそのヴァリエーションと考えても良いだろう。用途に応じて、人のマインドから生まれた。


 太陽、月のカタチから生まれた円、球、そして山と谷を表す三角形、これらは自然から生まれた。それ以外は、全て、直線を含めて、人のマインドから生まれた。

 上向きの三角形は、山を模している。感覚的には、宇宙に気が発していく形、動きを起こす働きがある。

下向きの三角形は、Vゾーン、谷、オープンで、受容性、静寂、安心を促すカタチだ。

エジプトや中米のピラミッドは、上向きの三角形を安定させる為に、底辺の四角を組み合わせている。上から見れば、ピラミッドも、ジャワのボロブドールも四角形だ。

円については、チベットの国旗にあるように、太陽を神格化する事で、暗に、補っていたのかも知れない。

チベットの国旗は、ヒマラヤと太陽を重ね、二匹の神獣(スノー・ライオン、文殊菩薩、即ち、マンジュシュリの乗り物)を配置している。英知と生命力、そして、仏教の智慧、を象徴している。太陽の○と放射状のライン、ヒマラヤの△、外形の長方形、二匹の神獣、これには守護の意味がある。

私の部屋の壁にも張ってある。

カタチも、五色の色も、見ていて、安定していて、気持ちがよいからだ。


 上向きの三角形は、円と違って,なにか、それだけでは、不完全さがあり、カタヨリと言うカタチの語源の様な意味が、そのままの姿であるかの様だ。

それが動きだ。変化、動き、エナジーを喚起する。

ヒンドウーのヤントラ(神秘図形)には,円と上向き、下向きの三角形とを、様々に組み合わせたものが多い。

必ず、ビンドウー(点)がうってあるが。


 三という数字は,スピリットを象徴している。シヴァ神のトリシュールがその象徴となっている。ヒンドウーでは、三は,宇宙の三界、そして三神を象徴している。インドで起こり、イスラムで発達したと言われる、数秘学に依ると、二は英知(直線)、四は資料、五は自然、を象徴していると言う。ゼロと一とは、最も重要だが、ここでは、もう説明の必要はないだろう。


 ヒンドウーの主だった神々は三味一体だ。ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌ。それらの神性が,この世を維持し、変化を起こし、隠された力を表面化させるのだ、と言われている。サッカーのシンボル、三本足のカラスもスピリットを象徴している。日本においては、三角形には、日、火の性質があるとされる。これは地域によって異なるかも知れない。円は天、即ち、空、それと水だろう。日本では、天はあめと呼び、雨とも重なった、二つの意味を持つらしい。おむすびのカタチは三角だ。元気が出る。集中力、動きを象徴する。


 富士山は、水平に見れば、見事な三角形だし、飛行機で上から見れば、円錐形でもある。山は、三次元だから、立体的に見ると、面白い。仏教のストウーパ(仏塔)も上から見ると、円錐形だが、横から見ると、曲線を使った三角形、放物線状のラインで出来ている。だが、稜線は、直線ではないのだ。微妙に、φ(ファイ、黄金分割比率、1,6:1)が使われている。北斎の描いた富士もそうだね。ミャンマー、タイ、ラオス,カンボジア、それぞれ特徴があって、微妙に違う。この辺が面白い。ネパール、チベット、ブータンとなると、大分、姿を異にする。


 ヒマラヤは、沢山の三角形の集合体、背景の藍色の深いトーンの空、カタチや海抜は兎も角、人の意識に変化を起こす不思議な力、があるのだ。ヒマラヤは、昔からシヴァ神の御神体となっている。近くにいるだけで、身体を貫く様な不思議な力を感じる。それは目を閉じていても感じられる。何度行っても、ヒマラヤには感動する。


 普通,健康な人の60兆も在ると言われる細胞が、およそ7年周期で、全て入れ替わるそうだ。病人は別だよ。細胞の働きがなくなると、死ぬ事になる。当たり前の話だ。ところが、ヒマラヤに行くと、1週間程で、全細胞が入れ替わってしまうと言われるのだ。


 今年の五月に、1ヶ月程、カンチェンジュンガの近くに、行ってきたばかりだが、身体も心も、入れ替わって新しくなった気がするのだ。眠りこけている意識、が、再び目覚めるからなのだろう。3−4年に一度位は行く様にしている。

