タオイズムに依ると、名前というものは、モノゴトが、「形」となって現れると、名前が生じて来るのだ、と言う。そして、心が心であるのも、モノ故にである。モノやカタチがあって、始めて、心にも、カタチが出来てくる。原初というものは、面白い。
タオという発想、そして、コンセプト、そのものが面白い。まず始めに,名前の無い領域があった。天地はそこから生まれたのだそうな。その天地から,数知れぬ名前が生まれた。だから、名前の無い領域、無の領域は、天地の産みの親、という事になる。
名前とは、物の上っ面にくっ付いている、只それだけの、服や飾り、自我や鎧の様なものなのだ。だが、名のあるものには,欲がくっ付く。欲とは、エナジーが何らかの対象に出会って物質化した、”モノ”なのだ。もとは無から生じたエナジーだ。欲がカタチを持つと、視界が閉ざされ、もの事の表面しか見えなくなってくる。善し悪しではなく、それが特徴なのだ。
欲と言うものは、無ければ、生きて行けないから、程よく、欲に同化しないで、上手く使うのがコツだ。永年、使って,心や魂に迄、張り付いてしまっているかも知れないが、脱ぎ捨てれば、身軽になって、自由になれる。そこで初めて,リアリティーが観えてくる。まずは、一度、自分自身から、自由になること。自由とは、まず、健康である事だ。自由だから、健康で居られるのかも知れない。
この世には、名のある領域と、名の無い領域とが、同じ源から出て、共存していると言う。そして、陽と陰、明と暗とが入り混ざって、混沌として、無限に広がっている。名の無い世界、無の世界は源であって、しかも広大なのだ。須く、創造と言うものは、混沌から生まれる。揺らぎ、カタヨリも重要だ。新たな自分が創造されるのは、自分の全てが混沌となって、始めて可能となる。”無”と言ったって、”何も無い”、という意味ではない。モノはいくらでもあるだろう。石器時代なら兎も角、この世はモノで一杯だ。まさに、ものものしい。寧ろ、”モノでないこと”,「思いの外」、と考えると、判りやすいかも知れない。
現代人や、欧米人には,”無”と言う概念は判りにくいようだ。無と言う”モノ”にしかねない。だが、無はモノではない。無は、自己と宇宙との橋渡しをする技法、方便と捉えてもいいが、私には、”無”程、現実的なモノはない。 思考が無い時、意識が純粋になる。感性、知覚が冴えてくる。シャンブー! 思考や想いをいくら探っても、堂々巡り。じつに詰まらない。哲学とはそう言うモノだ。
思考や想い、信念、欲望に、自我に、縋って生きてる人にとっては、難題だ。何か観念的なものに支配されてる人、錯乱している人は其れ以上に大変だ。だが、”無心”、に気づけば、それだけで、用意が整って来る。
最初の内は、壁を越えるのは、大変だ。習慣は中々落ちるものではない。だが、何年も体験を繰り返しているうちに、たまたま、思いの外で、そこに居たりする。人は、思いに囚われて生きている習慣からか、思いの外には、以外と気が廻らない。無心とは、思いの外、思いが何も無い事だ。
「心は,無心から生ず」
柳生宗矩の言葉だそうだ。その扉は、何時も直ぐ側にある。気づけば、簡単な事だ。用意の出来てる人には,何時も開いている。思考に囚われていた時には、見えなかったものが、観えてくる。曾ての自分は消え、新たな、大きなスペースとなっている自分が見つかる筈だ。

だが、一旦、名前の無い領域、無の領域に入った時、気づけば、人は始めて、本物の生命力に繋がる事が、無為のうちに出来るようになる。最初のうちは、どぎまぎするかも知れないが、毎日、少しずつ試す様にすれば、やがて自在になれる。このコツを知っておくと、実に有効だ。エナジーの無駄使いが少なくなるし、イライラする事も少なくなる。
面倒な事には、無理なく無関心でいられるし、それに、明晰になれるし、力もついてくる。しっかりと、そのエナジーが身に付くと、本来、自然のエネルギーだから、そのパワー、生命力は、他人や社会に、引きずり回されなくなるのだ。混沌とした世の中に居ても、何ものにも囚われず、心は自由になれる。様々な、束縛から自由になれる。
