2009年10月27日火曜日

知のオデッセイ Part3

 人間は、未知へ向かうと、何か、知らないもの知る、新たなものを知る、と言う現象が起こるので、その期待感で、ワクワクして来る。旅も、トレッキングも、ダイヴィングも、探求も、未知は常に新鮮だ。愉しみにしていた映画が公開されれば、ワクワクしてくる。これを発展させたり、工夫すれば、日々、常に新しくなる。何であれ、知りたい、と思う事は、人が生きようとする本能の現れ、の様である。考える、ということは、知らないから、閉ざして居る事、から起こって来る。知る事、が出来れば、考える必要はなくなってくるだろう?
 想像は、又、違う。想像力は、思考力同様に、誰でも持っている能力だ。それは、”ある姿勢、状況の中に入り込んで、その姿勢、状況が、あらかも現実のものになる程に深く入り込む”、という事だ。イマジネーション。想い描く事だ。善くも悪くも使えるが,私は、楽しく、面白く使う事にしている。


 
 自分を知るのは、難しい。自分とは、何か? 何故なら、知ろうとするもの自体を、知ろうってんだからね。矛盾してしまう。言語的にも、意味を失ってしまう。

 真実とは情報じゃない。知識じゃない。全く無関係だ。いくら、情報を集めたって、ますます混乱するばかりだ。真実、それは、譲渡が不能なのだ。モノではないし、概念でもないから、盗めないし、たとえ、盗んでも意味が無い。自分で実体験するしかない。真実とは、実体験した、”認識”なのだ。そして、真実は解放をもたらす。そこからエナジーが湧いて来る。こういう特徴がある。だから自分自身で見いださなければ、意味が無い。他人のじゃ役に絶たないのだ。あとは、言わぬが花(能の開祖、世阿弥の言葉)かな。

 一旦、空に深く見入る時,あらゆるものが消え失せてしまう。理屈も、言語も何も成り立たない。空の明晰さと一体になってしまう。空として、存在している。空っぽの部屋の様に。出来れば、瞬きせずに、澄み切った蒼い空に見入ってみる。爽快になる。

 空の中ではあらゆるものが消え失せる。マインドも消え失せる。”という概念も消える。限界がなくなってくる。無限になったのだ。”という、嘗ての古い枠組みが、自ずと、旧体制を維持できなくなってしまう。空と同様に、広がりが生じてくる。様式の無い現実、に遭遇する、それが、唯一の、本来の現実だ。

 禅師、曰く

自分と言う山を越えない限り、タオ(道)は見えて来ない

全ての宗教は、その点で一致する。

 雑念も恐怖も不安もない時、もし自分の内側に、無限の虚空、何も無い、無限の空間を感じられたら,人は、自然に静かに、安心し、そして自由になれる。そして、あらゆる活動は、その周辺に在る。まあ、ドーナッツみたいなものだ。一寸、オールドファッションだがね。

 空は、時に、充満すると、途轍もないエネルギーを発揮する。がらんどうから、エネルギーが発生する。ヒンドウー寺院内部が,がらんどうなのは,その為だそうな。空の魔法だ。無から有が生じる。面白いねー

「海の水は,どうして塩っぱいの? シャケが住んでるからだよ」

 立川談志の噺だが,思いの外で,面白い。我々は、モノは役に立つと考えて暮らしている。実際、その通りだ。大したものは持っていないが、それでも、色々なものの御蔭で、便利さをもらっている。文明は素晴らしい。面白いものが、日々造られている。 

 例えば、カップが空っぽでなかったら、何かで一杯になっていたら、コーヒーは注げない。カップは役には立たない。役に立つには、カップの内側が、空っぽである事に、誰でも気づく筈だ。カップの、受け入れる能力、が働いて、始めて、コーヒーを注ぐ事が出来る。器とは窪んだ形だってことは,縄文時代から判っている。さもないと役に立たないからね。

 生全体を受け入れる、という事は、中道を意味する。否定するという事は、極端に向かう、全体から分離する、という事なんだ。
何かでカップは一杯になっていて、コーヒーは注げないし,コ−ヒーも飲めない。生全体と信頼関係が出来れば、コーヒーも飲めるし、ユダネと言う次元に入って来る。生と”信頼関係”が生じてくる。ここの所が大事な旨味と言ったらいいのかな。ドルチェかな、それとも、アムリタ、甘露かな。中道にあれば、両翼を広げる事も出来る。極にあれば、一部分でしかない。一方だけ、片方だけじゃ,機能しないんだ。バランスの上からもね。鷲だって、両翼を広げて飛ぶんだから。右翼や左翼だけじゃ飛べないだろう? オール&エヴリシング、がいいね、私は。