ボン教、仏教、ヒンドウー教、共通の聖地となっているが、問題は何も無い。最近は、イスラムの人も、ヒマラヤやガンガーにもやってくるそうだ。


 四角の意味するものは,囲い,仕切り、結界、区別、三角形の”動き”に対し、”安定性、不動性’を表している。ボクシング、ムエタイのリング,野球のダイアモンド、テニスコート、都会のビルディング、平安京、平城京、畳、扉、窓、額、タンス、引き出し、本… 色々あるね、きりがない。

 四角は、”結界、区別といった、資料的な意味”に関わっている。特別な領域にもする。家がそうだろう? 其所にあるもの,あることを、整理したり、整えたり、使い易く、治める。きちっとさせる為だ。だから、資料という意味が在る。物質的で、地の性質がある。


 四角のカタチの、隠れた意味は、”慈しみ”、である、とは、知り合いの、あるタオイストの意見。”慈”、無くして文明なし。と言う事らしい。

慈も、四角いカタチも、どちらも、文明には無くてはならないようだ。


 大分以前、タミル・ナドウー州(南インド),マドライのホテルに泊まってた時、中級のホテルだが、昼下がりの午後、メイドさんが、ロビーを掃除していた。天井には、大きな扇風機が、ゆるゆるとまわっている。猫があくびしながら、自分のイスに、お腹をだして、仰向けにひっくり返っている。安心しきっている。シャンティー、シャンティー!(平穏、平和)

 受付のオッチャンは、ロビーのイスで、すやすや。たまに、泊まり客が、出て行ったり、戻って来たり… 昼下がりは、何処も長閑なのだ。


 バスの時間待ちで、新聞を読みながら、チャイを飲んでいた。メイドさん一人だけが働いていた。モップに水を浸して、掃除していた。そして、四角い部屋を、丸く拭いていた。目を合わすと、照れくさそうに笑っていた。人はやはり、丸いのが好きなんだ。いや、単に、横着なのかもしれない。四角い部屋の隅の部分だけ薄汚れがのこっていた。猫も行かないし、人も届かない所だ。部屋のカタチにもよるけど、丸い部屋のほうがいいのかな? アッチャー.ヘイ! まあ、いいか。そのインドが、今や、経済成長率、世界一の国だってんだから、おそれ、入谷の鬼子母神。


“メイドさん 四角い部屋を 丸く拭き”


 ラオスやタイ、ブータンには、伝統的な織物に、”菱形”、それに螺旋や稲妻を模したと思われる、ジグザグ模様の、手織りの織物が多い。昔から、好きで、いくつか、それぞれの国のものを持っている。些細なコレクションだがね。

この地域には、素晴らしいものが沢山有る。

織物に興味のある方なら、うなづかれる事だろう。宝庫なのだ。


 これらの織物には、ある種のスピリットを感じさせる。ネイティヴ・アメリカンとも繋がるスピリットのカタチだ。菱形は四角のヴァリエーションだが、山と谷という二種類の三角形の組み合わせともとれる。第三の目やシャクティーを感じさせるのだ。ヒンドウー・仏教国ならではの、伝統工芸だ。

いいものを見ると、つい欲しくなってしまう。それだけ魅力があるという事だ。日本でも、源氏の血筋には、菱形を家紋にしている家も多いのだ、と聞いた。私の部屋にも、20年前にヴィエンチャンで手に入れた、昔のラオスの織物が、今も壁にかかっている。

 家の屋根の三角形、切り妻型の屋根は,雨を避けて、水を上手く下に流す為だが,タイやラオスには、三角形を四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つも使った錐形状に組み合わせた屋根、時には、何重にも重ねた屋根もよく見かける。間を上手く造ってあって、涼しい。見た目にも美しい。村の友好、親睦の場となっているようだ。又、村の東屋にもなっていて、誰しもが出入り自由になっている所が多い。草で葺いた屋根がいいね。窓にガラスなんて入れないし、大きく開いているから、風通しが良い。エアコンもいらないし。

 話を戻そう。上から見れば,基礎部分は、四角い壁で仕切られた結界、安定感のある四角形。角張ったものは、手の平で握りにくい。手の平に、フィットしない。これも特徴だが、欠点ではない。只フィットしないだけだ。機能を生かせば、使い道は多いはずだ。家具もシステムキッチンも、食卓のテーブルも、四角を前提にしているものが多い。安定感があって、転がりにくい、四角い部屋にフィットし易いからだ。