禅では、”本来の面目”という。それは、生まれる前にもっていた、本来の顔、無垢と言う意味だ。それは、”未知の記憶”といってもいいかもしれない。マインドやエゴに、世間や欲望に乗っ取られる以前の自分、本当の自分の事だ。老子は、その力を『玄徳』と言ったそうだ。「人の奥に在る、”全てを見通せる、深い力が働く事」をいうのだそうだ。シヴァの第三の目のようだ。
この『玄』という言葉には、中国語では、”ゼン”と呼ぶらしいのだが、神秘も魅力も感じさせられる。瞑想すれば、そこまで、ひとっ飛びだが、言語で説明すると、本を三冊位書かなければならなくなる。
玄は、普通には、黒、闇、奥、深淵と言う意味だが、タオイストでもある中国人の友人に聞くと、”明らか”、“明るい”、”光明”、それに”賢い”という、リアルな意味もあるそうな。相反するものを統合しているような、宇宙的な文字だ。その姿を見ると、細い糸が,天を突き抜けている様に見える。何か、螺旋状に、上昇したり、下降する、自在なクンダリー二、そして生命の要、シルヴァーコードを思わせる。
ギリシャ神話のヘルメスが持っている、”カドケウス”と言う魔法の杖もその事を表している。それは、今では医療のシンボルにもなっている。
玄は、シンプルな言葉だが、深みと智慧、力を感じさせる。
名の在る領域、つまり世間全般の見方のことだが,様式や形式があり,その上、いいとか,悪いとか,奇麗とか,汚いとかと、人の勝手な解釈や,判断、哲学、 都合や、損得、そして欲がくっ付き、物事の表面しか見えなくなり、真の視力(理解力)も無くなり、暗中模索となって、ストレスも疲労もたまってしまう、と 言う特徴がある。
いいも悪いも無い。それが、普段、我々が生きている領域だ。
真のリアリティーは、どうしても無視されてしまう。
真実とは、”ただ、在るに過ぎたい何か”、遠い遥かの、”モノ”になってしまう。
モノの世界に同化してしまう。
真実とは,実に単純なものだ。寧ろ、普通といっていい。
普通とは、普遍性に通づる、と言う意味だ。平均的という意味ではない。
平均的なのは、むしろ普通じゃない。
真実を、言葉にするのは難しい。だが、”不二”がわかれば、理解する事は出来る。
何故なら、本来、私達の一部なんだから。
丁寧に理解すれば、善は、悪があって、始めて、善と呼ばれる。
悪がなければ、善も成り立たない。
この世から、悪を一掃しようとおもったら、善をなくせば良い、という理屈にもなる。
光が在れば、闇も在る。どっちかだけでは成り立たない。
ものが、在る、と言うのも、無い、という事が在るから,生じてくるのだ。
片方だけでは成り立たない。
科学とか学問とかは、ものを分類、分析して扱い、分類や区別だけが進んで、人やもの同士の、有機的な繋がりをも喪失しようとしていた。過去の人間のj歴史は、この事につきる。なにか強力なものが現れると、人々は、用意に同化してしまうのだ。
それぞれ、適材適所ならいいのだが、全てをごっちゃにしたがる横着者が多いのだ。
今はアクエリアス、水瓶座の時代、シヴァ神の時代といわれている。波動、情報と人権の時代だ。少しずつ、自然に戻って行く事だろう。未だ始まったばかりだ。
物質があれば、当然、反物質も無い訳には行かないだろう。
科学に依れば、物質とは、”密度”の事だそうだ。で、反物質とは、空間に置ける穴、の様なものだそうだ。未だ理論上の話だろうが、言わば、無の穴だ。形は無いんだろうね、当然。
科学、詰まり、物理学は,物質を探求すればする程、物質は消え、最終的には、エネルギーが残る事を発見した。それが、波動力学、そして量子力学だ。物質とは,現れに過ぎない,という結論を得た。
科学は、論理と実験に支えられている。
