人間は、未知へ向かうと、何か、知らないもの知る、新たなものを知る、と言う現象が起こるので、その期待感で、ワクワクして来る。旅も、トレッキングも、ダイヴィングも、探求も、未知は常に新鮮だ。愉しみにしていた映画が公開されれば、ワクワクしてくる。これを発展させたり、工夫すれば、日々、常に新しくなる。何であれ、知りたい、と思う事は、人が生きようとする本能の現れ、の様である。考える、ということは、知らないから、閉ざして居る事、から起こって来る。知る事、が出来れば、考える必要はなくなってくるだろう?
想像は、又、違う。想像力は、思考力同様に、誰でも持っている能力だ。それは、”ある姿勢、状況の中に入り込んで、その姿勢、状況が、あらかも現実のものになる程に深く入り込む”、という事だ。イマジネーション。想い描く事だ。善くも悪くも使えるが,私は、楽しく、面白く使う事にしている。

自分を知るのは、難しい。自分とは、何か? 何故なら、知ろうとするもの自体を、知ろうってんだからね。矛盾してしまう。言語的にも、意味を失ってしまう。
真実とは情報じゃない。知識じゃない。全く無関係だ。いくら、情報を集めたって、ますます混乱するばかりだ。真実、それは、譲渡が不能なのだ。モノではないし、概念でもないから、盗めないし、たとえ、盗んでも意味が無い。自分で実体験するしかない。真実とは、実体験した、”認識”なのだ。そして、真実は解放をもたらす。そこからエナジーが湧いて来る。こういう特徴がある。だから自分自身で見いださなければ、意味が無い。他人のじゃ役に絶たないのだ。あとは、言わぬが花(能の開祖、世阿弥の言葉)かな。
一旦、空に深く見入る時,あらゆるものが消え失せてしまう。理屈も、言語も何も成り立たない。空の明晰さと一体になってしまう。空として、存在している。空っぽの部屋の様に。出来れば、瞬きせずに、澄み切った蒼い空に見入ってみる。爽快になる。
空の中ではあらゆるものが消え失せる。マインドも消え失せる。”私”という概念も消える。限界がなくなってくる。無限になったのだ。”私”という、嘗ての古い枠組みが、自ずと、旧体制を維持できなくなってしまう。空と同様に、広がりが生じてくる。様式の無い現実、に遭遇する、それが、唯一の、本来の現実だ。
禅師、曰く
”自分と言う山を越えない限り、タオ(道)は見えて来ない”
全ての宗教は、その点で一致する。
雑念も恐怖も不安もない時、もし自分の内側に、無限の虚空、何も無い、無限の”空間”を感じられたら,人は、自然に静かに、安心し、そして自由になれる。そして、あらゆる活動は、その周辺に在る。まあ、ドーナッツみたいなものだ。一寸、オールドファッションだがね。
空は、時に、充満すると、途轍もないエネルギーを発揮する。がらんどうから、エネルギーが発生する。ヒンドウー寺院内部が,がらんどうなのは,その為だそうな。空の魔法だ。無から有が生じる。面白いねー
「海の水は,どうして塩っぱいの? シャケが住んでるからだよ」
立川談志の噺だが,思いの外で,面白い。
例えば、カップが空っぽでなかったら、何かで一杯になっていたら、コーヒーは注げない。カップは役には立たない。役に立つには、カップの内側が、空っぽである事に、誰でも気づく筈だ。カップの、受け入れる能力、が働いて、始めて、コーヒーを注ぐ事が出来る。器とは窪んだ形だってことは,縄文時代から判っている。さもないと役に立たないからね。
生全体を受け入れる、という事は、中道を意味する。否定するという事は、極端に向かう、全体から分離する、という事なんだ。
須く、能力とは、キャパシティ、許容、ゆとりから始まる。ゆとりが無いと、能力は働かない。玄徳は働かない。”空即是能”なのである。受け入れを可能にしているのは、ただ、空虚で、静かにしていること、にほかならない。他に何もしなくていい。無為と言ってもいい。今迄、映らなかったイメージが、心に湧いて来る事が在る。
これは、仕事にだって、遊びにも、様々な事にも役立つ事だ。人の話を聞くにも、自分が空っぽの器になっていなければ、相手の話や注文は完璧に、聴く事は出来ないだろう?
容量が無ければ、いくら勉強したって、知識は入って来れないだろう? そして,入って来たものを,消化しなければ、実にならない。賢い人は,何でもかんでも詰め込もうとはせず、まず,空っぽになる事を優先させるだろう。それをしっかり消化させる為だ。
「真に空虚になれた時,人は満たされる」
これは、逆作用の法則だ。
例えば、物忘れして、名前を忘れたり、何かを無くしたりする事がある。のど元迄来ているのに・・・・、と言う事が良くある。
思い出そうとして,努力しようとすればする程、より不可能になってくる。
あきらめて,その事を忘れてしまい,何か他の事に気を向ける。散歩でもいいし,音楽でもいい。テレビを見るのもいい。
人の在り方には二つある。まず、するという事。>そして、在ると言う事。この二つが人の在り方のほとんどを占めている。
何故、のど元で止まるのかと言うと、エナジーは、丁度,首の辺りで,左右の位置を交代させるようになっているジャンクションがある。
春が来れば、草が自然に生えて来る様に、空性の理解から、自ずと”信頼”が起こって来る。無為の内に、世界が、一新した様に感じられる。信頼とは,信用、trust,ではない,信仰、faith,でもない。信念でもない。信じ込みでも、信じる事でもない。靴が足にフィットすれば,足の事は忘れるだろう? それが信頼だ。仏教徒が、神に付いて語らないのは,その為だ。
無形への信頼が起こると、やがて、成長し、充実して来る。理性というものは、状況次第で、非常に役に立つし、なくては無いらないが、一方では馬鹿なもので、何故、如何に、と尋ねる。理性とは、疑いだ。決して、信頼しない。そう言う特徴がある。
一方、信頼とは、疑いが無い、という状態だ。それは、無条件に、未知へと飛び込む事だ。理性的な人にとっては、難しい。だが、本当は、ここに本来の生がある。”問い”と言うものが、無いこと、それと疑念とでは、全く次元が違う。人は、その相反する矛盾を抱えて,生きている。だが、疑いが消えれば、理論も、論議も、頭もヘチマも、何も、必要無くなってしまう。簡単だ。本物の答え、というものは,問いがない時にやってくるものだ。
在る瞑想家の言葉が有る。
と。頭は、必要な時に使えば良い。