2009年10月28日水曜日

知のオデッセイ Part4

 形の無いものへの信頼は、もう一方の、形ある物、名の在るものの領域、ものの世界を否定している訳ではない。何も否定していない。無形のものへの信頼は、かえって、形あるもの、ものや名の在るものを、より深く、理解できる様になる。
 見え方が変われば、理解度も深くなる。ものごとが面白くなってくる。ものを通した、深みも判ってくる。一つは世界、モノ、形、量、もう一つは、隠れているもの、精神、無、カミ。無論、その両者を繋ぐ事も出来る。実際は、もう繋がってるけどね。そう言う意味では、今、とは面白い時代なのだ。

 繋ぐ(つなぐ)、という言葉は、サンスクリット語で「ヨーガ」と言う。5000年来の古語が、今では、国際語になってしまっている。ヨーガや指圧を、色々試しているうちに、何時のまにか、繋がってしまう。
 タントラは全てを受け入れる。その受容性から、本物の、寛ぎが生じて来る。リラックスできれば、自分と言う機能も、生き生きとして来る。特に心と身体がね、それに意欲というプラス・アルファがわいて来る… 生がポジティヴになってくる。


 タオのエナジーは、有から無へ、無から有へと、千変万化して変化し続ける。自分の全宇宙が、暫くするうちに、ハーモニックに循環し始める事がある。前にも述べたが、そのエナジーを、タオの人達は、”テー(徳)”と言う。タオのエナジーの働きのことを言う。働かせようではないか。それを引き出すには、慈しみ、そして、無為、余計な事をしない、という事かな。

 テーは、インドやチベットでは、クンダリーニ・ヨーガに於ける、”シャクティー”だ。大きな意味で『愛』と言ってもいいかも知れない。自律神経もシャンとしてくる。『慈』と言った方が、現実的には、判りいいかな。それは行為ではない。それは存在の状態であって、愛憎でも、執着でも、感情でも、所有でも、努力でもない。行為ではないのだ。静かな心の状態、慈しみある、愛ある状況にある、という事を言う。情という事ではないから、クールと言ってもいい。それは、非常に微細なエネルギー現象、波動なのだ。そして、それは、常に、今、に起こる。明日も、昨日もない。今、だけに起こる。それは、”魂の呼吸”。それを通じて、魂は生き生きとし、活動する様になる。物質世界では、最も重要なエッセンスなのかも知れない。

 さて、宇宙次元に入ると,様々な繋がりが、観えて来る。それを『経略、ナディー』と言う。ナディーには、ツボと呼ばれるジャンクションがある。ハリや指圧、タイやインドのマッサージは、そのツボの科学だ。タントラの科学から起こって、発展して来た。元気がなくなったら、テー(徳)、シャクティーの力を、ツボの知識と合わせて、使えば良い。それに、軽い運動がいいんだよ。手軽なのがいい。

 ダイビング(タンクなんか背負わなくたって、シュノーケリングで充分楽しめる)とか、ジョギングとか、ヨーガ、振動、屈伸、体操、木登り、自転車、歩くだけでもいい。何事もそうだけど、コツが解ると,何でも面白くなって来るものだ。身体は、自分の乗り物だから、大事にしたい。健康とは,しなやかで、バネがあって、柔らかくある事だ。大事にすれば、死ぬ迄使える。これは、冗談ではないよ、死ぬ前に、身体が駄目になっちゃう人も少なくないんだから。

 過去を振り返ってみれば、アっという間の、出来事なんだけど、過去は記憶でしかない。赤ん坊の頃の記憶迄、以外と残っているものなんだ。未来は、これからも延々と続いて行く、果てしなく… 過去を背負っている人は別にして、過去はノスタルジーはあるだろうが、現実には存在しない。今は今でしかない。だが、伝統と言う質は在る。忘れてはならないものがある、というのは、伝統文化の美点であろう。