一方、インドの神秘家,瞑想家達、ウパニシャッドは、とうの昔に、エネルギーをより深く観照すれば、エネルギーは消え,意識だけが残る事を発見した。そして、それが最も深い核心だ。
宗教、芸術は、直感と洞察力を使い、そこをターゲットとしている。
詰まり、この宇宙は、三つの層で出来ている。物質、エナジー、意識。
人の体で言えば,まず,肉体、エナジー、そして意識。
人は、昔から三位一体なのだ。
話を戻そう。対極に位置する反対物は、敵と言う訳ではない。
夜は、昼間の敵ではない。その逆も然り。
汝の敵を愛せよ,と言うではないか。
昼と夜、両者を包括すれば、一日になるだろう。
分割したり、分析したりしない。
区別があれば,天地は無限に離れて行く。
商売とか、区役所とか、図書館とか、細かい事の整理は分類したり、整理したりでいいと思うよ。
只、何でもかんでもと言うのは不味いよね。
自分という存在の中に、全てを包括する。私という旧感覚は消え,”在る”と言う事だけが残る。それから全てを包括する。意識とは,丁度,鏡の様なものだ。鏡は,善し悪し、美醜を問わず,前にあるものを映し出す。太陽でも、月でも、ヒマラヤの満天の星でも・・・・・、見事な蓮の花も,牛の糞も,何の差別もない。鏡は文句を言わない。判断しない。裁判官ではない。あるがまま、そのままを映し出す。ヴィジョンのハイファイだ。相反する,或は、矛盾する立場同士が、一つになる。生という川は、その反対物同士の両岸の間をながれて両岸を潤すのだ。
”音が存在する。音が存在できるのは、無音があるからなのだ。”
音楽には、必ず、無音の部分、間合い、休息の部分が在るだろう。
無音無くして、音楽は成り立たない。
そこからリズムも、メロディーも、ハーモニーも生まれ、生き生きとして来る。
無音が無かったら、音楽は成り立たない。
無音の部分が、音を生かしているのだ。音と無音とは,相互依存している。
華やかで騒々しい商店街も、深夜には、静かになる。
とっかかりは,滝の音なんかもいいし、波の音、鐘の音、ティベタンベル、弦楽器、シタール、タンブーラ、音叉・・・・・何でも良い。
音とは、エナジーだ、波動だ。そして、音の余韻のあとに、無音の音(アナハッタ・ナーダ)が、聴こえるようになると、とても、気持ちが落ち着いてくる。
音がムヲンを引き立てるからだ。
アナハッタとは、”創られていない”、という意味だ。
詰まり、元々からあるという意味だ。それが、無音だ。それが宇宙の基盤なのだ。
そして、無音の存在故に、音にも厚みや深み、生命力が出て来るのだ。
芭蕉の句がある。
“静けさや、岩にしみいる、蝉の声”
静けさと、蝉の鳴き声、無音と蝉の声と言う、相反する状況の調和から、宇宙の広がりが観えてくる。蝉の声と言う、音を意識する事で、同時に、静けさが、際立ってくるではないか?
無音を基盤に、様々な音が、重なりあっている、と考えると、より自然な感じがする。
無音が基盤になると、街の騒音さえも、調和して来る様になってくる事すらある。
疲労やストレスを感じたら,ここ、静けさに来ればいい。サイレンスには、底知れぬ力がある。
そして,エナジーが生じ、力が戻って来たら、蘇れば良いのだ。
興奮は、過ぎ去る欲望、ある種の緊張に名指しているが、命のエナジーは、永遠から湧きいずる泉のような性質がある。
タイには、独特の、泉の様な姿を見せる噴水のキットがある。適当な大きさの水瓶にセットする。電源を繋げれば、さらさらと泉がわき出すのだ。
何時かは欲しいなと思っていた。ベランダにでも置きたい。
若い頃、バイクで海辺や、日本中の山の中の渓谷を、良く走り回った。
気に入った所に来て、バイクを止めると、その新たな世界の出現に、気がついた。
そしてそこは、海辺であったり、渓谷であったりした。水辺が殆どだった。水辺が雨期だったのだ。
自分の、サイレント・ジョイが見つかったのだ。
今は、静かな時、オーディオから、静かに聴こえる、ジョン・マクラフリンのインド音楽、”シャクティー”、12弦ギターが、インクレディブル!