 須く、能力とは、キャパシティ、許容、ゆとりから始まる。ゆとりが無いと、能力は働かない。玄徳は働かない。”空即是能”なのである。受け入れを可能にしているのは、ただ、空虚で、静かにしていること、にほかならない。他に何もしなくていい。無為と言ってもいい。今迄、映らなかったイメージが、心に湧いて来る事が在る。

 これは、仕事にだって、遊びにも、様々な事にも役立つ事だ。人の話を聞くにも、自分が空っぽの器になっていなければ、相手の話や注文は完璧に、聴く事は出来ないだろう? 

容量が無ければ、いくら勉強したって、知識は入って来れないだろう? そして,入って来たものを,消化しなければ、実にならない。賢い人は,何でもかんでも詰め込もうとはせず、まず,空っぽになる事を優先させるだろう。それをしっかり消化させる為だ。配慮はするが、限界も、可能な事も不可能な事も知っている。出来ない事は出来ないのだ。自己を知る人は、目立たないが、特に何も目指さず、無理がないのだ。それがスマートってものだ。

真に空虚になれた時,人は満たされる」

 これは、逆作用の法則だ。
物事が起こるにまかせ、無理に強制しない。無論、余計な事はしない。

例えば、物忘れして、名前を忘れたり、何かを無くしたりする事がある。のど元迄来ているのに・・・・、と言う事が良くある。

思い出そうとして,努力しようとすればする程、より不可能になってくる。

 あきらめて,その事を忘れてしまい,何か他の事に気を向ける。散歩でもいいし,音楽でもいい。テレビを見るのもいい。全てを忘れてしまった頃,暫くして、或は、数日して、突然,思い出す事がある。無為、無努力が効を奏したのだ。

 人の在り方には二つある。まず、するという事。>そして、在ると言う事。この二つが人の在り方のほとんどを占めている。
誰しもが、する事は得意な様だ。だが、しない事、あることの関しては、無能な人が多い。する事、行為、努力、そのように育てられて来たからだが、最も簡単で、易しい筈の、無為、無努力と言う事が、究めて、難しい事になってしまう。反面が無視されてしまうのだ。片方の面だけでしか生きていないのだ。これでは、鷲の様に飛ぶのは、絶対に無理なのだ。

 何故、のど元で止まるのかと言うと、エナジーは、丁度,首の辺りで,左右の位置を交代させるようになっているジャンクションがある。それ故,そこで止まってしまう事も、よくあるのだ。その状況、仕組みを現しているのが,シヴァ神の持つ,トリシュール(三叉の矛)なのだ。身体の右半身は左脳に、左半身は右脳に、反転する。ここの所がミソだね。

 春が来れば、草が自然に生えて来る様に、空性の理解から、自ずと”信頼”が起こって来る。無為の内に、世界が、一新した様に感じられる。信頼とは,信用、trust,ではない,信仰、faith,でもない。信念でもない。信じ込みでも、信じる事でもない。靴が足にフィットすれば,足の事は忘れるだろう? それが信頼だ。仏教徒が、神に付いて語らないのは,その為だ。

 無形への信頼が起こると、やがて、成長し、充実して来る。理性というものは、状況次第で、非常に役に立つし、なくては無いらないが、一方では馬鹿なもので、何故、如何に、と尋ねる。理性とは、疑いだ。決して、信頼しない。そう言う特徴がある。

 一方、信頼とは、疑いが無い、という状態だ。それは、無条件に、未知へと飛び込む事だ。理性的な人にとっては、難しい。だが、本当は、ここに本来の生がある。”問い”と言うものが、無いこと、それと疑念とでは、全く次元が違う。人は、その相反する矛盾を抱えて,生きている。だが、疑いが消えれば、理論も、論議も、頭もヘチマも、何も、必要無くなってしまう。簡単だ。本物の答え、というものは,問いがない時にやってくるものだ。

 信頼は、理知的(あたま)の働きとは違って、直感的洞察、感覚的(ハート、フィーリング)だが、信を知れば、力は発揮される。自信が付いて来るのだ。スポーツマンや、気合いや、心で生きてる人なら、判るかも知れない。隠さず、飾らず、素直に、無心で、ただ、自分が自分であれば良い。その在り方が、力を生む。自分の短所、弱さも認める事で、逆作用的に、長所も、力も現れてくる。

 在る瞑想家の言葉が有る。

「頭に、耳をかすでない」

と。頭は、必要な時に使えば良い。