 未来は、未だだが、延々と永く続いていく。少なくとも、前向きに生きていたいのなら、未来は重要だ。そして、その未来の為には、『今』と言う次元が,最も大切だ。私は、今、に生きているのが好きなタイプだが、人それぞれだからね。伝統には,それなりの意味と智慧の深みがある。今、に生かしたらいいではないか。新しいものなら,何でも良いとは限らない。様式や形式、流行やファッション、それらは、どうでも良いが、実質的に良いものなら、もっと生かしていったらいい。
ものごとの、深い意味が解らないうちは,心はいたずらに惑わされるばかりだ。表層ばかりが、反応して、暴れちゃうんだ。それは、根が欠けているからなんだ。バンヤンの樹は、根に特徴があるだろう。南の国の人なら誰でも知ってる。今は,情報過多の時代だ。だから、無とか空なんて無視されてしまう。モノゴトを、鵜呑みにしてて、ただかっ込んで食っている、見たいだ。知識ばかり、安直に集めたって、不安をあおり、競争を激化するばかりだ。

 海に潜ってみると、表層が多少荒れていても、深みに入ると、静かでゆったりとしてるんだ。珊瑚の森にでも入ったら、何事もない。魚が、恐れも無く口で突っつきにくる。箱ふぐとかハゼの仲間はとくにかわいい。海の中は、見た目だけではない。別世界だ。波動も違うし、感性も爽やかになってくる。一度、潜ってご覧な。いい瞑想になるんだから。生まれ変わった様な気分になる。健康にもいいしね。新たな認識や、ヴィジョンが生まれるんだ。

 同様に、一度、原点に立ち戻れば、深い所が納得する。腹が据わって、納得する事、安心して、寛ぐ事が大切だ。ゆるりと行けばいいんだよ。もし、自分の中に、散乱、混沌が起こったら,避けようとしたり,押さえつけたり、逃げるのではなく、ただ、意識をそこに向ける。気が散っている時は、呼吸も乱れているものだ。暫く呼吸を見守るといい。それから散乱を、無心に見つめてみる。それだけでいい。暫くすると散乱は,自ずと去っていく。
 浅場で遊ぶ小魚も、大人になれば、深みに入って行くだろう?

 呼吸というものは、単に酸素呼吸だけに留まらず、呼吸によって、生命に内在する全てのものが入っている。プラーナと言う。呼吸法をプラーナヤーマと言う。それは、”生命の拡張”を意味している。プラーナとは生命を意味する。取りわけ、ヨーガ、タオ、タントラでは、呼吸に関する様々な技法が有る。
 頭は使うもの、心は生きるもの、そして感じるもの、そして腹は坐るもの。さすれば、身体もついて来る。

"Sound mind, Sound body"<(弾む心、響く身体)

サウンド・グッド!

 ”道楽”というと、最近では、何となく、旗色の悪い言葉、になってしまったが、もともとは、仏教用語で『悟りの、楽しさ』を表現する言葉、なのだそうな。言葉も、一度本来のものに戻してみたいね。本来の面目に…
 一度、語源に戻ると、言葉の深い意味が分かって来るんだ。そのギャップが面白い。見かけを追えば、源を見失う。根源に帰れば、意味を見いだす、ってところかな。

 夜明けとともに始まり,太陽が真っ赤になって水平線に沈み、辺りが暗くなる迄、青は様々な輝きや変化を見せる。サンセットを挟み,夜空にバトンを渡す。夜空は大きな寛ぎだ。夜無くして、昼間はない。涼しくなるし、月も星も素晴らしい。その背後の漆黒の闇。凄いね。月や星を輝かせている。昼間、星が見えないのは,その、背景の漆黒の闇がないからだ。明るすぎて、見えなくなっているのだ。闇なくして光なし。闇の御蔭で、月や星を見る事が出来る。そして夜空の全てが、現れてくる。

 そうそう,月と言えば、月に,水があるんだってね。NASAが見つけたそうだよ。月の湖の様な所で、何かを落として実験したら,水しぶきが上がったそうだ。重力が少ないので、その水しぶきが、高くあがって、スローモーションの、白い打ち上げ花火のようだったね。その水、飲めるのかな?