曲は”ジョイ”、ザキール・フセインのタブラが躍動し、ラクシミ・ナラヤン・シャンカールのヴァイオリンが凄い。
窓の外の庭からは、野鳥の声。日の光が緑に冴え渡り、マリーゴールド(金盞花)が笑っていて、木陰は静かに寛いでいる。
子猫のクック(空々)が、イスの上で眠っていて、屋根の上をリスがシャカシャカと、忙しく走り回っている。庭に居る、鶏やヤギの声、そしてそよ風が、部屋も身体も通り抜けて行く。
地元のおばちゃん達、おネーチャン達のお喋り。通りを走り去って行く、小型のバイク・・・、ポロポロポロポロ・・・・・。何事もない、たわいもない、普通の暮らし。
ところが、全然退屈等しない。素晴らしい!
あらゆるものが、無音の静けさに重なって、共鳴し、共振し、調和して、ナイスン・イージーに世界が出来上がっている。
最近、何とか、フィット出来る様になった様だ。
光と闇は、決して闘わない。光と闇とは、外でも、内でも『相互依存』しているのだ。それが現実だ。例えば、デッサンする時、鉛筆で影をつける事、そして明暗のトーンを知覚する事、明度の多少で、光の部分が浮き上がってくる。カゲが光を浮き立たせている。ものが立体的、三次元の形であるのを知覚できる様になるのも、カゲの御蔭だ。
御陰さまで、楽しませてもらってます。
明暗を通して、ものを解釈、認識する事は、素晴らしい。
カゲ(蔭)”という日本の言葉には、光とカゲの両方の意味がある、のだと言う。真理を、一語で表す言葉になっている。長い、という事は、短い、と言う比較対象が在って、始めて、その価値観が意味をなす。一本の棒があって、この棒は、長いか、短いかと言っても、比較対象が無ければ、答え様が無い、だろう?
前は、後ろ、が在って始めて成り立つ言葉。後ろの無い前、ってのは有り得ないだろう? 何れも、単独では成り立たないのだ。高い,低い、上、下、暑い,寒い、無論どちらがいいと言う事は無い。両方とも良い。或は、善くも悪くもない。優劣は無い。程度の問題、そして状況だけだ。存在の世界とは、そう言うモノだ。相互依存で成り立ってるのだ。だから、行き過ぎた行為は、反対の結果を生み出す事にもなる。世界はそれであたふたしているみたいだね。
この事を理解したら、生を受け入れたら、生の動きが、よく判る様になる。
闇には闇の美しさがあり,昼には昼の美しさがある。そして常に入れ替わっている。
もともと、比較のしようがない。両方あるんだから,両方とも楽しめば良い。
コインの裏表の様に、両方で一つなんだから。
そこで、『無選択の美』、と言うヴィジョンが観えてくる。
世界が、再発見できる筈だ。
ニュートラルの無い、車やバイクは無いだろう? 人生にも,ニュートラルやオアシスは、生きる為には、必要なんだよ。さもないと続かない。身が持たない。人間は、生身で生きてるんだから、直ぐへたばってしまう。心で生きてるんだから。その為に、自然の中に、より深く入り込む事、それが私にとっての、自由になっている。時間の中にでも、休息やタイミングとして、空間にも,広がり、スペース、つまり、”間”と言う事なんだよ。形のあるものでも、形の無いものでも可能なんだ。
人のマインドというものは、言葉の集積だ。何をするにしろ,言葉、思考、思い込みがリードする。ところが、自己が存在するのは、実は言葉の向こう側なのだ。自己は、マインドや言葉の中にはいない。普通、人はマインドに焦点を合わせて、マインドと同化して、生きている。
この”同化こそが、『苦』”なのだ、と言われている。シヴァや仏陀が、とうの昔に、発見した事だ。