 カタチとは、漠然とした世界から、切り取ったもの。人の目を覚まし、意識に変化を起こすもの。穏やかにするもの。力が生じるもの。色々なカタチが有る。写真や絵もそうだね。カタチが無ければ、心も無い。古来から、スピリットや魂に感応するカタチが、聖なるカタチとなったのだ。いまでは、便利さを目的にしたカタチ、使い易いカタチ、周囲をを和ませる力を持ったカタチ、力のあるカタチは様々だ。我々はカタチに囲まれて生きている。カタチの作用が、ありとあらゆる所で働き、人もそれらを上手く組み合わせて、生を楽しんでいる。それが文化でもあり、文明でもあるのだ。

 カタチを通して、自分に気づくという、瞑想技法(タントラ)がある。私は、よく使うのだが、試してみると良い。実に簡単だ。茶碗でも、ツボでもティーカップでも、カタチがあるものなら何でも良い。出来れば、柄とか色の無いもの、気にならないもの、普段使っているものがいい。

 何かを見てみる。只、何時もとは違う視点で見てみよう。ここが肝心だ。ゲシュタルトを変えるのだ。カタチの全体を観る様にする。何処の国で造られたかとか、縁や部分、材質、色、柄、ブランド等は、意に介さずに、全体のカタチ、シルエットだけを見る様にする。丁度デッサンするときの様に。断片的に、カタチの部分や色、柄を見ない様にする。それだけだ。実に簡単だ。

その物の物質的な部分は、素材であって、カタチとは、精神的、スピリチュアルな部分なのに気づく事だろう。只、カタチの全体だけを見続ければ良い。

 モノのカタチを知覚すると、背後の空間、詰まり、ネガのスペース、対象のモノの無い部分にも気づくだろう。やがて、ネガのスペースが残って、対象のモノを意識しなくなる事がある。そのうち、対象物の方が、ネガスペースになる。知覚の変換が起きる。見え方だけでなく、周囲の感覚が違って感じられるかも知れない。あとは、言わぬが花、なんだけれど…

 つまり、自分自身に気づく様になるのだ。モノを見ると言う、外に向かっていたエナジーが、背後の空間、ネガのスペースに意識が触れると、エナジーは反転して、戻ってくる。家に帰ってくる。エナジーの、帰る家は、自分しか無いだろう。そして、その時、無心になっている事に気づく。つまり、自己に気づくのだ。その上、今迄気づかなかった、エナジーの働きを知る事が出来る。微細に丁寧に感じてみる、ここが、又、肝心だ。エナジーを循環させると言う、一人キャッチボールの様な、タントラの技法だ。デッサンのテクニックでもある。そして、これも、サイレント・ジョイの一つなんだよ。ハイテックだろう? もし始めての体験だったら、アメイジング、素晴らしい体験になる筈だ。リフレッシュするだろう?
 様々な形を組み合わせて、その形の力を生かしながら、人は生活する。そう言う意味で、形あるものが、身の回りに沢山ある。様々な形がある。それだけ世界が広がってくる。

 カタチの力を、意識的に用いるのが、儀式であろう。相撲の仕切り、土俵入り、四角に囲まれた丸い土俵、天井から吊るした三角形の切り妻の屋根。タイやラオスの民家みたいだ。田舎に行くと、今でも、伊勢神宮みたいな家を良く見る。なくなって欲しくない。昔は、釣り屋根ではなく、柱があったのだ。屋根のカタチには、文化的、宗教的な意味合いがある。様々な要素が組み合わさって、それが、味わいを深めるエキゾティックな付加価値、雰囲気、魅力になっている。様々な形が合わさって、一体、一如となって相互依存しながら、働いている。伝統のチエだね。ファンタスティック!
 儀式とは言えないが、日本の旅館も、特別な様式だ。同じ、泊まる、という目的でも、善し悪しではなく、ホテルとは全く違う。それぞれ特徴がある。両方とも良い。時には、日本の旅館もいいね。華道、茶道、香道、書道、柔道、ムエタイ、空手、クンフー、剣道、道と付くものは、芸術もそうだが、その辺りが、ディープで面白い。

○、△、□。

ハヴァ・ナイス・デイ!