 海の偉大さには、まず、海は一つであること。あちこちで、それぞれ、色々な名前がついているが、太平洋、日本海、インド洋、大西洋…、全て繋がっている。海は、最も低いところにある。その低さがいい。だから、全ての川を受け入れる事が出来る。謙虚さと受容性が、可能にしているのだ。
 老子曰く、“上善は、水のごとし”、そして、”水は低きに流れる”、と。真に優れたものは、低さを受け入れる”ゆとり”がある、と言う意味だ。そのユトリこそが、貴重な宝なのだ。
 もう一つは、海は、生命力の宝庫である。生き物は、海から生まれて来た。生命を、育て、生かす要素に満ちているのだ。だから海の近くにやってくると、兎に角、ホッとする。生き返る様な気がする。本来の我が家だからね。

 又、日本料理でも、中華、インド、タイ、ヴェトナム、イタリア、マレー、スペイン料理でも、様々なエキゾティックなスパイス、そして独特の料理法がある。そして、どの料理もおいしい。だが、料理の要となるのは、塩、そして塩加減なのだ。塩は、海のエッセンスなのだ。岩塩だって、昔、海だった所からしか出て来ない。人だけではなく、あらゆる動物も、水と塩なしでは生きて行けない。
 ビーチの内側は兎も角、近くに寺院はおろか、祠のようなものすらない。日本やインドなら、普通、人が何かしらの印、注連縄(しめなわ)や祠や寺院をつくる筈なのだが… タートー・ロックという、自然に出来た10mもある、巨大な”リンガ(男根)”が、一つあるだけで,どんな飾りも必要としていない。このロックは、見る角度に依って、ブッダの立像に見えたり、巨大なシヴァ・リンガに見えたりする。二通りに見えるのが、ミソだ。知る人ぞ知る、だが、通人は皆知っている。無論、地元の人は、承知の介。だが、岬の突端迄、行くには道が無く、泳いでいくか、船を出すかして、岬の突端迄行かないと、全体は見えないのだ。そこ迄泳いで行くと、さすがに潮流は速い。だが、この境目付近で、ダイヴすると面白い。釣り師や、ダイバーなら判るよね。

 海側から見ると、浜辺には、椰子の木陰、環境の自然にフィットした小粋なコテージや洒落たバンガロー達。海を見下ろす、山の上には高級ホテル、洒落たカフェも、ちらほら・・・・・。人々は、風を感じながら,本を読んだり,音楽を聴いていたりしている。只,居るだけでも,素晴らしい。椰子の樹ってのは、風情があるねー。
 時々,泳いだり、ダイヴしたり、フリスビー投げあったり、バレーボールやサッカーしたり・・・・・家族ずれの人も多い。特に何かをしてはいない。水辺で遊び、楽にしている。時は流れているにせよ、何時しか、時間を感じなくなる。

センシ・パラディーゾ!


 パラダイスというのは、本来特別なものではない。天国でも、あの世でも、無論、地獄でもない。この地上でのことをいう。豊かな自然と、美しい景観があって、余り人工的なものがなく、自然そのままの在り方や姿を、阻害しなければいい。一番、重要なのは、心地よい事。日差しが見事で、寒くない事、寧ろ暑い方がいい。それにプラーナが濃い事かな。力はそこから生まれて来るんだよ。自然のエナジーと歓びとは、同義語だ。理屈も、能書きも要らない。ある意味で、ごく普通の事なんだ。そう言う所は、何処にあったっていいものだ。

 潮が引くと、真っ白な砂浜と海のトーンとが、美味くハーモナイズして、縞模ようとなってくる。そろそろサンセットが近い…、西の空が赤くなり始める。何処からとも無く聞こえてくる、パコ・デ・ルシア…、いいね… 水にはいろうか…、火照った身体に海の水が、甘く、冷たい…、やがて、水と一つになる。水に浮かんで、仰向けに浮いていると、空が赤くなって、上空に広がっている… タオ(道)が私を歩いて行く。

 赤から青の間には,色んな色があるんだね。身体も明るくに染まって来た、インディゴ、アズール、パープル,ピンク,オレンジ…、イエロー、ロッソ… ヴェラメンテ・ベッロだね。生き生きとして,雲一つない無辺の空間に広がっていく。心は澄み渡り、知覚力が冴え渡って来る。空即是色やね。
 やがて、内側にある一点、全ての色が出会う地点、腹が一番いいのだが、に収束すると、意識には、色だけが存在する。世界は消え去っていくかの様だ。やがて,いつしか色も消え去っていく。全ては、源泉に帰る。名のない領域に…

今日は,ビューティフルな一日だった。
ハヴァ ブレイク!
何か冷たいものがいいね、冷たいライム・ソーダかなんか…、
サムシング・クールな,何か…