で,苦を苦にしない様にするには,自己は、マインドや言葉を使うものであって、同化してしまわない事が大切なのだ。
時折,マインドや言葉から、自己を分離するのがいい。
マインドや頭を働かせても、それを眺めていられれば良い。自分のマインドの特徴を知る事が出来る。
角が取れて、修正した方が良い所も観えてくるだろう? それがウイットネスだ。
自己は,マインドや言葉を、道具として使うものだが、自己が道具になってしまうのは問題だ。それでは、主客転倒だ。
その認識は,認識そのものが技法(タントラ)になってしまうが、結果的に、マインドを、よりクリアにする効果がある様だ。根本的な治療にもなるね。
マインドは必要物だ、頭も知識も、生きる為には無くてはならない。
生きる為の”道具”としてなら、これ以上のものは無い、と言う意味だ。
包丁だって、人を傷つける事も出来るし、美味しい料理を作る事も出来る。
どう使うかは、使う人次第。
評価は、包丁にではなく、包丁の背後に居るもの、詰まり、包丁を使うもの、に向けられる。
横道に一寸それたが、瞑想とは、マインドでないモノ、間合いを、一瞥する為にあるコツだ。無心になる為の方便と言ってもいい。
普段見えないモノを見る為の、技法(タントラ)、或は、無技法(禅)のことだ。
尤も、無技法も技法の一つなんだけどね。両方使えばいい。
様式や形式にこだわる必要は無いんだ。本来、個人的な、贅沢な、愉しみだからね。
例え、一瞬でも体験すれば、人は生まれ変わる。
意識は、無意識から目覚め、マインドは、よりクリアになる。
結果的に,頭も整ってくる。身体にも、生気がみなぎってくる。
ノー・ワリーズ!
右足を前にだして、次に左足を・・・・・と、考えて歩く人はいないだろうが、
歩くにしても、自転車でも、作業をしていても、間を意識すると、行動や生活にリズムが出来てくる。
リズムが生じてくると、何かいい。
楽しくなってくる。モノゴトが面白くなる。次元が、生き生きして来るだろう?
思考が消えれば、世界は、もう変わっている筈だ。
愉しみとは、こんな具合に生まれてくるんだ。
『間』と言う,”無為”の時空間が,モノゴトの動きや働きを制御してるんだから。
三遊亭円生と言う噺家の話芸を、今でも良く,i-potで聞くのだが、”絶妙な間合い”のセンスを、感じさせてくれる名人だ。
のり、調子、間合い、さげ、どれをとっても素晴らしい!
間と言う、様々なモノゴトに応用の効く、時空間の智慧、それは、タントラ、タオ、そして禅のエッセンスなんだ。
文章にだって、段落、行間、間というものがある。
時間と空間、面白いね。そこに生きてるんだし、自分の世界、環境の事をもっと知ってもいいと思うよ。時間にも、空間にも、間が共通してる。大脳の左半球は、時間的に分析スロのの対し、右半球は、空間的に統合する、と言う特徴がある。
浄化、禊、なら,ヒマラヤやガンガーがいいだろうし、安直に、近くの神社でもいいかもしれない。でも、暮らすのなら、話は別だ。
私には、穏やかな、この島の波動が、普通っぽくて、”心地よい”。
それは、心が地に着く事、アースする事なんだよ。
全てのモノ(物、霊)は、もとをたどれば、無から生じ、生まれて、変化しながら動いて、成長し、やがて無に帰っていく。
“食って寝て、自由気ままに、日々好日”
ここは、全ての色に溢れている。どの色がどうのこうのとは言えないし、えこひいきも意味が無い。どれが一番とは言えない。どれもが一番なのだ。
だから、比較には意味が無い。
とは言っても、やはり好みというものはあるもので、それはしようがない。
それは頭の問題ではなく、心で感じるからだ。
人には個性も、そして心があるからだ。犬や猫、ヤギやクジャクだって判るよ。
ここは、石にも花にも木にも、自然の鳥や爬虫類、白い瘤牛、犬や猫にも、一寸の虫にも、スピリットを認める所なのだ。その点に関しては、神道とヒンドウー教は、様式も異なり、地域が違い、温度差は多少あるものの、共通性があるね。共に自然崇拝の宗教であり、文化なのだ。南国だけに、虫達も元気がよい。ここには落葉樹も、針葉樹もない。枯れ葉を全く落とさないという事はないものの、ここの樹木は全て常緑樹なのだ。緑が島中を埋め尽くしている。島中がジャングルだ。
インドネシアでの話だが、イスラム教のロンボク島と,直ぐ隣のヒンドウー教のバリ島との間には、宗教、すなわち、文化の違いとは別に、一見、眼には見えない、天然の境界線があるのをご存知だろうか? それは植物の種類が違うのだ。土壌の質が違う。だから、丁寧に、調べて見れば、違いはあるのだそうだ。ロンボク島は、ボルネオ、ニューギニアやオーストラリアに似た植物体系であるのに反して,バリ島は,インドネシアの本島、ジャワ、スマトラ,そしてマレー半島、タイ、インドとも共通の植物分布がある。
丁度、糸魚川を境にして、東と西に分ける事になった、フォッサマグナの様でもある。尤も,ガジュマル(バンヤン、生命の樹、シヴァ神の聖樹)だけは、どちらの世界にも,股がって、繁っているのが不思議である。生命力、繁殖力が強いんだろうね。何処の国でも、聖樹となっている。行った事は無いが、日本でも、沖縄周辺の南の島には、ガジュマルが育っているそうだ。根に特徴の在る、生命力の強い、素晴らしい樹だ。
“人生の 極意なるかも 常緑樹”
家々の庭のマンゴー、パパイヤ、バナナ、ココナッツが実を付けている。南国ならではの、生命力に溢れた豊かな環境に囲まれている。花弁や葉に溜まった朝露を、飲みにやって来る昆虫達。朝ともなると“生”は活気づく。様々な生を営む声が聞こえてくる。
ワッタ・ビューティフル・デイ! 朝ならではの美しさがある。生命が輝いている。花も樹も笑っている。
海は家からゆっくり歩いても10分くらい。距離にして800メートルくらいだ。島中が庭の様なものだが、人も動物も暮らす、自然の庭園だ。ここの波動にイン・チューンできれば、素晴らしい。数ヶ月もいれば、充分、フィットできる。特に用も無く、閑な時は、10分で行ける所を、道端で手巻きのタバコをゆっくり巻いて一服したり、デーツ(ナツメヤシの実)を買ったり、カフェが開いてたら、モーニング・ティーを一杯。道草を食いながら、30〜40分、時間をかけて、ゆるりと楽しむ。
いつもと同じ道を歩いても,新鮮な気持ちで眺めれば、それは常に新しい道になる。その日が、新しい一日になる。クリエイティヴだろう? 新鮮な目である為には,ただ、意識が目覚めていれば良い。言葉の上では簡単だが,実際は簡単ではないかもしれない。良く知っているもの、当たり前のものが、新しい。まるで、幻でもあるかの様に、素晴らしく見える事がある。そんな時は、とても充実した時なのだ。
実際,目覚めていれば、何一つ、生き生きとしていないものはない。空が蒼く晴渡っている時、空に見入っていると、音もさせずに、スーッと一羽の鷲が滑空して、青い視界に入って来る事が、何度かあった。それは素敵な歓びだ。思わず、我を忘れ、全てを忘れ、見とれてしまう。世界は,静けさと、蒼い空と,滑空する鷲だけになる。他には何もない。暑い日差しが,裸の腕や首筋に心地よい。凱風快晴、そのステージに、一羽の鷲が滑空する。只、それだけで、アメイジング!
島に何羽か居る、大きな鷲が、南国の日の光を浴びて、真っ青な空を背景に、黄金色に輝く翼を大きく広げ、海辺の方に向かって、ゆったりと滑空する。
見ているだけで、気持ちよい。
次第に大きな円を描き出す。その飛翔の優雅さに引き込まれてしまう。殆ど翼を動かさずに滑空する。ほんの僅か、微調整をするだけだ。気流を感じて、それを捕まえて、只、それに乗って滑空するんだね。スカイ・サーフィンだ。
殆ど無為で、無努力の内に、事が起こっている。飛ぶ、というよりも、浮かんでいる、というのがいい。名人技だね。ネイティヴ・アメリカンならずとも,スピリットに反応する。
アリゾナ、イエロー・ストーン、メキシコ、ヒマラヤ、イタリア、モロッコ、インド、オーストラリアでも、よく鷲の滑空を見るのが好きだった。
暫くは、その余韻すらも永く続いた。
鷲が居る所には、心地よい力、波動がある。鷲は良い場所を知っている様だ。
この国のシンボルは、ガルーダ(鷲)、だから、誰もが鷲が好きなのだ。
この島には、犬、猫は無論の事、鷲や水鳥、山奥には鹿も居るらしい。
様々な野鳥、鹿、リス、ヤモリ。
人が飼っているものには、クジャク、瘤牛、ヤギ、鶏、それに水牛はいるが、雀とカラス、というヒマラヤにさえ居る、いわば何処にでもいる鳥達ががいない。
30センチ近くの、ムカデの大きいのや、蜂、地蜂、鼠、小さな蛇、小型のトカゲ、4〜50センチもあるヤモリは居るが、大きな蛇(アナコンダ)、毒蛇は見ない。
蜂にもさされた事はない。この環境ににフィットしているからかもね。
以前,バンコックのマンホールの隙間から、首を出しているアナコンダを見たけどね。我が家には、40cm近い、大ヤモリ(昼間は冷蔵庫の裏にじっとしている)を筆頭に、10cm程の小僧達が10匹程住んでいる。夜中になると,そそくさと外に餌探しに出かける。生き餌しか食ベない様だ。虫とか、蝿とか、大きいのでは鼠とかだ。
島には、毒蛇もサソリも毒虫もいないし、海にクラゲもいない。
ウニやなまこは居るけどね。浅瀬の水の中を歩く時、踏まない様にしないと・・・・。
つまり、特に危険な動物がいない。
肉食の動物は、鷲と水鳥、白鷺だが、魚が主食である。人や家畜に危険はない。そして、皆、仲が良い。即ち、互いの領域を侵さない。不思議な感じさえする程、ここでは当たり前なのだ。動物達も、皆,ブッディスト(仏教徒)なのかね。鶏もクジャクも、犬や猫に襲われる事も無く、庭を歩き回っている。犬や猫は遠巻きにして眺めている。クジャクが側に来ると,すーっと道を開ける。もう貫禄だね。近所にいる、うちの筋向かいに住んでいるクジャクは,道路を渡って、うちの庭にも遊びにやって来る。道路は無論、動物優先だ。塀なんて野暮なものは無いから、無論、出入り自由。
寒い所では、可哀想だけど、庭にクジャクがいるってのはいいね。彼らは、ミミズか好きな様だ。ときどき、部屋のなかをのぞきにやってくる。興味あるのかな? 声をかけると、集中して、何かを感じ取ろうとする。気品があって、立ち振る舞いもクールでスマート。まるで、王族の様だ。
空はものではないが、また空程、不思議なものもない。余り短なりすぎて、見過ごしてしまうかも知れないが、空に見入る頃には,もう既に空に入っている。
空は,モノでないし、対象ではないから、思考を越えて、意識に直結してくるのだと思う。やがて、頭の天辺の天頂から、尾てい骨迄、脊髄の中が、ツーツーになってしまう。これを”真髄”って言うんだろうな。
最近は、海の中に良く入るが、子供の頃から,空には魅せられ続けて来た。
だから、空と、宇宙と、どう遊ぶかを良く知っているつもりだ。
一人で楽しんでいても、それは、決して孤独なのではない。
寧ろ、充実している、楽しんでいる。
只、単独なだけなのだ。時々、友人とも泳ぐけどね。
だが、孤独と単独、これには大きな違いがある。
水に潜るのは同じでも、ダイヴィングするのと、沈没するのとは、全然違うだろう?
孤独なのは、存在していないからであり、単独なのは、存在しているからなのだ。
考えるのではなく、心で、骨の髄で感じ、身体で感じる、自分の存在全体で感じる。
そうすると、新たな、ダイナミックな、色々な事に気づく事が出来る。
あらゆるものに、閉じていないからだ。
座っていたら、座っているイス、座布団の感触、素足の感触、風、水、太陽が身体に触れる感触、循環するエナジー、呼吸、心臓の音、血行 そこには様々な波動が、しかもあらゆるものが、共鳴して、自分の内外に、波打っている。
まさに、サウンデリア、波動の世界だ。
先入観を持たずに、気付きを深めれば、扉は開いている筈だ。そして、存在に繋がるという事は、生気のジェネレーターにもなるのだ。
シヴァ派に限らずブッダ派もタオの人も、当然気づいている。
区別等消えてしまう。
これは何処でも出来る。
バスや汽車に乗っているときも、車やバイクを運転しているときも、無論、ダイヴィングも、自転車でも、散歩でも、寝ていても、座っていても、”存在”、と言う事を、あるがままに感じようとすると、絶えず起こっている事が判る。
今迄、全く気づかなかった事、思いの外が、如何に多いかが良く判る。
”存在”を意識するようになると、世界は、この上なく”生き生き”としたものに観えてくる。クリエイティヴとは、そう言う事だ。
空とは空間、頭の上にも、足の下にも、尻の下、身体の中にも”空”はある。
対象は全てその空の中に在る。
空は一つしかない。
空は全てを包み込む。地球だって、太陽や月だって、全ての星をも包こんでしまう。
空に外側はない。凄いねー。
空はものではないが、空より大きなものはない。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)曰く、”一なるものを知って、人は全てを知る。そして一を知る為には、無、は欠かせない。それが扉となるからだ。”無なくして一は無い。闇なくして光なし、である。無はやがて、一つ、になって来る。光と蔭が入れ替わる。
全てと、一つ、そして無とは、言語上、全く別物だし、正反対の意味もあるのだが、生に於いては、同じもの、共存している事を意味する。ここの所が、不思議で面白い。頭では、理屈が通らないが、意識では良く判る。
タントラに依ると、様々な,姿形は、それぞれ分離している。無は無であり,一は一だ。それが,二元性の世界だ。外見上、問題ない。数学だって役に立つ。ところが、シヴァ曰く、”真理に於いては,姿形は、他の姿形と共存する”。自分の意識と、自分の周囲、全ての意識が、この意識に依って出来ている。
無も,一も,全ても同じ一つの意識、生命の意識に共存している。
他人や動物も共鳴する事がある。
一つの意識。
だから、言語化したり、定義付けしたら、錯覚が生まれてしまう事になる。
そこが生の凄い所だ。生は理論を、頭を越えている。
『知るという現象』は、”何かに就いて考える”という事ではない。全く違う。
何かを知る時、知る、と言う機能を使って知るのだが、知識はこの機能に負っている。
タントラでは、『存在の中に、深く入り込んで、直に知る』、実体験という意味で、知る事は全く、考える事でも、哲学でもない。
気づいた事があるだろうか? 知る、という事は、自分の内側にある、疑問、不安、不満、何かこわばったもの、固いものが溶け出す為の、治療力なのだ。
メディテイションとメディシン、メディカルとは、語源が共通している、という事をご存知か? シヴァは、アーユルヴェーダ医学、瞑想、ヨーガ、タントラ、音楽、舞踊を生み出して、人々に伝えたと言われている。 考える、という事は,現にあるものを見ていない、という状況だ。又、何にせよ、頭で知る事が出来ると思っている人は,病気と言ってもいい。タオを知れば,そして、意識の目覚めをしれば、この病から抜け出る事が出来る。普通の意味で,知識とは借り物だ。時には重荷にもなってしまう。だが、認識は、理解は、自分である事の開花だ。認識のみが、その人自身を自由にする。認識の体験は宝となる。だが、他の人の認識では、そうはいかない。真実は解放をもたらす。だが他の人の認識では駄目なんだ。意味が無い。